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クリスマス市のグリューワイン

feat: Samson 第十話



「メレク!?」
彼はただならぬ気配を感じた。目の見間違いかと思った。だが、違う。メレクは確かに猛獣のような目つきで、サムソンの方を睨んでいた。なわばりを荒らした敵を排除するかのように。
「メレク、俺だよ……」
サムソンはメレクにそっと近づく。だが、メレクは吠えたてるのをやめなかった。そして、あろうことか、彼に向かって真っすぐに、矢のように突っ込み、その鋭い牙を突き立てたのだ。彼に差しのべられた両手に向かって。彼の牙がサムソンの掌をえぐり、血が噴き出した。
サムソンはその激痛のあまり、声を発した。
「サムソン、どうした!?」
マノアがその声を聴きつけ、家の外に出てくる。近所に住んでいるイスラエル人たちもだ。そして、絶句した。サムソンが、あのいつも仲良くしているジャッカルのメレクに襲われている。

「メレク、メレク!」サムソンは必死で彼に言った。掌を牙に貫かれた激痛に耐えながら、彼はなんとか両手でメレクを押さえつけようとする。
「どうしたんだよ、おい!」
サムソンは抵抗しなかった。力を入れれば、いくら最強のジャッカルであるメレクと言えども、一匹捻りつぶすのは容易なことだったろう。だが、ただの野生の凶暴なジャッカルならともかく相手はメレクだ。彼を殺す。そんな選択肢は、サムソンの頭にはなかった。
サムソンは痛みのため本調子が出ない掌でメレクを何とか押さえつけながら、彼を正気に戻そうと試みる。
「おい、何があったんだよ。俺だよ、サムソンだよ!」
だが、力が出ない。それどころか、メレクの力にやられてしまいそうだ。メレクは鋭い爪を持って、なおもサムソンの掌にできた傷をえぐった。傷つけられたところにさらに追い打ちをかけられ、彼の掌は痛みに悲鳴を上げんばかりだ。
とうとう、手のひらが痛みに耐えかね、メレクの力を許してしまったのを、サムソンは理解した。メレクはそれを期に、大口を上げて高らかに吠え、彼を噛み殺そうとした。

と、その時だ。
サムソンの視界から、メレクが消えた。メレクは地べたに倒れこんだのだ。


アビメレクは、正気を失うほどに錯乱してしまう毒薬を持っていた。人間にも効くが、獣の類にはさらに良く効く。
これをメレクに投与するよう、彼は仕向けたのだ。いくらサムソンでも、可愛がっているメレクは攻撃できまいと。赤の他人を千人殺せても、自らの愛する者を殺せはしまい。アビメレクはそう踏んでいたのだ。
そしてあわよくば、殺されてしまえ。そこまでが、彼の算段だった。


ずるりと地面に落ちたメレクの誇り高い体は、ピクリとも動かなかった。
「メレク……?」
サムソンは目を白黒させながら、血まみれの掌を彼に向けて差し伸べようとした。その時だ。
「いかん、サムソン!お前はナジル人、死体に触れることは断じて許されん!」
死体?
その言葉がサムソンの脳内に浮かんだ。そして、彼の思考はなかなかその言葉を受け付けようとしなかった。
メレクが、死体。どういうことだ?気が付けば、メレクの体には矢が一本刺さっていた。
サムソンは慌てて、その矢が飛んできたと思しき方向に目をやった。イスラエル人の男性が一人、弓を持っていた。
「サムソン様」
その男性は自分がサムソンの目に留まったのに気が付くと、歩み出てきて一礼し、言った。
「私が、その獣に毒矢を打ち込みました。貴方を助けるために」
「サムソン、何故貴様、抵抗しなかった」
マノアは責めるような口調でサムソンに言った。だが、サムソンはやはり、目の前で起こったことを信じられないと言うように、そこに突っ立っていた。
地面に落ちたメレクの体は、本当にピクリとも動かない。「おい、メレク」彼は呼んだ。しかし、反応はなかった。
そこにいるのは、荒野の最強の王、誇り高いジャッカルでもなく、可愛らしく陽気なサムソンの友のメレクでもなかった。そこにいたのは、ただの死体、毒矢を打ち込まれたジャッカルの肉体だけだった。
「礼を言わんか!」というマノアの声も聞こえない。掌の激痛すら、忘れてしまいそうだ。
「そんな、そんな、メレク……?メレクが、死んだ……?」
サムソンは、メレクを抱き上げようとした。だが、それよりも早く、彼の傷だらけの両手はマノアに持ち上げられてしまった。
「酷い傷だ……すぐ医者を!」
マノアのその叫びとともに、イスラエル人が動き出す。数人が、メレクの死体を運ぼうとした。
「待て!」それを見て、サムソンは叫ぶ。
「持ってくな、メレクの死体、持ってくな!」
「サムソン!」
マノアはもう一度、叱責するように怒鳴った。
「ジャッカルの一匹より、お前のことを心配しろ!こんなに手を怪我してしまって!お前の武力がなくなったら、イスラエルはまたペリシテに付け上がられるかも知れんのだぞ!」
そしてマノアは、そのままサムソンを引きずっていった。サムソンは力が入らなかった。抵抗するための力が。


報告を聞き、ガザで待機していたアビメレクの部下たちは狂喜乱舞した。アビメレク自身も、喜んだ様子だった。
「そうかそうか……サムソンは、そんなに?」
「はい、相当なショックを受けているようでした。それに、手のひらに大怪我を負ってしまったようで」
「奴を殺すには至りませんでしたが……」
「よい。獅子を殺せるものを殺すなど、ジャッカル一匹にそこまでの期待はかけていないさ。それよりも、サムソンの心と手のひらの傷が治らない今が重要だ」
アビメレクは迷いなく言った。
「すぐに兵を用意しなさい。イスラエル人に奇襲を仕掛けるのだ。サムソンを、戦場に引きずり出せ」


サムソンの掌には薬が塗られ、包帯が何重にも巻かれた。傷は深かった。
「何故抵抗しなかった!」と、マノアはサムソンを叱った。サムソンがイスラエルの自治を勝ち得て以来、以前よりはマノアは彼に甘くなっていたので、こうして強く叱るのは本当に久々の事だった。
「お前がこんなに怪我をして……ペリシテ人が攻め込んできたら、どうするつもりだ!?いくらお前に力があろうと、その手で武器を握れるか!?その手で、敵を殴り殺せるのか!?」
マノアはショックを受けているサムソンに、ずっとそんなことを繰り返した。
「だって……だって……相手はメレクだったんだぞ」
サムソンは震え声で言った。だが、マノアそれも怒号をもって一蹴した。
「だからどうした!ジャッカル一匹を、イスラエルと天秤にかける気か!?」
「メレクは……俺の、友達だったんだ」
「サムソン!」マノアは叫んだ。
「いい加減にしろ!ようやく自覚が出てきたと思えば、少し気を許せば甘えおって!何が友達だ!?サムソン、お前は士師だ!イスラエルを支える存在なのだ!お前がこの世に生を受け、我々がお前をナジル人として偉大なる神にささげたその日から、お前の命はイスラエルのためにあるのだぞ!士師としての自覚と責任を持たんか!自分の事より、イスラエルの事を優先しろ!それが士師たる者の責任だ!」
「……うるせぇっ!」
急に、マノアの怒号にも負けないほど、サムソンは叫んだ。
「誰がしてくれなんて頼んだよ、士師なんかに!誰がナジル人なんかにしてくれって頼んだよ!責任持てだ?俺が望んでしたことならそうしてやるよ!いくらでも責任持ってやるよ!でも、違うじゃねえか!全部全部、あんたが勝手にやらせたことだ!何でそれなのに、やりたくもない事やらされて、本当に大切だったメレクの事は、見捨てなきゃならないんだよ!」
サムソンはタガが外れたようにそう言った。そして、マノアの胸ぐらをつかんだ。

親に文句を言うことが許されていなかったサムソンにとって、それは精一杯の反抗だったのだろう。自分の親友であるメレクの命を侮辱したマノアに、少しでも、彼の命の誇りを示すための行動だったのだ。親に歯向かうという行為を持って、お前のしたことは自分にとってそれほど重苦しい事だったんだ、とサムソンは彼に示そうとしたのだ。

だが、マノアの反応は、ただサムソンの頬を激しく打って「口答えするな!屁理屈をこねるんじゃない!子供のくせに!もういい年なんだ、少しは士師らしく振舞わんか!」と言うことだけだった。

サムソンは、激しくマノアを睨みつけた。マノアはそれに、威圧的な視線を持って返した。
「……ああ、そうかよ」
サムソンは吐き捨てた。そして、走るように自分の部屋に行った。
「おい、説教は終わっておらんぞ!なんでお前はいつも……」
そう言うマノアの声を無視して、サムソンは内側から鍵をかけた。

サムソンは一日中、部屋から出なかった。ひっきりなしに外から声が聞こえる。とっとと開けろ親不孝者、と脅迫するような声。そして、イスラエルの英雄サムソンがあんな大怪我をしては、このことをペリシテ人に知られては一大事、と、イスラエルの行く先を不安がる声。
当然のように、メレクを心配する声は、そのうちのどこにもなかった。
サムソンは、泣いた。一人ぼっちで寝台に横たわりながら、ただ泣いた。掌の、包帯から染み出る血を眺めながら彼は泣きつくした。


夜になった時、サムソンの部屋をトントンと静かに叩くものがあった。「入ってもよろしいですか?」と言う大人しい声。怒った声ではないそれは、デリラのものだった。
サムソンは黙って扉を開けた。デリラは一礼し、サムソンの部屋の中に入る。
「……メレクの死体は、荒野に埋めました。お墓を作ったんです」
「……ありがとう」
サムソンはそう言って、また自分の部屋に鍵をかける。
「……メレクが」
「はい……」
「デリラ……悲しいか?メレクが死んで」
「はい」
「だよな。お前だって、メレクと仲良くしてくれたもんな」
サムソンは、デリラに向かい合って言った。
「お前、泣いてないな」
「はい」
「なんでだ?奴隷が、余計に泣くのは生意気だからか?」
「……はい」
「じゃ、主人の俺が許可してやる。……思いっきり、泣け。泣きたいだけ、泣いていいんだ。今日は、メレクが死んだんだから」
「……はい」
その言葉とともに、デリラの小さな眼からぽろぽろと涙があふれた。それは彼女の包帯にしみこみ、包帯の下のやけど跡が残った肌にしみこんだ。乾燥したそれが、ピリピリと傷んだ。
「メレク……メレク……」
デリラは、メレクとのことを思い出して泣いた。彼にもらった肉の味を思い出した。彼の美しい毛並みを思い出した。そして、彼の勇敢な、無邪気な、様々な声色の鳴き声を思い出した。彼のありとあらゆるものを思い出して、彼女は泣いた。
「なんでだよ」
サムソンも、彼女の前で泣いていた。
「なんでメレク、殺したんだよ!大人しくなったのに!俺にまかせときゃ!あのバカ野郎ども!」
サムソンとデリラはその晩、メレクのために泣き明かした。昨日まで、晩が明けたらメレクがやって来たのに、明日からはそのようなことはないのだ。幾つの晩が過ぎようとも、もう永遠に、彼らのもとに、メレクは訪れないのだ。


「ああ、どうすればいい。なんとかこのまま、サムソンの傷が癒えるまで何事も無ければいいが……」
マノアはサムソンの傷のことを気に病んで、眠れない様子だった。その時。深夜のマノアの家の扉を激しく叩くものがいた。
「何事だ!?」
マノアは飛び起きて、その来客にあいまみえる。それは、先日のユダの軍隊に所属していた一人だった。
「マノア様、すぐに応援をお願い致します。それと、士師サムソンを!……ペリシテ人の奇襲です!」
「なんと……おお、なぜこんな時に……ペリシテ人め!」
マノアは頭を抱えた。だが、ともかくもやらないわけにはいかない。
「いそいでマハネ・ダンの若者を叩き起こせ!戦の準備だ!」
その声がいの一番に届いたのは、無論、サムソンの部屋だった。


戦はあっさりと始まり、サムソンも両手の大怪我をまだ生々しく残したまま、駆り出された。サムソンの到着とあって、イスラエル軍は歓喜に沸いた。この戦も、すぐに終わるだろうと。
だが、そうはいかなかった。サムソンの傷が思った以上に酷く、彼はやはり戦うことはできない、と父に言った。付添いの医者が言うことにも、傷がどんどん酷くなっているらしい。ジャッカルは不潔だし悪い菌が入ったのだろう、と医者はマノアに説明した。
マノアはそれを聞いて「そこをどうにか頑張らんか!お前は神に授かった子ではないか!」と言ったが、医者はサムソンの味方をした。
「無理なものは無理ですよ、マノア様!かえって無理に戦わせたら、サムソン様の手が一生元に戻らなくなるかもしれませんよ」

そう言ったわけなので、戦況は思った以上に長引き、泥仕合になった。ペリシテ側が優勢で、せっかくの英雄の登場もぬか喜びに終わったイスラエル兵は、疲れ切っていた。


そんな戦況が続きに続いた日の事だった。戦場にサムソンの世話のため連れてこられていたデリラは、水を汲みに近くの川まで来ていた。
彼女は壺に水をいっぱいまで満たし、天幕まで運ぼうとした。と、その時だ。五人ばかりの見知らぬイスラエル兵が、彼女の前に立ちふさがった。彼らは何も言わなかったが、じっと彼女を見ていた。
ああ、と彼女は納得した。彼女は、この目を知っていた。彼女が納得したと同時に、彼女の顔に荒布の袋がかぶせられ、口が閉められた。彼女の視界は薄汚れたベージュ色だけになった。
男が五人がかりで自分の体を抑えたのがわかった。抑えなくていいのに、と彼女は思う。抑えなくても自分は、何ら抵抗しない。
自分のそまつな衣装が脱がされるのがわかった。デリラは全く何も抵抗しなかった。彼女には全て、分かっていた。

マノアは言ってたっけ、と彼女は思い返した。自分を見た日、「これ程醜い女なら、間違いも起こらなかろう」と。彼女はその時自分が思ったことを思い返していた。この男は本当に育ちがよく、清廉な世界に生きてきたのだろう。男の性欲はせいぜい美しい女にしか向けられることはない。男と言うのはそれほどまでに理性的で見境のある生物だ。そんなことを信じてその年まで生きてこれたのだから。
十四年間の間、デリラはペリシテの貴族の家で奴隷として働かされていた。そんな彼女が初めて性暴力を受けたのは、七、八歳の頃だっただろうか。屋敷の使用人たちに、彼女は面白半分に犯された。
まだ、わずかながらも自分に誇りの残っているときだった。自分はそのことを、周囲の人間に訴えた。その時の彼らの反応を、デリラはよく覚えている。その時、確かに、自分の自尊心はまた一歩削り取られたのだ。
「馬鹿を言うな、思い上がりも甚だしい。お前のような醜い娘が犯されるわけがないじゃないか」
誰一人、デリラが受けたことを本当であったと信じてくれなかったのだ。
「陥れようとしているのか、その顔で?付くならもっとましな嘘をつけ」
「醜い娘は心まで歪んでいるな」
数少ない、事実を受け入れてくれる意見はこのようなものだった。
「もしそうだったとして、お前が色目を使ったんじゃないか?ああ、こんな年でその顔で、怖い怖い」
「どうせ一生男になんて相手にされないんだ、抱いてもらっただけありがたいと思ったらどうだ?」
もうすでにソレクの町とともに燃えて灰になってしまった人々の言葉の数々を、デリラは鮮明に覚えていた。
学んだのだ、自分は、その時に。男は自分にも性欲を向ける。愛せずとも、性欲をぶつけてくる。そして、そのことは周りに言っても一切信じてもらえない。自分は醜いのだから。だから、自分は我慢するしかないのだ。第一、抱いて貰えるだけでも、自分にとってはありがたい事なのだから。自分のような価値のない者にとって、男という自分よりは価値のあるものに、少なくとも性欲の処理という役目を与えられるだけ、喜ぶべき僥倖なのだから。たとえ、自分を犯したその後で、醜いと罵られても。
使用人たちは味を占めて、ストレス発散に彼女を犯した。何年も。あの、ソレクが焼打ちにあう前の晩ですら、そうだった。彼女は台所に野菜を運ぶ途中彼らに乱暴され、そのせいで遅れてこっぴどく叱られたのだった。
ここは戦場だ。この五人も、度重なる戦争のストレスを発散したいのだろう。その発散のタネに、折よく自分を見つけた。それだけの事だ。自分にはこれを拒む権利もない。訴える権利もない。何もない。自分にできることは、これが終わるまで、ただ動かずに声も立てずにじっとしているだけだ。
自分の体が蹂躙されていくのが分かった。下半身に痛みを感じる。自分の上で揺れ動く肉体を感じる。デリラは薄汚れたベージュ色を見ながら、じっとそれに耐えていた。自分は、これをされて当たり前なのだ。しょうがない。
そう思っていた時だった。彼女の視界にふと、赤黒いまだらが浮かんだ。

彼女の上に、何かが倒れこむ。それは冷たかった。考えるまでもなく、鎧を着た男に違いない。
デリラの片手が解放された。自分を押さえつけていた男たちが手を離したのだろう。だが、いくつかの打撃音が聞こえ、そして、数人が地面に崩れる音が聞こえた。
デリラは自由になった手で、自分の顔に被せられていた袋を取った。そこに立っているのは、サムソンだった。
彼は、まるでこの世で一番醜い、恐ろしいものを目撃したような表情で、デリラの方を見ていた。デリラの体の上で、いましがた彼女を犯していた男が兜ごと頭を割られて死んでいた。そして、他の四人も死んでいた。

「サムソン様……」
彼女がそう言いかけた時だった。サムソンは無言のまま、片手で彼女の上に覆いかぶさるその兵士をつまみ上げた。彼のむき出しの性器がずるりと出てくる。
彼は、やはり無言だった。彼はデリラにも何も言わせないまま、彼女を抱きしめ、そして、先ほど彼女が水を汲んだ川の中に彼女と一緒に飛び込んだ。
「サムソン、様?」
サムソンは自らの長い髪で、水の中に浸されたデリラの体をごしごしとこすった。彼は無言のままだった。先ほどの、怯えるような目つきのままだった。この世で最も醜いものを見てしまった、そんな目つきのまま、彼は自らの艶やかな金髪で、デリラの体を磨いた。まるで、これで穢れを落としてやるとでもいうように、冷たい、肌を指すような川の水の中で、彼はデリラの体の隅々までを、自らの髪の毛で磨いた。
「汚い」
サムソンはそう呻いた。彼女の体をいっそ擦り取ってしまいそうなほどに、激しく、激しく自らの髪の毛をこすりつけながら。
「汚い、汚い、汚い」
彼はそう繰り返した。デリラは、何も言うことが出来なかった。彼の髪の毛の感触が痛く、激しく、同時に心地いいとも思えた。
「どいつもこいつも汚い!」
サムソンはそう言うと、ざばりと川の中から上がった。そして川の中に取り残されたままのデリラに叫んだ。
「デリラ、待ってろ!今すぐ終わらせてくるから!」
そう言って彼は、戦場の中に飛び込んでいった。掌の包帯には、まだ血膿が滲んでいるというのに。
必死で駆けるサムソンと、それを呆然と見送るデリラは、二人とも、その一連の事を物陰から見ていた男の存在に気が付かなかった。

「領主様!サムソンの奴、逃げましたよ!」
ガザの領主アビメレクと、彼の護衛についていた一人のペリシテ兵だった。彼らは偶然に、本当に偶然に、戦地から少し離れたこの場所で、サムソンとデリラを見つけたのだ。酷く気の動転している様子のサムソンを見て、これは好機とばかりに護衛兵は弓を引こうとした。だが、アビメレクはそれを止めたのだ。サムソンの方をじっと、信じられないものを見るような目で見つめながら。普段なら寄越す納得のいく説明すら、彼は護衛兵に与えてくれなかった。
「いったいなぜ……」
その時、護衛兵ははっと異常に気が着いた。主の視線は、去っていったサムソンにはない。川にぽつりと取り残されたままの、小さな、みすぼらしい少女に注がれているのだ。
「……どうにか、なさいましたか」
護衛兵はなおも言う。だがやはりアビメレクからの返答はない。
「……サムソンは、あの小娘に執心なのでしょうか?」
「……かもしれんな」
「では、殺しますか。あのジャッカルと同様に……」
その時、護衛兵は驚いた。アビメレクはその瞬間憎しみのこもった目で、自分の方を見てきた。
「よいか!あの娘に手出しすることは、この私が断じて許さん!」
護衛兵はヒッと悲鳴を上げ、縮こまってしまった。アビメレクはなおも、デリラの方を見つめた。小さく、がりがりに痩せていて、顔には包帯が巻かれている、惨めな少女。男が魅了される美しさとは対極にある、醜く貧相な姿。
「間違いない」だがアビメレクはそんな彼女を見つめて懐かしそうに呟いた。
「デリラ……あの子は、君だ。君の娘だ」


その日、戦いは終わった。
戦場に突如現れたサムソンが、ペリシテ兵を片っ端から殺したので、生き残った者もほうほうの体で逃げ帰り、戦いはあっさりと終結したのだ。イスラエルの勝利で。


「奇跡です」その夜、サムソンの手の包帯をほどいて医者は言った。
「治りかけている」
サムソンの戦いぶりは、とてもとても手に大怪我を負っているとは思えないものだった。それをいぶかしんだ医者が包帯を解いてみると、一歩間違えれば腐ってしまうと言うほどの生々しく崩れていた掌に、新しい皮が張り、もうほとんど傷が治りかけていたのだ。
「いや、めでたい!」マノアは言った。「これも神様のご加護だ!」
だが、サムソンは違った。彼は、傷の治りかけた手のひらを愕然とした表情で見ながら、全く喜ぶ雰囲気ではなかった。
「どうしました?」
医者が声をかけた、その時だった。

「うるさい!」
サムソンははじけたように彼らに言った。
「どいつもこいつも出て行け!戦が終わったんならとっとと自分らの町に帰れ!帰れ、帰れ、お前ら全員帰りやがれ!」
がむしゃらにそう叫び散らしながら、サムソンは天幕の外に自分から飛び出した。そして、外で作業をしていたデリラの手首をつかんだ。
「デリラ、逃げるぞ」
「え?」
彼女の疑問の声も聞かず、サムソンはデリラを引っ張って、駆け出した。
「逃げるんだよ……こんな所、もういられるか!」


「くそう……サムソンの奴め!」ペリシテ人たちは悔しそうに呻いた。
「結局、あいつに対抗する手段はないのか……」
彼らがそう言うのも無理はない。結局、サムソンが怪我をしたというのも、精神的ショックを負ったというのも、大したアドバンテージにはならなかった。やはり、サムソンにはやられてしまうのだ。
「アビメレク様!」
彼らはこの計画を立てた張本人に詰め寄るように言った。大敗した責任をはらえとでもいうように。だがアビメレクは引け目など感じない。彼らは結局自分の計略を当てにしているのだと分かっているからだ。
「デリラ……」
彼はなおも呟いていた。
「デリラ?あのサムソンの奴隷少女とか?」
その場に居合わせたアシュケロンの領主が言う。
「確か調べたところによると、元ペリシテ人とか……」
「ええ」と、アビメレクの秘書。「サムソンが滅ぼした、ソレクの谷の住人です。貴族アドニバアルの奴隷だったそうですが、生き残ってサムソンに仕えていると」
「ふうん……その彼女の力、借りられはせんのかね?」
アシュケロンの領主が、そうつぶやいた。
「奴隷ったってペリシテ人だろう?私たちが頼めば何とかなるかもしれんじゃないか。彼女だって、イスラエル人にこき使われているよりはペリシテ人と一緒に居られた方がいいと思うがね……」
「……悪く、ないな」
 ぼそりと、アビメレクがそう言った、
「彼女は、殺してはならん。彼女は……」
「おお、そうかい?」アシュケロンの領主は嬉しそうだ。
「君が言うならそうだろうな。それじゃ善は急げだ、他の領主どもにもこのことは告げよう!なあに、奴隷だ。万一頼むだけでは何とかならなくても、礼をあげばどうとでもなるよ」

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