クリスマス市のグリューワイン

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ブラック・マドンナ 6話

マリアが最初に男に抱かれたのは、いつだったろうか。全く覚えていないが、ヨセフが最初の人でなかった事だけは確かだ。
血に染まらなかったベッドを見て、ヨセフは何も言わなかった。彼女の過去を察したのか、あるいは別段処女でも血が出ないこともあることを知ってたのだろうか。何もわからないままだった。
朝起きた時、令嬢マリアは全くいつも通りだった。マリアも平常心のままで、ヨセフだけが物思いに沈んでいた。
好きだった。今でも、変わらない。しかしヨセフに抱かれることは、彼女の中の何も刺激することはなかった。自分が果たしたのは、奴隷の本分なのだ。
マリアは、この自分の中に眠る奴隷根性について考えることが多くなった。
マリアとヨセフは間違いなく、自分があってきた中では一番奴隷に対して優しい人物だった。彼女達から与えられる言葉の数々に心温まったたことは、今でも一つ一つ詳細に思い出すことができる。
それでも、自分はなぜ、いまだにこのような「奴隷の本分」というさもしい考えを持ってしまうのだろう。なぜ、彼女たちの優しさを十分に受け取ることもできないのだろう。
令嬢マリアが、マリアに奴隷らしくヘコヘコすることを望んでいないことは百も承知だ。寧ろ彼女は、自分に友だちを求めている。誰よりも、そばにいられる存在を。それにあたってマリアの奴隷根性は、かえって女主人の望みを阻害するものになり得るのだ。
どうにかなるだろうか。どうにか……マリアはそう考えつつ、そのどうにかを具体的に考える暇はなかった。ヨセフの連れ子は大分多く、ヨセフ邸に来ても彼女は忙しかったのだ。
やっと洗濯物がひと段落した所で、読書をしていた令嬢マリアに呼び掛けられた。
「はい、なんでしょう、お嬢様?」
「一緒に食べましょ!」
彼女は干しブドウ入りのパン菓子を差し出して、行った。マリアの肌にそっくりの干しブドウ。
「いただきます」マリアは笑って相伴にあずかった。ニコニコ笑う令嬢は、昨夜自分の夫と目の前の女奴隷がしていたことそのものも、その意図も知るまい。
ヨアキムはいつか話すと言っていた。それはいつになるのだろう。直接か、使者を通してか、それとも手紙か。あと何年かは来ないだろうということがマリアにはわかっていた。ヨアキムは怖いのだ。娘を絶望させるのが。娘が自ら悟ってくれるのを、待ち望んでいるのだ。
このまま令嬢が知らないままマリアが子供を産んでしまえば、その方が令嬢を傷つけるだろうに。だが、マリアはその事を言わなかった。口を、はさめなかったのだ。ヨアキムがいくら優しくても、いくらそのような気がなくても、マリアにとってヨアキムは主人であり、自分が提案すべきではない相手であった。
卑屈であるということも、それを言ってこそ優れた奴隷と言う言い分も、わかっていた。マリアは全てわかっていて、何も言いだせなかった。
「どうしたの?おいしくないの?」令嬢は物思いにふけっているらしいマリアを心配してくれた。「いいえ。大変おいしくいただいております」と、マリアは答えた。
マリアが令嬢に聞きたいことは、ずっと、ただ一つある。おそらく令嬢にとっては愚問に等しい問い。返ってくる答えも、分かっていた。令嬢はマリアが「私の事を、好いてくださいますか」と言えば「当たり前じゃない」と答えるに決まっている。
けれど、それを口にだせない。自分はこの優しい令嬢と共に居て、なぜか、言いだせない。
「お嬢様も、少し浮かなさそうなお顔に思えますが」
「ばれた?」令嬢は笑った。
「だって、少し田舎なんだもの。ここ。エルサレムが懐かしいわ……」
マリアは笑って言った。「旦那様に、セフォリスにでも連れだしていただいたらどうでしょう」
いいわね、と令嬢は言った。
「あなたも一緒?」
「お嬢様が、望まれるのであれば」マリアは返した。

ヨセフと寝るようになって何晩過ぎただろう。
この人は、本当にいい人だ。何回か寝て、それははっきりわかる。
自分を道具のように扱うまいと、精いっぱいの努力をしてくれる。目の前の黒い少女を一人の人間、一人の女として扱わなくてはならないという義務感を感じている。めったにいる主人ではない。
返って、目の前の男を一人の人間扱いしていないのは自分の方だ、ということを、マリアは自覚していた。ヨセフに対する恋の気持ちは冷めたというほどのものでもない。しかし令嬢の代役として彼と及ぶ情事に、マリアはただ一度も、悦びを見出さなかった。彼女はひたすら、淡々としていた。悦ぶことを、体が拒否していた。

「つらいかい?ごめんね」ある晩、ヨセフは、そう言ってきた。きっと、何も悦びをしない自分の姿が、男の無理矢理抱かれ心を閉ざす女のそれに見えたのだろう。
「いいえ」彼女は言った。
「旦那様は、私によくしてくださいます。本当に」
「君は、魅力的だよ」ヨセフは、精いっぱい自分に優しくしてくれるのだ、とマリアは感じていた。だが、何故だろうか。初めて、この黒い肌を蔑まれていないと知った時感じた嬉しさが、もう来ることはない。返って今となっては、見下してほしい自分すらいることをマリアは知っていた。
悪いのは、自分だ。
自分のような奴隷にも必死で真摯に接してくれる、もう出会えるかどうかも分からない主人たちの心を汲むこともできない自分だ。
「マリアの事は、愛している。けれど、君も、可愛らしい人だと思っているよ」
妻を持つ夫として言ってはいけない言葉でも、この人は今自分の寝台に来た少女のために、言おうと心掛けてくれる。自分の良心よりも、肌の黒い女の悦びの方を優先しようとしてくれる。そのような人だ。彼はただ、優しい。
「ありがとうございます」
マリアはただ、礼だけを言った。そして百合の花のベールにくるまったまま、ヨセフの腕の中に入った。

足音が聞こえた。暗い中、足音が。
ヨセフには聞こえていないようだった。マリアが、特別耳がいいのだ。足音は軽く、小さく、百合の花弁が風に舞っているかのようだったから。
彼女は以上を感じたようだった。寝室に、入ってくる影があった。
令嬢マリアは、その場で行われていることを、わかりかねているようだった。

令嬢は寝ていたはずだ。しかし寝ていた人間が理由もなく起きない保証など、どこにもない。
不測の事態にあせるヨセフに対して、マリアは冷静だった。冷静に、神妙にしていた。このまま首を締められようとも、自分の罪をすべて受け入れ死にゆく罪人のように、冷静になれた。
令嬢マリアは、まだ固まっていた。ヨセフの話など、聞こえてもいないようだった。
彼女の目、汚れを知らぬ彼女の目が見つめるには、目の前の光景も、そしてその裏にある前提も、何もかもが、罪深すぎた。
皮肉だ。本当に皮肉なものだ。最も穢れない少女が、最も罪深い存在であり、最もこの世で見たくないものを見せられなくてはならなかったのだから。
聖書で知るユダヤの慣習など、令嬢マリアには関係ない。彼女にとってはただ清いか、清くないかなのだ。初めて清くない世界を見せつけられた彼女は、怒りよりも、悲しみよりも、目の前のものをどう受け止めていいか混乱していた。
マリアはただ、百合の花のベールをきれいに畳んでいた。

令嬢マリアは泣き叫んだ。
何も知らぬ、純粋な幼児が、理解のできないことが起こった時に起こす感情の爆発にすぎぬ号泣。そのような泣き方だった。
「大っ嫌い!」令嬢マリアは、マリアを責めた。
「大っ嫌い!でてってよ、この、娼婦!」
娼婦と言う言葉一つが浮いて聞こえた。語句だけを又聞きしたかのような不自然さ。きっとこの少女は、娼婦の仕事のなんたるかもわかってはいるまい。
「落ち着きなさい!」ヨセフがなだめた。「これは姦淫ではない……」
マリアがその時、一番自分を嫌ったのは、その事態に安心する自分がいたことだった。
ああ、これでいい。これでいいのだ。これでまた、有るべき姿に戻れる。蔑まれる存在に戻れる。自分は生まれた時から、そうだった。
「お嬢様」
ベールを畳み寝台の上に置き、貧しい奴隷の服一枚を着て、彼女は床に頭をこすりつけ、お辞儀した。
「申し訳ございません。即刻、出てゆきます」
令嬢マリアは泣き叫んでいた。追い打ちをかけることも、取りすがることも、何もできない様子であった。何も知らず、何も穢れず、生まれながらに罪を与えられず、それゆえ生まれながらに呪われていた、この少女は。
イヴは純粋無垢の少女であった。それが蛇に誘惑され、汚れ、今の女と言うものが生まれた。
妊娠とは、生みの苦しみとは、汚れたが故の象徴だった。
ならば、子供を産めない女は、女になれない女は、この世で最も清いはずではないのか。エデンの園に住まっていた、純粋無垢のイヴの現身そのものではないのだろうか。人はなぜ、それなのに、不妊の女を責めるのだろう。
勝手なものだ。人間など、勝手なものだ。
「マリア、落ち着きなさい!」ヨセフは叫んでいた。「いつか言わなくちゃならなかったことだ。君は……」
「ご主人様」マリアは最後に、ようやく口応えすることができた。
「おっしゃらないで下さい。お嬢様ほど清いお方が、この世のどこにおられるでしょうか」
マリアは、そのまま出て行った。暗い夜だった。

暗いガリラヤの道を、ただただ歩きぬけた。これでいい、これでいいのだ。マリアは自分を大切にしてくれる、もう二度と会えないかもしれない程大切にしてくれる主人のもとを離れて、ようやく安心できた。
何とさもしい人間だ、と、また一つ自分に対して感じた。
このさもしさこそ、ハムの子孫の象徴かもしれない。そう思いながら。
はっきりとマリアにはわかった。大切にされているよりも、奴隷でいたほうがまだましだ。自分は、そんな人間なのだ。原罪もなき令嬢マリアと同じ名前を関することも恥ずかしいほど、自分は、罪に穢れている。月経があり、未婚であるのに処女ではない、本当に、ただの汚れた人間だ。
雷が鳴っていた。人里に付いたらしいがはっきりしない。マリアはただ、歩き続けた。空しく、幸せな気持ちで歩き続けた。
ふと、人に一人ぶつかった。顔を上げると、それは背の高いローマ兵だった。
稲妻がもう一本はしった。稲妻の光の中、彼は睨むような目つきでマリアを見下ろしていた。だが、睨んではいないのだ。睨むような目つき、それは彼にとっての平常なのだと、マリアは一瞬映った彼の目つき、血に飢えた山猫のような激しい目つきを見て、そう感じた。
「兵隊様」マリアは言った。「私を買ってください」
「お前は娼婦か」
鋭く、尖った声だった。
「たった今、娼婦になりました」
再び暗くなった道で、ローマ兵はマリアの固い手を握った。「ついてこい」彼はただ、そうとだけ言った。

●●●

「ここでは、ユダヤ教徒でもキリスト教徒でも回教徒になるんだよ」
ミュシェコは収容所に初めてついたとき、そう言われた。死ぬ寸前の弱り切った人々。何教徒かもわからない、ぼろ雑巾のように変わり果てた人々を、彼は見た。
彼らは皆一様に立つこともままならずうずくまり、あたかもメッカに向かって祈りをささげる回教徒のようであった。
アウシュヴィッツには、回教徒がいた。ムハンマドを崇めるか如何に依らず、全ての人間が、回教徒になりえた。


聖母の巡業は、まずはポーランドの中心地、ワルシャワ司教管区から。
黒い聖母を前にして、ワルシャワ郊外の人々は、大ノヴェナの幕開けのミサと同様、そのイコンに見入っていた。
だがアンジェイは司教が説教をしている間にも、少々上の空だった。ここは首都ワルシャワ。彼が当局に勤めているのなら、彼もこの都市に居るのだろうか。自分達を見るだろうか?自分たちを、非難の目で見るだろうか?成金女に屈従する男娼のように、自分たちを聖母に屈従しているとあざけっているのだろうか?
愛する黒い聖母の傍らにありつつも、そのような考えを止めることができなかった。ミュシェコの事を考えないことは、彼にとっては不可能だった。
その時、彼にふと不思議な感覚がまとわりついた。なぜだろうか。彼はあ、聖母に微笑まれた気がしたのだ。悲痛な顔をした黒い聖母に、優しく微笑まれた気がした。聖母への崇敬も、自分は忘れかけていたというのに。
司教が話を続けている。修道士たちはそれを聞きつつも、いつ警察や政府が動くかと内心ハラハラしている。アンジェイはその間、ずっと苦しんでいた。
ミュシェコは自分にとっては、信仰者として誰よりも尊敬の置ける男だった。臆病な自分にはない勇気を、いつも持ち続けてた。
自分は、いつも臆病だ。自分は、罪深く生きてきた。自分はなぜ神を信じるのだろうか?なぜ、黒い聖母にすがるのだろうか?
主なるイエスはこう言われた。「医者を必要とする者は、健康な人ではなく、病人である」。自分は、病人だ。病人として、病人に弱さが故に、信仰がなくては自分は生きてもいけないのだろうか。信仰のない人生など、考えられなかった。浮世の享楽など何もいらない。勝利も恋も成功も、いらない。それらのものに依ることが、自分にとっては、怖かったのだというのだろうか。
浮世に生きているものを、今黒い聖母の目の前で祈りを捧げている人々を、誰でも尊敬できる気分だった。彼らは、自分では生きられぬ道を選んで生きている。

忘れたくて、思い出したくなくて、それでも、時々思い出してしまう。
閉じかけた傷口から無理にかさぶたを剥がすような激痛にも似た衝撃が、心に覆いかぶさってくる。
美味しいパンを焼く、パン屋の夫人がいた。恰幅がよく、明るい笑顔の持ち主で、絵にかいたような、理想的な幸せな中年女性だった。
自分がのこのこやって来た時、店の前にはこんがり焼いたパンがいつもの通り並べられていた。その中で彼女は、あまりに唐突に死んでいた。ポーランド人の誇り、夫人の誇り、女性の誇り、人間の誇りをすべて奪い取られて、死んでいた。そしてそれは罪でも罰でもなく、ただ当たり前の行為が行われた跡であるかのように、その場は一切静かだった。外の往来を行き来する人々はそれに気づいてもいなかった。自分は、何も言いだせなかった。ミュシェコはすでに、学校を離れた後だった。アンジェイはただただ、立ちすくむことしかできなかった。
礼拝堂の中で、必死に彼女の冥福を祈った。そうすることでしか心を鎮められなかった。戦いもできず、怒ることもできず、アンジェイはただただ、臆病なままだった。
思い出した。その時、つぶった両の眼の奥に、黒い聖母を見た気がした。そしてその聖母は、いつものヤスナ・グラの聖母とは違っていた。彼女は嘆きながらも、その口元は確かに微笑んでいたような気がする。

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