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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Samson 第八話



サムソンのおかげで、イスラエルには平和が訪れた。ペリシテ人はもはや彼らを下等民族と呼べなくなった。イスラエルは彼らの支配下ではなくなり、彼らと対等になったのだから。
長く続いた屈辱の時代を切り開いたサムソンは、士師として非常に褒め称えられた。彼の治世はたった二年であるにもかかわらず、もはや彼は二十年分の働きをした、と言いうものもあった。
マノアやハツレルポニは、息子を強く誇りに思い、そしてそのような息子を与えてくれた敬うべき彼らの神に深い感謝を毎日のように捧げ、生贄の獣を何頭も焼き尽くした。
「一時はどうなることかと心配していたが、やはりお前は神様が我々に与えて下さった、たぐいまれなる贈り物だったな!」と、マノアはサムソンの事をほめたたえた。
「お前は偉大なるヨシュアや歴代の士師のように、立派にイスラエルを背負っていく器となろう。お前の将来が楽しみだ」
彼は若い時からずっと、一途に神を信じ、イスラエルを愛する心を持つ身でペリシテに支配される屈辱にあえいできたのだから、自分の息子がその時代を終わらせてくれたとあって、喜びもひとしおだったのだろう。
「ここはモーセによって約束された嗣業の地。イスラエルが生きるべき土地なのだ。サムソン、お前は偉大なるモーセの意志を受け継いだのだ」
サムソンはその言葉に適当に礼を言いながら、否定せず耳を傾けていた。


サムソンが少しの間家を出て気ままに旅したいと言い出したのは、その少し後の事だった。
マノア達はもちろんあまり面白そうなようではなかったが、まだサムソンがイスラエルを独立させたことに対する余韻も残っていたし、機嫌もよかったので、一応その褒美に少しくらいサムソンの好きにさせてやってもいいという気持ちはあったのかもしれない。マノアはそれを了承し、供に何人付けるか、と言った。
サムソンはそんなに大勢いらない、と言った。しかし、やはり一人くらいは身の回りの世話をする者がいなくてはマノアもハツレルポニも心配なので、結局デリラが彼に同行することになった。
大した旅支度もすることなく身軽な姿で、サムソンはある朝に挨拶もせずにさっさとマハネ・ダンを出発した。すぐにメレクもやって来て、彼も旅に加わった。

「なんで旅に出ることにしたとか、聞かねえのか?」
荒野の真ん中で、サムソンはデリラにそう言った。
「はい」
「奴隷にとっちゃ、聞くことが失礼だから?」
「はい」
「お前はもっと俺に聞いていいんだぞ。もっと話したっていい」
サムソンは袋に入れて持ってきていたパンを食べながらそう言った。彼らは荒野を歩いていた。メレクはもちろん、サムソンも慣れたもので、まるで平らな草原を歩くかのようにひょいひょいと荒れた荒野の道を進んで、デリラは一歩間違えれば取り残されそうだった。
「では……なぜですか?」
「あいつらと一緒に居たくねえんだ」
サムソンは吐き捨てるように言った。
「デリラ。……お前だって、おかしいと思うだろ?あいつら。特に、俺のジジイ」
サムソンは平らな荒野にポツリとあった一つの岩の上に腰かけて、隣にデリラも座らせた。そうしてから、こう述べた。
「……ペリシテ人を、殺せとか殺すんじゃないとか。三十人殺すのは悪くて千人殺すのはいいとか。さんざん俺のこと馬鹿にしといて手柄立てりゃ神様から授かった自慢の息子とか……何なんだよ?ほんと、何なんだよ?」
彼は吐き出すようにそう言った。荒野の風は砂が混ざっていて、デリラは片手でひさしを作って砂から目を守った。サムソンもうつむいて膝にひじをつき、両手で目を覆って、それで目に砂が入らないようにしていた。
サムソンは、あの彼が帰った一晩に言ったようなことを、今度は非常に大きな声で吐きだした。
「何なんだよ!?本当に虫がいいよな、あいつら!俺に戦ってもらってる癖によ!都合悪くなったらすぐ大人の特権振りかざして威張り散らすし!俺が困ったときは助けないくせに俺が手柄立てりゃ自分の息子って吹聴するし!ほんとなんなんだよ!?俺は都合のいい道具か!?普通の親子ってこうじゃねえだろ!?なあ、こうじゃねえよな!?こうじゃねえんだよな!?」
「は……はい」
「ジジイとババア、変だよな!?」
「はい……」
「なんでお前、はいはい言うんだ!?俺の言うこと聞いてなきゃ、奴隷として失礼だからとかそんなんかよ!?」
「いいえ、そんなことは」
サムソンは叫ぶうちにどんどん冷静さを失い、取り乱していると言ってもいいほどの状態になった。
「違うよな!?違うんだよな!?お前が貴族でも、お前は俺の事、可哀想って言ってくれたよな?!俺が可哀想だから、そうだよな!?」
「はい……はい。安心してください。サムソン様」

貴族だったらなんて、そんなこと、分かるはずがない。自分は貴族じゃないのだ。もしもそうだったら、と仮定して空想することができるほどの自尊心も、もうとうの昔にすっかり削り取られてしまった。貴族は美しく、力があるのだ。自分ごときが空想でそうなることすら、死にも値するほどおこがましいほどに。
もっと言うなら、普通の家族がどうだ、なんて分かるはずもない。父も母も、いたかどうかすら、自分は覚えていないのだから。おそらく、どちらかが、あるいは両方があの屋敷の奴隷だったのだろう。だが、デリラは親子の思い出など、得る事すらもない人生だった。
しかし、ただ彼女はサムソンの言葉に同意し続けた。不思議な感覚だった。義務感以上に、何か感じるものがある。そう、デリラは自覚し始めていた。それは今ここで生まれたものではなく、少し前からそうであったような。
メレクが足もとで寝そべりながらあくびをした。

「昔からそうだ。昔から、お前は神様に捧げられた身だからって、正しく清く育つべきだからって好きなことは何もさせてくれねえし、友達なんて一人も作らせてもらえなかったし……メレクと、メレクと荒野で初めて会った時だって、ジジイもババアも散々メレクのこと馬鹿にしやがった、腐肉を食う汚いジャッカルなど汚れているからとっとと離れろ、お前はこんなものと一緒にいちゃいかん、って。メレクが一緒に頑張ってくれて、一緒に抵抗してくれたから一緒にいること許してもらって……そん時が、すごく嬉しかった」
「ええ、メレクはとても優しいですものね」
「そうだよ。メレクは優しいんだよ。俺の友達だもんよ」
メレクは彼らの足もとで、それらを聞いて嬉しそうに吠えた。
「昔から、メレクは優しくて……メレクがいっつも、俺のそばについてくれていた」


彼らは進みに進んで、やがてガザに到着した。ペリシテ人の一大都市だ。
すっかり日は暮れていて、いかがわしい通りだけがにぎやかだった。サムソンはそれに目を止めた。
「デリラ」
「なんでしょうか?」
「ああいうところにさあ……いるんだっけ?娼婦とか言うやつらが」
デリラは「はい」と言い返した。
それを聞くなり、サムソンは「面白そうだな、行こうぜ」と言い出した。

デリラは止めようかと思った。ハツレルポニは何よりも、サムソンが乱れたことをするのを嫌うし、その目付け役に自分を置いているのだ。娼婦のもとに行くなど、彼を潔癖に育てようとするハツレルポニが許すはずがない。
だが、不思議と彼女は、サムソンを止められなかった。それのどこが不思議かと言えば、主人の言うことには絶対に従わねばならない、と言う彼女の信条ともまた少し違ったもののように、彼女は確かに感じていたからだ。
何故か、サムソンを邪魔したくない。サムソンは、楽しそうだった。
いいか。このままでも。彼女の心の中に、そんな見覚えのない感情が湧き上がってきた。どうせマノアやハツレルポニの眼のないところなんだ。彼はそんなところを求めて、彼らと一緒のところになどいたくないから旅をしたんだ。彼らが禁じることの一つくらいをしても、いいじゃないか。ましてやサムソンは、結婚相手を失った身なのだ。女が恋しくなったところで、構わないじゃないか。
そんなことを感じる自分に、デリラはたまらない違和感を覚えていた。だがこれもまた不思議なことに、その違和感は不快感と言うわけでもなかった。

サムソンは路地の隅にひっそりとあった少しばかり年増の売春婦の家の前に立った。窓から男を呼び込もうとしていた彼女は、彼の異常に長い髪の毛や、顔中包帯まみれの女とジャッカルを一頭連れているという異様な風体に面食らっていたようだったが、それでも気を取り直し「坊や、あたしを買うつもり?お金は先払いよ」と言った。
「金はこんだけある」
サムソンは財布から金を取り出して言った。
「これなら一晩とは言わず、四日はあたしのところに泊まっていけるわよ。あたしは安さが売りだしね」
「じゃ、頼む」
「そっちの子たちは?あんたの召使いとペットかしら?その子たちも一緒に?寝室は足りてないけど、地下室ならただで貸せるわよ」
「かまいません」デリラは言った。まともな寝床など普段から与えられない。どんなところでも寝られる自信はあった。
「じゃ、決まりね」と、その売春婦は、サムソンたちを自らの家に連れ込んだ。そして、デリラと一緒にまずは夕食を作り始めた。


ガザの領主、アビメレクは仕事を片付けながら、いらだつ心を隠せないでいた。イスラエル人がペリシテの支配から逃れ、税を治めなくなったせいでペリシテ全土が大損だ。無論のこと彼の実入りも少なくなっている。勝手に協定を結んでしまったと、他の領主からの顰蹙も買った。彼は真実、イスラエル人を腹立たしく思った。そして、その原因を。
「(サムソン!サムソン、あの小僧め!)」
ここ数日の間、彼の心にあるのはサムソンの事ばかりだ。自分よりもうんと年端のいかない少年を、彼は智謀で捕えたつもりだった。彼には馬鹿力はあっても所詮は下等民族の、しかも子供。自分の頭が切れることに自信のあったアビメレクは、力は負けても智謀では彼に勝つだろうという絶対的な自信があった。
そのこと自体は間違っていなかったのだ。彼は智謀でサムソンに勝った。だがしかし、彼の計算違いは、サムソンの馬鹿力は智謀で得た勝利をそれこそ力づくで無理矢理覆すことができるほど膨大なものだった、と言うことだ。あの血の泉がわいたレヒの光景を思い出すたび、彼はそう確信した。
「(イスラエルの神の加護を受けた英雄……か。ふん、異教徒の神を肯定するのはしゃくだが、それをもってしてもありえる話だ!あれが人間業なものか!)」

そんな彼の前に、とある昼間一人の青年が言うことがあると言ってやってきた。彼はアビメレクの部下の一人だった。アビメレクはその青年に「何があったのだ?」と率直に聞いた。
「領主様。実は、私の姉……個人で売春宿を営んでいる女なのですが、その私の姉の家に、気になる者が入っていくのを見た、と我が知人に告げられまして。私は……それが、領主様が探しているものなのではないかと思うのです」
「何?」
「異常に長い金髪の背の高い少年で、ジャッカルを一匹連れていたというのです。それと、顔中包帯を巻いた娘も一人」
青年の報告を受けて、アビメレクは顔を青くした。もちろん、そんなものなど世界広しと言えども、サムソンぐらいしかいないだろう。
「お前の姉は何をしている!?」
「姉は気が付いていないようです。若い時からふしだらで家から半ば勘当されて、そのおかげで学もないような女ですから、サムソンの名前は知っていても彼の髪の毛のことなどはあまり知らないのではないでしょうか?ですから一応言ってはいませんが……いかがいたしましょうか?」
「……無論、捉えるしかあるまい」
アビメレクは真剣な顔でそう言った。自分が恨みを尽くしてきた相手が自分の領内にいる。これほどまでにうまいことはあるまい。
「だが……焦りは禁物だな。あれは一度に千人を殺せるような化け物だ」
「おっしゃる通りです」
「よいか、サムソンを見張っておれ。我々がまずガザを封鎖する。そして陣を整え、完全に準備をしてから奴を迎え撃つのだ。千人以上の軍隊を集めればならない。万が一にも奴の目に付くことがないように、ひっそりとな。……奴はガザから出しはせん。飛んで火に居る夏の虫、今度こそ息の根を止めてやる」


やがて三日が立った日の事だった。サムソンはその間、ずっと売春宿に入ったまま、外に出ようともしなかった。彼はハツレルポニに家の中には入れてもらえないメレクと室内で一緒にいられるのが嬉しいようで、メレクと一緒に遊んでいた。
その三日目の朝だった。デリラは売春婦の家の仕事を手伝って掃除をしていた。
頭にふと、違和感を感じる、触ってみると、焼けてほとんどなくなっていた自分の髪の毛が、また生えてきたのだということがわかった。
ちりちりに縮れた、赤い毛。自分の顔面と同様にこれも醜いと馬鹿にされる対象だったが、包帯越しに抜き出して久々に見たそれにデリラは感慨を覚えないわけでもなかった。
「あれ?あんたにも髪の毛、生えてたんだ」
気が付くと売春婦が後ろに立っていた。デリラはびくりとすくみ「も、申し訳ありません、ただいま……」と掃除を再開した。
「あー、いいよ。気遣いありがとね。ねえ、それよりさ。ちょっと聞きたいんだけど。あんたのご主人、何なんだい?」
「は……何がでございましょう?」
「あの子、何しにここに来たってのさ?」
デリラは売春婦の質問の意味が分からなかった。だが、彼女は渋ったようにこう言った。
「あの子を来させてからずっとあたしはあの子と一緒に寝ちゃいるけど、あの子、あたしを抱きゃしないのよ。あたしと一緒の布団で、文字通り寝るだけだよ。ぐうぐういびきかいて。……そりゃ仕事の手間が省けたと思いや楽だけど、一体全体売春宿に来といてどういうつもり?変な気分よ、こちとら」
それを聞いて、デリラ自身も変な気分になった。衝撃を受けた、と言ってもおかしくはなかった。
売春宿に来て、売春婦を抱かない?文字通り、ただ一緒に「寝る」だけ?そんなことがあるのだろうか。だって、サムソンはここがどういうところなのか知っているのではなかったのか?女を買うとはどのようなことか知っていて、だから面白がっていたのではないのだろうか?
目の前の売春婦は、おそらく泊まるだけ泊まって先払いでもらった金を値切られはしないかと言うことを心配しているようだった。だが、デリラはそれ以上にサムソンに思いをはせた。
「あの方は」
ふと、ある言葉がデリラの口を突いて出た。それはまるで、デリラ自身の疑問に答えるような答えでもあった。
「知らないんだと思います。女を抱く、と言うことを」
「は?」
売春婦は怪訝そうだった。それはそうだろう。しかし、デリラはその答えに納得した。
彼は、ひょっとすると、知らないのだ。ハツレルポニ達に「神に与えられた者」として清く正しくあることを強要され続けた彼は、女との交合というものを存在自体知らないのだ。彼にとって女と寝るというのは文字通り添い寝するだけの事、売春宿と言うのはただ金を払って女と一緒に添い寝するだけの場所なのだ。
サムソンの何を見てきたわけでもない。なぜ分かるのだろう。彼女自身にも不思議だった。だが、その答えは天啓のように彼女に振ってきた。
「……変な子ね」
売春婦はそれだけ言って、後はもう十分と言うことか、下がっていった。地下室の上の階からサムソンとメレクの遊ぶ無邪気な声が聞こえてくるのを見て、デリラは妙な気持ちになった。急に、涙がこぼれた。
自分はなぜ、泣いているのだろうか?その疑問に対する答えを、口は出してくれなかった。だが、デリラはなぜか、それがひどく悲しい事のように思えたのだ。


「あんた、何してんのよ?」
例の売春婦は自分の家を出て、そして彼女を見張っていた彼女の弟に行った。弟は隠れていたが、彼女はいともたやすく見つけた。
「な……」
「言い訳したって駄目よ。ここ数日ずっとあたしの家を監視しやがって。お客さんもいるのよ、失礼なことをしないで貰いたいね」
「うるさい、家の恥さらしめ!俺は領主様のご命令にしたがってこれをしているんだ、邪魔をしないでもらおうか!」
彼は姉に深く追求されないように、アビメレクの名を出した。しかし、それは結局裏目に出た。
「……領主様のご命令?それ、どういうこと。あたしが何かしたっての?何か理由がありそうだね」
売春婦は弟のした発言、なぜか自分の家を見張ることが非常な重大事項であるということに目を付けた。そして、弟にそれを問い詰めた。弟は最初の方こそ断っていたもののとうとう根負けして、姉に話した。
「お前の宿に来ている小僧は、イスラエル人サムソンだぞ」
「え!?あの、ペリシテを苦しめてるっていう……」
「ああ。だから、俺たちはあいつの動向を見張りながら、警戒態勢を敷いているんだ。あいつが帰ろうとした時待ち伏せして殺せるようにな。お前もしっかり、あいつを見張っていろ。ペリシテのために」


その夜の事だった。次の朝になれば、サムソンは帰るという夜の事だった。サムソンは夢の中で、変な感覚を覚えた。自分の長い髪の毛が自分の体に巻きついて、自分を拘束している夢だった。彼の髪の毛が鋭く彼の体に食い込み、ぎりぎりと締め上げた。彼の体中が痛みに悲鳴を上げた。とても寝てなどいられない激痛だった。
彼はそこで目が覚めた。と、同時に、自分が縄で縛られているのに気が付いた。
「な……」
彼は声を出しかけたが、例の売春婦はそばに居なかった。だが彼はすぐに理解した。おそらくあの売春婦も、セマダールと同じだ。自分を寝ているところ縛り上げれば何とかなるとでも思ったのだろう。
だが、自分にそんなものが通用するものか。サムソンがぐいと力を込めると、夢の中の自分の髪の毛とは違い、それは糸のように簡単にほどけた。
かえって売春婦がいないのがチャンスだ。編んでいる暇はないので、サムソンは切れた縄で自分の長髪を一気にきつく縛り上げ、邪魔な分を首回りに巻きつけ長さを調節した。そして、地下室のデリラとメレクの所に下って行った。
「おい、俺らの正体がばれたぞ」
デリラはそれを聞いて驚いたようだった。サムソンは彼女の手を引き、「すぐに逃げよう」と言った。


「サムソンを縛り上げたから、今すぐ来て捕まえてほしい」と例の売春婦から連絡が入った。サムソンを狙い撃ちしようと閉ざされたガザの門の前に居た兵隊たちはそれを聞き、彼女の手引きで彼女の売春宿に向かった。
それを聞いたとき、アビメレクはなんだか嫌な予感がしたのだ。自分の予定と外れてしまうが故に、この計画も失敗してしまうような。
そして、その予感は当たった。兵たちが売春宿に着いたとき、サムソンはすでに拘束を逃れ宿から逃げていた。そして、守りが手薄になったガザの市門に入れ違いに向かってしまったのだ。

「追え、サムソンを逃がすな!」アビメレクはその報告を聞き、血眼でそう命令した。ガザの門はがっちりと閉められているのだ。逃げられるはずがない。せめて、兵が引き返すまでの時間稼ぎにはなるだろう。
だが、そうはならなかった。兵たちがたどりついたとき、ガザの立派な門は、扉、いや、門柱ごと、かんぬきもろとも引き抜かれてただの四角い穴と化していた。
寝ずの番が恐る恐る言った。
「はい……申し上げます。サムソンです。サムソンが、素手でこの扉を引き抜いて逃げて行ってしまったのです。……お許しください、領主様。我々にはどうすることもできませんでした」
「……イスラエルの生んだ化け物め!」
アビメレクは唇を噛んだ。一度ならず二度までも、自らの作戦を力押しで乗り切ってしまい、自分に煮え湯を飲ませたサムソンに対する怒りが一層激しく燃え上がった。
必ず、必ず彼を捕えて死刑にしてやる。そのような思いが、彼の怒りに火照った体中を満たした。


高い、名前もよく知らない山の上に着いて、サムソンは先ほどから担いだままのガザの市門の扉をそこに置いた。すでに夜が開けていて、うっすらとした朝日の光で山の上から雄大な景色が見渡せた。彼らの視界にうつる町はヘブロンだったが、サムソンにとってはそれは大したことではなかった。彼はぼんやりと、景色を眺めていた。ほんの数時間前に脱出劇を演じたとは思えないほど、彼に興奮した様子はなかった。
彼はずっと黙っていて、デリラも傍でそれを見ていた。彼女は、ガザの町で自らが感じた思いについても、少し思いをはせた。
何故、自分は悲しくなったのだろうか。自分は、サムソンを可哀想、と感じているのか?そのような感情、何物にも劣る自分が持つのにはおこがましいものなのに。可哀想、と言うのは対等以下の相手の人間に言うもので、イスラエルを統べるサムソンがそんな相手なはずないのだから。この世の何に至っても、デリラに可愛そうなどと呼ばれる筋合いのあるものなどない。彼女はそう言われたし、そう信じて生きてきたのに。そして、禁を犯すことは絶対に駄目だと自分に言い聞かせ、誰に言われるよりも早く、強烈に、自分自身を責めてきたのに。そうでなければならなかったはずなのに。
朝露にぬれた雑草の葉を食べるメレクの背中を撫でながら、彼女は自覚した。自分は、サムソンを憐れんでいる。全くの穏やかな心で。それは彼女にとって、人間が素手で門柱を引きちぎることよりも、非現実的なことだった。

「何故、余計な真似をした!」
流石に例の売春婦は、ガザの役人たちに責められた。だが彼女も気が強いもので、通り一遍の謝罪以上は、全くしなかった。
「貴様ごときで何とかなる相手だと思ったか、ばかもん!」
「姉に向かって何さ、その口のきき方は。じゃああんた達だけで何とかなったって言いたいの」
「……もうよい」
最終的に、ため息をつきながらアビメレクがそう言った。
「なってしまったことはなってしまったことだ。ご婦人。貴方には情報をありったけ提供してもらおうか。サムソンと四日も一緒にいたというのは大きい」
「情報ったって話すことはだいたい話したよ」
「サムソンと一緒にいたものの事は?」
「ジャッカルね。あれ、ほんとにジャッカルだったのかしら。なんかサムソンには偉く懐いてて、犬みたいだったわよ」
「それと」アビメレクは言った。「ほかに、少女もいたと。以前奴を見かけたティムナの若者も、顔に包帯を巻いた少女を目にしているが」
「たぶんその子でしょうよ。顔中包帯だらけで、やたら必要以上にビクビクした子でさ……あ、それと、顔と性格も変だけど髪の毛も変だったわね」
「髪の毛?」
「ああ。包帯から少しこぼれ出てたんだけど、ちりちりの、珍しいくらい赤い色の髪でさ……」
その瞬間だった。アビメレクの目の色が変わった。
「……今、なんと?」
「え?ちりちりの赤毛って……」
その瞬間だった。アビメレクはそっと額に手を添える。「いかがいたしましたか?」と彼の部下が問いかけたが、それに対する返答は返ってこなかった。
代わりにアビメレクは、誰に聞かせるでもない声でつぶやいた。
「……デリラ……」
「なんですって?」と、部下の声。
「デリラ?人の名前ですか?……変な、名前ですね」
部下がそう言うのも当然だった。デリラ。言葉の意味は「弱らせるもの」。自分の子供にそんな縁起の悪い名前を付ける親が、どこにいるのだろう。
だが、耳聡く弟の発言を聞いた姉は言った。
「デリラ?あ、そう言えば多分その包帯の子の名前、それだわ。サムソンが言ってたもの」
次の瞬間だった。売春婦は面喰った。アビメレクが、激しい勢いで彼女の肩を掴んできたのだ。冷静な領主には似つかわしくない程の、鬼気迫る表情で。
「詳しく話せ!」

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