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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第六十三話

夕方ごろに、不意を突くようにベリアルが現れた。ソロモンの執務室はすでに明かりが点されていて、深く差し込む夕日はカーテンに遮られ、カーテンを紅色に染めるにとどまっていた。
「ベリアル」
彼が呼びかけた、だがその呼びかけに、ベリアルは言葉の代わりにじっとりとした視線を持って返した。
ベリアルは自分の事を気付いているのだろうか、ソロモンはそう感じ、非常に気恥ずかしくなった。
「ベリアル、お前、今の俺が不満か?」何を、という箇所はぼやかしてソロモンは問いかける。ベリアルは相変わらずむすっとした顔で言う。
「何、君ボクに何を聞きたいってのさ?」
「なにって……」
「なんでボクが必要ないって思ったことを君はしようとするの?それほどの馬鹿じゃないじゃない」ベリアルはどうも、拗ねたような口調で言ってきた。
「お、俺が似合わないことをしているのがそんなにお前にとっては不愉快なのか?」と、ソロモン。
「不愉快とか、不愉快じゃないとか……」ベリアルははあとため息をついて言った。外はみるみるうちに暗くなっていっているが、発光するベリアルの体がソロモンにそれを気付かせなかった。
「見ていて、いたたまれないよ……」彼はしゅんとした口調に代わって、そう続けた。
「貧乏な子は石を拾って、木の枝を拾って遊ぶだろうけど、君はそれすらも与えられなかった子供時代なんだよね……それを思うと、君が子供時代を必死で取り戻そうとしているみたいで、そのためにそこらの馬鹿な王様たちとおんなじ真似までしている。見ていて心が苦しいよ……」
そんなものなのだろうか?確かにレハブアムの行為から発想を得はしたものの、自分の失われた少年時代を、あの女王との交流に投影しているという自覚はなかった。ソロモンはますます、自分が彼女に対して抱えている感情が良く分からなくなった。
「ねえ、彼女がそんなにきれいに見えるの?」ベリアルは首をかしげて言う。
「君は王になってから、ずっと堂々としている。ナアマは別に綺麗なんかじゃないけど、でもどんな綺麗な女性に会ったって君はこんな変にならなかったのに……」
「……やはり、俺も諸国の王と同じく、彼女の美貌に惹かれているのだろうか」ソロモンはぼそりと言った。
「ベリアル。それを返すなら、俺は彼女をきれいだと思うぞ。あれほど整った美しい女性は、俺は初めて見る。……お前の言うとおり俺が今まで美女に心を乱されなかったのは、誰も俺の心をときめかす美しさには至らず、ただ彼女の美しさだけが至った、と、そう言った事ではないのか」
「きれいなの?あれが?」ベリアルはなおも言った。
「ボクは分かんない。人間がどんなものをきれいだなんていうか。だってボク、人間じゃないもの……」
「よしんば彼女が美しくなかったとしても関係はない。俺は……彼女といると、ただ心が幸福になる」ソロモンは呟く。「ベリアル、お前は、俺の幸福を共に喜んではくれないのか?」
「酷い、ソロモン!なんでそんなこと言うの、実を結ばない幸福なんて追いかけないで、そんなの馬鹿のすることだよ!君のすることじゃない!君は君らしい人生を生きていればいの!」ベリアルはわめき散らした。
「落ち着いてくれ、ベリアル。何だって?」
「だって、彼女はいつまでもイスラエルにはいないんだよ!すぐにアラビアの果てに帰っちゃうんだよ!」

ベリアルが吐き出したその言葉に、ソロモンも一瞬ハッとなって、言葉を失った。

「それなのになんで君は、今の幸せなんて求めるの。辞めてよ、そんなこと!後先考えずに刹那的な幸せを求めるなんて愚かな人間のすること。君の母が、アブサロムやアドニヤやそれについていた奴らが、君の父親がしでかしたこと……そうだよ!君の父と母のそんな衝動で君は生まれた!それでずっと苦しんできたのに!どうしてそんな奴らと一緒になるの、ならないでよ!ならないで済むだけの頭が君にはあるんだから!ボクはあいつら皆嫌い、君を虐めた奴らは皆、大っ嫌いなんだよ!君まで、僕の嫌いな奴らにならないでよ!」
ソロモンはしばらくその言葉を聞いて、黙っていた。だがほどなくして「……ベリアル。俺が悪かった。柄にも無く馬鹿を言ってしまったようだったよ。すまなかった。落ち着いてくれ」と、彼の光輝く肩を抱いた。
事実、彼の言うことも最もだ。今当たり前の湯に自分の傍らにいるあの美しい人は、本来ならばイスラエルに居ない存在。それは、昔自分が感じていた、このような美しい人たちは本来ならば自分と共に居なくて当然だ、という思い込みよりも、厳然たる事実に違いなかった。
別に、それを忘れていたわけではないのに。

夕霧の立ち込める美しい夕方だった。ナアマは夫好みに作られた庭園があまり好きではない。美しい庭園だということは分かっている。でもあの夫の手が入ったものは、自分は何でも気に入らないのだ。
てくてくと歩くレハブアムを奪と共に見守りながら、彼女は夕闇の近づく中羽を休めていた。
ポッポッポ、と鳴きながら、ヤツガシラが数羽飛んでいく。同じ方向に。レハブアムはそれを認めた。彼はその金の冠羽を抱いた鳥の名前も覚えないうちに、その鳥は自らの父のもとに集まる鳥だと認識していたのだ。
「お父上!」
レハブアムは嬉々として彼らのいく方向に行った。ソロモンも庭園にいたのか。ナアマは一瞬複雑な気持ちになったが、レハブアムから目を離すわけにはいかない。ナアマも渋々腰を上げて、「あなた、いらしっていたのね」と、レハブアムと一緒に茂みを掻き分けた。
一瞬よりもさらに短い刹那、ナアマはそこにいるのは夫だと思った。あの自分には全く懐かないヤツガシラが、気を許して戯れている相手がそこにいたから。
だが、その人物は庇の外のベンチに腰かけていた。ソロモンがそんなことをするはずはない。いや、そのようなことを考えずとも、その場にいる人物はソロモンとは似ても似つかなかった。
あの真っ白な顔に白く伸びた髪、今見ても不気味だと感じる容貌とは対極にあるかのような、太陽に黒く焼けた肌と、黒水晶のように輝く滑らかな長い黒髪を翻した、うっとりするほど美しい女性が、夕日の中ヤツガシラ達と遊んでいた。
彼女は、本当に美しかった。宵闇の迫るの中、そこだけが暁の光がさしていたようですらあった。
彼女がぱちりと目を瞬かせ、こちらに気が付いた。彼女は丁寧にお辞儀をする。ヤツガシラたちはさっと飛び去っていってしまった。
彼女は服の裾を今一度敷石に泳がせ、ナアマたちのほうに歩いてきた。
「初めまして。レハブアム王子様……それに、王妃のナアマ様ですか?貴女の夫の盟友、シバの女王ビルキスと申します」
ベナヤの言葉に一切の偽りはないと感じた。
彼女の言葉は穏やかで、非常に自分に対する敬意に満ちている様であった。今まで自分に挨拶の一つも寄越さなかった失礼な王妃を快く思っていない様子は、微塵も感じられなかった。
「ええ……ナアマですわ。申し訳ありません、ビルキス様。挨拶が遅れてしまい……」
「いいえ、とんでもない。光栄ですわ」
「レハブアムです、女王様、よろしくお願いします!」
「王子殿下でいらっしゃいましたわね?まあ、可愛い方。それにお言葉も達者でいらっしゃいますこと」
ビルキスは腰をかがめ、レハブアムの目をよく見て再度挨拶しつつ、そう言った。
「……夫の血を色濃く引いているのでしょう」
「天才の血筋と言うわけですわね。羨ましいこと。しかし王妃様、ご謙遜なさるものではありませんわ」彼女はすっと腰を上げて、またナアマに向かって言う。
「親が子供に与えるもので無駄になるものは何一つございませんもの。貴方がご子息様に感じていらっしゃる愛情が、ご子息様を賢い子どもに育てられたのですよ」
「そう、でしょうか……」
「ええ」
金色の目を煌めかせながら語る女王を見て、ナアマはああ、自分の予想は当たっていたのだという気分に駆られた。この人は、この目の前にいる自分よりも年下のはずの女性は、思っていた通りだ。なんて眩しい人なのだろう。
王妃ともあれば、着たその日に夫と並んで彼女に挨拶をするのが普通だ。それもしなかった自分に彼女は、非常に敬意を払い、自分を立ててくれている。しかしベナヤの言うとおりだ。この控えめな物腰の中に、確固たる誇りをも感じる。そしてそれは決して嫌味な思い上がりの類ではない。ただただ、それは眩しいと、ナアマには感じられた。
若いころの自分のような、何の意味もなさぬ王権にただ縋りついて威張り散らすだけの人生より、この目の前の人はなんて輝いているのだろう。ナアマは、宮殿の男も女もほれぼれする彼女の美しさ、そしてそれは彫刻のように整った外見のみならず内面の光も含めての話、を目の当たりにして、そのような卑屈の心が湧いてきた。
「それにしても、お噂通り……いいえ、お噂以上のお方ですわ」ナアマはその卑屈を、否定せずすべて言葉にして彼女に言うことで、少しでもその苦しさを和らげようとした。
「ここまで美しいお方がこの世にいらっしゃるなんて……まるで人間ではないかのよう」
「うふふ……どういたしまして。こちらこそ、麗しの王妃殿下からそうおっしゃっていただけるなど、光栄ですわ」
ナアマとて、容姿を褒められたことは何回かある。
だが、彼女はそれが彼女の身分に付随して、お世辞で言われるものだと分かっていた。若い頃は案も能所だからという理由、最近ではイスラエルの王妃であるからという理由。女性と言うのはとかく、褒められるとなればまず容姿なのだ。例えそこまで美しくなくても、女性を褒めなければならないと言うときには大体容姿が引き合いに出される。きっと、ビルキスも本気で言っているのではなく、自分に敬意を払った上で言っているのだろう、とナアマは受け止めた。
目の前の彼女を妬ましいと思っているわけではなかった。ただ、純粋に、素直に受け止めるには彼女は輝かしすぎた。この人は、どのような人生を歩んできたのだろう。女王となったということは、この人も王女であったのだろうか。どんな王女だったのだろう、自分のように威張り散らしていた娘時代はあったのだろうか。
無い、きっと、ないに決まっている。ナアマの心はそう呟いた。自分とは違うのだ。この人は、きっと、生まれてから今の今まで、身も心も清らかなまま。
だが、ビルキスは、彼女の心をその金の目で見透かしたように「王妃殿下、私が世辞を言っていると思いで?」と言ってきた。
ナアマは気まずくなってどもる。ビルキスはあくまで優しく「我々の国で信じられている太陽神アルマカは、何をおいても正義の体現者であり、嘘を激しく憎むとされています」と続ける。
「私も、女王としてその神の教えに背き、嘘を言うわけにはまいりません。それが、随一の友の奥方ともある、尊敬すべきお方であればなおさらですわ」
「そんな……ごめんなさい。真実とするならあまりにも光栄で、信じられませんもの……」
ナアマは弱気に言った。
「だって……あなたほどの美しい方の目に、私のような女が美しく映るなど、そんなわけがないと思ってしまって……」
ナアマは、包み隠さず本音を言った。いっそ、威張り散らしてほしかった気すらする。まさにソロモンが自分にするように、お前に愛すべき価値などないと、女として見下してほしかった気すらする。そうすれば、まだ素直でいられた。
「王妃様は、私にない輝きをお持ちですわ」
ビルキスの花弁のような唇から、そんな言葉がこぼれた。
「王妃様は、人を愛することをご存じである人間のお顔をなさっております。欲望や執着の類ではない、本当に愛と呼ぶべき愛を。人が美しくあるのに、それ以外何がお入り用でしょう」
ナアマはそれを聞いて一瞬、どきりとした。この人は、自分とベナヤの事を知っているのだろうか?それとも、夫とのことだと思っているのだろうか。
だが、さすがにそれは問えなかった。ナアマの口から、ほぼ無意識的に出てきた言葉は「では、あなたはご存じないと?」だった。
「みんな、貴方を美しいと言っておりますわ。私も今お見かけして、心の底よりそう思いました。まるで今の口ぶりだと、貴女様にそれがないようではありませんの。貴女様に何の美が欠けているのです。貴方に美しくないと言う人がいるのなら、雪のような白肌しか美しいと認められないような人間位なものですわ」
「私とて……」ビルキスは、含むような口調で言った。
「私とて、完璧ではありませんもの。花の間を舞う美しい蝶も、世にも醜い芋虫でしたわ。蓮池の中を泳ぐ白鳥も、水面の中では見苦しくもがいておりますわ。裏を返せば醜い芋虫も蝶と同じものですし、水の中から見える見苦しい生き物も、水面に出れば優雅に泳ぐ白鳥なのです。王妃様。完璧な美など存在しませんし、完璧な醜も存在しないものですわ。少なくとも、この人間の世では」
その小難しい言い方が、ナアマにはふと、ソロモンにかぶって聞こえた。
ただ、そんな言葉は信じられなかった。言っている言葉の意味も、それを告げる女王の意図も分かるのに、何も信じられない。目の前の彼女が美しくないなど、わからない。ソロモンはナアマのことを愚かだと言う。それが初めて分かったような気がした。美も集も見通せない凡人並の目しか、自分は持ってないのだ。

そう考えているナアマの思考を引き裂いたのは、重々しい足音だった。ソロモンのものでないことは確かだった、それは体重を感じさせない彼の者とは似ても似つかない重量感を持っていたし、何よりシバの女王に群がっていたヤツガシラ達が一斉に逃げた。
「女王陛下」
と、言ったのだと思う。ナアマには聞き取れなかった。異国の言葉であったからだ。現れたのは、タムリン隊長だった。
タムリン隊長はナアマと、自分には理解できない話の応酬につまらなさそうにしていたレハブアムに丁寧にお辞儀をすると、ビルキスに向かって言った。
「迎賓館にお戻りください。日も落ちる時分にございます」
「しょうがないわね」
ビルキスは「王妃殿下、王子殿下、失礼いたしますわ。おやすみなさい」とヘブライ語で告げるなり、背の高い隊長に連れられてその場を立ち去っていってしまった。

「女王陛下、迎賓館にいらっしゃらなかったので、サラヒル共々心配しておりました」
「嘘でしょ」ビルキスは言い返した。「サラヒルが心配するはずはないわ。散歩に行くとは伝えてあるもの」
「……女王陛下」タムリンは気まずそうな態度はとりつつも、なおも言う「……ソロモンは我々に隠しているようですが、イスラエルの情勢は不安定なご様子です。むやみやたらと出歩かれては困ります」
「たしかにそれは聞いているわ」と、ビルキス。「……けど、違うでしょ。イスラエルが平和であっても、貴方は私を連れ戻しに来たはずよ。私が出歩くたび、いつも勝手に心配するんだから」
金色の目を、暗くなり始めた空気に対抗するように灯った松明の明かりに煌めかせながら、ビルキスはタムリンをじっと見つめ、そしてからかうように笑っていった。
「私がイスラエルを楽しんでいるのが不愉快?」
「そのような……」
「ここのヤツガシラはとっても可愛いわ。マーリブの王宮の、私の飼っているヤツガシラと同じくらいね……ソロモン王はとても、あの子たちを愛していらっしゃるのよ。……羨ましいくらいだわ」
「……」
黙りこくってしまったタムリンに、ビルキスはなおも重ねて言った。豊かな黒髪を書き上げ、挑発的に微笑みながら。
「焼き餅は焼かない約束よ。いい加減にしてね、タムリンおじさま」
「……はい。申し訳ありませんでした」
タムリンは静かに、謝罪した。

拗ねてしまったのだろうか、ベリアルは忽然と姿を消してしまった。
王の部屋のバルコニーから、一つの家が見える。今こそ主を失っているが、その家の元の主人の名は、ヒッタイト人ウリヤ、ソロモンの母となったバテシバのかつての夫であった。
父は、この部屋からウリヤの家の庭で水浴びをする母を見染めた。みんな、そう話していた。父も否定しなかったから恐らく真実なのであろう。
偉大な英雄王も、バテシバの美しさの前には恋と情欲の心を抑えきれなかった。誰もがソロモンに語ったし、それは歴史の中で連綿とイスラエル人に語り継がれるのだろう。自分はそうして生まれた子供。恋に心を奪われた、人がそう呼ぶ感情の中生まれてきた子供なのだ。
だがダビデはそのような人であったろうか。このところ、自分の感情を考察するのに並行してそのようなことも考える。父は、母にも勝って美しかった。その美しい目を伏せて、いつも何かを失ったように、悲しそうにしていた。そして自分の赤い目を、見もしなかった。
自分が心を奪われた対象を手に入れることは、至高の望み、幸福そのものと言ってもいいように世の人は語る。だが父はそれを成し遂げたのではないのか。だとすれば父はなぜ、ああも無気力になっていたのだろうか。ヨシャファトの言うとおり、心を奪われるとは人を破滅に導く思いだからなのだろうか。
心を奪われた人が望むことは何だ?ソロモンは思う。そして、一つ思い当った。結婚だ。
その人を永遠に自分のものとする。世界の全てに、自分ただ一人のものと認めさせる結婚という行為こそ、その感情のいきつく先に相応しいのだろう。父がバテシバを妻にと望んだように。そして、エジプトのファラオがまさにビルキスの事を妻にと望んでいるように。では自分の感じている嫉妬は、おそらくファラオに彼女を妻として取られたくないという感情が織りなすもの……。そう、それをしさえすれば、彼女がいずれ自分の元から離れてしまうという問題も解消できるのだから……。
そこまで思考が思い至った時、ソロモンは激しい苦痛に襲われた。その考えを、脳の全体が拒否しているような、耐えがたい不快感だった。
違う、違う!自分はあの人と結婚したいわけではない。それは許されない事であった。自分の願望の中に、そんな思いなどかけらもなかった。
何故だろう?なぜなどと問うことも愚問なほど理由は簡単に思い浮かぶことだった。基本的にユダヤ人は異国の女との結婚を良しとしない。第一時分にはもう妻がいる。父の前例を見ても分かるとおり今の時代になってはもう厳格に強いられていることではないが、ユダヤの律法は一夫一妻が標準だ。だが、そんな簡単な理由では意味をなさないことは火を見るほど明らかであった。
自分がユダヤの律法を順守するなら、まず王になるにあたって必要だったとはいえ、アンモン人であるナアマを妻になどする者か。そして、そのナアマにしても、操を立ててやるほど自分が愛を感じていないなんて当たり前のように分かっていること。仮に自分が父のように大勢妻を持つのが向かない性分であったにしても、彼女を離縁することなどたやすいように思えた。昔と違って、もはや彼女の家の力を借りる必要もあまりない。もともとイスラエるからは離れられない属国だ。自分がシバの女王との結婚を望んでいない理由は、もっとほかの所にあるはずだった。
……そうだ。ソロモンは思い当たった。彼の知る女たるものは、それこそ皆、誰であれ結婚を夢見ていた。それもただの結婚ではない、自分の地位を高める結婚を。バテシバはそんな欲望だが凝り固まってできたような女だった。アビシャグは殆ど、その為だけに生きていたような女。ナアマにだってそんな願望があったのだ。だから見下していた自分との結婚を酷く嫌ったのだ。裏を返せば、彼女たちは自分の力で地位を高めるなどできないのだ。それは女に男ほどの権利を認めないイスラエル、およびカナン一帯の慣習がさせている面もあるのだろうが、少なくとも彼女らが全員その慣習に迎合し、その慣習の中で貪欲に他力本願な地位を求めていたことには何ら変わりはない。
美しかったアビシャグやバテシバに比べても、彼女が比べものにならないほど輝いている理由が、彼はようやく自覚できたような思いだった。彼女は、自分の足で歩いている。背筋を伸ばして、自分の脚で、自分のためだけの道を歩いている。誰に手を引かれることもなく、手を引いてもらおうとも思わずに。
彼女は聡明さにあふれた人物だ。だがそれは花嫁修業で叩き込まれる、良き夫人になるための教養等ではなく、ただただ彼女自身のため、彼女の治める国のために使う知恵。そこに男に気に入られるか否かなどと言う感情は微塵も入ってはいない。
穏やかで礼儀正しく、しかしその中に確固たる誇りがある彼女、シバの女王ビルキス。その誇りの根底はこれなのだ。彼女は、誰にも寄っていない。彼女はただただ、あの長いドレスに覆われた二本の脚で、大地を踏みしめて生きている。
籠の鳥であることに微塵も疑問を抱かず、籠の鳥の分際で威張り散らしこちらを侮辱するのが彼女達なら、ビルキスはそれこそ、艶やかな羽毛に覆われた翼を広げて自由に大空を羽ばたく鳥だ。そして、その様子はただただ、美しい。
そうだ。そんな彼女に、なぜ結婚など申し込める。なぜ、エルサレム王宮の後宮でずっと自分と共に暮らしてくれなどと言える。
なぜ、華麗に空を舞う鳥に、お前の翼を折らせてくれ、などと言えるものか。その美しさを愛でるためには、お前の飛ぶ力は邪魔だ、というも同じこと。彼女の美しさはその鮮やかな羽毛や冠羽よりも、軽やかに飛び舞うその様子の方が、幾百倍も重要であるというのに。
自分は身も世もなく、ビルキスに惚れているのだとソロモンは今一度はっきりわかった。それも何も結ばぬ、不毛の愛だ。
美しいと思っている。誰かに取られたくないと思っている。だが一方で、彼女をただの女のように独占するなど、耐えられないと思っている自分もいる。あの誇り高い彼女を、美しさしかなかったあの愚かな女たちと同じところに引きずりおろすことなど許されない。いや、きっと彼女自身も、そんな中では生きられない。彼女はそのように、籠の中でただ寵愛を受けながら生きて満足するような人間を、この世で何よりも望んでいない。翼を折られた美しい小鳥は、きっと狭い籠の中であっという間に、弱って死んでしまうのだ。そこに生きる事は、彼女にとってただただ苦痛なのだから。
ソロモンの頭に、また一つ疑問が浮かんできた。ではなぜ自分はそう思うのだろう?それは自分が幻想の彼女に求める願望なのか、否か。否であるというのなら、なぜ自分に彼女の感情など分かるのだろうか……。手の中にエイラットストーンの宝玉を握りしめ、ソロモンは再び思案した。


エルサレムに向かう荷馬車が一つあった。定期的に贈られるアンモンからの朝貢品を積んだ荷馬車だった。だが、それはその夜だけ、普段は行わない動きを取れと王に命じられていた。不信感を持てど、ただの荷運び人に疑問を持つだけの余裕も義理もない。
「こちらだ」
エルサレムの城壁の外で彼らを呼びとめたのは、やはり普段、彼らの聞き覚えのない声だった。


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