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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第六十六話

彼女は自分の胸に突き刺さった矢を、その金色の目で見つめた。
「ビルキス、様……」ソロモンの声が震える。
「何奴!」シバの衛兵たちが叫び、矢の飛んできた方向を探さんと目を光らせる。だが彼らなどほとんど無視して、ビルキスは「ソロモン様、安全な場所をお教えください」と言った。凛とした声色を保とうとしているのは分かったが、当たり前ながら苦しげな声色であった。
この矢が本来だれに向けていられたものかなど、ソロモンがわからないはずはない。彼はよっぽど、目の前の女王がとった行動に絶句したい思いだった。
ソロモンは「こちらです!」と、より馬を走らせた。ビルキスも何とかそれについてくる。とにかくも一刻も早く安全な場所に移動しないことには、この女王の俄かには信じられない好意をも無駄にしてしまう。それだけは避けねばなるまい。ソロモンはビルキスを連れて城壁を出、旋回した。

「くっ」
樹の上から舌打ちしたのはハダドだった。間違いなくソロモンを射抜くことができいたはずなのに。
誰だ?あの女は。余計な真似をしてくれる。ソロモン、いやしくもカナンの地に行けいけしゃあしゃあと転がり込んできただけのユダヤ人の王ごときに、守ってやる価値があると勘違いしているのか、愚かな女め。
下の方ではレゾンとタムリン隊長がまだ切り結んでいる。レゾンもあんな男程度に手間取るとは……とさらにハダドは心の中で毒づき、ひとまず加勢しようと、彼は弓をタムリン隊長の方に向けた。

だが彼が矢を射る寸前、急に、ハダドの目の前にキラキラした光が飛んだ。目の前に、人がいる。
馬鹿な?自分は今気の上にいると言うのに……ハダドはぎょっとして自分の目の前の人物を見た。そしてさらに気が動転した。
その人物は、背中に真珠色の翼を輝かせ、宙に浮かんでいた。長い金髪をたなびかせた、優雅な姿かたち。ベリアル、の名前をハダドは知らなかった。

王宮の少し後方、人気のないところにそびえる、これまた巨大な建物。「レバノンの森の家」と呼ばれている施設だった。ソロモンが立てたものらしく華麗で緻密なデザインながらも、神殿とはガラッと違った趣に、その建物がヒラム・アビフの死後立てられたものである当うことも、神の住まう言えとは全く別の役割を与えられていることも推し量ることのできる建物だった。
「ここへ」
ソロモンは急いでビルキスを馬上から下ろした。いつのまにやら護衛も一人残らずいなくなっていた。矢の飛んできた咆哮を探りに言ったり、パニック状態になった民衆から王たちの道を開けたりしてくれるうちに、一人ずついなくなっていったのだ。幸いにして、レバノンの森の家の周辺には全く人影はなかった。
馬上からどうにか下りられたビルキスは、フラリ、と足がもつれた。無理もない。傷の手当てを早くせねば。
「女王、もうしばらくの辛抱です」ソロモンは彼女に肩を貸した。彼女も、四の五の言ってはいられぬ状況、ソロモンに寄りかかり歩を進める。
「ここは……」
「武器庫です」ソロモンは、その雅な名前を言う間を惜しんで、彼の与えられている役職のみを告げた。
「不逞の輩が入り込まぬよう、エルサレムの中では一番頑丈な作りとなっております。鍵も非常に厳重に」
「鍵は……お持ちなのですか?」
「いいえ、王宮に。だが関係ありません」
ソロモンは、ビルキスの頭を覆うスカーフの中に「少々失礼」と、手を突っ込む。そして彼女の髪に止めてあった長いかんざしを一本ぬきだした。
「お借りします」
ソロモンは頑丈そうな錠前の穴に簪を突っ込む。そして彼がカチャカチャと穴を引っ掻き回すだけで、たちどころに錠前が開いた。
重い扉を、ソロモンはどうにか押して開ける。非力な彼には楽なことではなかったがそんな文句を言っていられる状況でもない。
何とか、ソロモンは「レバノンの森の家」の中に入った。凄まじい音を立てて、重い扉が閉まる。
ソロモンは高いところに取りつけられたごく小さな明り取り用の窓の光を頼りに、錠前を内側から閉めた。個々の管理をする役人たちも、皆仮庵の祭りの儀式に出るために出てしまったのだ。今、ここは完全な無人。
ソロモンはようやく手佐分利で燭台と火打石を見つけ、明かりをともした。明かりの中に現れたビルキスは、顔色が真っ青になっていた。
「ビルキス様、こちらへ……私が処置をいたします」
彼は武器庫の管理人たちの遣っている寝台の彼女を案内し、そして慎重に彼女の体に刺さった矢を引き抜いた。幸い、大出血は防げた。急所は外していたのがよかったらしい。
彼はビルキスの頭に巻いていたスカーフを裂いて、止血する。そして寝台に、彼女の体を横たえてから、薬の壺をあてがった。
「これを」
彼は棚に置いてあった壺を取り出した。
「気付け薬です。いま使い物になるのはそれだけのよう……少々ご辛抱を。此処には薬草もあります。今から私が薬を調合しますので」
そう言ってソロモンは早足で、小さなろうそくに火を映すと別の部屋に消えていく。しかしほどなくして、数種類の箱と調合器具を抱えて戻ってきた。
「ビルキス様、ひとまずこれで傷口をお洗い下さい」彼は度数の強い葡萄酒を彼女に渡した。
「ええ、ありがとうございます。その……」
「ご心配なく。私はしばらく別室におります故。薬が出来次第、また来ます」
そう言ってソロモンは、また別の部屋に行こうとする。だが、そんな彼をビルキスの方がとめた。
「……共に、いてください。ソロモン王」
弱弱しい声で、彼女はそう言った。
先ほどの叫びと、同じような声。いつも、美が人の姿で現れたように誇り高く微笑む彼女の姿とは全く違う、人間じみた感情をあらわにした彼女の声。
しかしそれは一方で、ソロモンが惹かれたシバの女王ビルキスという女性の像からは少しでも離れるものではなかった。彼はそんな彼女を見て理想を壊された気になるばかりか、一層心が引き付けられるような思いに駆られる。そしてそう思えばこそ、余計にこの、イスラエルとは何の関係もない彼女をこのような状況に追い込んでしまった事への後ろめたさが湧いてきた。
「……分かりました。ビルキス女王よ。あなたの頼みとあらば、なんでも……」
ソロモンはその場に胡坐をかいて座り、ゴリゴリと薬を調合しだした。ビルキスは自分の胸をよろよろとはだけ、葡萄酒を塗って、まだ血の流れ出る傷を洗いつつ、彼の園手つきを儚い明りを頼りにじっと見ていたようだった。
ほどなくして、ソロモンが「できました」という。
「血止め薬です。ひとまずすぐ作れるものですが……」
「ありがとうございます」ビルキスはよろよろとそれを受け取るが、危うく落としてしまいそうになった、血がまだ止まりきっていない。体力の消耗も激しいのだろう。
「ビルキス様……!」ソロモンは心配のあまり小さく叫んだ。ビルキスは荒い息で「大丈夫です、大丈夫……」と呟いていた。
「……塗れますか?」
その言葉に、ビルキスはしばらく無言でいたが、やがて小さく首を横に振った。ソロモンは「……塗りましょうか」と、小さな声で返した。彼女は「お願いします」と、小さくはあるがはっきりした声で言った。
ソロモンは、自分のほどい指に、先ほど自分の手で調合したばかりのひんやりした薬外った。そしてそれを、ビルキス女王の胸元にあいた赤い傷に、丁寧に塗りこんでいった。
恋しく思う相手の素肌に触れているこの状況を把握できないではなかった、しかし性的な感情は微塵も湧いて来ず、彼はただただ、目の前のこの女性に今自分のできる限りで少しでも多くの事をせねばと言う気持ちに満たされていた。
血止めの薬はてきめんで、塗りこんだだけでも出血量が経ていくかのように思えるほどだった。あらかた塗り終えると、ソロモンは今度はオリーブ油の小さな便を開け、その中身を横たわったビルキスの傷口に注ぐ。そして、その上から包帯を巻いた。
「明朝には血は止まるでしょう」と、ソロモンはもう一つ調合していた薬を、匙に乗せて差し出す。
「こちらは、お飲みください。痛みどめです」
「かたじけのうございます……」
ビルキスは匙を加え、その上に載っていた薬を飲み下した。そして、今一度寝台に沈み込んだ。
「本当に、申し訳ない……」ソロモンは吐き出すように言う。
「貴女を、このようなことに巻き込んでしまって……イスラエルの国難ごときに……」
「いいえ」ビルキスは、息苦しそうな中、それでもはっきりと言った。その声色は、普段の良く知る彼女が戻って来たかのようでもあった。
「あなたは何も悪くありません。イスラエルに来たことを……後悔など、しておりません」
つぶれそうなソロモンの胸中を、彼女は察してくれているかのようだった。不思議な感触だった。つるしいのに、彼女が生きて自分の隣にいて、そして自分を許す言葉を言ってくれたのが、何とも言えず安らぎを与えた。蝋燭の光だけがともる、彼ら以外は誰もいない重く冷たい武器庫の中で。
彼女はエイラットストーンの首飾りを撫で、そしてソロモンの方に向かい合って言った。
「儀式が終わったら、言おうと思っておりましたの……」
「何をです?」
「やはり、私が思った通り……良く、お似合いですわ。貴方に青緑の宝石は……」
彼女はそう言って、ソロモンのマントを止めるブローチを指さした。エイラットストーンの宝玉を使ったブローチを。先日完成し、今日の式典で、初めて見につけたものだった。

「……誰だ、貴様は?」
「ボク?ボクはベリアル……ベリアルって名前なの」
ふわふわと宙に浮かぶ謎の人物に、ハダドは目を白黒とさせる。
「そこをどけ」彼は言った。
「やだよ」
ベリアルは笑って言う。「どかんか!」ハダドは目の前の不条理にも毅然とした態度でいった。
「貴様が何者かなどしらんが、たとえ神だろうと悪魔だろうと、私の復讐の邪魔はさせん、ダビデに祖国を滅ぼされた私の復讐の邪魔は!」
「ダビデ……」
その時だった。優美なベリアルの顔が、一瞬にしてみるも恐ろしい憤怒の形相に変わった。
「じゃあ、とっとと死ね」
ベリアルはつい、と空中を移動し、ハダドに手をかけた。ハダドはひっ、と驚いた。彼の手は鎧越しにも分かるほど、氷のように冷たかった。
「ダビデはもうとっくに死者の国だよ。とっとと死ね、死んでダビデ本人に復讐してろ……」
「なっ……」
「それもできないような腰抜けが、復讐なんて語るんじゃないよ。ばかばかしい」
華奢な外見からは関上げられないような、恐ろしい力がハダドの体に降りかかった。
ハダドは樹の上をあっという間に押し出され、地面に落下した。全身が叩きつけられる衝撃が、彼のみに襲い掛かった。
しかし、その落下は以上とい他はなかった。誰でも、人が一人樹の上から落ちれば、数々の音で分かるだろう。だが、その数々の音が、一切しなかったのだ。
全く無音のまま、ハダドは樹から振り落とされ、そして地面にたたきつけられた。
イスラエル兵が彼に築くことはなかった。だが同時に……味方であるレゾンも、彼の事を築くことはなかった。
「(レゾン……)」
助けを求めようとしたが、余りの激痛にまともな声が出ない。ハダドは何とか動く眼球を植えにやった。
先ほどまで自分がいた気の上で、ベリアルと名乗るその人物が、自分を見下しながら、その麗しい顔にも似合わない下種な微笑みを浮かべていた。
何故、彼は気付かれないのだろう?あれほど光り輝いているのに。誰にも築かれず、芋虫のように転がったハダドは、木の上から降ってくる声を聴いた。
「なんだよ、その目。お前、生きたいんじゃないか。助かりたいんじゃないか……かっこ悪いね。何が復讐だよ、もうこの世にいもしない人への復讐掲げて……そうでもしなきゃ生きられない死人一歩手前みたいな君が、一丁前に痛みで死ぬ事怖がってるんじゃないよ。無様だなあ」
「貴様……」ハダドはしぼりだすように、囁くような音量で言った。さらに不可思議なことで、ハダドの声すらも、彼に向かって話しかけると気のみ、その音を失い、誰にも聞こえなくなるかのようであった。ハダドと彼の間に、特殊な空間ができるような。ベリアルは、そのかが鳴くような声も、しっかり聞こえている様子だった。
「何者だ。ソロモン王にくみするものか」
「ボクが何かって」ベリアルは言う。「だから言っただろ……ボクは、ベリアルだって」
答えになっていない、そうハダドは言おうとしたが、胸を刺す余りの痛みに囁き声すら出せなくなった。ベリアルはくすくす、と笑った。
「不思議だなあ。どうして……どうして君みたいなやつでも、神様は愛されるのかな……この世に生きていいよ、っておっしゃったのかな……」
その言葉の意味を聞く間も与えず、ベリアルは光の流離のようになった、そして、夜の闇に消えていった。
キンキンという音が、ようやく終わった。茂みの中に埋もれて起き上がれないハダドには、状況がわからない。だが、声を聞いて、絶望的な状況に陥ったと分かった。
恐らく、負けたのはレゾンだ。そして、レゾンはイスラエル兵につ余るよりは、と逃げ帰った。
いざという問いは一人で帰還する、お前の命が危うくなった時はお前一人で逃げろ、と事前に行ったことを、ハダドは後悔はしないまでも、そう言った昔の自分に多少恨めしい気持ちを抱いたのは確かだ。
「ガサガサ、と音が聞こえる。足音が遠ざかっていくようだ。ハダドは茂みに埋もれ、身動きもできないまま呆然とした。
自分はいずれ見つかるのだろうか。
嫌だ、こんな形で死ぬわけにはいかない!無様、先ほどのベリアルとやらのその言葉には同意しよう。
誰に何と言われようと、自分はエドムの復讐のために生きてきた。このようなところで、あんなわけのわからないことが起こったために、無様に死ぬわけにはいかない。自分の誇りが、それを許さない。
立つのだ。動くのだ、イスラエルに復讐するために。そうだ、ダビデはもういない。だが墓を暴き骨を辱めようと、エドムの受けた苦しみはそのようなものではない。ならば、その息子に復讐するしかないではないか。あの狡猾な白狐、ソロモンに……。
その時だった、茂みが、ガサリ、と揺れた。ハダドの誇り高い心もその時一瞬は、無様に死ぬ覚悟を決める準備を下かも知れない。
だが、ハダドはその顔に見覚えがあった。あったのは彼女がごく、ごく小さい時。しかし面影は全く変わってはいない。
目の前の女性は驚いたようにぱちりと目を瞬かせていた。自分の事は覚えているのか、覚えていないのかもよく分からないが……。
そうだ。確かに彼女はこの王宮に居ても何の不思議もない。イスラエル王妃になったとは聞いていた。
「このような姿で失礼」ハダドは言う。「アンモン王女、ナアマ様……私の事を覚えていらっしゃいますか?」
「ハダド……さん?」ナアマはしぼりだすように言った。茂みに屈みこみ、ハダドの顔を見て。
「覚えています……」
その言葉を効いたとき、ハダドは内心でにやりと笑った。あの得体のしれぬベリアルが何を言おうと、エドムの神は自分の事をまだ見放していないらしい。まだ、この復讐を完遂せよと自分に告げているのだ。

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