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クリスマス市のグリューワイン

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ブラック・マドンナ 8話


ローマ兵の愛人。
イスラエル女にとっては最も忌むべき立場で、イスラエルの娼婦にとっては最も喜ばしい立場だろう。
マリアは、気が付けば奴隷というよりも、そのような立場になっている自分に気が付いた。面と向かい、パンテラにお前は何だと言われたことはなかったのだ。まあ、奴隷も娼婦も見下されることに代わりはない。大して問題とも思わなかった。

パンテラといると、マリアは不思議と心が落ち着いた。悪くない気がする、ではなく、嬉しい、喜ばしいと言った感情でもなく、マリアとヨセフに感じていたのとは全く違う落ち着きを、彼女はパンテラの中に見始めていた。

パンテラは人づきあいがほとんどない。演習や巡回と、家の往復の毎日だ。何の楽しみも得ないと言うよりは、楽しむことを拒否している人物のようですらあった。
マリアがパンテラの家に住み始めてから一月以上もしたころだろうか。パンテラは初めて「お前の前の主人はどんな奴だった」と聞いた。
「お金持ちのお嬢さんでした」彼女は言った。「とても、優しい方でした」
「優しい方に追い出されたのか?」
「私が不義を行いましたので」
「本当か」パンテラはめずらしく、少し喰い気味に話してきた。
「パンテラ様、私が嘘を申しますか?」
「お前の事を知りたいのだ」パンテラはぶっきらぼうに言った。「端折るようなことがあるのなら、それも聞きたい」
「私の事を知って何になりますか?」
「俺の事も、お前に話せるようになる」パンテラは淡々と告げ続けた。マリアには、断る理由もなかった。
「お嬢様は不妊の方でしたので、私が代わりにご主人様と子を産むことを強いられました。しかしお嬢様がそのことを知らされておりませんでしたもので、諍いになり、出て行ったのです」
「それ見ろ、不義じゃない」
「不義ですよ」マリアはくすりと笑った。「それに、不義でも不義でなくとも私には正直な話、どうでもいいのです。そうなるということは、そろそろ潮時だったのですよ」
「優しいお嬢様と言っていたな」パンテラはさらに話を続けた。
「はい、旦那様もやさしいお方でした。二人とも、私の黒い肌を罵ることなど、一度もございませんでした」
「そんな奴らの所を、お前は離れたいと望んだのか」
「はい。私はさもしい女ですので」
ぺらぺらと話しながら、マリアは戸惑いに襲われた。この男の前では、口に出すのもはばかられるようなことも、素直に何でも話せた。
「奴隷として扱われなくては、満足できないのです。せっかくお嬢様やご主人様が、醜い私にも奴隷の本分も越えてよくしていただきましたのに、その生来の奴隷根性から逃れることもできませんで、お嬢様たちの行為も無下にしてしまいましたの。……追い出されて等おりませんわね、私。逃げたのですわ」
始めてマリアは、そのことをはっきり告げた。
「可愛がられるのが嫌いだからと逃げた贅沢ものなのですよ。まあ、これも男女の睦みあいの意味では無かれど、お嬢様夫婦に対する不義に違いはありませんでしょう?」
「違うな」
パンテラは短く、低い声でバッサリとその言葉を切った。そして、ぎろりとした目でマリアを見た。
マリアは、その目に射抜かれると、体が動かなくなった。パンテラはマリアに詰め寄るようにしていった。
「そいつらの罪でもない。だが断じて、お前の罪でもない」
パンテラの口調は相変わらず淡白なようだが、そこには激しい、何らかの感情が込められているようだった。
「では」マリアは言った。「だれの罪だとおっしゃいますの?」
「強いて言うなら、生まれた時からお前を奴隷として扱い、お前を虐げ続けたこの世の罪か」
不思議だった。その言葉は、マリアにお菓子の色を引き合いに出され自分を肯定された時よりも、ヨセフに雅歌を引き合いに出され自分を肯定された時よりも、ずんと心に重く響いた。その言葉は、誰も、自分さえも触れなかった心を抱きしめるかのようであった。
「なんですって?」
「生まれた時から醜い奴隷扱いで、今さら優しい主人に会ったとしても、すぐに人間には戻れない。言うほど珍しい事でもない」パンテラはマリアを見つめながら、言った。
「その際のお前に罪があると、何故言えるものか。お前はただもっと長らく、虐げられ続けてきただけだろう」
マリアは、泣いていた。
気が付けば、長い間出したこともない涙が出ていた。
パンテラは何も言わず、泣く彼女を抱きとめた。
「パンテラ様。今度は、貴方の番ですよ」マリアは言った。
「あなたの事も、話せるようになりましたでしょう」
「俺は、人を殺した」当たり前の話をするように、淡々とパンテラは言った。
「俺は……」

パンテラが全てを語り終えるまでのことを、実はマリアはあまりよく覚えていない。ただ意識が戻ってみれば、今度は泣くパンテラを自分が抱き留めていた。夢と現実があいまいになっていたような思いだった。あの無口な、山猫のような男が、ただ自分の膝の上で泣きじゃくっていた。
「海が見たい」パンテラはそう絞り出していた。母にも、父にも、兄弟たちにも会いたいとは望まなかった。ただ、故郷のシドンにあった海を見たいとパンテラは言っていた。
「いいじゃない」マリアは彼を抱きながら言った。「行きましょう。パンテラ。シドンは遠くても、カイザリアなら行けるわ。私、もっとほかのイスラエルの都市を見てみたかったの」
「行っても、いいのだろうか」
「海に、人と奴隷を見分けるような力はないわよ。ないに決まってるわ。私ね、海を渡ってイスラエルに来たの」
そう言って彼女は、パンテラを抱きしめた。
「自由になるって、難しいわね」
「自由など、実現できるとしたら」パンテラは呟いた。「神の力によってしか、そんなものありえやしないだろう」
恋でも、尊敬でもなかった。マリアとパンテラはその時、ただただ愛し合っていた。

●●●

聖母の巡業は、緊張を呼びつつも、大ノヴェナの期間中はなんとか続いていた。月日は矢のように流れ、膨大な9年間の大ノヴェナにも、いつの間にか終わりが来た。1966年4月9日。復活祭の前日、ポーランド受洗千年祭を祝う盛大な前祝は幕を閉じた。
そして、ほどなくして1966年4月14日。ポーランド受洗千年祭の本祭がいよいよ開催された。
4月14日の記念式典はグニェズノで開催れた。本来であればローマ教皇パウロ6世を招く企画があったのだが、政府が強硬にビザの発行を許さなかったのは、惜しまれることであった。
それでも、大ノヴェナの幕開けの式典に劣ることなく、千年祭の祭典は盛大に執り行われた。しかもこれも前祝にすぎない。一番の主たる式典が5月3日、ポーランドにおける成文憲法が完成した記念日に行われる段取りになっていた。
華やかな千年祭の幕開けのミサを前に、ポーランドに住むキリスト教徒は皆、何よりもすばらしい一年となることを夢見ていたことだろう。
翌日、1966年4月15日。大砲の音が、千年祭幕開けを祝う大集会の会場に響き渡った。

国防大臣スピバルスキが、近くの自由広場で演説を行っていたのだ。即ち、当局側も1966年に企画している「ポーランド」の独立記念千年式典のために。
そのそばで、国家に背く団体が集会をした。だから大砲で威嚇を行った。それが、政府側の思惑だった。
この、グニェズノの事件が発端だった。1966年、ポーランドにおいて共産主義とキリスト教の宗教戦争が至る所で、形を持って現れたのは。

5月3日の祭典は、滞りなく行われた。やはりパウロ6世がポーランドに訪れることはかなわなかったが、ローマ教皇の写真が代わりに飾られ、ローマ教皇のために用意された椅子はおいておかれた。
ミサを執り行うのはヴィジンスキ枢機卿だった。この場に来られないとはいえ、教皇もポーランドの輝かしい年の事を気にかけてくれていたのだ。彼は自分の代わりに、ポーランドで誰よりも政府と戦っている宗教者であるヴィジンスキ枢機卿を特使として任命した。
その日のミサには、ポーランドの女王、ヤスナ・グラの黒い聖母も姿を現した。彼女は修道院の周囲を一周し、そのミサに居合わせた人すべての目に触れた。
ヴィジンスキはミサにおいて、「ポーランド、または世界中の教会の自由のため、この国を聖母マリアへの隷属のもとに捧げる」と言った。後に、パウロ六世はこのことについてヴィジンスキ枢機卿宛の教皇書簡の中で、「ポーランド二度目の洗礼」と言っている。
ヴィジンスキ枢機卿は、閉会の説教に至るまで、ポーランドが聖母の隷属のもとにあることを求めた。それが、ポーランド民族が今この時代において、危機にさらされた中において、守られ得る道であると。

一方、国家が「ポーランド」の独立千年記念式典を行ったのは7月21日の事であった。ポーランド国民解放戦線宣言の、22周年前夜である。ポーランド国家の独立に最も深く関わりを持ち得る日として、共産主義ポーランドの記念日を選択したのだ。
7月21日の演説で、ゴムウカ第一書記が言った内容は以下のようなものだった。即ち、ポーランドの運命は永久的に共産主義とともにある。そして今あるこの「ポーランド」は、過去のポーランドからありとあらゆる歴史的遺産を引き継ぐ継承者に他ならないのだ、という旨。だがもちろん、その『歴史的遺産』の中にポーランド・カトリックは含まれてはいなかった。

ポーランド各地で、宗教と共産主義の衝突が起こった。警察が教会の集会に入ることを防ぐため築く非常線を、聖母マリアを慕う人々が強硬に突破していく。
蒙昧な聖の世界から俗の世界に導いてやろうと言う、政府に忠実な警察官たちの思いをあざ笑うかのように、人々は楽なはず、開かれているはずの俗の世界から、聖の世界へとなだれ混んでいった。それは、水が坂を下るようなものだったのだろうか、あるいは坂を上るようなものだったのだろうか。

●●●

マリアは、パンテラを素直に愛し続けた。初めて、人を愛することができた。
彼も寂しい人だった。彼も、自分のように自由になれず、解き放たれた後も体中に残った鎖の傷に苦しみ続けるような人だった。
漸く、会うべき人と出会えたのかもしれない。マリアはそう考えていた。パンテラの無口は相変わらずだが、それでも自分相手には多少表情を柔らかくしてくれている気が最近、マリアにはしていた。

ある日の事だった。マリアが市場に行って、買い物をしていた時の事。市場では、既に黒い顔のローマ軍人の情夫、と顔を覚えられていたからパンテラ同様口もきいてもらえなかったが、もうそれには卑屈な従属ではなく、自信と言ってもいいような感情を持って傷つかないでいられるようになったあたりの事だった。
買い物をあらかた終えて、家に帰ってパンテラの帰りを待つのみ、となっていたマリアを、呼びとめる人物がいた。
「君は……」
マリアは驚いて、体が固まった。その人物は、ヨセフだった。
「やはり、君なんだね」ヨセフは焦ったように言っていた。そういえば、ベツレヘムはヨセフの家にゆかりがあったと聞いたことがある。彼がここに来ても、不思議ではなかった。
「何故行ってしまったんだい。マリアも、君がいなくて悲しんでいる……」
彼は、何も変わらなかった。それは包み隠さず、真実であるはずだった。彼は自分を連れ戻そうと望んでいたのだ。そしてそれは、彼の妻と、そして自分をただ純粋に心配しての事だった。
「さぁ、帰ろう」
添うヨセフがマリアの黒い手を掴んだと気の事だった。踵を返したヨセフはぎょっとした。目の前で、山猫のような目つきのローマ兵が自分を睨んでいたからだ。
パンテラは、激怒していた。
「だれだ、貴様は」彼は凄みをつけて、ヨセフにそう迫った。
「彼女は」ヨセフも、流石にできる限り落ち着き払って紳士的に応対した。さすがにこの状況で、ローマ兵だから口を利かないというわけにもいくまい、
「私の妻の侍女です。多少の勘違いから諍いを起こしてしまい、離れてしまって、妻も私も心配していたのです……」
今度は、マリアの肝まで冷えた。パンテラは腰に刺していた真剣を抜き、ヨセフに切っ先を向けた。
「ローマ軍人の女に触るな!ユダヤ人ごときが!」
無口な彼では考えられないほどの大声だった。ヨセフもさすがに目を白黒させていたが。パンテラはなりふり構ってはいられない様子だった。
剣が振り下ろされた。ヨセフの顔に傷がつき、髭がパラリと散った。何も、心配はないのだ。パンテラはローマ兵。被支配民族であるユダヤの庶民を一人切り捨てた所で、何の罪にも問われない。
パンテラは混乱するヨセフに向かって、再度剣を振り上げた。
「パンテラ、パンテラ!」
なりふり構っていられなくなったのは、マリアも同様だった。彼女はヨセフの手を振り払い、パンテラに縋り付いた。
「帰ろう、帰ろうよ……!私、大丈夫だから、ガリラヤにはいかないから……」
ヨセフの元を振り向く気にはなれなかった。彼女はパンテラをなだめ、家まで歩みを進めた。市場の人々の視線も、構いはしなかった。
「やめてよ……」
マリアは、怯えながら言った。
「あんなこと言うのは、やめて……」
ローマ軍人とは、本当になんと不思議なのだろう。
ユダヤ人よりも汚らわしく、法律上ユダヤ人より上である。ユダヤ人は彼らを敬うのはもってのほかだが、彼らに逆らって殺されても文句は言えない。
この世は、なんと矛盾だらけだ。なんと、都合のいい世の中だ。
「そうだな。すまない」
パンテラは無気力にそう謝った。
「カイザリアに行こう。ね」マリアはパンテラにすがりながら、小声で言った。「早く海を見よう。私も、ずっと楽しみにしてるの」
「……隊長の家に寄る。休みを取ってこなければな」パンテラはそう、マリアの言うことを肯定した。

マリアとパンテラは、その後すぐカイザリアへの旅に出た。
ヘロデ王が築いた港町、カイザリア。マリアが話に聞いて想像していた以上に、にぎわっていた大都市だった。
「きれいね」マリアは海を見て、そうつぶやいた。自分がイスラエルに来る途中、渡ってきた海と同じ色をしていた。同じように、深く美しい、青い色だった。
「ああ。綺麗だ。とても……シドンの海と、同じ色だ」
イスラエル人も、シドン人も、黒人も、ローマ人も、海と空の色は、同じものを見るのだ。パンテラはそんな、詩人じみたことを柄でもなく呟いた。
カイザリアの都は美しかった。まるきりローマ的な都市で、パンテラはローマで暮らしていた時の事を思い出しているようだった。
「俺はたぶん、ローマに足を踏み入れた時点で自由になっていた」パンテラはそう、マリアに語った。「だが。不思議なものだな。このローマのまがい物の都市を見て、今初めてローマの街並みを美しいと思う」
「ローマは素晴らしいところ?」
「ああ。今の俺には、おそらくな」パンテラは少しだけ、笑った。
「お前もつれて行きたい」
「私でいいなら、是非」
そう言いあい、パンテラとマリアは笑った。
「いや、しかし本当にローマ的な都市だ。隊長も、ヘロデ王のこう言った趣味は称賛に値すると言っていた」
「ヘロデ王」イスラエルを治めている王の名前を、マリアは反芻した。「ローマにも評判がいいの?」
「あまりそうともいえんがな。俺も個人的には好きではない。ユダヤ人には珍しく、占いを信じて、かつぐ性分でもあるしな。俺はユダヤ人は好きじゃないが占いも嫌いだ」
そんなことを離して街道を歩いているうちに、パンテラはふと目を輝かせた。
「円形劇場だ!」
カイザリアの都市には、円形劇場がある。話には聞いていたが、マリアも実物は初めて見た。
「ローマにあるやつとよく似ている……」
パンテラはいつになく楽しそうだった。山猫のような目は今や少年のように輝いているようにすら見える。中では何やら勇壮な音が鳴っていた。芝居か、音楽か、あるいは剣闘か?
「マリア、行こう!」
パンテラはマリアの手を掴んで、カイザリアの往来を急いで走り出した。こんなに元気な彼を見るのは、初めてだった。海風が、彼に生命力を吹き込んだのかもしれないとも思った。
「待って」マリアは笑った。「あんまり、走るのもよくない気がするの」
マリアにはわかっていた。月経が止まった。ただし、令嬢と同じ体になったわけではない。
自分の胎内に、子供ができたのだ。
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