FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

ブラック・マドンナ 5話

令嬢マリアが、神殿を出る日が来た。
令嬢はそのことを強いられた時、いたく驚いた。無理もない。彼女にとっては自宅よりもなじんだ場所だ。
だが、令嬢マリアももう16歳だ。神殿としても16になるまで少女を預かったことはない。血によって聖所を汚す前に、出て行かねばならないのだから。
もう結婚しても何らおかしくない年齢だから、時が来れば結婚すればいい。神殿に居なくても十分に生きて行ける。そのような話に、令嬢は一応納得したようだった。
祭司たちも追い出したくて追い出すわけではない。皆一様に、令嬢との別れを惜しんだ。令嬢は明るく、礼儀正しく、彼女が誰をも好いていたように誰にも好かれていた。実の所、マリアにはその好意が欲望と混ざっている祭司も何人かいたことを見抜いていた。それでも彼らには理性があったから、どんどん大人の女性の体になっていく美しい令嬢を、彼女がそれに気づいていないのをいいことに欲の目で見るにとどまっていたのだろう。ともかくもそのことを考慮に入れるなら、確かにそろそろ神殿を出てヨアキムの家にこもり、ヨセフと結婚できる体になるのを待つことは良い案のように思えた。

マリアは、ヨアキムの家で働き始めた。令嬢は神殿で命じられていた少しの仕事すら今はほとんどしなくてもいいことになり、日がな一日遊んでいればいい身だ。
マリアにとっては、ヨアキム邸も居心地が悪くはなかった。ヨアキムの妻のアンナもやさしく上品な老婦人だった。
令嬢マリアも寂しそうだったのはごく最初の時だけで、今では生まれてから初めて味わう両親との生活を心から満喫しているかのようだった。
しかし、やはり彼女の顔が一番明るくなるのは、ヨセフが訪れる時だった。
ヨセフが来るたび、彼女は「ヨセフ様!」と嬉しそうに彼の所にやってきた。ヨセフはそんな彼女を穏やかにいなしつつ、婚約者、あくまでまだ夫にはなり得ぬ存在に相応しい節度を持っているように見えた。

その日は、令嬢マリアの十七歳の誕生日だった。
ヨアキムの親戚たち……当然ヨセフの連れ子たちも含む大勢がヨアキム邸に詰めかけ、マリアも大忙しだった。令嬢マリアは終始楽しそうで、大満足で主役をしていた。
少しマリアの手が空いたとき、令嬢はふと手を伸ばして「ねえ」と言ってきた。
「はい、お嬢様。何でしょう?」
「あれを着てきてよ!」
あれ、というのが何を指しているかは明白だった。
マリアは、令嬢からあの百合模様のベールを貰った後、大事にしまっておいた。さすがに普段着にできるようなものではない。
「お祝いの席じゃない、貴方もおめかししてよ!」
マリアは、少しためらった。だが令嬢の無邪気な目を裏切る気は全くなく、「はい」と了承した。令嬢も、アンナも、今日はあの百合のベールにも劣らない晴れ着で着飾っているのだ。主人の顔をつぶすことにはなるまい。

ただの奴隷の少女ごときが、見るも鮮やかな百合の模様のベールをまとって現れた時、やはり宴会をしていたヨアキムの親戚たちはいささか戸惑ったようだった。
令嬢マリア一人が明るい声で「やっぱり、素敵だわ!」と言った。
「あのベールは?」一人の婦人が令嬢に質問した。令嬢はためらわず「私がプレゼントとしたんです!」と答えた。
「まあ、そうだったの」
来客もその答えに納得したようだった。
「この子は優しいからねえ、本当に、昔から優しい……」
ベールをまとったマリアを見て来客たちは無難に、令嬢マリアの、黒人の奴隷ごときにこのような晴着を惜しげもなく差し出す、その純粋さと優しさを手放しでほめた。令嬢マリアも、嬉しそうだった。マリアも、自分の仕えている主人が褒められ、本人も嬉しがっているのなら非常に喜ばしい事であった。
「それだけではないでしょう」
その場に一つ、低いが優しい声が響いた。
「やはり、良く似合っているね。綺麗だよ」
ヨセフだった。ヨセフは、令嬢マリアと同じく、他の親戚たちが無難な称賛をすることに追従せず、マリアを褒めてくれた。
「幸甚に存じます」
あの時と同じだ。マリアは、黒い顔が赤く、熱くなるのがわかった。彼女は高級な晴着を汚さないように慎重に皿を下げた。だが、その場にいるのが気まずいということもあった。
マリアも、子供ではない。はっきりと自覚している。自分は、あの男性に恋している。自分の主人の婚約者に。
だからどうしようという気概など、勿論なかった。むしろ彼女にしては、こんな感情は忘れるに越したことはなかった。だから表にも出さないし、別段令嬢に嫉妬もしていない。
恋など、したこともされたこともない。自分にはそれが似合いだとは心得ている。だから自分がおくびにも出さないことを心がけていれば、一切丸く収まることだった。

令嬢の十七歳の誕生日。完全にめでたいことだとみているのは、令嬢だけだった。十七歳だ。十七歳にもなって初潮が来ないなどと言うことがあるだろうか?令嬢以外のだれも、祝う言葉の奥底にそのような思いを抱えていたのだ。
誕生日の翌日、令嬢マリアはヨアキムに伴われて医者に行った。マリアはその際には家に残り、台所仕事に精を出していた。
ほどなくして、令嬢マリアとヨセフが結婚式を挙げた。通常の婚約期間をとっくに過ぎていたので、そろそろ世間体も悪くなったのだろう。
結婚式の日は、マリアもまた令嬢のたっての頼みであの晴着を纏った。結婚式は豪勢で、マリアは本当に楽しそうな顔をしていた。
しかし来客も帰ったころ、ヨセフと令嬢マリアは、別々に寝た。まだ子供も産めない体の妻と同衾するのは道理に反する、というのが言い分だった。
ガリラヤのヨセフの家で、初めて寝る寝室に向かう令嬢は、何も気にしていないようだった。だが、一人寝室に向かうヨセフを見た時、マリアには何か、嫌な予感がしていた。

令嬢とヨセフが結婚して一週間が立った日の事だった。ヨセフから、「大事な話がある」と、マリアは寝る前に呼び出された。令嬢マリアも、ヨセフの連れ子たちもすでに寝ていた。
静かな夜の闇の中居間に向かうと、ヨアキムもその場にいた。「座っていいよ」ヨセフは、今や自分の奴隷にもなったマリアに相変わらず優しく告げた。
「いつか言わなければと思っていたことだが……」
話を切り出したのは、ヨアキムだった。蝋燭の光の中で語られることの顛末を聞き、マリアはさほど驚きもしなかった。大方、予想できていたことだった。
令嬢は、生まれつき子宮に障害があった。子供の産める体ではなかった。
神殿勤めを辞めさせられる年になっても、結婚する年になっても初潮の来ない娘を医者に連れて行き、医者からこっそりと告げられたことが、それだったというのだ。
ヨアキムは話しながら、震えていた。聞けば、ヨアキムの家系は不妊の女に縁があるらしい。アンナもそうだった。アンナも、不妊の女だったのだ。実は、令嬢マリアはアンナの子供ではない、とヨアキムは震える声で告白した、マリアは終始、冷静な表情だった。
アンナが子供を埋めるはずのない年齢になるまで、ヨアキムとアンナは粘った。しかし、全ては無駄な時間だった。
ユダヤの始祖アブラハムもしたことだが、ユダヤ世界では妻が不妊なら女奴隷が子供を産むのが当たり前だった。ヨアキムも家を絶やさないために、と詰め寄られそうすることを幾度となく強いられたが、愛する妻が不憫でしょうがなく、アンナは不妊ではない、と言い張り彼女も自分も老いるまで粘り、結局全ては無駄だった。とうとうヨアキムは折れ、アンナに仕えていた女奴隷を抱いた。皮肉なほどに、その彼女はヨアキムの子供をすぐ孕んだ。その子供が、令嬢マリアだという話だ。それを聞き、マリアは表面上は痛ましく思ったものの、内心ではアンナが実の子ではないマリアをきちんと素直に可愛がっていることの方に驚いていた。
だから、彼らは令嬢マリアが不妊などとは信じたくなかったのだ。アンナとは違う。アンナとは血も繋がっていないのだから。そう言い聞かせて、彼女を育ててきた。不妊は汚れである、呪いである。ならば神殿に入れ、汚れたものには触れさせないで育てれば、呪われることもなかろうと言う望みを込めて。
だが、令嬢には初潮が来なかった。彼女は、生まれながらの不妊だった。生まれながらにして、血の汚れと切り離されているにもかかわらず、女として最も罪深い存在だった。

マリアは、その言葉を自分に聞かせて、自分が何を望まれているのか、勿論わかっていた。話があると呼び出された時から、わかっていた。
「驚きました」マリアはまず、そう発言した。「お嬢様を見ている限り、そのようなことを聞かされたようには見えませんでしたので……」
「……マリアには、知らせていない」ヨアキムはあいも変わらず震える声で言った。
知らせていない。それは納得のできる事だった。令嬢マリアを大切に、大切に育ててきた彼らに、それを直接告げる勇気など、すぐにはわかないのだろう。
「無論、いつかは伝える。いつかは……」ヨアキムは言った。そして、マリアの肩を叩く。
「そして、お前には……」
マリアは自分の方からは、何も話しかけなかった。分かっていて、わかりきったその言葉を聞いた。
自分は、このために買われたのかもしれない。そんなことを予想しながら。
「ご主人様が、このような女で身を汚すことを了承してくださるのであれば」
「ぼくは、構わない」
道具のように扱われると冷えもしなかった。恋した男に抱かれると熱くなりもしなかった。
マリアは糸をつむぐように、野菜の皮をむくように、奴隷としての仕事をこなす時と同じ心持ちだった。ただただ、彼女は平常心だった。
「よかったら、あのベールを着ておいで」ヨセフはそう言った。この男は、自分の事を処女だと思っているのだろうか。未婚の少女なのだからと。それとも、あの鮮やかなベールに、せめて妻を見る気でいるのだろうか。
百合の花のベールを引っ張り出し、それを身に纏って彼女はヨセフの寝台に上がった。その時彼女は、貰った時はむせ返るほど甘く焚かれていた香の香りが、今はほとんど消えてしまったことを知った。

●●●

初めて見た時は、百合の花を見たのかと思った。清水のみを吸って咲いた白百合の花かと。
それがアンジェイの肌の白さゆえのものではないと、ミュシェコはほどなくして気が付いた。神学校の寮で同室になった彼は、恐ろしいほど、神の事、信仰の事、そしてチェンストホヴァの黒い聖母の事しか頭になかった。
ミュシェコも神を熱心に信じてたし、お前のいく道はあそこにしかないと神学校に送りだされた。それだというのに、彼の信心のあまりの純度に、いささか驚いたものだ。
言葉では言い表しにくいのだが、彼の信心はその量が膨大と言うよりも、ただただ澄み切っていた。非常に純粋な信仰心のみを、ミュシェコは彼に感じてた。
最初のうち、それに嫉妬を感じることもあった。そして、神の信心に嫉妬するなど、まさに神を独占したいという傲慢のようにも感じられ、そんな自分が恥ずかしくなったものだ。

アンジェイは、聞く限りは中流の育ちだった。だから、ミュシェコには理解しがたかった。際立って貧しいわけでもないが、純粋培養とも行くはずのない彼が、全く穢れ無く見えることに、ミュシェコは何回も戸惑っていた。
彼は本当に、人間の親に育てられたのだろうか。それとも、彼を育てたのは、黒い聖母ただ一人なのだろうか。何回も、何回もそう考えていくうちに、ミュシェコの中から、いつの間にかアンジェイへの嫉妬は消えていた。後には、ただ単なる関心と、彼に関して感じる友情のみが残された。
それはアンジェイになじみ、彼をよく知ったからだろうか?恐らくそれもあるが、理由はもう一つあった。

ミュシェコが神学校に入ったのは、まさにそのような純粋さ、神聖さを求めていたからだ。そのような道を、ミュシェコは何よりも素晴らしい、と、少年の頃は考えていた。
神学校の教師たちは、彼のそんな希望を打ち砕いた。ある日、尊敬していた恩師を見つけ、その彼の視線の先にアンジェイを見つけた時、彼はそれを悟ったのだ。
それと同時に、どんどん、今まで綺麗だと思っていたものが汚いのだということを、ミュシェコは悟った。礼拝堂で聖母が微笑んでいようとも、その微笑みを実際に向けられているものがどれほどいるのだろう。そのようなことを考えるようになった。礼拝の間も、その講師は、ミュシェコの隣に座るアンジェイを見ていた。
アンジェイは、何も気が付いていないようだった。アンジェイただ一人、汚れたものから切り離されているかのように、ミュシェコには見えていた。

嫉妬するべき相手だった。しかし、愛するべき友達になった。
そしてその時は、たった一つの、庇うべき存在になった。
その日も、アンジェイを食い入るように見つめている教師のもとに行き、ミュシェコは言った。その行動は、衝動的ですらあった。
「先生は、いつも僕のルームメイトを見つめていますね」
勿論それで素直に欲望を語るわけがない。だが無視された記憶もない。何か適当な、無難な言い訳はされたと思う。ミュシェコの捉える彼の視線と比べてみれば、誰だって嘘だと分かる言い訳を。
だから、ミュシェコはその言葉を無視した。彼は教師に寄りかかり、呟いた。
「僕では、駄目なのですか」
手の感触を覚えている。
自分の頭に触れられた手の感触を。
鼻息荒く、その教師は言った。「君の金髪も、可愛らしいと思っていた」と。
甘えて胸元に寄りかかる振りをしたのは、教師の顔など見たくはなかったからだった。彼の胸に、十の字の形をした金の装身具が揺れていた。その時ミュシェコはそれを、今まで『十字架』という概念でとらえてきたものと同一だとは、感じることができなかったのだ。

解放されたのは夜遅く。アンジェイはすでに寝ていた。
自分がどんな目で見られていたかも知らずに。本来なら、自分がこのような目にあったんだということも知らずに。
ただただ純粋な少年を、ミュシェコは彼の姿に見ていた。
それは、自分とは別人だった。汚れてしまった自分とは、汚れる運命にあった自分とは、全くの別人だった。
本来なら、アンジェイが自分のようになるはずだった。いや、違う。汚れるのはやはり、自分だったのではないか。彼は金髪の頭を掻いた。愛撫された金髪に付着したものが洗いきれていなかったらしく、彼は鳥肌が立った。

何度も、教師に求められた。教師の知り合いたちの元にも連れて行かれた。何も言わないと安心されていたのだろう。あたりだ。ミュシェコは誰にも言わないし、言う気にもなれなかった。
しかしそうして神の道に外れる行為に溺れる一方で、彼はより熱心に勉学に励んだ。アンジェイよりも、学校の成績は良くなった。アンジェイはそんな自分の事を、素直に「すごいね」と言ってくれたものだ。
自分に乱暴をする教師にいくら、お前も同じ男色の罪人なのにと笑われようとも構わなかった。教師が特に気に入り愛撫した金髪を嫌いこそすれ男に散々になぶられ傷が少しずつ増えていく白い体を憎みこそすれ、自分の精神を恥じたことなどなかった。
そう吹っ切れたように神への信心を取り戻せたのは、何のおかげだろうか。アンジェイに負けたくない、と思うようになったのだろうか。

「君は、生まれ故郷の神父になるつもり?」アンジェイはある日、ミュシェコに聞いてきた。「ああ」と、ミュシェコは答えた。「お前も?」
「いや、ぼくは……修道士になりたいかな」
ミュシェコは「お前らしいな」と返した。それが確かに、アンジェイには一番ぴったりなように感じた。浮世をすべて捨てて生きる生活は、彼に似合っている、と思った。
「ヤスナ・グラ修道院にはいりたい。ぼくがこうなることを決めた始まりの地だから」
それを応援した。そのことは、覚えている。

時が満ちナチス・ドイツがやってきた。
それを受けての各人の反応は様々だった。怒るもの、嘆くもの、多く居た。ミュシェコは、怒る道を選んだ。
ナチスは非人道的である。と神の名のもとに叫ぶ集団に参加することを決めた。アンジェイが、そう決め神学校を去っていく自分によこした言葉はこうだった。
「凄いな。ミュシェコは……」
アンジェイは、自分と一緒に反ナチス活動をする道を選ばなかったのだ。ある種、穏やかな彼らしいとも思えた。
「そうだろ」ミュシェコは自信満々に、そう答えて見せた。
自分は、アンジェイの選ばない道を選んだ。
どことなく、こうなる気はしてた。片や神父になる、片や修道士になるというよりも前から。金髪の頭に精液をこびりつかせて、何も知らずに眠るアンジェイのもとに帰った日から、自分たちは別人なのだと感じていた。
それでも、せめて、その時までは、神を信じることにおいては同じだった。アンジェイは僕に行動を起こす勇気はないのに、とミュシェコの事を見上げていた。あの信心深きアンジェイが、一時期は嫉妬までした彼が、自分を尊敬の目で見ていることに、ミュシェコはなんだかおかしな感覚、しかし決して不快ではない感覚を覚えた。
ミュシェコ・ヤンコフスキが逮捕され、アウシュヴィッツ強制収容所に送られたのは、1941年の事だった。


チェンストホヴァが湧きかえっていた。機動隊が来たって、手出しはかなわないだろうという熱狂ぶりだ。
1957年8月、黒い聖母のイコンがヤスナ・グラ聖堂から持ち出された。宗教を否定する国家の中で、聖母の巡業が始まったのだ。

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する
 

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。