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クリスマス市のグリューワイン

feat: Samson 第三話


ひと月もたてばデリラはここの生活にも慣れてきた。火傷はもう痛むこともなくなったが、酷いやけど跡が残り、それを隠すという名目でデリラは顔に包帯を巻き続けた。そのおかげでかえって醜い顔を指摘されることがなくなったので、ソレクに住んでいた頃から比べると少しばかり快適になったと言ってもいいほどだった。
朝になれば、彼はサムソンの髪を梳かし、そして三つ編みに編む。その作業にもそろそろ慣れてきた。初めのころに比べれば、編む速度はずっと早くなってきた。

あの後、マノアはいろいろとペリシテの領主たちに交渉やらなんやらをしているようだった。サムソンはその間、ずっと暇だったのだ。もっとも、家でゴロゴロしていたわけではない。
「メレク!メレク!」
彼が呼ぶと、メレクは走って飛んできた。そして、彼にクンクンと言いながらじゃれ付く。
彼は暇さえあればメレクと一緒に、どこまでも遠くに行って遊んでいた。ここの所、デリラも一緒に行くようになった。
最初のうちは、ハツレルポニはサムソンに目付け役がいないと不安だと言い始めたことでサムソンは迷惑がっていたが、すぐに拒まなくなってきた。その理由が、メレクがデリラをとくに嫌がらないということだった。
「こいつは俺以外にはなかなか懐かねえんだがな」と彼は意外そうに言った。
メレクは、厳密にはサムソンのペットでは無いらしい。と言うのも、荒野で生き腐肉を食べるような動物を家に入れておくなんてけがらわしい、士師に相応しくない、とハツレルポニが怒るからだそうだ。
それでもサムソンとメレクは良い友達で、メレクはサムソンのいる所にはどこにでもついていくそうだ。彼らが親友だということは、本当に分かった。彼らは同じ言葉で語り合うことはできないはずなのに、いつでも不思議なほどに心を通わせていた。
メレクとデリラはあれ以来、仲良くなった。サムソンのようにあからさまになついてすり寄ってくることは流石にないが、それでもメレクはデリラに警戒心を見せず、彼女の前でも無邪気にはしゃいだり、穏やかな表情を見せた。彼女が彼に食べ物を持ってきても、彼は素直に受け取り、嬉しそうに食べた。


「メレクがな」
サムソンはその日、近くのペリシテ人の町ティムナまで遊びに行こうとぶらぶらしていた。デリラとメレクも一緒だった。
「お前が恭しすぎて逆に気持ちが悪いっていうんだよ」
「そ、そうでしたか?申し訳ありません」デリラはメレクに向かって言った。
「ほら、それ」
すかさずサムソンが指摘する。
「もっと気軽でいいのに、ってよ。ましてや、人間と動物なんだから」
「は……はい」
そう言ってびくびくするデリラに、メレクも何やらワンと吠える。残念ながら、彼女にその意味は分からない。
何事にも敬意を払え、お前は何よりも劣る存在なのだから。彼女が叩き込まれたのは、そんな価値観だった。そのため、たとえ相手がジャッカルであろうとも、敬わないというのは落ち着かなかった。
だが、サムソンやメレクが言うのだから聞かなければならないだろう。恭しい態度を取らないのは悪いことだが、仕えるべき相手が言ったことを一々理由をつけて守らないのはもっと道理に外れたことである。少なくとも、奴隷としては。

ようやくティムナに付き、道沿いに歩いていると、葡萄畑があった。もう収穫の時期で、実がたわわになっている。
「……綺麗だな」
サムソンがそう言った。
「そうですね」とデリラも付け足す。黒く鮮やかに葡萄の実は、確かに美しい。
「一回でいいから、食ってみたいぜ」
サムソンはぼんやりとした感じでそう言いながら、歩くのをやめて、柵にもたれて葡萄畑を眺めた。そう言えば、ナジル人は葡萄で作ったものはいかなるものも口にしてはならないのだったと、彼女は思い出した。生まれてからずっとナジル人であったサムソンは、葡萄の味など知りもしないのだろう。彼にとって葡萄は、ただ遠くから見るだけの美しい植物でしかないのだ。
メレクも彼に寄り添うように、クウンと泣きながら一緒に葡萄畑を眺めた。デリラは彼らの後ろに立っていたが、サムソンは「お前も同じようにしろよ」と言うので、言葉通りに柵にもたれかかって葡萄を眺めた。葡萄畑の中では何人もの使用人が仕事をしていた。ずいぶんと豊かな持ち主のものらしく、使用人と言えども身なりがよく、それなりに上品であった。彼らは特にサムソンたちに気を止めていないようだった。
サムソンは長い間、そこでぼうっと葡萄を見つめていた。彼が何を考えているのか、彼の隣に立つデリラには分からなかった。ふと、サムソンが自分を見つめるデリラに気が付いた。
「俺が葡萄を勝手に喰わねえか見張ってんだろ?」
「え?」
「どうせババアにそう言われて目付けしてるんだろ。……食う気ねえから、安心しろよ」
サムソンは葡萄を見たままそう答えた。その時だった。
葡萄畑が急に騒がしくなった。きゃあきゃあと言う男と女の声が混じり、遠くに消えていく。何が起こったのかとデリラは驚いた。メレクも異変に気が付き、その何かを威嚇するように唸り始める。
そしてほどなくして、その正体が分かった。葡萄畑を目をぎらぎらさせて闊歩するそれは、野生のライオンだった。おそらく人里に迷い込んだものだろう。
デリラがそれにおもわず小さく悲鳴を上げる。それと同時に、ライオンはサムソンたちを見つけた。メレクが吠え立てる。しかし、体の大きなそのライオンは全くひるむ様子を見せず、たてがみをふり乱しながら獲物を見つけたとばかりに躍りかかってきた。

恐怖心にかられ、デリラはサムソンの後ろに反射的に隠れた。隠れたその瞬間、デリラは後悔した。こんなことしてはいけない。自分が生きて主人が死ぬ、など、あってはならないことなのだ。価値のない奴隷にしては過ぎた行動をしてしまった、と、デリラは慌ててサムソンの後ろから出ようとした。だがしかし、彼女が動く前にサムソンが動いた。
サムソンは先ほどから、全く動じていなかった。だが、ライオンとの間合いが十分になったとみるや、手すりを握る手を軸に、くるりと飛び上がって庭園の中に入り、一瞬でライオンの前に立ちはだかった。そして、襲い掛かってきた彼の片手を自分の片手でつかんだのだ。

デリラは目を疑った。イスラエル一の怪力と恐れられる彼の力を、彼女はその日初めて見たのだ。
サムソンは片手で、その巨大なライオンを宙に浮かせて一回転振り回し、背中から思い切り地面にたたきつけた。ライオンは悲鳴のような唸り声をあげて地面にあおむけに倒れる。次の瞬間、彼はライオンの腹に乗った。そして……もっとも信じられないことが起きた。
彼は何も持たない素手で、ライオンの腹をつかんだ。そして、それをまるで木の葉でも裂くように軽々と引き裂いたのだ。大量の血が噴水のように大量に飛び散り、サムソンは真っ赤に染まった。ライオンは断末魔の悲鳴を上げて、当然絶命した。全て、たった数秒で起こったことだった。

「デリラ」
彼は何事もなかったかのように策を飛び越えて、デリラのもとに戻ってきた。顔中血まみれにしながら。
「拭くもの、持ってるか?」
デリラは震えながらうなずき、持っていた手拭いを彼に渡した。彼はそれに唾をつけて、ひとまず自分の血まみれになった顔をぬぐった。デリラはまだ震えが止まらない。自分の目の前で起こった数秒間の出来事を、信じろと言う方が無理だ。
ただ、マノアやハツレルポニは間違っていないのだ、と言うことが実感できた。サムソンはナイフ一本も持たない丸腰で、ライオンを一頭殺してしまったのだ。
サムソンは間違いなく、少なくとも何かしら特別な存在なのだ。マノアやハツレルポニがそう吹聴し、イスラエル人を架空の英雄をだしに鼓舞しているわけではない。神に頂いた子、と言うのも、デリラは納得できるような気がした。普通の人間が、こんなことをできるものだろうか?
ペリシテ人がこのところ負けるはずだ。こんな化け物じみた強さの兵を、イスラエルは持っているのだから。
サムソンは血なまぐさい顔を拭き、メレクはライオンから流れた血を美味しそうに舐め、その肉をかじっていた。

その時だった。人がこちらにワイワイとやってくるのが聞こえた。彼らはめいめい武器を持っていた。
だが、彼らはすぐに当のライオンが腹から血を流して死んでいるのを見た。そして、そのそばには血まみれの少年。彼らは一瞬サムソンが血まみれなことに気が付きすくんだようだが、彼があまりにけろっとしているので、その血は全てライオンのものだと分かるのにそう手間はかからなかっただろう。畑の者達はまず何が起こったのかをおのずと理解し、そして、そのことに対してしかし信じられん、と言った風であった。当たり前だ。どこからどう見てもサムソンは丸腰だ。丸腰の人間がライオンに無傷で勝ち、しかも素手で腹を裂くことができるだろうか?
しかし、事実ライオンは内臓をぶちまけて死んでいる。その血をジャッカルがぺろぺろと上機嫌で舐めてさえいるのだ。彼らはしばらく彼らの間で話し合った後、彼らのリーダーらしき老人がおずおずと歩み寄り「あの……」と言った。
「ん?」サムソンが返す。
「このライオンは……ひ、ひょっとして、君が?」
「そうだ」
サムソンは当然のようにそう即答した。老人はやはり驚いている。だが、やはりどうあっても信じられないことを信じなくてはならない状況なのだ。
サムソンにとってはライオンなど素手で引き裂けて当たり前の対象なのかもしれない。だから、彼はぺらぺらと語らなかった。それが余計にその老人を不安にさせているようだった。
「あ、あのう、つまり、ありがとうございます、我らの恩人です」
やがて彼は問い詰めることを放棄し、サムソンに単純に礼の言葉を述べた。そして、「もしもよろしくば、ご主人様と会ってください。その血もお流ししましょう」と、ぎこちない話し方でそう言いながら、恐ろしいものを見るような目でサムソンを見ていた。


サムソンたちは主人の家に通された。彼は井戸水で血を洗い流すことができたし、同じく血まみれになった衣装を洗ってもらってその代わりに新しい服を貸されていた。
デリラも結局彼と同じように通され、ついてきてしまった。彼は手持無沙汰そうにしていた。この場に通されることがなかったメレクの事を少し気がかりにしているようにも見えた。
「いや、ありがとうございます!なんとお礼をしていいやら……」
主人は流石にふくよかな顔に愛想のいい笑顔を浮かべてサムソンに礼を言ったが、それでも彼の事を恐れているのは見て取れた。
「実に勇敢な方だ!お名前は何とおっしゃいますか?」
「サムソン」
その時、主人の顔がピクリとこわばった。当然である。ここはマハネ・ダンに近いのだし、彼のうわさなど知らないはずがないだろう。
「いや……そ、その、では、貴方が……そのう、イスラエル人の、士師とか……」
「ああ」
こともなげに答えたサムソンとは裏腹に、主人の顔には実に様々な感情が浮かんでいた。人の顔色をうかがうのは得意だったが、それにしてもこの主人の顔色はずいぶん分かりやすい、とデリラは思った。
彼の顔にまず浮かんだのは、彼をイスラエル人だと知り見下すような視線だ。イスラエル人は被支配民族である。彼のようにちゃんとした身分の者ならなおさら、差別的感情を持っていたとしても何もおかしくはない。だが、彼はサムソンを見下すことを恐れもしていた。それは当たり前だ。つい先ほど猛獣を素手で仕留めてしまったような相手を、堂々と侮辱できるなどよほど肝が座っていないとできるわけがない。サムソンに対する恐怖は、彼の中ではまだ冷めていないのだから。かといって、このままイスラエル人であり、しかも年端のいかない少年であるサムソンにへいこらするのもペリシテ人として、そして大人としてのプライドが邪魔をするようであった。
何と言うことはない。良くあることだ。デリラは何度も、このようにプライドと身の危険を天秤にかけさせられて戸惑う大人たちを見ていた。
「と、とにかく。何かお礼をせねばなりませんな」
この主人が選んだけりのつけ方は、それだった。とにかく、彼はさっさとサムソンとは無縁になってこのどうしようもない感情を終わらせたいのだ。礼を差し上げ貸し借りをリセットするのは、確かに有効な方法であったろう。
サムソンは礼はいらないとは言わなかった。デリラから見るに、彼も目の前の主人の態度が急にあからさまに微妙になったことから、彼が自分の事を好ましく思っていないのを分かったのだろう。そうと分かれば礼はいらないなどと言うのもしゃくなことだ。彼は礼を考えているのだろう。
その時だ。物音が聞こえ、ひょいと一人の人物が姿を現した。
「お父様、その方ですの?」
軽やかな声とともに現れたのは、一人の若い女性だった。長い髪をショールでくるんだ、上品な、いかにも良家の娘と言った姿の彼女は、とても美しかった。
彼女はこの農園主の娘であるらしい。主人は「あ、ああ、そのだな……」と口ごもっていた。ふと、デリラは、サムソンに気が付いた。
サムソンの視線は、目の前に入ってきたその女性に釘付けになっていた。無理もない。彼女は、とても美しい女性だった。ふんわりと、和やかそうな雰囲気を纏っていて、デリラのかつて仕えていた家の令嬢よりも美しい、と、デリラも思った。
サムソンは彼女から目が離せない様子だった。ほんのりと、血を拭き取ったはずの頬にも赤みがさしているのが分かった。デリラは敏感に、彼の感情を悟った。
「つ、つまりね……」
「おい、あんた」
娘に説明のしにくいことを説明しようとして困っているその主人に、サムソンは急に言った。
「礼をくれるって言ったな?お前が出せる者ならどんなんでもよこすんだろうな」
「はい、それはもちろん、二言はありませんよ」
主人はとにかく、サムソンに早く帰ってほしい様子だった。サムソンはにやりと笑って「それならな」と嬉しそうに言った。


日も暮れた頃彼らはようやくマハネ・ダンについた。マノアが、怒りながら彼らを出迎えた。
「こんな時間まで遊び周りおって!」
「別にいいだろ、余計なお世話だ」サムソンは彼らに反抗的に言った。そして、まだ何か小言を言おうとするマノアと、彼の後からやってきたハツレルポニを黙らせるように言った
「おい。それよりもな、ジジイにババア。俺は結婚するぜ。支度をよろしく頼む」

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