クリスマス市のグリューワイン

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feat: Samson 第十一話



十数年前の事、サムソンがまだ生まれる前、ソレクの谷が遠からぬ破滅など知りもせずに栄えていたころの事。
その町一の有力者ともいえるアドニバアルの屋敷に、ある女奴隷がいた。
彼女はアドニバアルを始め、屋敷の誰からも大切にされていなかった。非常に顔かたちの醜い女性だったからだ。アドニバアルはじめ、誰もが彼女を「化け物」と呼んでいた。
彼女はそれを拒絶することもなく、穏やかに受け入れて暮らしていた。彼女にとって、それが当たり前の事だったからだろう。
ちりちりに縮れた赤毛を持つ、世にも醜い女奴隷。彼女にも恐らく生まれた際に親につけられる、ごく普通の名前はあっただろう。だが、彼女はその名ではなく、デリラ、と言う名でよばれていた。お前の醜さを見たら心が弱り果てるようだ、とそう言われて。
デリラと呼ばれた女奴隷は、不吉な名を名乗り、それでも文句の一つも言わずに生きていた。
 
 

サムソンはマハネ・ダンに帰ろうとしなかった。そのまま走りに走って向かった先があった。それは、エタムの岩の裂け目、彼の秘密基地だった。
そこにつくやいなや、サムソンはデリラと一緒にボロボロの毛布にくるまって、彼女を抱きしめながらひどく泣いた。彼が大きな精神的ショックを受けてしまったのだということがデリラには何となく分かった。
「汚い!汚い!あいつら、汚い!」
サムソン自身もおそらく自分の激情を言葉では言い表せなかったのだろう。そう繰り返し続けた。ひたすらに。
自分にとっては当たり前の事だった。しかし、女を抱くとはなんたるかすら知らなかったサムソンにとって、それは非常におぞましく、恐ろしいものだったのだろう。自分を噛み殺そうとしてくるライオンよりも、殺意を持った千人の敵よりも、ずっとずっと、彼は、女が強姦されている光景の方が恐ろしかったのだ。
彼は震えていた。デリラは彼を落ち着かせようと、「サムソン様、お可哀想に」と言った。
「何が可哀想だ!?違うだろ、可哀想なのはお前だろ!」
サムソンは彼女の言葉を聞いて、そう激昂する。
「違うだろ、お前がつらいんじゃないか!お前があいつらに虐められてたんだろ、お前があいつらに傷つけられたんじゃないか!なんで俺が可哀想なんだよ!可哀想なのはお前だよ!悲しかったって言えよ、言ってくれよ!」
泣きじゃくりながら、サムソンはそう言った。
「私は、大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないだろ!」
彼は自分の長い三つ編みで自分の涙をぬぐう。
「お前、いつもそうだよな!ババアにどんなこと言われたって黙ってる。なんだ!?また『奴隷は』なんたらかんたらって言うのか!?奴隷はどんなことされても、黙ってなきゃいけないのか!?自分で自分の事可哀想って思っちゃいけない、って決まりがあるのか!?」
彼がそうまくしたてることは、当たっていた。デリラの中では、全てそうだった。嘆くことは時間の無駄だ。その時間を、少しでも主のために捧げなくてはならない。
だが、サムソンはそのことに対して泣いた。メレクが死んだときには流した涙を、彼女が今は一滴も流さないことに対して、彼は泣きじゃくった。大声を上げて。人気のない岩山に、彼の泣き叫ぶ声がこだまするかのようだった。
「そんなことない、そんなことない」
「ありがとうございます」
「ありがとうなんて言うなよ!そんなことないもんはないんだ!ちっとも有難いことなんかじゃねえんだよ!当たり前の事なんだぞ、当たり前の!」
デリラには、ぼんやりと、サムソンの涙のわけがわかるような気がしていた。
サムソンは今、自分自身を見せつけられたような気分なのだ。だって、彼も同じなのだから。悲しむこと、自分を憐れむこと、彼は一切許してもらえなかった。
デリラがそう思っているときだった。不意にサムソンは、デリラの頭を抱いて、自分の胸元にうずめた。
「可哀想なんだぞ。お前、可哀想なんだぞ。お前が可哀想なんだ」
デリラが口を開いて礼を言おうとした時だった。サムソンは彼女の口をふさぐように、一層強く彼女を抱きしめた。
「何も言うな。言ったら殴るぞ」
デリラからは、サムソンの顔は見えなかった。だが彼の声は、ほぼ泣き声のようなもので、言葉では凄んで見せても、不思議と全く怖さを感じなかった。それは一度に千人の敵を殺した勇士の言葉などではなく、酷く力のない虐められっ子が、泥だらけになり、泣きながら、誰にも手を差し伸べてもらえず、それでもなお言い続けている負け惜しみのようであった。
デリラは言葉をつかわず、代わりに首を振って同意を示した。その時、彼女は、自分の眼に涙がにじむのがわかった。
サムソンの服を濡らしてしまう、とも思ったが、サムソンはいざ服が濡れても、全くデリラを離そうとしなかった。デリラはそのまま泣いた。彼女にははっきり分かっていた。これは自分の涙だ。自分が流したくて流す涙だ。義務感ではなく、命令されたからではなく。誇り高い他人の不幸のためでもなく。ただ、この惨めな自分が可哀想で流す涙だ。
そんな涙を出すのは、何年振りだろうか。そうか、小さいときは泣いていたっけ、と彼女は思い返した。やがて泣いていると叩かれるから、隠れてひっそり泣くことを覚えたのだった。そしてさらに、ひっそり泣いていようとも、勝手に時間を無駄にすれば怒られると知って、泣かなくなったのだっけ。それは、初めて男に犯されるよりも前だったような記憶がある。
デリラは久しぶりに泣いた。サムソンが手を離そうとするまで、彼女は泣きつくした。声を殺すように、彼女はサムソンに抱きしめられたまま泣いていた。
彼女が泣き疲れてへとへとになった時だった。彼らは、空腹を覚えた。空はとっくに暗くなっていて、今にも消え入りそうな細い月と、小さな星が光っているだけだった。
何か食べ物をとってこないと、と思った矢先、デリラは、岩の裂け目の入口に実を付けた草の蔓が生えているのに気が付いた。ここに来た時、こんなものはあっただろうか。覚えていない。サムソンもデリラも、全く必死だったのだから。草などに構ってなどいられないほどに。
デリラはそれを手繰り寄せた。そして、それが何か分かった。それはたわわに黒い身を付けた野生の葡萄だった。何故気づかなかったのか不思議なほど、それはサムソンの秘密基地、岩の裂け目の前に密生して生えていた。
デリラは、彼にそれを見せた。彼は何も言わず、デリラの手からひったくるようにそれを奪い取り、自分の口の中に詰め込んだ。
彼は葡萄の身を噛む。慌てて食べたせいか、彼は咳き込んだ。それでも彼は、黒い果実をその中の種ごと、自分の胃袋の中に飲み込んだのだ。
「食えよ」
サムソンは咳を何とかおさめてからデリラに言った。
「お前も腹いっぱい食えよ」

デリラとサムソンは、その一晩中、葡萄を食べていたように思える。葡萄は信じられないほど、甘く、かぐわしかった。しかもそれでありながら非常にすっきりとしていて、高貴な味だった。デリラは生きていた中で、ここまで美味しいものは食べたことがなかった。そして、サムソンにとっても、そうだった。彼が生まれて初めて食べる葡萄は、彼が想像していたよりもずっと、神聖なほどに美味な食べ物だった。

夜が明けた時、二人は葡萄の汁でべたべたになったお互いの顔を見た。そして、昨日さんざん泣いたのを取り戻すように、二人してその様子に笑った。そして、岩の裂け目の中で明るい日差しを避けるように静かに二人並んで眠った。起きた時には、とうに昼が過ぎていて、彼らの足はマハネ・ダンに向かった。


ようやくマハネ・ダンが見えてきたとき、デリラはふと言った。
「サムソン様、この近くに、メレクのお墓があります」
サムソンはその言葉を聞くと、迷うこともなくデリラにそちらの方を案内させた。デリラが案内した先には、積み上げた石を目印にした、小さな墓があった。
サムソンは手で、土を掘り返した。やがて出てきたのは、まだ土になっていない腐肉がいくらかこびりついたジャッカルの骨だった。グロテスクなものではあったが、サムソンはそれを抱き上げ、いとおしいものを相手にするかのように頬ずりした。デリラにも、その光景が不気味なものだとは全く思えなかった。
「大丈夫だからな、メレク」サムソンは囁く。
「お前にもどうしようもなかったんだろ。俺は、何も恨んでないよ。大丈夫だからな。大丈夫だ」
彼は優しくそう言った。そして、また静かにメレクを埋葬し、彼の墓を元通りにした。


家に戻ってきたサムソンを待っていたのは、やはりいつも通りのマノアの説教だった。もっとも、勝手に彼がどこかに数日行方をくらましていたとはいえ、彼がなんだかんだと戦争で勝利を治めたのは事実なので、説教はそこまで長いものではなかった。サムソンはもはや何も言わず、神妙に座ってマノアのまくしたてることを聞いていた。
デリラはサムソンの側に居てやりたかった。だが、彼女にもハツレルポニの小言が待っていた。そしてそれが終われば、彼女は市場に買い物に行かされ、屋敷から叩き出された。ハツレルポニの言う通り彼女はいつも通り市場に行き、言われたものを買って帰ろうとした。
だが、彼女が人気のない道に入り込んだ時だった。
彼女の前に、見知らぬ男たちが立ちはだかった。みんな一様に高貴な身なりをしている。その中の一人の男、が驚く彼女の前に歩み出て、言った。アシュケロンの領主だった。
「イスラエルの士師サムソンの女奴隷の……デリラだね?怖がることはない。私たちはペリシテの領主だ」

気が付けば、彼らより若い男性たちが何人か出てきて、彼らに手招きされるまま、勝手にデリラの持っている買い物包みを持った。デリラを、その場から逃げないように拘束するかのようでもあった。
「何も君に手荒なことをするわけではないよ。安心しなさい」と、アシュケロンの領主はあくまで比較的優しい声で、デリラに言う。
「我々は君に、ちょっとした話を持ちかけに来たのだ。……デリラ。君のことは調べさせてもらったよ。サムソンに仕えてはいても……君は元は、ソレクの町にいた人間。ソレクの唯一の生き残り。ペリシテ人……我々の同胞だそうだね」
デリラはそのことを聞いてびくりと震えた。穏やかなアシュケロンの領主の口ぶりは、サムソンと言う言葉が出た途端、一瞬だけ憎しみで震えたかのようだった。
「デリラ、あのサムソンがいるままでは、我々ペリシテ人はイスラエルに勝てはしない。ペリシテの誇り全てをかけても、サムソンを捕えなくてはならないのだ。だかしかし、サムソンの近くにいる君は話さずとも分かるだろう。奴の滅茶苦茶な力が。それでも、我々はやらなくてはならない。君もペリシテ人ならば、ペリシテ人である我々に協力してくれないか?」
「そんな」デリラは目の前の彼らにおびえ、震える声で言った。
「協力なんて、何が出来ましょう。私はお付きと言えどもただの奴隷……」
「いいや」
その言葉を、低く落ち着いた声が遮った。デリラは奥の方に立っている男性を認めた。彼は不思議なほど、じっとデリラを真正面から見つめていた。彼は、ガザの領主アビメレクであった。
「むしろ、この人間の生きる土地でサムソンを打ちとれるものがいるとすれば、君しかいない。そうだろう、デリラ」
デリラはその言葉にも、否定の声を発そうとした。だがアビメレクは、迷うことなく続けた。「サムソンは君の事を、あのジャッカルに勝るとも劣らないほど非常に大事に思っているのだから。ただの奴隷の範疇をとっくに飛び越えて」
「そんなことは……」
「そうでなければ、どうして君が乱暴されていることにショックを受け、激昂して、その日に戦を終わらせる、などをする?」
デリラはまたしても怯えた。彼らは一体、どこまでを知っているのだろうと身震いした。アビメレクが自分の事を、本当に真直ぐ見つめているのにも恐怖にも似た感覚を覚えた。話を滑らかに進める目的のためだろう、穏やかにふるまっているアシュケロンの領主すら、自分の痛々しい包帯まみれの顔をそう長々と直視はしないのに。しかも、彼の目は、自分をここまで見つめながらも自分のこの醜さを見据えてはいないようだった。それが一層、デリラに違和感と恐怖を感じさせた。
そうして彼女をじっくりと見据えながら、アビメレクは続ける。
「デリラ。ペリシテ人として、我々に協力したまえ。次の金曜の夜、我々は兵をマハネ・ダンに連れてくる。君はサムソンの力を奪えるはずだ。サムソンを縛り上げられるはずだ。私の目に狂いはない。サムソンは実の親に縛られるのを拒んでも、君になら縛られるはずだ」
「……私に、サムソン様を裏切れと?」
「ああ、勿論」
「君だって奴が憎かろう?奴は、君の故郷を灰にした張本人なのだから」横合いから、アシュケロンの領主がまた話に入ってきた。
「サムソンは君にとっての仇でもあるのだぞ。かいがいしく世話をしてやる義理などないだろう」
「そうはいってやるな」アビメレクが、その発言を遮った。
「デリラ……無論、イスラエル人の方が君よりはるかに力はあるのだから君が一人で逆らえないのも無理はない。だが、我々がいるぞ。我々は、君をペリシテ人に戻してやる」
「……」デリラは、何も答えなかった。
「礼金なら払うよ、無論の事」アシュケロンの領主が言う。だがアビメレクは若干苛立ったように、彼の言葉を手振りで静止した。彼は、デリラの返答を待っているかのようだった。
「そんな、できません、無理です……」彼女がやっと絞り出したのは、そんな言葉だった。震えながら、彼女はそう言った。「私に、そんな力などありません。申し訳……ございません。返してください、旦那さま方……」
「君!」
アシュケロンの領主は喰い気味に言った。だがそれ以上に、アビメレクは一層デリラを見つめた。
「君たち、先に宿に帰っていてくれないか」アビメレクはほかの領主たちにそう言う。「彼女の説得ならば、私に任せてくれ。……大勢いると、どうも彼女を委縮させてしまうようだ」
「だが、アビメレク……」
「彼女を怯えさせてしまっては、何もならないだろう」
その一言で、領主たちは納得したかのようにぞろぞろと帰っていった。アビメレクがこの集団の中で一番発言権のある人間なのだと、初めて彼と会うデリラにも分かった。彼はデリラの買い物包みを持っていた若い男たちまで、その荷物を自分で受け取ったうえで帰らせた。
デリラは、アビメレクと二人きりになった。自分を拘束する若い男たちもいなくなったのに、デリラは相変わらず、そこを動けなかった。アビメレクの視線は、彼女を拘束しているかのようだった。
「君。ペリシテに、戻りたくはないのか」
アビメレクはまず、そう問いかけてきた。デリラは答えあぐねていたが、デリラが黙る分、アビメレクもずっと黙っていた。しかも、その場に生まれたのはただ単なる沈黙ではなかった。その沈黙の中、デリラは二重三重に覆い隠せねばと思っている本音が、一枚一枚、はがれていくかのような感覚を覚えた。
「……ペリシテは」デリラはとうとう、うつむきながら、震える声で裸になった本音を口に出した。
「怖いのです。戻りたくは、ないのです……ごめんなさい、ごめんなさい、旦那様」
今になって分かる。ペリシテで暮らしていたころの思い出は、彼女にとって恐怖だった。
マノアやハツレルポニだって、自分には理不尽なほど厳しい。でも、サムソンは。サムソンは、自分を大切にしてくれた。戦場にいる男たち、アドニバアルの家の者なら何も言うはずのなかった相手から、自分を守ってくれたのだ。
ペリシテの領主。ペリシテ人を代表するこの目の前の人物は、自分に怒るだろう。デリラはそれに対して、何も反論できる気はしなかった。彼女は彼の激昂の声を、飛んでくる暴力を、身をこわばらせて待ち構えていた。
だが、いつまでたってもデリラが警戒していたような声音が飛んでくることはなかった。デリラはやがて、恐る恐る、伏せていた眼を上げた。アビメレクは、依然として彼女を見つめ続けていた。彼の目と自分の目が、はっきりとあった。
「……ペリシテには、戻りたくないと言うのかね」
アビメレクの言葉に、デリラは不思議と素直に「はい」と答えられた。その男の声色は、デリラにとっては珍しいほど、彼女に対する加害心を感じさせないものだったのだ。
「私が……」
アビメレクの声も震えていた。まるで、デリラの声のように。
次の瞬間、デリラは言葉を失った。
「私が……このガザの領主アビメレクが、君の父親だとしても?」

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