クリスマス市のグリューワイン

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ブラック・マドンナ 7話

朝が来た時、マリアは初めて男の顔を見た。顔すらも飢えた山猫のようで、栄養状態がいいのか肉付き自体は悪くなくても、顔色はまるで死体のように生気のない男だった。
「お前の名前は何だ」
男も、朝になってマリアの黒い肌を見た。「マリアと申します。親の名前は存じません」彼女は答える。
「そうか」男は静かに言葉を受け取り、そして同じように静かに返した。「俺は、パンテラだ」
「そうでしたか」
パンテラと名乗ったその男は、マリアの刺青の跡が残る腕をじっと見ていた。
「奴隷か」彼は言った。「逃げ出してきたのか、追い出されたのか、どちらだ?」
「追い出されました」マリアはよどみなく答えた。
「そうか。それは都合がいいな。見つかるまいと逃げずに済む」
彼らは、宿屋にいた。ローマ兵とは言えど、駐屯先は別であることをマリアには推し量れた。そのことについては言及せず、マリアは黙っていた。
「何故追い出された?」パンテラは問いかけた。「問題を起こしそうな面には見えん」
「娼婦に成り下がりましたので」マリアは答えた。パンテラは軽く笑った。
「なるほど……」
彼は深く追求しなかった。
「娼婦が嫌いなローマ兵はいない。この国で俺達と話をすることを拒まない女など、娼婦くらいだからな」
確かにそうだ。奴隷女の自分ですら、ローマ兵には口を利かなかった。
「行くあては?」
「ありません」
「俺の駐屯地はベツレヘムだ」パンテラは枯れた声で言った。「一緒に来ないか」
二つ返事で、マリアは了承した。その日は昼過ぎごろまで寝た後、マリアはパンテラの馬の後ろに乗せられて、令嬢の嫁入りの際に下って来た道を南へと引き返した。ガリラヤに、自分のような人間を誰よりも愛してくれた令嬢夫婦を残して。

エルサレムからさらに進み、着いたベツレヘムは、ひなびた雰囲気のある村だった。パンテラの家も、物が少なく殺風景だった。ローマ兵の華やかな鎧には不釣り合いだったが、死体のような生気のない彼の雰囲気には非常に似合っていた。
パンテラは、周囲に人をろくにおいていなかった。台所はほこりをかぶっていた。マリアはそれを素手でぬぐい、「召し上がるものに、お好みなどはございますか?」と聞いた。
「とくには」
パンテラの受け答えは、何においても非常に淡白だった。だが、マリアにとっては優しくされるよりも居心地がいい。暴力は振るわれず、しかしよそよそしいくらいが、自分に一番ありがたいのだとマリアは知った。
台所には食材など干した魚のかけらが一つあるだけだった。
「市場に行ってこようと思うのですが」
「行って来い」
彼はそう言って、銀貨の入った財布を無造作にじゃらりと投げた。警戒心の強そうな山猫のような男が、先日知り合ったばかりの身分も分からない女にそれなりの金を渡すとは、と、マリアは少々彼の事を興味深く思った。しかし一方で、自分が彼の立場になったとしても、自分は彼に無造作に金を渡すのではないかと思うところもあった。
さびれたベツレヘムの市で買い物を済ませ、マリアは煮込み料理を作った。その頃には日も沈みかけ、新しい日が訪れようとしていた。
「買い物は、お前に任せようと思う」鍋をかき混ぜるマリアの後姿に、パンテラは言った。
「俺が行っても、誰も口をきかんからな」
それはそうだろう、と彼女は思った。
支配民族でありながら、見下される異教徒。このイスラエルにおいてローマ人とは、そう言う存在だ。矛盾した存在なのだ。
「分かりました。お任せください」マリアは湯気を顔で受けながら、鍋を見つめたままで言った。
「どこの生まれだ、お前は」パンテラはその日になってようやく、マリアの出身地について問いかけた。
「分かりません。でも、ずっと南の国だったような気がします」
「そうか。そうだろうな。お前の肌は、エジプトよりっもっと奥深い土地の人間のものだ」
パンテラは淡々と言い、暗くなっていく中ランプの光でマリアを見ていた。
「俺はシドンの出身だ」
「ローマ人ではありませんでしたの」
「市民権は買ったのだ」
そう言ったあたりで、煮込み料理が出来上がった。彼女は少し端の欠けた皿にそれをよそい、パンと一緒にパンテラに差し出した。
「うまい」一口飲んで、彼は相変わらずぶっきらぼうにそう言った。
「ありがとうございます」
マリアも、素直に言葉を返した。彼が食べ終わり、マリアが食器を片づけた時、彼はふいに後ろからマリアを抱きしめてきた。甘い言葉は何も言わず、ただ、マリアが受けてきたような乱暴な暴力とも違った縋りかたで。
マリアも、何も言わなかった。何も言わないまま彼の寝台に入った。彼に抱かれながら、マリアは、自分が処女を失ったのは、あの稲妻の晩だったのではないか、と考えた。この目の前の男の山猫の目に、自分の処女は貫かれたのではないかと思っていた。

マリアはその後、パンテラの家にい着いた。自分とパンテラ以外の人間が存在しない彼の家で、彼女は暮らし続けた。

●●●

自分もいずれ、回教徒になるのだろうか。それとも立ったまま死ぬことになるのだろうか。
収容所にいるうち、ミュシェコは、余り生きるという実感を持てないようになっていた。死に抗う気も湧かないし、どちらかと言えば穏やかな気持ちであった。ただミュシェコが少し怖く思っていたことは、死後天の国に迎え入れられるのだ、復活するのだ、という考えが、少しずつ自分の中から消えていくことだった。それは淡雪を口に含めば穏やかに溶けてなくなるように、とても儚く、さりげない消え方だった。その原因は、わからなかった。
自分の神経が穏やかに麻痺していく様子を感じていた。自分はそもそも、何故ここにいたのだろう。自分は反戦運動などをするほど大した人間だっただろうか?自分の過去に対する記憶すら、朦朧となって来ていた。
記憶も曖昧になるような自分が、何故そんなことなどしたのだろう。彼は自問自答を繰り返していた。
そのような中だ。アウシュヴィッツで脱走者が出たのは。

脱走者が出たならば、見せしめのため数人が処刑される。それがしきたりだった。他のものが自分に白羽の矢が立つのではないかと怖がる中、ミュシェコはあまり怖がってもいなかった。確率的に高いとは言えないのだし、あたっても、それはそれと思えるのではないかと感じていた。
ミュシェコは最終的に当たることなく、嘆き悲しむ人々を冷めた目で見ていた。こんなことにほだされる看守なら、早晩この仕事を辞めているのだろうからこんな場に居るはずがないのに。そう思いながら見ていた。
「死にたくない!」一人の男が、自分以外の九人も望んであろう、当たり前の事実を述べた。「私には、妻も子もいるんだ!」
ミュシェコは何も言わなかった。どうせ言う権利など囚人にはないのだし、言う必要もないことだと思っていた。あの男も気の毒だが、わめきながら餓死室に連れて行かれるだけ。そう感じていた。

「お願いがあります。私を、代わりに連れて行って下さい」
その瞬間、名も知らない囚人が、手を挙げてそう答えた。
しょぼくれた初老の男だった。だが彼の声音はとても落ち着いていて、誇り高そうですらあった。それでいて高慢な誇り高さではない。それは誰とも比べず、地上の栄光に結び付くこともない、非常に純粋な誇りであった。
「私はカトリックの司祭です」こんな声が出るとも思っていなかったのであろう、戸惑う看守に向かって、男は続けた。
「したがって妻も子も、有りませんので」
ミュシェコは、じっとその老人を見ていた。その際に、なんだか妙な気持ちが彼の中に湧いてきた。

殺さないでくれと言うならともかく、殺してくれと言う申し出を断る理由も特になかったのだろう。男の申し出は許可された。代わりに生き残った彼の嘆きようと喜びようは筆舌に尽くし方がたかったが、ミュシェコはそれから数日間、何物をも身につかなかった。あの男に関するうわさが聞こえてくるたびに、彼の手は、思考は、停止した。
その男の噂は収容所中で話題になっていたのだ。聞けば、彼は飢えと乾きで発狂して死ぬ餓死室に居てすら、毅然とし、自分の他の九人に神の教えを説いているらしい。
「あの人は聖人だ」と、キリスト教徒の受刑者は看守の目を逃れながらも口々に呟いていた。
「あの人こそ、信仰に生きる人だ」
信仰に生きる人間。そう言えば、自分も一人知っていた。
彼がここに来たらどうなのだろう?身代わりになっていただろうか。
「……そんなはずはない」ミュシェコは呟いた。だって、彼はここに来るはずがないのだ。ここは、汚れの集まる場所。あいつは、汚れない人間だ。そうに違いないのだ。

二週間後、彼は天に召されたと聞いた。地獄の収容所の中に舞い降りた、天使のような男の噂は、囚人たちの中でもやはりひそかに話題になった。
「殉教だ」敬虔なカトリックの囚人たちは、そう嘆いていた。
「あの人は殉教したのだ」
殉教、という言葉を聞き、ミュシェコは不潔な収容所の壁の端でただ一人、思案に暮れていた。
殉教とは、何か。
自分もカトリックだ、散々に学んだ。信仰に生き、殉教した人の話を。殉教は、何よりもすばらしい。そう思っていた。
そして、彼は初めて、聖人が殉教する所を見た。その空間に居合わせた。それを受けて、昔の自分なら止めどもない信仰心が湧いてくると思えただろう。だが今彼の心に沸き立つのは、名状し難い猜疑心だった。
人は、何故殉教するのだろう?
彼は、ポーランド人だった。彼は、カトリックだった。なら、聖母マリアを愛していただろうか。ヤスナ・グラの黒い聖母を、愛していただろうか。
死ぬときには何を思い浮かべたのだろうか。聖母か、キリストか?

その時、不意にミュシェコの脳内には、意地悪い考えが浮かんできたのだ。
神学校の教師たちはさんざんに言っていた。神のしもべとならんことを、と。そうだ。聖職者は神の下僕、神の奴隷。
奴隷と言うものになった事はない。奴隷は人道に反すると言われているが、奴隷は主人のためなら、笑って死ねるのだろうか?
恐らく、そうかもしれない。主人を憎んで死ねる奴隷は、自分が思うよりずっと、少なかったかもしれない。
彼は思った。
もっと、殉教する者が見たい。
主人の鎖なくしては生きる気力も湧かない奴隷から、その鎖を引っぺがしてみたい。自分の首を締め上げていたその鎖に縋り付いて勝手に死んでいく様が、鎖なくしては生きていけないと嘆きながらも無様に生きていくさまが、見たいと感じた。
考えれば考えるほど、彼は一人興奮してきた。彼の頭に浮かんだのは、アウシュヴィッツの聖人以上に頭に浮かんだのは、旧友アンジェイだった。
あの何物にも染まらぬ信仰の人は、信仰と言う鎖を引きはがされた時、自分を下僕とする黒い女王と引き離された時、どんな顔をするのだろう。
自分は、やはりアンジェイを憎み続けていたのかもしれない。自分には及ばぬ信仰を持つ彼を、憎み続けていたのかも。だから、彼と別人でありたいと願ったのかもしれない。
そう思うことは何度かあった。だがそのたび結論が出なかったのは、なぜ自分がアンジェイを庇い続け、あの狒々のような教師に体を差し出す真似までしたのかということだ。やはり自分は、あの綺麗なアンジェイを愛していたのではないかと。
自分がアンジェイを憎んでいるのか好いているのか、曖昧だった答えがようやく出た。自分はアンジェイを好いてなどいなかった。彼のそばに居たかったことに、彼を守りたかったことに、ようやく納得のいく答えが出た。アンジェイを、綺麗なままとっておきたかった。汚れの無い、ポーランドの女王への信仰にのみ生きる彼を守っていきたかった。自分が、それを汚すために。
自分はこのような人間だったのだ。ミュシェコは悟り、騒がしい囚人房の中で小さく笑った。自分が神の道に入るなど言いだしたのも、神学校に入ったのも、このためだったのかもしれない。

ポーランドが共産化したことは、彼にとって願ってもない幸福だった。これで、外国に行かずとも祖国に居ながらにして大手を振って殉教者を見る立場に立てる。ナチス・ドイツに捕らわれていたという悲劇的な過去も、戦後彼が成功するのに一役買った。
気が付くと、髪が黒くなっていた。自分の髪の変化などに十数年間気を配ったことがなかったと、ミュシェコはようやく気が付いた。

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