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クリスマス市のグリューワイン

feat: Samson 第十三話



デリラは、一連の事をアビメレクから聞かされ、しばらくのあいだ黙っていた。自分に父親がいるなんて、面前に現れてくれるなんて、思ってもみなかった。まして、それが大都市国家ガザの領主であるなど。
だが嘘であるはずはなかった。初めて見る人間が自分に向けるはずはない程に、切なく、自分を求めるようなアビメレクの目が、そのことを真実だと物語っていた。
「お父さん……なんですか?あなたが?」
「そうだ。顔がつぶれようとその髪の毛を、私が見まごうはずはない」アビメレクははっきり言い切った。
「デリラ。サムソンが大切か。お前を私よりも早く守ってくれたのは知っている。でもあれは、最初は、最初の時はお前を焼き殺そうとしていた奴ではないか。彼はペリシテの敵なのだ、ペリシテ人なら必ず殺せる男なのだ。そんな奴の所に居て、そんな奴がこの世界に存在したままで、お前が幸せになれるものか」
アビメレクは必死さすら感じる声で、デリラにそう言った。
「ペリシテに帰って来てくれ。私のもとに帰って来てくれ。私には……お前のお母さんしかいなかったんだ。十四年間もの間両親怖さにお前を迎えに行けなかったことを、償いたいのだ。私はお前に何だってしてやれる。服も、食べ物も、結婚相手もみんなやる……ガザの中にあるもので、私の自由にならぬものなどないのだから!お前にもう誰も後ろ指など刺させん、お前を馬鹿にする奴は絶対に私が許さないと誓う!……だから、お願いだ。サムソンのもとを去って、来てくれ。私の元へ。私はお前と暮らしたい……一度はあきらめた、この世で唯一の希望が、また目の前に現れたのだから……」
気が付けば、アビメレクはデリラの前に泣き崩れていた。デリラはあまりの事に、なんと返していいかもわからなかった。
デリラが戸惑っている中、アビメレクもやがて起き上がり「困らせてしまったらすまん。今すぐにとは言わない」と、膝についた砂を払い、デリラに荷物を返した。
「金曜の晩……それが期限だ。覚悟が決まれば、いつでも来るといい。我々の宿を教えておこう」
そうして彼は居場所を教えた。去り際までずっと、彼はデリラを縋るように見つめていた。

デリラはアビメレクと別れて、再び帰路に立った。どうも、顔の火傷がじくじく痛むような気がした。
サムソンは、仇か。仇と思ったことなんて、一度もない。サムソンを憎まなくてはならないほど、ソレクの町は、自分に優しくなかった。自分をさげすみ、罵り、犯し、まるで道具のように扱った街。それが、ソレクだった。今更そんな街のために働く、サムソンを裏切る、などは考えられなかった。
もし、彼らがその一点だけでデリラを誘惑しようとしたなら、デリラは無視することもできただろう。だが、デリラはもう一人、アビメレクの事を考えていた。
自分に父親がいたなんて。父親と、会える日が自分に来たなんて。
アビメレクはきっと、彼女を不幸にはしないだろう。彼女を言いくるめるための演技や嘘ではない。それははっきりわかった。自分は、アビメレクの元に行った方が幸せなのだろうか。自分を愛してくれる親と暮らすことは、自分には許されない過ぎた望みだと思っていた。しかし、それは長い間の夢でもあった。親に囲まれる子供を見るたび、渇望した夢だった。
それでも。デリラは思う。サムソンを裏切れるだろうか。サムソンは自分を泣かせてくれた。可哀想だと言ってくれた。自分のために、怒ってくれたのだ。ソレクの町に、ペリシテ人に、誰もそんなものはいなかった。

デリラは、ぼんやりとした気持ちのまま邸宅についた。そして、台所に買い物を下ろし、自分も手を洗って台所仕事の手伝いをしようとした。だが、そこに、サムソンが現れた。サムソンは彼女を呼んだ。
サムソンの命令とあって、周囲の人々も邪魔立てはできず、彼女は彼の部屋に向かった。

「どこに行ってたんだ?」彼は言った。
「買い物に。命じられましたので」
「行くな、そんなもん」サムソンはずばりと言った。
「お前はいつも働いてばっかり」
「奴隷ですから」
サムソンはそんな彼女を自分のもとに引き寄せた。
「いいよ。仕事なんかしなくて。俺が許す。そのかわり、ずっと、俺のそばに居ろ」
彼はポツリポツリとそう言った。彼はデリラと一緒に自分の寝台に腰かけた。
「可哀想って言ってくれ。俺も、言うから。お前にいくらでも言うから」
彼は寝台の上に三つ編みの先を泳がせながら、彼女にそう言った。
「はい。いくらでも」
デリラはサムソンの頭をそっと抱きしめた。
「お可哀想に。お可哀想に。サムソン様」
サムソンは彼女に撫でられ、泣いた。エタムの岩の裂け目のように響き渡る泣き方ではなかった。まるで人の目をはばかるように、泣いた。

「デリラ。俺な」
彼は、言葉を吐き出した。苦しそうに、つらそうに。
「大人になりたかったんだ。ずっと」
彼の手は震えていた。デリラは思わず片手で彼の頭を抱いたまま、もう片手で彼の手を握った。彼の手は彼女の手よりもずっと暖かかったが、それでも彼はガタガタ震えていた。
「お前は子供だ、子供だ、って言われて。ずっとそれで威張られて、だから、早く大人になれば、大人になれば解放される、って思ってたんだ。大人になるのが、楽しみだった」
デリラは彼の言葉をうなずきながら聞いた。自分の痩せた胴体にうずめられた彼の表情は見えず、彼からも自分がうなずいていることは見えないはずだ。それでも、彼女は「はい、はい」と言い、うなずきながら、彼の言葉を聞いた。
「でも……でもよ。大人になったら、この傷、消えちまうんだよな。医者が言ってた。この傷、すっかり良くなってきてるって。いずれ、傷跡もなくなってさっぱり消えるって。俺、この傷、消したくないよ。メレクが、メレクが俺につけた傷だぞ。メレクがこの世にいた証なんだ。それを、俺が、俺自身が消すなんて、そんなのは嫌だ」
サムソンの片手が、デリラの手をぎゅっと握った。その手は汗ばんでいた。
「それだけじゃねえ。……聞いたぞ。お前が、何されてたのか、俺、分かったんだからな。……なあ、デリラ。結婚ってよ、俺、しようとしてたよな」
「はい」
「結婚したら、あれ、しなくちゃならないんだって?」
「はい」
「そんなのはいやだ……あんなこと、誰がするかよ。あんなきたねえ事。嫌なこと、誰がするかよ」
彼の震えは止まらなかった。彼は息も切れ切れに、必死で、小さく言葉を紡いだ。
「大人になったら結婚しなくちゃならないのか。大人になったらあれしなくちゃならないのか。そんなの嫌だよ。デリラ。俺、嫌だ。あんなこと、したくない」
プルプルと恐怖に打ち震えている彼を、デリラは小柄で痩せた体で、抱きしめ続けた。彼女は気付く。抱きしめなくてはならないと、否、抱きしめたいと、デリラの体が言っていた。
「大人になろうとして、色々やった。でも……分かったのは、大人が、どいつもこいつも汚くて、嫌な奴で、俺にはかないもしない癖に威張り腐って、俺が戦えば戦うほど、馬鹿にしてくるってだけだ。あと何年?何年したら、俺は大人になるんだ!?」
彼は、一層デリラの胴体に深く自分自身をうずめた。いっそこのまま彼女の子宮に入り込み、もう一度赤ん坊として生まれることはできないかと、無意識に彼の心が悲鳴を上げている。そう、デリラには感じられた。
腹を圧迫される苦しさよりも、デリラの心につらいものがこみ上げた。ああ、分かった。今、はっきりと分かった。自分の心の中に渦巻いていた疑問のわけが。
何故、自分はサムソンを憐れんだのか。可哀想だと思ったのか。そんな、自分以下のものに抱く感情を、なぜ誰よりも劣っているのだと信じ込んでいた自分がサムソンに抱いたのか。それがはっきりとわかった。
父のもとに行けば、幸せに暮らせるのかもしれない。そんな先ほど感じた思いは、サムソンの涙一つで簡単に荒い流されてしまった。自分のかねてよりの夢など、もうどうでもいい。それほどにこの少年が大切だ。この少年を裏切ることなどできない。その理由が、はっきり悟れたのだ。
「デリラ、俺、大人になりたくなんかない。あんな奴らに、なりたくない」
サムソンは最後に、そう吐きだした。そして、泣くのにどっと疲れたのか、デリラに抱きとめられたまま、彼女の膝の上に身を横たえた。
「お可哀想に。大丈夫、大丈夫ですよ、サムソン様」
「様って呼ぶな」
彼は言った。
「サムソンって呼べよ」
「はい」
驚くほどに、彼女は、自然にそれを受け止めた。身分の高いサムソンを呼び捨てにすることが、酷く彼女の中では自然なこととなった。
サムソンは瞼が重そうであった。たくさん泣いて、疲れたのだろう。
「おやすみなさい、サムソン」
彼女はそう言った。サムソンはその言葉に笑って「おやすみ」と、静かに瞼を閉じた。


寝込んだサムソンの頭をなでながら、デリラは思った。わかったのだ。なぜ自分がサムソンを憐れむのか。簡単なことだ。自分とサムソンは、同じなのだ。
自分もサムソンも、主に抗うことを許してもらえなかった。いくら言葉に出しても、自分の辛さも苦しさも聞き届けてもらえず、生きても死んでも、同じこと。生きるか死ぬかより、自分が仕える相手のために自分の職務を果たすことの方が大切と言われ、生きてきた。
奴隷か、士師か。仕えているのが人間か、親か民族、あるいは神か。その程度の違いしかないのだ。
デリラは初めて出会ったのだ。自分と同じ、自分のように惨めな存在と。英雄とあがめられはしても、その実、本当の尊敬は向けられない。道具としてしか見てもらえない。見下され、利用され、憎まれ、自分の心の楽しさ、自分の心の苦しさ、それを受け止めてくれる相手は、人間の世界に全く関係のない一匹のジャッカルを除いては、この少年には他に居なかったのだ。嘆くことを許してくれ「可哀想に」と人の言葉で告げてくれる相手は、いなかったのだ。この少年に許されたのは、自分の不平不満を、親の目、人の目を盗んで、一人ぼっちの岩山で、あるいは自分の部屋で誰にも聞こえないように声を殺し、こっそりと、誰にも責め立てられないようにこぼすことだけだったのだ。
親の悪口を言えるようになった、と、彼は嬉しそうに言った。親の目を盗んで。それは、彼にとって、昔は親の目を盗んですら悪口を言うことは絶対に許されないことであったという事実を指しているのだろう。デリラはそれを、自分自身に重ねた。嘆くことが責められるから、誰にも責められないよう、人目に付かないように嘆いていた、小さいころの自分に。
デリラは、サムソンをいとおしく思った。生まれて初めて会った、自分と同じ存在。同じく奴隷の鎖に縛られ、打ち震え、それでも結局どうしようもない。自分と違ってこんなに大きな力を持っていても、彼は、逆らうことができない。
大人になりたくない。彼の嘆きが、彼女の心にこだました。それはそうだろう。彼は、大人に踏みにじられすぎたのだ。必死に背伸びし、戦場に出向き、結婚したがった。その結果自らの誇りも、感情も、恋した人も、親友も、何もかも、大人が勝手に奪い、そして、彼らはそれに、少しの罪悪感も感じなかったのだ。彼らは反省すら、しなかったのだ。
自分は、サムソンに何ができる?憐れむことができる。慰めることができる。だが、それ以上に、彼のためにできることがないだろうか?彼を分かってあげられる存在として。アビメレクは先ほど言った。お前には何でもしてやれると。自分もそうだ。金こそないが、地位こそないが、このサムソンのためならば、自分は何だってしてやれる。
そう考える彼女の頭に、一つの考えが急にひらめいた。
彼女はもう一度、サムソンの手を取った。メレクがつけた傷は、確かにもう治りかけ、ただの痣のようになっていた。これが消えるまで、あと何日だろう。金曜の晩までには、持つだろうか。

デリラは、彼の寝顔を見ながら、一つの決心を固めた。サムソンのため、自分が今何ができるか。この哀れな少年のある一つの幸せの鍵を、自分は握っているはずだ。
デリラはそっと、人目をはばかるように屋敷を抜け出した。そして、マハネ・ダンの町の隅にある宿にたどりついた。


「……来てくれたのか」
彼女を、アビメレクが直々に出迎えた。

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