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クリスマス市のグリューワイン

ブラック・マドンナ 9話


普段なら自分をいらだたせる記事はリシャルドに捨てさせるミュシェコだが、その記事だけはずっととっておいた。これ以上、自分の怒りと言う名の英気を養うのに格好の題材もない。
5月4日付の新聞。ヴィジンスキ枢機卿の演説の内容を、そっくりそのまま書いていた。
「各地での諍いは後を絶ちません」リシャルドはそう報告した。
「聖母の巡業とやらも、まだ続いているな?」
「はい」リシャルドは答える。
「状況の報告を」
「やつらとしては、成果は上がっているようです。聖母のイコンが回った司教管区では、往々にして大規模な洗礼が行われています」
ミュシェコは煙草に火をつけた。
「そもそも、なぜすぐにこれが終わらないのだと思う?リシャルド」
「信仰心ゆえでしょう」
「信仰心とはなんだ?聖母マリアへの情欲とどう違う?」
ミュシェコは二息目の煙草をゆっくりと吸った。怒りを通り越して、彼は興奮してきた。自分がやりたかったことが、今ならばできるような気がした。
「奴らは、宗教にすがらなくては生きていけない、女王の哀れな奴隷なのだよ」ミュシェコはワルシャワの町を見下ろしながらゆっくりと言う。
「お前は彼らを自由にしてやるのだ。そうでなくてはならんのだ」ミュシェコは、知っていた。この男の正義感の強さを。このような言葉を使っていつも、この秘書をコントロールしてきた。
「聖母は次、どこに向かう?」
「二日後に、オルシュティンに」
「時が来た!」ミュシェコはにやりと笑った。

ポーランドの信徒たちは、どのような顔をするのだろう。
聖母の鎖を切られた彼らは、一体どのように殉教に向かっていくのだろう。
だが数万の信徒にも、ヴィジンスキ枢機卿にも勝るほど、その顔を見たい相手がいた。アンジェイは、どのような顔をするのだろう。
お前が憎かった。綺麗なままのお前が、ずっと、憎かった。

イコンを運ぶ道中の事だった。子供のころからずっと慕ってきたイコン、そしてさらにポーランドのカトリックの中でも一番尊敬に値する人物、ヴィジンスキ総主教がすぐ近くにいる。アンジェイはいささか緊張していた。
そして緊張と同時に、彼には襲い掛かってくる。発作のように、頭をえぐる痛み。
自分の視線のすぐ下で、血が飛び散っていた。むせ返るほどの悪臭がしていた。自分は、何もできなかった。人が死んでいるのに。否を大声で唱える勇気もなかった。自分は、ただただ、臆病だった……。
アンジェイは、そっと頭を押さえた。隣のミヘイが、心配そうに見ている。大丈夫だよ、とミヘイに向かって強がろうとした時だ。
「どうしたね」
この道中で何回も聞いた声、そして、信じられない声が飛んできた。ヴィジンスキ枢機卿が、アンジェイに話しかけてきた。
「頭痛です。申し訳ありません……」
「そうか。お大事に」枢機卿は詮索しなかった。だが、最後にこう付け足してくれた。
「主に、聖母に、君が大事にあることを祈ろう」
その言葉に、アンジェイは涙が出そうになった。もちろん、嬉しかったのだ。心が温まる思いだった。何気ない言葉に、こうも救われる。真の宗教者とはこうあるものかもしれない、と、彼はいい年をして考えた。
「大丈夫だよ」
隣のミヘイも、穏やかに笑っていた。
「父なる神は、放蕩息子を許される……大丈夫だ。アンジェイ。君は、大丈夫だ」
ミヘイは優しく、背中を撫でてくれた。「ありがとう」と、アンジェイは言った。

オルシュティンに黒い聖母が到着すると聞き、オルシュティンの人々は期待に胸を膨らませていた。
ポーランドの女王がやってくる。自分たちを、ポーランド・カトリックを支え続けた女王がやってくる……。
だが、その日、不自然なことが起こった。工場の労働者たちは、規定の時間になっても家に帰宅することを許してもらえなかった。
「どういうことだ!?」と抗議の声が上がる。だが、返しの言葉は「命令だ」意外に存在しなかった。
オルシュティンのとある農業学校でも、似たようなことが起こっていた。学生たちは、これから黒い聖母がやってくるが、その祭典に入ることを禁止する、とはっきりと警告されたのだ。
工場の、学校の信徒たちは、よっぽど抗議の声を上げたかった。実際あげた。だがその言葉で揺らぐような命令ではなかった。
工員たちがとどめ置かれたのは、夜7時まで。彼らは解放されるや否や、急いで飛び出した。だが、その数時間のやきもきした気持ちは、非常に空しい形で終わりを迎えることになった。
イコンは、オルシュティンに届いていなかった。絶対に、届かなかった。

●●●

マリアは、ベツレヘムに戻ってから医者にかかった。ユダヤ人の医者には見てもらえないので、パンテラの基地にあるローマ人の医者だ。間違いなく妊娠している、と言われた。
パンテラは喜びながら、戸惑っていた。彼は、マリアに出会うまではずっと孤独に生きてきた。自分が人の親になるなど、考えもしなかったらしい。
「手伝いの女を雇おうか」パンテラはそう提案した。「お前を今までと同様に働かせるわけにもいくまい……」
「ありがとう。でも……やはり、落ち着かないわ」
パンテラにしても、雇い入れたいはずはないことを確信していた。できれば、自分たちは自分たち二人きりでいたい。
「そうか。では、俺が家の仕事を手伝おう」パンテラはそう言って、楽しそうに笑った。

マリアのお腹は、少しずつ、少しずつ膨らんできた。パンテラはそれを見て、日に日に感慨深さが極まっていく様子であった。硬い表情も、今ではすっかり柔らかくなっている。
「ガキがね……まさか、俺に……」
パンテラはマリアの丸く膨らんだお腹を撫でながら、何度もそうつぶやいた。
「あなた似かしら。私似かしら。あなた似の方が生きるには楽だと思うけど……」
「仮にお前似だとしても、誰にも後ろ指は刺させん」パンテラはそう、マリアと、お腹の中の子に言うように言った。

ヨセフと令嬢マリアから、その後頼りはなかった。もしもう一度か二度ベツレヘムに来ていたとしても、妊娠し家にこもるようになったマリアが彼らと顔を合わせられたはずもない。
彼らには、申し訳ないと思っている。彼らには、何の非もなかった。彼らはただ、優しかった。
しかし今は、マリアは自分のお腹の中に宿った子供の事を考えるので精いっぱいだった。自分の膨らんだお腹、時々ぴくぴくと動くお腹を触り、マリアは女の身体とはこういうものか、と考えた。
妊婦を見たことがないわけではない。妊婦の世話もしたことがある。しかし、自分が妊娠するのは初めてだ。
このような体になれるよう、令嬢が生まれてきさえすれば、何も起こらなかった。しかし、自分の肥大した腹は、やはりあの令嬢にはふさわしからぬように思えた。往来の並木が紫の葉をつけることなどないように、あの令嬢も、股から血を流すことも、腹を大きく膨らませることもないのだ。それが、一番似合っている。それが、一番自然だった。彼女は美しかった。何の汚れもなく、ただただ美しかった。

月が満ち、マリアは出産した。出産には、例のローマから来た医者が立ち会ってくれた。
幸いなことに、安産だった。マリアは産湯をつかわされた赤ん坊を抱き上げた時、肌の色が自分と似ていないことを確認した。
少なくとも、自分の人生のような苦悩は辿るまい。彼女は母親として、最初の安堵を味わった。
「だぁ……」
赤ん坊は小さく、小さく声を上げて、マリアに縋り付いてきた。マリアは医者に言われるままに手さぐりで乳房を含ませ、座っていない首を傷つけないように慎重に撫でながら、笑った。
「ありがとう。……本当に、ありがとう」

子供が生まれて、パンテラは初めて会った時とは見違えるように幸せそうだった。
最初の方こそ、彼は赤ん坊をいざ目の前にして、戸惑っていた。
「俺がね……この俺が、ガキの親になるとは……」
自分など、子を持てない。そのような罪人であると、彼は信じて生きてきたのだ。無理もない。
しかしふたを開けてみれば、パンテラは意外と子煩悩だった。彼はさっさと仕事から帰っては、子供の世話でろくに動けないマリアを手伝ってくれた。
「そんなにしなくてもいいのに。男なんだから」とマリアが言えば、「男だから、お前たちを守りたいんだ。放っておけ」と、微笑を浮かべながら返された。パンテラのその言葉も嬉しかったが、パンテラは微笑みなどできる人であったのか、と、マリアは可笑しく思った。
数日たった日の事だった。ベツレヘムの往来が騒がしかった。パンテラとマリアも往来に出てみてみると、目にも鮮やかな衣装をまとった外国人の一団が、去っていくところだった。
「エルサレムに行って、今帰る所らしい」周囲の人々が、噂話をしていた。外国の、星占いの著名な博士たちであるらしい。
「ヘロデ王は担ぐからな」パンテラは呆れたようにつぶやいた。マリアはくすりと苦笑した。
占星術の博士は、自分達にはわからない言葉で会話をしているようにも見えた。当然、マリアの方など、パンテラの方など見向きもせずに、華やかな一団はただベツレヘムを通り過ぎ、イスラエルを去っていった。

そして、それから三日たった夕方の事だった。マリアは、糸紡ぎの内職をしていた。妊娠中、体を動かすのはパンテラが反対するが、手を動かしていないのも落ち着かないのでと始めた内職だ。
赤ん坊は眠っていて、パンテラはその横で彼を見ていた。夕飯も早めにすませ、穏やかな夕方だった。
とんとん、と扉をたたく音が聞こえた。
「今開けよう。マリア、こっちは頼む」
「わかったわ」
パンテラと入れ違いに、マリアは我が子に寄り添った。彼は相変わらず、のんびりと眠ったままだった。
パンテラが扉を開けると、そこにはローマ兵とは一風違う鎧の集団が立っていた。パンテラは彼らの鎧を知っていた。ヘロデ王の近衛兵だ。
「ユダヤの兵隊か」パンテラは言った。
「何の用だ?ローマ人の家に」
「ローマ人と言えど、ベツレヘムに住んでいることは同じ」兵隊はパンテラにおびえる様子もなく、言った。
「先日の事だ、ヘロデ陛下は、外国の占い師たちにお告げを頂いた。『ユダヤの王となるものがお生まれになった』と」
「それはそれは、めでたい事で」
「だが、陛下の家系に新しく生まれた子など一人もいない」
「要件を早く言え」パンテラはうんざりしている様子だった。
「そこでユダヤ議会は協議した。そして、結論が出たのだ。それは、聖書に預言されたユダヤの王ではないかと……お前たちは知らないだろうが」
「ああ知らんね、俺はユピテルすら崇めるつもりはないからな」
「預言の書にはこうある。『しかしベツレヘム・エフラタよ、お前はユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者がお前のうちから我がために出る』……」
それを聞いたとき、パンテラはぎょっとした。何かを察したのだ。
「お前の家に赤子がいると聞いた」
兵士たちは、刃物を取り出した。
「ヘロデ王家を脅かすものを捨ておくわけにはいかない。ヘロデ陛下からのお達しだ。ベツレヘムに居るの幼児は、王家を脅かす可能性のある者。全て殺してしまえと」

●●●
オルシュテインに向かう途中の事だった。聖母を運ぶ自動車行列が、警官隊に止められた。
「オルシュティンには向かうな!」警官はぶしつけな態度で、聖母を運ぶ人々に命令した。丁寧に、政府からの書状を見えるように掲げて。
「予定を変更し、これよりフロンボルクに、その後ワルシャワに向かうように」
「なぜ、お前たちにそれを命令する権利がある!」一人の修道士が怒った。
「オルシュティンの信徒たちが、聖母が来られるのを待ち望んでいるのだぞ!」
「どこに行ったって同じことだろう」警官隊は態度を変える様子はなかった。警官隊は銃を持っている。逆らうわけにもいくまい。
「わかりました。言うとおりにしましょう」
ヴィジンスキ枢機卿は、命令をのんだ。致し方のない状況ではある。誰も、その判断は責めなかった。それに、オルシュティンでも、フロンボルクでも、聖母の教えを広めることができるのならば同じこと、という考えに確かに嘘偽りはなかった。

予定変更してやってきたフロンボルクでの式典は、つつがなく終わった。フロンボルクの人々は、思いがけずやってきた黒い聖母に、他の司教管区の人々と同じく盛大に喜んだ。オルシュティンの人々には申し訳ない思いでいっぱいだったが、それでも黒い聖母を前ポーランドの信徒の目にという当初の理念は満たせた巡業だった。

フロンボルクでの式典も終わり、黒い聖母と、枢機卿、それに付き添いの司祭や修道士たちは、列になって車に乗り込み、ワルシャワを目指した。
「疲れたかい?」アンジェイの隣に座るミヘイが、そう話しかけてきた。
「オルシュティンの人々に、悪い気がするよ」
「私もだ」ミヘイは同意する。
「でも、また来る。絶対に、オルシュティンだけ聖母の祝福を与えないことなど、枢機卿が許さないし、我々も許さない。そうだろう?」
「ああ、そうだね……」
そのように話している時だった。
ブレーキの音が響いた。ピリピリと耳障りな警笛の音も聞こえる。また警察か!と思い、アンジェイとミヘイが外を見た時だった。
警察は、数日前とは様相が違っていた。
彼らは銃を抜き、銃口をまっすぐに聖職者たちに向けていた。
「車を降りろ!」
彼らはそう命令した。

「全員、動くな!」
警察隊はそう告げた。聖職者たちは、従うしかなかった。先日は意識させるだけだった武器を、今回はあからさまに向けられていた。
見れば、警官に交じって役人も何人か来ている様子であった。役人?アンジェイははっとした。もしや、と思った。
あたってほしくなかった予感は、その時、的中してしまった。背広を着た役人たちの中に、ミュシェコの姿があった。
「ミュシェコ!」と声に出して、名前を呼びたくなった。口を開きかけた所で、ミュシェコはアンジェイに姿に気が付いたようだった。彼は何も言わず、口角をゆがませて笑った。
一番地位の高いらしい役人が、運転手に言った。
「黒い聖母のイコンは?」
警官に銃を突き付けられた状態では、運転手たちも丁寧に案内するしかなかった。役人と警官たちは歩みを進め、車の中にある箱を引きずり出した。
「待て!」居てもたってもいられなかったのだろうか、ミヘイが叫んだ。「それにぶしつけに触れるな!」
「アヘン中毒者共、教えてやる。こんなもの、ただの絵だ」
先ほどの、地位の高いらしい役人がそう言ってのけた。
その声色は背筋がしびれるほどに、冷たかった。飛び出そうものなら、射殺されることには疑いようがなかった。
「どこに」アンジェイは、震える声で言った。「どこに、持って行かれるのですか……」
引き続き、先ほどの役人が口を開こうとした。だが、自分に言わせてくれとでもいうように、ミュシェコが前に出た。
ミュシェコはアンジェイに向かい合った。そして、にやりと笑って言った。
「教える馬鹿がどこにいる。これはポーランドの美術品。ポーランド政府がどう扱おうが、お前たちにとやかく言われる筋合いはない」
聖職者たちが抵抗もできないまま、黒い聖母は警察の車に詰め込ませた。そして、エンジンの音が聞こえ、遠ざかっていった。どこに向かったのか、誰にも分かることなく……。
「ああ!」ミヘイがその場に膝をついた。アンジェイの心も折れそうだった。黒い聖母が、黒い聖母がいなくなった……。
その場に居合わせた人々も、皆一様に絶望におびえていた。
だが、ほどなくして彼らはあることに気が付いた。ヴィジンスキ枢機卿はただ一人、全くうろたえていないことに。

●●●

「殺す?」
パンテラは、ユダヤの兵隊たちを見つめてそう言った。ただ見つめているだけで、睨みつけているように見える、その目で。
だがユダヤの兵隊たちも、やはり怯える様子はなかった。
「赤ん坊を渡してもらいたい。すぐに済む」
遠くで、悲鳴が聞こえた。甲高い悲鳴。きっと、同じときに何人もの家を、巡っているのだろう。
マリアは家の奥で、聞き耳を立てながら怯えていた。腰が抜けて、赤ん坊を連れて立つこともできない。
赤ん坊もマリアのその恐れを感じ取ったのだろうか。急に激しくぐずり始めた。マリアは冷や汗が出た。
「奥に居るのだな」ユダヤ兵達は言う。「引き渡せ」
「ふざけるな!」
次の瞬間、血が飛んだ。パンテラは壁にかけてあった剣を取り、ユダヤ兵達を切り裂いた。

マリアには、何が起こったか理解できた。それでも、なんとか正気を保とうと、彼女は赤ん坊を懸命になだめた。
「ローマ人と黒人の子が」パンテラの声が聞こえた。「なぜ、こんな国で、王になれるというのだ!」
「人間に、運命など分からない。運命はただ神のみが知る」
赤ん坊の泣き声はますます激しくなる。どうして泣くの、泣きやんで!彼女は叫びそうになった。もう一人人が倒れる音が聞こえた。
金属音も聞こえる。今はどうなっているんだろう。パンテラは戦っている?赤ん坊は泣くのをやめない。恐怖を体現したかのような叫びを出すのをやめない。
ふと、マリアの心の中に浮かぶものがあった。マリアは激しく泣く赤ん坊を、耳がつぶれそうな衝撃にもかまわずぎゅっと抱きしめた。
「ごめんね。怖いものね。泣くのは、当たり前よね」
マリアは、赤ん坊を泣かせるままにしておいた。赤ん坊の泣き声で、入り口の状況も分からない。マリアはもう、逃げられなかった。一秒が一日にも感じられる長い長い時間の中で、悲痛な顔で、泣き叫ぶ赤ん坊を抱きしめる。自分には、ただそれしかできなかった。パンテラがどうにかしてくれると信じて……。


こつり、と振動を感じた。誰かが、ここまで来たのだ。マリアは恐る恐る、顔を上げた。

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