クリスマス市のグリューワイン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

feat: Samson 第二話



デリラは生まれてから常に奴隷であった。気が付いたときには、ペリシテの貴族の家で働かされていた。親の顔など覚えてもいない。居たのかどうかすら、わからなかった。
彼女は小さい時からずっと、ありとあらゆるものを否定され続けて育った。彼女には全ての権利がないと、誰もかれもが言った。
彼女は女であるし、奴隷であるし、そして何より醜いものである。尊重されるような要素は一切持ち合わせていない、この世で最も軽んじられるにふさわしい立場だと、全ての人が言葉を持って、また、態度を持って彼女に言った。自分の仕える貴族の家族もそうだし、それに親しい屋敷に訪れる人も、また、大人の奴隷たちでもそうだった。幼いデリラがそれに何か言おうとすれば、彼らは遠慮なくデリラを罰した。
彼女が自分に価値がないと学習するのは、時間の問題であった。彼女は非常に従順になり、また、卑屈になった。
お前のような醜い奴隷がいると屋敷も軽くみられる、と言われ、彼女はずっと裏方の仕事をしてきた。屋敷を飛び出しても食べていくあてもなし、彼女には屋敷に居る以外の選択肢などなかった。自分は何の価値もない人間で、生まれてこの世に存在していること自体が自分以外のすべての人間にとっての損なのだ。たとえば、自分がいるだけでわずかながらもこの世から食料は減る。その分を、もっと価値ある何者かが食べられたはずなのに。たとえば、自分よりも美しく、男の目を楽しませることができるような同年代の少女など。
そんな彼女を拾ってやっている主人たちは、確かにずば抜けて優しい存在なのだ。だって、自分は捨てられて、ないがしろにされて当然なのだから。それをわざわざ拾って仕事をさせてやっているだけでも信じられないほどの僥倖だ。そこまでの多大な慈悲をかけてもらっているのだから、人格を否定されることくらいなんだというのだ。そのようなこと、デリラのような醜い、無価値なものを生かしてやっている慈悲に比べれば麦粒ほどのものではないか。そもそも、その慈悲がなかったとしても、主人は金もあり、男で、デリラよりは美しい。デリラに彼に文句を言う権利などなく、主人には至極当然の事実をデリラに告げる権利があるなど、神、ソレクの町で崇められていたのはダゴンという海の神だが、神がそのように定めたようなものなのだから。
デリラはそのように言い聞かされた。そして、いつしかそれを受け入れた。
苦しくないわけではなかった。非常に苦しく、悲しかった。だが、苦しむ権利を表明すれば攻撃されることが目に見えていたので、彼女は苦しみを覆いかくした。主人は、たった五歳ばかりの自分が泣いているのを偶然見て、ただでさえ醜い顔が涙にゆがむのは醜すぎて正視に耐えないと言い、彼女を蹴り飛ばしたものだった。彼女はそれをよく覚えている。誰も同情などしなかった。醜い彼女をあざ笑い、嫌い、軽蔑していた。

その主人も死んだ。屋敷も消えた。デリラを笑ったソレクの町も燃えてしまい、彼女一人、ソレクで最も価値のない者が生き残ったのだ。彼女は嘆きはしなかった。自分が嘆く顔は醜く、人を不快にさせるのだから。
それに、少なくともイスラエル人は、ソレクが滅ぼされたことを嘆かないことは責めに値するものとみなしはしないだろう。みなすのは、ペリシテ人のみだ。だがそのペリシテ人が、今やすべて灰になってしまったのだから。このことは、デリラにとっては珍しい攻撃されるはずのない事であった。


彼女は目が覚めた。夢の中で、自分の過去を思い出していたような気もする。
長い奴隷の生活は、彼女を非常に朝早く起きる体にしていた。彼女は、そっと天幕の外に出た。天幕の外で、縄につながれるでもなくそこに座っていたジャッカルも、まだ寝息を立てていた。
夜中の冷たさを多大に残す早朝の光景は、相変わらずただただ荒れた大地が広がっていた。日はまだ登り切ってもおらず、薄暗かった。
ソレクのなれの果てを、彼女はその目を持って味わった。もはや、自分の仕えていた家がどこにあるのかもはっきりしない。目の前に広がるのは、ただ、全てが焼けた大地。そして、集められ積み上げられた頭蓋骨の山くらいなものだ。
顔面がピリピリする。大分ひどい火傷になっているようだ。


サムソンが起きる頃、彼女は天幕の中に戻っていた。サムソンは彼女を見るやいなや「俺の髪を梳かせ」と、ぶっきらぼうに命令した。
デリラはその言葉に忠実にうなずき、天幕の中にあった櫛でその途方もなく長い金髪を梳かし始めた。意外にも、それはすんなりとうまくいった。本当に、女性の髪の毛のようである。自分が仕えていた家の女主人や令嬢よりも、その髪は艶と張りがあり、瑞々しく、癖がなかった。傷んでいるような様子もほとんどなく、毛の先端まで潤いがあり、割れている毛など一本もない。櫛はするすると良く通り、彼に痛みや不快感を与えないようにすることに大した努力はいらなかった。
それが終わると、彼女は昨日見たように彼の髪を七房に分け、三つ編みに編み始めた。彼はそれをさせる間、じっと退屈そうに視線を床の方によこしていた。
いかんせんデリラの身長よりも長い髪の毛を綺麗に三つ編みにするのには大分骨が折れた。だが、この主人であるからにはこのことが必要なのは火を見るよりも明らかだ。デリラはただただ、奴隷は仕事をこなすべしと言う自らの人生に基づいた主義に従って、それを忠実に果たそうとした。デリラは精一杯急ぎ、また、丁寧に彼の髪を編んだ。サムソンがせかしたり、また、出来栄えに対して罵倒をしたりしないのが救いであった。彼は褒めることもなく憮然とした表情で自分の髪の編みあがりを待っていただけだった。
ようやく彼の髪が編みあがるころには日はすっかりのぼり、東の空で白く輝いていた。彼はデリラに何も言わずに立ち上がると、天幕の外に出て背伸びと深呼吸をした。
例のジャッカルは起きていて、天幕から出てきたサムソンを見るとクンクン鳴きながら飛びついてきた。
「よう、おはよう、メレク!」
サムソンもにっこり笑って彼に挨拶した。そして、飛びついた彼を広い胸元でしっかり受け止めた。メレクと名のついたジャッカルはずいぶんサムソンになついているようだ。
サムソンの笑顔は、昨日感じた彼の少年らしさを助長するようなものであった。彼の笑顔はずいぶん無邪気だ。

その時間にもなるとイスラエル兵も多くが起きていて、みんな一様にサムソンに頭を下げ、「おはようございます」と言う。誰もかれもサムソンよりは年上だろうに、彼に精いっぱい敬意を払ってそう言っている様子には不自然さがないではなかった。サムソンはメレクに構っていて、そんな彼らにろくに挨拶を返さなかった。
 

「すぐにペリシテの長どもにこのことは届くだろう。あの割礼を受けていない異教徒どもも、我々の誇りにひざを折る日も遠くはなかろうて」
イスラエル人を前にしてそう演説するのはマノアだった。その隣で、サムソンは非常に退屈そうにしていた。
彼らは、ダン族の町であるマハネ・ダンに戻って来ていた。マノアの演説が終わるや否や、サムソンは何も言わずにジャッカルのメレクを連れて彼の家に戻っていった。召使となった手前、デリラもその後を追わないわけにはいかなかった。
サムソンの家、マハネ・ダンでもひときわ大きな家から彼を迎えに出てきたのは、一人の老婆だった。マノアの妻であることを推し量るのは容易だった。
サムソンは彼女に挨拶もせずに家に入ろうとしたが、彼女はそれを許さなかった。
「これ、ただいまくらいお言いなさい!」
彼女が厳しくそう言うと、サムソンはぶすっとした顔で「……ただいま」と言った。
「ジャッカルを家に入れるんじゃないですよ!そんな汚いものを」
サムソンはメレクにしばらく待つように言い、メレクは彼の指示通りその場にちょこんと座った。彼は、七房の三つ編みを揺らしながらふらふら家の中に入っていく。ほどなくして、マノアが追いついてきた。
「おかえりなさいませ。戦はどうでしたか」
「今回も勝ちだ。愚かなペリシテ人共も、イスラエルに逆に跪く日は遠くなかろう」
デリラはどうすればいいのかも分からず、そこに立ち尽くしていた。マノアの妻は彼女を無視し、やっとマノアが彼女について言及した時に、さげすむような視線を彼女に向けた。
「ところで、これについてだが。ソレクの生き残りでな。サムソンの身の回りの世話を焼かせることにした」
「まあまあ……どうしてこんなみすぼらしい子に」
マノアの妻、名前をハツレルポニというらしいと会話の中で分かったが、彼女はデリラを見て、もう一度顔をしかめた。デリラは黙っていた。
「みすぼらしく醜い、下品な娘であるが、不思議なところがあるのだ」
「と、おっしゃいますと?」
「逃げ出したというのならいざ知らず、こやつは瓦礫に埋もれて、不思議と怪我もなく生きておった」
それを聞いて、デリラも確かにあれは不思議だったと思う。全身の骨が折れていてもおかしくなかった。体中が焼け焦げていてもおかしくなかった。なのに、なぜ自分だけは比較的きれいな体のまま生き残ったのか。
「ひょっとすれば、神様からの、こやつだけは生かしておけと言うお達しかもしれぬ」
「まあ、……それならば確かに、この下女は生かしておかねばなりませんわね。神様の言葉に忠実に従うことこそ、我々イスラエル人の職務ですもの」
マノアとハツレルポニの下した結論に、デリラはあまりそうとも思わなかった。ダゴンが生かすのならば、もっと信心深い人間にするはずだ。そして、イスラエルの神が、イスラエルの敵対民族を生かすだろうか?
自分はただ偶然に、生き残ってしまっただけなのではないか。デリラはただそうとだけ考えていた。マノア達の方を見るのも苦しかったが、メレクもその場に座ったままデリラに警戒の目を向けていたので、デリラは視線を持て余した。そして、少しでもこの夫婦の機嫌を損ねないよう彼らの事を学ぶのが先決と思い、やはりマノア夫婦に注目していることにした。
ともかくもマノア達の中では、デリラについてのことは先述の通りで決まってしまったようだった。彼らはイスラエルの神に忠実なのだということは非常に分かりやすかった。マノアはハツレルポニに彼女を預けると、自分も休みに、使用人たちと一緒に屋敷の奥に引っ込んでいった。

「さて、お前……」
二人きり残され、デリラはハツレルポニに向かい合った。ハツレルポニはマノアの妻に相応しく、品格のある誇り高そうな老女だった。
「サムソンがどのような人物なのか、お前には話さねばなりません。夫もお前に言ったでしょうが、サムソンはお前らのような、未割礼の汚らしい異教徒はおろか、我々イスラエル人の中でもとびぬけた存在なのですから」
「はい、心得ました、奥さま」
デリラはそれに対しても忠実に答えた。初めて会った日にサムソンやマノアにあったような戸惑いが少しばかり彼女にあったのもデリラは見届けた。
その時、サムソンが家の外に出てきた。旅の重い衣装を脱いで、軽装になった彼は一層少年らしかった。彼は長い三つ編みをぶらぶら揺らして、メレクの方にかけていった。メレクもようやく彼が来たのが嬉しいらしく、ジャッカルのくせにまるで犬のようにワンワン鳴いて彼を出迎えた。
「サムソン!」すかさず耳障りとも思えるような高く、あからさまに不快感を込めた声でサムソンに釘をさすハツレルポニ。「早く帰っておいでなさい、戦勝の宴があるんですからね!それと……」
「うるせーな、分かってるよ、ババア!」
もっとも当のサムソンは全くそんな言葉に耳を傾ける気はないらしく、メレクを連れてどこかに走って行ってしまった。ハツレルポニはため息をついた。
「本当にもう……神様に特別に授かった子だというのに、どうしてこんなに自分勝手な悪い子なんでしょうか」
そこまで独り言を言い終わるとハツレルポニはデリラの方に気づき、彼女を家の中に連れて行った。仕事を説明するというのだ。


夜になって、戦勝の宴が始まった。デリラも、奴隷に混ざってさっそくいくらでも仕事をさせられた。
幸いなことに仕事の経験がある彼女は、そこまで足を引っ張ることもなく、黙々と仕事ができた。イスラエルの使用人の女たちもみんな一様に忙しそうでてんてこ舞いで、気晴らしと言えば自分達とは裏腹に飲み食いしてはしゃいでいる男たちを羨ましがって愚痴を吐いている程度だった。
だが、その場にやってきたハツレルポニは「これ、そのようなことを言うものではありません!」と言った。
「女は男に従い、夫を立て、不平を漏らさぬべきと言うことは昔から語られるとおりですよ!」
そして彼女は果物を切るデリラにぐいと壺を渡し「お前、サムソンにこれを持っていきなさい」と言った。壺は甘い匂いのする液体で満たされていた。サムソンのために特別に作った飲み物らしい。デリラはもちろん、了承してそれを運びに行った。

顔が顔なので、なるべく目立たないように気配を消してひっそりと歩くことは彼女は慣れていた。火傷を負っていなかった時も、お前の醜い顔を見ると気分が悪くなる興が冷めると暴言を吐かれたことは多々あったからだ。その学習の成果で、盛り上がっているイスラエルの男たちはほとんどデリラに気が付かず、デリラは彼らの興をそぐこともないままサムソンのそばに立った。サムソンはマノアの隣で、がつがつと焼いた子羊の肉を食べていた。
「サムソン様」
デリラが彼の声をかけると、彼は振り返る。
「ハツレルポニ様が……」
「ババアが飲み物持ってきたんだろ?分かったよ、つげよ」
彼はそう言って盃を差し出した。デリラはその中に、飲み物を注いだ。アルコールの匂いが一切しないことから、酒ではないらしい。様々な果汁の匂いが代わりにするので、おそらく果汁や蜂蜜を混ぜたものだろう。
サムソンはそれを飲み干し、もう一杯をデリラに要求した。不服そうな顔だった。周りの大人たちは皆酒を飲んで盛り上がっているのに、同じように戦場で一人前に戦った自分だけこんな子供っぽいものしか飲ませてもらえないのが不服、と、そう言ったところだろう。

ハツレルポニが語ることには、サムソンは「ナジル人」なのだ、と言うことだった。ナジル人とは特定の場に住む人々を指す言葉ではない。イスラエルの中で、イスラエルの神に特別の献身の誓いを立てた人々の事を云うのだそうだ。
ナジル人は髪を切ってはならず、酒や葡萄で作ったものは飲んだり、食べたりしてはならない。また、死体に触れてはならない。死体は、穢れているものだからだそうだ。ペリシテ人であるデリラにとっては初めて聞く情報だったが、形は違えどそうやって特別な事をして神に身をささげる人々、と言うのはそう珍しくもなかったので、デリラはそれに関する事情をすぐに覚えた。
サムソンはことに、生まれたその日から、父母にナジル人としてささげられた存在らしい。あのとてつもなく長く伸びた髪もそう言うことだ。彼は生まれた時から一度も、髪を切ったことがないというのだ。そして、先ほど言ったように特別の食べ物の規定もあるので、こう言った宴会の場面でも食べるものには人一倍の気を使う。
なぜそのようになったのか、と言う説明も、ハツレルポニは丁寧にもデリラに話した。それはおそらく、サムソンがいかに優れた優位な人間であるかを誇示する必要があると彼女が考えたせいもあっただろう。あるいは、ただの自慢であったかもしれないが。

マノアとハツレルポニの間には長い間子供がいなかった。ハツレルポニが不妊の女だったせいだ。彼女が年老いるまで、子供が生まれる日はなかった。
だが、ある日恐ろしい姿をした天使が彼女のもとに現れ、彼女が子を産むと告げたそうだ。彼女もマノアも、当然そのことに驚き、それを疑った。だが、見上げるような巨躯と恐怖を感じさせる鬼気迫った表情、おどろおどろしい声色、それでありながら天使と呼ぶにふさわしい神々しい美しさまでも持ったその天使は彼らによどみなく告げたのだ。
「お前は身ごもって、子供を産む。神に一切の不可能はない」
そしてその言葉通り、ハツレルポニは長い間夫と交わることすらなかったのに男の子を生んだ。それが、サムソンだった。
ペリシテ人の支配に苦しまされている時代の話、この不思議な出来事を経て生まれたサムソンは、きっとイスラエルを勝利の時代に導く存在として神が遣わされたの違いないとマノアもハツレルポニも確信した。そして彼らは、サムソンを神にささげ、ナジル人とし、神の意向にかなうような人物に育て上げたのだという。
そして、その見立ては間違っていなかったようだ。サムソンは人間ではないような、超人的な力を生まれたころから発揮した。彼が戦地に出て活躍するまでそう時間はかからなかった。マノア達はこれぞ神のおぼしめし、と、神に感謝し、自らの息子を士師として君臨させたと言う。そして、今に至るのだ。
「それなのに」ハツレルポニは愚痴をこぼした。
「肝心のあの子が、神に与えられた特別な人としての自覚なんて何もなくって、全く勝手なものだから、本当に困っているのですよ。お前も、あの子をもっとまっとうな、立派な神の人となるために協力する事です。良いですね」
彼女はその言葉を持って、サムソンの生い立ち話を締めくくった。


デリラの目の前のサムソンは、相変わらず退屈そうにしている。大人たちが盛り上がる余興も全く彼にとっては興味の対象ではないらしい。彼は眠そうですらあった。
マノアが別の位の高そうな老人に呼び止められ、彼と話をするため席を外したのを見計らって「デリラ」と、サムソンは彼女を小声で呼んだ。そして、椅子の下に隠していた袋をこそこそと渡した。
「メレクにこれをあげてきてくれ。きっと、俺の家のどこか近くにいると思うから」
まだ裏方の仕事はあるのだし、無断で抜けてはハツレルポニにどやされると思ったが、彼女が仕えているのはあくまでもサムソンであることはマノア夫妻にもよく言われたことだった。ここは、サムソンの願いを聞くのが先決だろう。彼女は「はい」とそれを了承し、そっと袋をつかんでその場を立ち退いた。


メレクはなかなか見当たらず、彼女は不安になりかけた。やっと彼女が彼を見つけたのは、サムソンの家の裏にある小高い丘の頂上だった。彼はそこにじっと座って、サムソンのいる宴会場を見ていた。
彼はデリラの気配を嗅ぎつけるや、彼女の方に向き直り、警戒心を強めて激しく吠えたてた。デリラはそれにすくむ。彼はデリラに噛みつこうと間合いを詰めた。
「……ごめん、なさい。申し訳ありません。私、サムソン様に、貴方にこれを差し上げるよう命じられたのです」
それでも、デリラは逃げ出すわけにはいかなかった。奴隷として主人の命令は順守せねばならない。たとえ、ここでこのジャッカルにかみ殺される結果になっても。
幸いメレクの方は彼女の持っている袋に気が付いたか、そちらの方にとびつき、彼女の手からそれをひったくった。中からごろごろ出てきたのは、宴会のごちそうだった。羊や牛の料理、煮た野菜や果物などが無造作に放り込んであった。そのおかげで大分ぐちゃぐちゃになっていたが、メレクはそれを気にしないようで嬉しそうにそれを食べた。
デリラもようやく仕事を終えられたことだしと、その場から立ち去ろうとした。その時、彼女のお腹が鳴った。
無理もない。他の女たちも同じようなものだったが、彼女は食べ物を作らされながらも自分自身はろくに食事をする時間も与えられていなかった。
だが、飢えるのもいつもの事で、デリラはそのことを気にはしなかった。デリラが気にしたのは、次の瞬間だった。
メレクが大きく、彼女を引き留めるように吠えた。「どうかなさいましたか」とデリラは彼に振り向く。すると、彼は、大きな骨付きの肉を一つくわえて、彼女の足もとに落とした。
「……?」
デリラは怪訝に思ったが、メレクはそれ以上言わない。吠えもせず、じっと彼女を見据えていた。
デリラは恐る恐る、びくびくしながらその骨に手を伸ばす。彼女がそれをつかんでも、メレクはやはり責めなかった。グシャグシャになり冷めているとはいえ、デリラの与えられる食事からすれば上等な方だ。
彼女は思い切って、それにかぶりついた。メレクはやはり責めなかった。彼女の口内に、冷めてはいるがそれでも濃厚なソースの味付けと、そして肉汁と脂の味が広がった。彼女の空っぽになった胃はそのわずかな味だけでは満足せず、もっとたくさんそれを自分のもとに送れと彼女自身を急きたてた。彼女はやがて、がつがつとその肉を食べた。顔中に巻いた包帯を汚してこのことがばれはしないかと、細心の注意を払いながらの事ではあったが。
そしてそれがすっかり骨になってしまった時、デリラははっと、これをメレクがくれたのだということをようやく思い出した。メレクは相変わらず、じっと彼女を見ていた。
「ありがとうございます」
彼女はその場に跪いて、メレクの頭よりも自分の頭が低くなるように頭を下げた。メレクはやはり何も言わず、じっと彼女を見ていた。月の光が逆光になり、デリラから彼の表情はよく見えなかった。

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する
 

 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。