クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第五十六話


シバ王国からのキャラバンが到着した際、エルサレムは湧きかえっていた。
長々と伸びる行列は本当に煌びやかなもので、イスラエルが国力を高めた今になってもこれほどの規模のものを迎えるのはエルサレムの民としても初めての事だったのだ。
馬にラクダに、何種類もの動物で構成される行列。それを率いる、イスラエルでは見られない色の肌をした男女の奴隷。細かな装飾を施した貢物の輿。美しいそれらは何もかも、エルサレムの民の視線を引き付けてやまなかった。
そして、その行説の中央に、絹のカーテンで覆われた、ひときわ高い輿があった。
まるで黄金の衣服をまとったような見事な毛並みをした四頭のラクダに支えられ、おびただしいほどの護衛兵に囲まれたその天蓋のような輿は、シバの女王ビルキスが座す場所であると誰にも分かった。女王を守るように四方に張り巡らされた絹のカーテンには、金糸でシバの主神である太陽神アルマカを著す紋章が刺しゅうされ、まさに彼自身の光、太陽の光を受けて眩しい程に光り輝いていた。
エルサレムの民は彼らがふりまく輝きを一身に浴びながら、感涙にむせび泣いていた。かつて鉄も作れぬ弱小国だった頃の時代を知っている老人などはなおのこと。これほどの国力のある国も、国王直々字で向いてイスラエル王ソロモンに頭を下げる。イスラエルはもはやそれほどの大国になったのだ、と、誇り高きイスラエル人はみんな喜んだ。

その行列も終わり小一時間立った後、エルサレム宮殿の大広間に声が響く。
「シバ王国女王、ビルキス陛下のお付きです!」
ソロモンは黄金に輝く玉座の上で、厳かな声で「通すがいい」と返答した。それに合わせて、重々しく大広間の巨大な扉が開く。
その時、その場に居合わせたイスラエルの高官、そしてイスラエル王ソロモンは、その黄金の扉の向こうに立つ存在を認めた。
それはおそらく、苦難の歴史を持つイスラエルにとって、最も華やかな瞬間であったかもしれない。


扉の向こうには、大勢の従者を従えて、一人の女性が立っていた。太陽を崇拝するシバ人たちは、自分たちの君主の事を「暁の息子」ないしは「暁の娘」と呼ぶと聞く。
扉から歩み出て、ソロモン王の黄金の玉座に向かって伸びる絨毯をしずしずと、しかし王者に相応しい威厳を持って歩くその若い女性は、まさにその称号に、きっと、この世のだれよりもふさわしかった。彼女は、暁の方角にある国からやってきた彼女は、まさにその時、夜空を切り裂く暁の光のように、誰よりも鮮烈に、美しく、輝いていた。
彼女は、美しい人だった。老商人の言葉に、一切の間違いが無いように。
高貴な身分を著すにふさわしく、白く煌めく絹のドレスと海の砂のように贅沢の宝石をあしらったローブに覆われていても、そのすらりとした均整の取れた体のつくりはありありと分かるようであった。その骨格が、アラビア人らしく日に焼けた滑らかな肌にくるまれている。シバ人たちは黒い健康的な、美しい肌をアルマカの寵愛を受けた肌と言ってもてはやしたが、その点ビルキスはシバの誰よりもアルマカに愛されていたようだった。イスラエルの娘のようにスカーフで覆われてなどいない、艶やかに輝く黒壇の色の髪は花や宝石の飾りに彩られて長く伸び、上品に結われていた。そしてその上に、太陽をあしらった飾りのついた、金に輝く王冠を乗せていた。
彫の深い顔からは、人間らしい泥臭さなど一切合財が抜け落ちているかのように、ただただ清らかに、繊細に整っていた。絶世の美女。ありきたり、しかし絶対的なそんな表現が、彼女にとっては何よりもふさわしかった。それ以外に彼女を掲揚するにふさわしい言葉など、存在していないかのようだった。
その解き、エルサレム宮殿の大広間に居ることを許され、王の玉座から左右に伸びる列にたたずんでいたものは、男であれ女であれ、誰しもシバの女王の美しさに見とれた。だが、彼女の彫の深い瞼にはまった二つの穏やかな目だけは、彼らのうちのだれも見ておらず、玉座に君臨する黒衣の青年だけをじっと見すえていた。黒衣の王、ソロモンの、どこまでも赤い二つの目を。
彼女はよどみなく、足元を覆い隠す長いドレスとローブの裾を床、池のようにきらきら光る意匠の水晶の床に泳がせながら、まっすぐに歩いていた。女は男性の前では慎み深くあるのが美徳なり、と教えられているイスラエルの娘では考えられないほどに、背筋をしゃんと伸ばし、少しもひるむことにない堂々たる態度で。そして、普段はそのような態度を可愛げがない、慎みがないと顔をしかめるイスラエルの老人たちですら、そう歩く彼女の華麗だけは認めざるを得なかったのだ。
彼女はやがて、ソロモンの前で立ち止まり、滑らかなヘブライ語を持って挨拶した。
「お初にお目にかかります、イスラエル王、ソロモン陛下。貴方の盟邦たる、シバ王国の女王、ビルキスにございます」
彼女はしっかりと、ソロモンを見つめていた。彼女の目はその真っ黒な髪と小麦の肌に反して色が薄く、まるで金色に輝いているようにも見えた。

「ご機嫌麗しゅう。遠路はるばるの長旅、お疲れ様でした、女王陛下よ。イスラエルへようこそ」
ソロモンは玉座から立ち上がり、自分も長いマントの裾を床に泳がせ、一段一段玉座の階段を下っていった。
「あなた方のその光栄なるお志に、このソロモン、まずは心よりのお礼を申しましょう」
そう言ってソロモンは、黒いマントの袖から、ダビデ王家の象徴たる真紅のルビーの指輪がはまった右手をそっと差し出した。
彼女もそれを受け、彼の真っ白な手に自分のしなやかな、褐色の右手を乗せた。
双方の王の握手を持って、二国の友好関係は完全に結ばれた。その場に控えていたイスラエルとシバ、双方の国の高官は、自らの君主の栄光と、双方の国のさらなる繁栄とに対して、盛大な拍手を送った。

なるほど、この人は美しい。
ソロモンは自分の目の前に立つ女性を見て、心からそう思った。それは純然たる事実として、ソロモンの脳に届いていた。
めったに顔を合わせることの無かった母はいつも、自分の美しさをよすがとしていたと聞く。それ以外誇れるところの何もない自分が、ただ唯一人に誇れるもの。彼女が父の治世ではなく、自分の治世に来たことは、母にとっては幸いな事であっただろう。母は完璧な美女であると誰もが思っていた。しかしそれを覆す存在がいることを、誰にも知られず、そして母自身も知らず、死ぬことができたのだから。自分は全く親孝行をしたものだ、という悪趣味と承知の上での考えすら頭に湧きあがってくる。
ただ一方で、彼女の美しさとは、彼にとってその時、事実以外のものではあり得なかった。宝石は美しい。花は美しい。美しい、という言葉の定義に当てはまり得るもの、という意味で、彼女は本当に美しかった。否定をする気など微塵も起こらぬ事実が、ソロモンの右手を握っていた。
だが、そこに「魅了」なるものを認めることは、ソロモンはその時、できなかった。エジプトのファラオは、こうして彼女と握手した際に、自分の利益を投げ捨てででもこの女性に気に入られたいという欲望が湧いたのだろうか。普通の人間は皆、そうなのだろうか。彼女は母が、父が、兄達がそうであったように、ただ美しく、また、美しいだけのもののようにしか、その際、ソロモンの赤い目には映らなかった。

その夜の事だった。
シバの国の人々をもてなす宴会は、予定通り盛大に開かれた。
司馬の女王に行列に付き従ってきた大勢の奴隷たちにも全員分の席が誂えられ、宴会は非常に大規模なものとなった。神殿完成後も友好を深めていたヒラム嘔吐の宴会にすら、これほど大規模なものを開いたことはなかった。
ビルキスは、ソロモンのすぐ隣に座っていた。彼女は金色に輝く目で、しげしげと宴会場の全てを見ているようだった。
宴会場の余興はもちろんにしても、出される料理も、それを運んでくる球児たちや献酌人はその装い、宮殿の内装そのものまで、彼女は興味深そうに眺めている様子であった。
少し、不思議な感触だった。昼間の、ただただ水晶のように純然たる美だけがそこにある彼女とは少し違った表情があるように思えた。なんだか、人間味があるような。
「物珍しいですか」ソロモンはそんな彼女に声をかけた。ビルキスはくるりと振り返るとと、「ええ、とても」と、とても穏やかに笑って見せた。
「見慣れぬ異国の物ほど、私の心を奪うものはありませんわ」
「あなたのその美しい瞳にただ一瞬でもとめていただけたのなららば、このイスラエルのなにもかも、歓喜の心に胸は張り裂けんばかりでしょう」
「あら、お上手ですこと」
くすくすと、上品に彼女は笑って見せた。ソロモンも少し機嫌がよくなり、「なぜまた、長旅をしてまでイスラエルにおいでに?」と問いかけた。
「あら、わざわざお聞きなさるの?貴方の誉れの高さは、遠くアラビアの果てにまで届いておりますのに」
シバの女王は言い含めるように、笑いながら言った。
「賢者と名高きイスラエル王、小国だったイスラエルを今やエジプトに肉薄するかというほどの国力にまでのし上がらせた王の知恵の誉れを、是非この目で見たいと感じた、それ以外に理由など何もいりませんでしたわ」
「それはそれは……このソロモン、貴方のご期待に添えればよいのですが」
「ずいぶん謙遜しなさるのですね?ソロモン王」
「謙遜とは滅相もない。ただ、貴方の知恵の誉れも聞いているからにすぎませんよ」
あら、とビルキスは目を瞬かせて見せた。
「小国シバを貿易大国に上り詰めさせたことも、国内の政治改革についても、首都の治水工事を成されたことも……」
「まあ、マーリブ・ダムの事までご存じでいらっしゃるなんて!」
シバ王国の首都はマーリブと言うらしかった。先代の王までのずさんな治世のおかげで荒れつつあったこの都を、ダムを建設し治水を行うことによって回復させたという女王の話は、聞いていた通りの事らしかった。
「私も建築にはいささか興味を持っておりまして。貴方の国を知る者から大変興味深く伺いましたよ。それほどのお方の期待に、果たして応えられるものでしょうかね」
と、口では言いつつ、無論そろもんにも卑屈な心は一切なかった。自分は有能だ、天才だ、という自信は揺るぎない。ただ、この目の前の女王が少なくとも凡人を飛び越えているということは事実には相違なかった。
「まあ……では手始めに、お知恵のほどを軽く見せて下さらなくって?」
「良いですよ。それでは、何を?」
「ここは一つ、童心にでも帰った気になって謎かけでも致しませんこと」ビルキスは笑ってそう言った。謎かけは、当時は立派に知的遊戯の一つでもあった。
「よろしいでしょう。何でも、どうぞ」
ビルキスは金色の目を伏せて、しばし考え込んでいる様子であった。やがて彼女は口を開く。
「天から降るのでも、地から湧くのでもない水、と言えば何でしょう?」
「例えば、馬の汗などそれにあたるのではありませんかな」ソロモンは即答した。別に馬にも、汗にも限らずに生き物の体から出る水なら何でも構わなかったが、今日の昼間に来たシバ王国の隊列を率いていた見事な馬の数々を思い出し、自然にそれが出たのだ。
「さすがに子供だましでしたわね」ビルキスは桃色の唇で形よく弧を描いて笑った。「今度は詩的に行きましょう。『その頭を嵐が駆け抜け、それは、身も世もなく泣きわめく。自由な者はそれを褒め、貧しき者はそれを恥じ、死せる者はそれを尊ぶ。鳥は喜び、魚は嘆く』……」
「あなたの麗しい唇で詠われるその幸福なものは、おそらく、亜麻でしょうな」彼女が詩を言い終わって一呼吸置き、ソロモンはそう答えた。
「亜麻布は嵐の船をゆく舟の帆にもなり風を受けて必死に鳴り響きもすれば、貴族が誇る立派な晴着にもなり得、また貧民が恥じるぼろ服にもなり得ますし、死者の体を包む経帷子にもなり得ますからな。それに亜麻の実は鳥にとって良い餌です。その上亜麻を縄にすれば丈夫な漁網にもなり得るでしょう」
「まあ、お見事!」ビルキスはまたしても、ダチョウの羽で作った扇子で口を覆い隠してくすくすと笑った。「少しは考えましたものを」
「どういたしまして。他には?」
「そうですわね。では……」彼女は少し考えて、また次の言葉を口ずさんだ。
「ある女がこう言いました。『お前の父は私の父、お前の祖父は私の父、お前は私の息子、私はお前の姉』……」
「それは……」
ソロモンは答えが一度頭に思い浮かび、いや、しかしこれで正しいものかと一瞬迷った。と、言うのも、本来であれば異国人である彼女が是とするはずはないであろう答えだったからだ。
しかしわざわざ「その」伝承を持つ国の君主にわざとこの問いをぶつけてきているのなら、乗るのが洒落というものだ。
「その女とは、ロトの二人の娘ですな」
ロト、というのはイスラエルの歴史の中にいたとされている義人である。
神に焼き払われた背徳の町において唯一の正しい人であったため娘と共に生き残ったが、周りに夫となるべき男がいなくなってしまった娘が家系を絶やさぬためと父であるロトと契って子をなした、という伝説がある。ユダヤの律法において近親相姦はもちろん禁忌とされているが、埋めよ、増やせよ、地に満ちよ、という神の告げに忠実に従った彼女たちの行動は、むしろ背徳ではなく偉大なる行為として語り継がれている。イスラエル人ならばだれでも知っている話だ。
さて、ビルキス女王は嬉しそうに「正解ですわ!」と言ってきた。
どうやら自分の読みは当たっていたようだ、ソロモンは半ばほっとした。
別段ロトの娘に限らず、自分の父と契って子をなした女、という関係性であればこの問いは成り立つのだ。だからより普遍的にそう答えようかとも思ったが、結果としてこちらの方がよかった。
「あなたが、わがイスラエルの歴史もご存じですので?」
「ええ、いささかばかりですが!」ビルキスは笑った。
「特にこのお話は印象に残りましたもので……つい頭によぎってしまいました。子を成すための使命感、というのでしょうか……真似のできない行為とは感じましたわ」
「真似などなさる必要はないでしょう。たとえロトの娘がそれをしなかろうとも、神は罰しはしなかったはずです。そんな話よりも……そうも我がイスラエルの事を知って頂けているとは光栄ですな」
「あら、そう褒められれば頭も下がりますわ。子供のような謎かけ遊びとはいえ、こちらが苦労して考える謎を次々と解いておしまいになって……」
ソロモンは、その言葉でこの謎かけごっこもひとまずこれまでだ、ということを読み取った。
「いえ、私も楽しかったですよ」
「本当に。……思慮深いお方」
ソロモンは気が付いた。、目の前のビルキスは、何かまた考えているようだった。
「まだ、何か謎が?」
「そうですわね。もっと、こんな遊びの謎ではなく……真剣にあなたに問いかけたい謎がございましたわ」
「何でもどうぞ」ソロモンは鷹揚に言った。ひょっとすれば謎かけ云々もこれに入るための口実で、はなからこれを本題にしたかったのかもしれないビルキスは目を伏せ、ポツリポツリと言う。何か、真剣に言葉を選んでいるように。
そして出てきた言葉は、今までの遊び心のみの謎とは、確かにがらりと趣の違った問いかけであった。
「人間は、何をもってして人間たり得ると思います?ソロモン様」

その問いかけに、ソロモンも考えこんだ。これまでのものと違い、確固たる答えがある物ではないからだ。
「我らイスラエルの宗教の教えによれば」ソロモンは言った。「人間は、神が『自らの姿に似せて』作り上げたものであります。他の動物と人間を分け特別にあつらわれた箇所がそこです。そう考えれば、外見が人間たり得る条件と見るのが普通でしょうが……」
今度ばかりは、ソロモンも考えてから話すのではなく、話しながら考えた。
そうだ、自分は昔、人間としては認められていないも同然だった。それはやはり、見た目が人間に相応しからぬ、という理由からだった。と、言うことまで思考が及んだ瞬間、ソロモンは一瞬だけでもそんな思考を肯定するようなセリフを自分が言ってしまったことが癪になった。だって、自分は人間なのだから。一般的な人間の規範から逸脱する髪や肌、目の色をしていても、自分は人間なのだ、とはっきり確信しているのだから。
「しかし」だが、ソロモンが何かを言う前に、ビルキスがそれに対して発言した。
「外見と言うのであれば、一体どこからどこまでが神から授かった外見でありましょう?その理屈で行けば、人は背格好も顔つきも、みんな同じ様である必要がありますわ。でも事実そうではない。と、言うことはどこからどこまでが神から受け継いだ場所で、どこからどこまでが自由に変わり得る場所か、という境界線がはっきりとしていなくては成り立たないではないですか」
彼はそれを聞いてハッとする。
「確かに……」
「それにイスラエルには神の姿を描く文化はないと伺っておりますわ。其れだというのならなおのこと、その基準となる神の姿、そのものも、そもそも分からないと言うのに、なぜ外見で神の現身か否かを判別する事が出来ましょう」
ソロモンは彼女の理論に舌を巻いた。確かに、誰も神の姿を伝えていないと言うのに、お前は神が認めた姿ではない、というのはずいぶんなことだ。そう言う自分たちすら、神と同じ顔をしている保証はないのに。少なくとも誰かが神と同じ顔をしているのなら、それ以外の人間は皆、神から定められたのではない人間もどきということになってしまう。
ソロモンは、その発言を得て、どきりと心臓が鳴ったような気がした。
「全くその通りだ。姿と言うことであれば、結局我々人間の基準で計っているにすぎぬ話……神を権威としつつも、虎の威を借る狐のまねにすぎん」
「私は、こう考えておりますの」クス、とビルキスは笑いかけた。
「自分が人間である、と思っていれば……心の底から思っているのなら、それをもってして人間たり得るのではないかと」
彼女はそう言って、じっとソロモンの目を見つめた、赤い目を。ソロモンはその瞬間、それを聞いて、なんだか言いようのない感覚に捕らわれた。
この人の目は、美しい。昼間もそう思った。いや、違う。美しいという概念自体が、ソロモンの中で変化したように思えた。
昼間の彼女の目など、もはや美たり得ない。ただの物理的な整った秩序、そんな味気ないものだ。少なくとも自分が読み取った感情はそのようなものだったのだから。
彼女が変わったのか?いや、違う。変わったのはおそらく、自分の意識だ。ソロモンの目には急にその時、その発言をした瞬間から、彼女が光輝いて見えた。
「……なるほど。納得できます」ソロモンは返す。「あえてそれに継ぎ足させていただくのであれば……」
「あら、なんですの?」
「人間であれ何であれ、神の意志を逸脱する傲慢さは持ち合わせております。事実、神に作られた天使が傲慢によって神を裏切ったという話はイスラエルにもございます。ですから私は、神を信ずるものとして、さらにその理屈に肉づけさせていただきたい。即ち、自分は人間だ、と誇りを持って信じ……なおかつ、それに依って天より罰せられない物。其れこそが、人間の証でしょう。人間を人間たらしめた存在から、人間として生きることを認められたのですから……」
「なるほど……素敵な解釈ですわ」
「もっともイスラエルの宗教を基準に考えた話。異教徒のあなたには多少無礼かもしれませんでしたな……」
「いいえ。構いませんわ」ビルキスは首を振る。そして顔を伏せ、半ば独り言、というよりも自分自身に聞かせるようにつぶやいた。
「世の中の不変の真理は、神の名前で変わり得るものではありませんもの……素晴らしいわ。胸の中でただひとつ引っかかっていた疑問が、綺麗に取れたみたい。ありがとうございます。ソロモン王」
ビルキスは片手で、床に泳いでいたドレスの裾を治す。そして再度、顔を上げた、そして、また金の目でソロモンを見る。その時だ。
その感覚はもはや、眩しいという言葉では語りつくせない、と感じた。
自分を見つめる暁のごときまなざしを、直視していられない。この麗しい瞳が捉える者として、自分の血生臭い赤い目は、酷く不釣り合いなもののようにも思えた。この金無垢が、汚らわしい血糊に寄って汚されることなどあってはならない。そんな卑屈な気分になるなど、子供の時以来の事だった。いや、其れなのに、直視に耐えないのに、この視線をいつまでも受けていたい、とも感じる。もしもこの時が、彼女の視線を受けられるこの時が永遠に続くのであれば、それが施行の運命であるかの世に感じる自分が、そこにはいた。
なぜだろう。自分はこの、人間の定義という問答でも彼女に言い負かされたわけではないのに、思わず言いようのない圧倒に襲われた。諸国の王や彼らが派遣してくる知恵者と張り合い、打ち負かした時に感じる優越感とは似ても似つかぬ感情だった。
「どうなさいました?」
この感情の名を、ソロモンは知らなかった。アドニヤにも、アビシャグにも、ヒラムに覚えた感情ですらない。彼らの前でなど、自分は全く、自我を保てていた。まるで暴れ馬に乗っているかのように、油断すれば自我を振り落とされそうだ。気を抜けばこのまま時間が止まってほしさに、魂を投げ出してしまいそうだ。それほどまでに、今のこの雰囲気に浸っていたい。見慣れぬ感情に混乱するばかりなのに、安心や安らぎとは程遠いその混乱の中に、ソロモンは何物にも代えがたい幸せのわずかな断片を見ているかのようだった。
必死に自我を保ちながら、彼は思った。心を奪われるとはひょっとすると、こう言う感情の事を言うのかもしれない。魅了されるとは、こう言うことなのかもしれない。
誰にも覚えなことのない感情を、彼はその日、出会ったばかりの砂漠の果ての女王に覚えたのであった。

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