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クリスマス市のグリューワイン

ブラック・マドンナ 10話


チェンストホヴァの黒い聖母を奪った。
政府と警察たちは、酒を開けて宴会に興じていた。
黒い聖母は極秘にワルシャワ大聖堂に送られた。無論のこと他言無用で。まずは、これから行われる式典で、司祭たちが、修道士たちが、枢機卿がどう対応するか見ものだ。彼らはそうめいめい笑った。
ミュシェコもその中にいた。たまらなく、愉快な気持ちだった。アヘン中毒者たちはどんな顔をするだろう?今から楽しみでならない。アンジェイは、アンジェイはどんな顔をする。
考えただけで、背筋がぞくぞくした。自分はこのために、あの苦痛に耐えたのだ。あの忌々しい教師に金髪を汚される苦痛に耐えたのだ。
お前を、黒い聖母から引きはがしたかった。あの、美しくもない、汚らしい女、それなのに、人の心をとらえてやまない、「只の絵」から、お前を引きはがしたかった。
「これで、彼らは自由になれるでしょうか」リシャルドが言った。
「ああ、なれるとも。私たちの行動は、無駄ではない」
不思議なもので、この言葉はリシャルドを懐柔するために使ったものなのだが、なかなかどうして使っているうちに自分の心にもなじむものになっていった。
「アヘン」とはよく言ったものだ。アヘンが甘い夢を与えるからと言って、誰がそれを良きものだと言うだろうか。アヘンの甘い香りの鎖に捕らわれているだけの不自由な人間を解き放つことを非難する者は、禁断症状に苦しむアヘン中毒者以外、誰にもいるまい。
黒い聖母から、お前たちは解き放たれるのだ。お前たちを自由にしてやる。そのような正義感も、乙なものだとミュシェコは思い始めてきた。
しかしそう思うと引っかかるところがもう一つだけでてくる。では結局自分は、やはりアンジェイを好いていたということなのだろうか?
自分のあの苦悩は、アンジェイを助けるため?今度の事も、彼に自由を与えるため?
自分と言う人間がわからない。収容所に入ってから、そのようなことが増えたのだな、と少々ずれた着地点に行き当たった。その答えを出す気は今のところ、ミュシェコにはなかった。

数日後。
消えた黒い聖母の行方を知っている者は、驚くこととなった。ミュシェコも急いで、個人的に車を飛ばして向かった。

向かった先では、相変わらずキリスト教徒たちが熱狂していた。
威厳溢れる声で説教を行う枢機卿。誇り高そうにその場に侍る聖職者たち。満足げな顔で、説教に聞き入る信者たち。何もかも、黒い聖母がいる時と同じままだった。
ただ一つ違うのは、聖母を収めていた額縁に、子供を抱いた黒い肌の、青いベールを着た女はいなかったということだ。
そこには、キャンドルが燃えていた。一本のキャンドルが。
その場にいない聖母の威光、聖母の慈愛を示すかのように、あかあかと燃えてるキャンドルを眺め、人々は祈りを行っていた。

黒い聖母は、女王であった。
ポーランドの長い、長い悲劇の歴史を、その虚ろにも見える目で、まっすぐに見つめ続けた女王であった。
そのことが、生涯をかけて否定したかった事実が、ミュシェコにははっきりとわかってしまった。
自分達の小手先の邪魔など何にもならなかった。ポーランドの女王はただキャンドルの一本の輝きで、自分の威光を、存在を、その場に示すことができたのだ。

ミュシェコは、アンジェイを見つけた。彼は、苦悩していなかった。彼は自分の知っている彼のままであった。
「先生」
自分を心配する声も聞こえず、ミュシェコは崩れ落ちた。

●●●

ベツレヘムでの悲劇は、瞬く間にイスラエル中を駆け巡った。北のガリラヤまでも、勿論その噂は届いた。
「ベツレヘム……」その地名を聞き、令嬢マリアとヨセフは震えあがった。あの、黒い少女は平気だろうか。彼らはいてもたってもいられなかった。急いでろばを走らせ、彼らはベツレヘムに向かった。

素朴な村だったベツレヘムは、見る影もなくなっていた。いたるところ血が散乱し、赤子がいなかったのであろう難を逃れた村人たちも、皆一様に沈んでいた。
「黒い肌の少女とローマ兵が住んでいる家」を探すのは全く難しい事ではなかった。市場の婦人が、生気の抜けた顔で道順を教えてくれた。
彼らは被害にあったのだろうか。あっていない事を信じ、ローマ兵の家に入ったヨセフと令嬢マリアは、惨憺たる光景を見た。

入口から床にかけて、ずるずると引きずられたような血の跡がついていた。それを恐る恐るたどっていくと、家の一番奥、寝台に座り床に背を預けて、血まみれになったマリアが虚ろな目でぶつぶつと抱え上げた赤ん坊に何かを言っていた。
「大丈夫。大丈夫。もう怖くないのよ、泣かないで……」
彼女の隣には、既に死臭を放ち始めたローマ兵の遺体があった。全身をめったざしにされ、寝台に横たわっていた。
そして彼女の抱きかかえる赤ん坊は、亡き声一つ上げることもなく、その産着には乾ききった大きな血のしみがついていた。よく見れば、刃物が貫通したような穴も。
「マリア……」
令嬢マリアは、その名を呼んだ。マリアは、その時はじめて赤ん坊から目を起こし、二人の方を見た。
「お嬢様……!」
「マリア!」
令嬢は、倒れこむように黒い肌の少女を抱いた。
「どうして、どうして……!」
「お嬢様、来てくださったのですか……?」
マリアの声は、弱弱しかった。令嬢が注視してみると、彼女にも刺し傷があった。そこから、血が流れ出た後のようだった。
「来るわよ」令嬢は震える声で言った。
「嫌いだなんて嘘よ。大好きよ。ずっとずっと、大好きなのよ……」
知っていた。
彼女がそう思ってくれていたことなど、マリアにはよく分かっていた。
今になって、ようやくマリアは、令嬢の愛を受け止めることもできた。彼女は自分の目の前で泣きじゃくる令嬢の頬に優しく、口づけを一つ落とした。
「私もです。お嬢様」
やっと、言うことができた。
やっと、この人を愛することができた。自分を始めて愛してくれたこの人を。何よりも清らかであると思っていたこの人を。自分は、自由になったのだ。
「ありがとうございます。やっと、死ねます」マリアは呟く。
「死ぬって何、死んじゃ駄目!」
令嬢や叫んだ。しかし彼女の目からしても、目の前の少女が限界まで衰弱している様子であるのは明らかだった。
「私、あなたに何もできなかった」令嬢は泣いて、マリアにすがった。「あなたにわがままばっかり言って、なんもしてあげられなかった」
「お嬢様……」マリアは震える手を、ゆっくりと持ち上げた。
「では、もしも、もしもし最後に許されるのならば、聞いてくださいませ」
「なあに」令嬢はしゃくりあげながら、聞いた。マリアはにっこりと笑い、赤ん坊を差し出した。
「あなたの子供です。どうか、腕に抱いてあげてください」
その言葉に、令嬢は瞬きをしていた。マリアは、かすれ消える声で、ゆっくりと、ゆっくりと言った。
「あなたは、私です。私は、あなたなのです。お嬢様。私の子は、貴方の子です。貴方は、胎を痛めることなく、男を知ることなく、子を得るお方であったのです」
令嬢は、自分の愛した黒い少女の最期の言葉を、じっくりと聞いた。そして、体温を失った子供を抱き上げた。子供と言うものは、彼女が思っているよりも、ずっと、ずっしりと重いものだった。
脇腹を刃物で貫かれ、動くことも息をすることもなくなった赤ん坊を大切に腕に抱き、令嬢は言った。
「可愛い子……ありがとう。ありがとう、マリア。本当に……」
「お嬢様……もう、思い残すことはありません」
その時、ふわりとマリアに被せられるものがあった。
まるで天の国に連れて行かれるような、甘い香を焚き染めた布。令嬢マリアが送ってくれた百合の模様のベールだった。
ヨセフがそれを広げ、かけてくれたのだ。
「旦那様……ありがとうございます」マリアはヨセフにも、最後に一度笑いかけた。
「お嬢様、旦那様。どうぞ、いつまでもお幸せに……」
そう言い残して、黒人の少女マリアは死んだ。青い、百合の模様のベールを身に纏った彼女の姿は、惨めな一生を送ってきた奴隷少女とは思えなかった。それはまるで、女王の風格であるようにも思えた。

「……だぁ」
悲しみに沈み、茫然とするヨセフと令嬢マリアの耳に、響く音があった。何の音だ?赤ん坊の泣き声のように聞こえる……。
その瞬間だった。令嬢の腕に抱かれた赤ん坊がむくりと動き出し、火が付いたように泣き叫んだ。
ヨセフと令嬢マリアは当然、驚いた。赤ん坊は脇腹を貫通されて、生きていた。父と母の死骸を前に、彼は生きて、大声を上げ、泣き叫んでいた。

●●●

黒い聖母が取り去られても、聖母の巡業は終わることはなかった。
時には花、時には聖書を額縁の中に入れ、「黒い聖母」は国中を巡った。このようなまねで聖母への崇敬を損なうことなどできないという事実を、当局の人間たちはまざまざと見せつけられた。

アンジェイのもとにその日、一度見たことのある客が訪れた。
「同志がこちらのホテルでお待ちです。どうぞ、お越しください」
その秘書は10年前に比べ、腰が低くなっているようにも見えた。アンジェイはすぐに了解して、旧友の待つホテルに向かった。

「大したものだよ、お前たちは……」
灰皿には相当煙草がたまっていた。
「こんなことになるだなんて、誰も予想していなかった、全く末恐ろしい。宗教ってものは……」
「ミュシェコ」ブツブツと愚痴のようにつぶやく彼に、アンジェイは少し怒り気味に詰め寄った。
「ぼくは君の友だちとして、個人的に呼ばれたのか?」
「まあ、そう思ってくれて構わん」
「なら政府の人間として黙る意味もないだろう。聖母をどこにやったんだ?」
それを聞き、ミュシェコは2回瞬きしてからやれやれと言った風に返した。
「ワルシャワ大聖堂さ。もう少ししたら、政府もチェンストホヴァに返すつもりだ。勿論極秘でな。ヤスナ・グラの付属礼拝堂に当分極秘でおいて、公式的には行方不明という扱いになる」
「……それをやっても、無駄だったろう」
「当初の予定だからな。それにおれ一人の一存でどうなるものでもない」
ミュシェコはもう一本煙草を吸おうとして、煙草の箱が空になったのに気が付いた。
「君は、どうして変わったんだ?」アンジェイは言った。
ミュシェコはふんと鼻を鳴らして「ああいいとも。話すよ。洗いざらいね」と吐き捨てた。

言葉の通り、ミュシェコは全てを話した。自分が収容所の体験を経て殉教と言うものに持った感覚も、自分がアンジェイをどう思っていたかも、包み隠さず話した。アンジェイは最後まで、それに黙って耳を傾けていた。非難し、遮ることは一切なしに。
「以上だ」小一時間かけて語り終えた後、ミュシェコはそう言った。
「お前に先生を恨む権利はないはずだ」ドアの前で控えていたリシャルドが言う。
「先生はお前を自由にさせてやるはずだったのに」
「自由?」
「ああ、そうだな。そう言う気持ちもあったのかもしれん。あの黒人女から、お前を助けてやりたいという思いがね」
アンジェイは、しばらく考えていた。しかし、意を決したように言った。
「ミュシェコ。君には、大変済まない事をしたと思っている。しかし、聞いて欲しい。君がぼくのことをそんなふうに、汚れなど何もないと思っているなら、それはとんだ思い違いだ」
「そうかね……」
「そうだとも。だって僕は、人を殺した」
その言葉に、ミュシェコは硬直した。
血の気が引いていく。がたがたと寒気がした。「なんだって?」恐る恐る、ミュシェコは問いかけた。アンジェイは、懺悔室にいる罪人のような表情で、言った。
「君は、知ってたね。ぼくが戦時中外国に逃げたと。外国と言うのはね、ドイツなんだよ。ぼくは、身分を偽って、ドイツ人に成りすまして、戦場でドイツ軍として人を殺していた。なんでそうしたかって?怖かったんだよ。君と一緒によく行ったパン屋さんがあったっけね。あそこのご夫人がね、ドイツ人に凌辱されて殺されたんだ。僕はそれを見て、怖くなったんだ。ポーランド人である限り、こんな目に合うのかと。それか逃れたかった。だから、ドイツ人に成ろうとしたんだ。ドイツ人になって、迫害から逃げたかったんだ」
ミュシェコはまだ震えている。唇に青みがさしてきたかのようにすら見える。アンジェイはさらに続けた。
「戦場も怖かったさ。何より、自分が人を殺して……その死体を見た時、気を失いそうになった。そのうち、戦場で負傷して、戦場での治療が難しいっていうんで送還されたんだ。そうしたら、悪運とでもいうのかな……ドイツ側の戦局が悪くなってね。ぼくが病院で傷を治すためもたもたしている間に、戦争が終わってしまった。体が元に戻るなり、ぼくはソ連人にドイツ軍にいたことは伏せて、ポーランド人だということを証明して、ポーランドに返してもらった……家族もみんなドイツ人に殺されたって聞いたよ。ぼくは、罪の意識で死にそうだった。何でも臆病にのらりくらりとして来て、結局どうしようもない罪を重ねるだけの人間だった……でも、修道院は、そんな僕を受け入れてくれた。ぼくの罪を認めて、ぼくの罪を受け入れて、ならばここで償えと、ヤスナ・グラは、ぼくが子供の頃見た黒い聖母は、ぼくを受け入れてくれたんだ」
「嘘だ……」ミュシェコは首を振った。
「嘘だ!嘘だ!お前は綺麗なままだった!お前を初めて見た時、白い百合だと思ったんだ!」
アンジェイは、その言葉に何も返さなかった。
代わりに彼は、修道士の服をばさりとその場で脱いで見せた。ミュシェコは絶句した。痛々しい傷の跡が、そこにはあった。とても、清水だけを吸って咲いた白百合の花とは、似ても似つかない物体がそこにはあった。
「正直な話、ぼくはまだ、自分の罪悪感から抜け出せていない。家族にも、ぼくにも、戦争で殺した人にも、ぼくは罪を償いきれていない」
アンジェイは服をまといながら言った。
「それは全て、ぼくの臆病な性格のせいだった。でも、修道院に居るおかげで、少しずつ、ぼくはそれから自由になっていく気がするんだ。臆病な性格から自由になることで、罪を償えている気がするんだよ」
「……おれも、自由にさせたつもりか?」
ミュシェコは虚ろな目で言った。
「おれも、お前に対して持っていた執着から、自由になったのかも……ああ、自由になったのかもしれないな……」
彼がいくらまさぐっても、煙草は一本も箱には残っていなかった。
「昔何度も唱えたな。聖母マリアは原罪無き存在。聖母マリアは穢れ無き存在……そんなものに、価値を見出していたな」ミュシェコは自嘲気味に続ける。
「おれも、お前とは違う方向で、聖母マリアをこの上なく崇敬していたのかもしれん」


ヤスナ・グラの黒い聖母は1972年、ようやく封印が説かれた。
表に出てない間も額縁のみで続けられていたポーランドの女王の巡業は1980年10月12日、チェンストホヴァにて終了した。
ポーランドの歴史は、カトリックと切り離すことはできない。それは共産主義政権下においても同じ事であった。
ソ連においても同じことであったが、共産主義は完全に宗教を封じることなど叶わなかった。ローマ時代、キリスト教徒が地下墓所に籠ってでも祈りをつづけたのと同様に、宗教への自由を完全に犯すことは、不可能だったのである。


●●●

暖かな日差しが降り注ぐ中、聖母マリアは昔の事を思い出していた。
「あの子は、君とともに生きて、君の子供を産むためにつかわされたのかもしれない」そう、ヨセフは言っていた。その時は、それに同意した。だが、最近になって思う。
彼女と会ったのが神の導きであれ、偶然であれ、変わりはないじゃないか。彼女は、自分と共に居た。そして、自分の子供を産んだ。彼女と自分は、最後の最後、愛で結ばれた。それで十分じゃないか。
「聖母様?」ルカが問いかけた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。うっかりしていた。
「あら、ごめんなさい、自分から絵を描いてって言っておいて」
「いえいえ」ルカは陽気に返す。「ところで、本当に肌をまっ黒く塗ってもいいんですかね」
「ええ、いいわ。良いじゃないの。そう言うのがあっても」
この男とは、息子の教えを通じて知りあった。息子が広めていた神の教えを信仰するうちの一人。彼は、自分をモデルに、何枚も絵を描いてくれた。
机をはがしてつくったキャンバスの上には、女性が一人と子供が一人。女性は、百合の模様の青いベールをかぶっている。自分とは少し違う、痩せた顔。虚ろな目。しかし、それでいて彼女は美しかった。それが、彼女の人生だったのだから。
ルカが、茶色い絵の具を取り出した。聖母はまた、日向の温かさに包まれ、眠気に襲われてきた。


(完結)
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