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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第六十八話


十時ごろ、王宮の方から迎えが来た、扉の向こうから聞こえたのは、ザドクの声であった。
ソロモンは内側から状を開ける。イスラエルの重臣たち、シバの人々、どうやらみんな怪我はないようであった。
「エルサレムで大きな混乱が起きている様子はございません。ひとまず、王宮にお戻りいただけるかと」
「うむ、苦労を掛けたな」
サラヒル女史が歩み出てきてソロモンに一礼する。
「女王陛下は……」
「血は止まったが、傷口はふさがりきっていない。今はお休みされているところだ」
「御手当てしてくださったのですか……医術もご存じなのですね、さすが英知の王ですわ」サラヒルはシバ語でそう話し、言う。
「我々どもでお引き取りしましょう。寝台の用意ができております故……」
「頼む。それと、この塗り薬を塗って差し上げてもらえるか。不足した時のため、のちほど調合法も伝えさせていただく」
「かしこまりました。ありがとうございます」
サラヒルはスタスタ遠くの方に進み、どこにいるとも聞かされていないのにビルキスのいる部屋にたどりついて、彼女を起こしてしまった。「お迎えに上がりました」と言われたビルキスもうとうとしながら目覚める。そして、ソロモンに礼を述べると、サラヒルの用意した馬車に乗って迎賓館の方に帰っていった。
「陛下、陛下もお戻りになり、何はともあれご休息を……ベナヤもあと三日もあれば帰るでしょう」
「うむ……」
ソロモンはその際、シバ人の中でタムリン隊長だけが帰っていないことに気が付いた。
隊長は難しい顔で、ソロモンの方を見ていた。
「タムリン隊長、先夜はご苦労だった。我々イスラエルの内紛に巻き込んでしまい、大変に申し訳ない」ソロモンはシバ語で、彼に向かって言う。
「いいえ、あれしきのこと……何でもございません。行商人は命の危険と紙一重。若いときは、鳴らしたものです」
彼の押さえきれない不快感は、先夜イスラエル人の代わりに命の危機にさらされたことではないらしかった。
「タムリン隊長」ソロモンは変わらずにシバ語で問いかける。シバ語で会話すれば、周囲の高官たちには何を言っているか分からないからだ。
「伺いたいことがある。貴方達の午後の祈りが終わり次第、私の部屋に来てもらえないか」
隊長は、先ほどまでシバ語で語りかけられてもヘブライ語で返していたのだが、その時ばかりはソロモンの意図を察したのだろう。「承知しました」と、シバ語で返答してきた。

シバ人の崇める神、太陽が傾き始めたころ、タムリンは約束通りソロモンの私室に来た。謁見室ではなく、私室の方だ。ソロモンも、先ほどまで仮眠をとっていた。昨日は結局、一晩中床で寝てしまって気が付いてみると体が痛かった。
恭しくタムリンは挨拶する。ソロモンは一応、護衛兵に「内密の話でな。だれも近づけんように」と言った。最も会話は全てシバ語で行う気だったから、聞かれても相手がシバ人でない限り大丈夫だ。
タムリンはソロモンの私室にある椅子に、静かに座った。
「女王陛下の容体は?」
「もう落ち着いていらしっています。痛みもほとんどないようで……ソロモン王。貴方の薬の効き目は凄まじいですな」
「それは何より……」ソロモンは部屋においてあったレモン水を、タムリンにも勧めたが彼は拒否した。
「なんのご用でしょう?」
「うむ。シバの言い伝えについて一つ伺いたいことがな……本当は女王陛下に聞きたいところだったが、あれでは聞くに聞けまい」
それは、ただの言い訳であった。此れから言うことを彼女本人に聞いてしまえば、怪しまれるだろう。
「お宅の国には、精霊の伝説があるとか」
「はい」
「シバの伝承では、精霊とは……どのような姿をしているのだ?」
「どのような、とは?」
タムリンがピクリと眉をひそめて言いかえす。ソロモンは言葉を濁らせつつ、ぼそぼそと言った。
「ああ……そのだな、つまり、不定形なのかとか、動物の形をしているのかとか……」
タムリンの太い眉が、さらに動いたような気がした。
「動物、と仰いますと?」
「うーむ、例えば……」ソロモンも、無意識的にそれが出てしまった。「ロバ、あるいは山羊……」
その言葉を言ってしまった瞬間だった、タムリンはカッと形相を替え、椅子から立ち上がった。ソロモンもぎょっとした。このような反応が来ることは、予想だにしていなかった。
「あれを見たのか、ソロモン王!」
タムリンの口から、他国の王を敬う恭しい言葉はすでに消えていた。タムリンの目は、明らかに焦りに燃えていた。彫の深い瞼の中にはいったその老人の目は、色は濃かれど、確かにビルキスの目と似たような色合いをしており、典型的なシバ人の瞳がそれであることを物語っていた。
「あ、あれとは……」
「ビルキス様の脚についてだ!ソロモン、お前は、それを見たのか!」
しまった、とソロモンが思った時にはもう遅かった。タムリン大著はシバ王国の中でも女王に信頼荒れた重臣と聞く、彼女の秘密を知っていようとおかしくはないだろう。
昨晩見事な剣術戦を披露した腕に相応しく、老人とは思えないほどその腕の力は強固だった。ソロモンはなるべく声を落ち着かせて「……ああ、見たとも、見たから聞いているのだ」と言った。
「あらぬ誤解はしないでいただきたい。あくまで偶然の話だ。彼女が寝ている間、裾から蹄が見えていて、知ってしまったことだ」
「……そうでしたか」
タムリンはそれを聞き、ひとまずは落ち着いたようで、「取り乱して申し訳ありませんでした……」と聞いた。
「精霊がどんな姿をしているか、というお話しでしたな。精霊は基本的には、形はなく、知恵もなく、寿命もないもの、と言われております。ただ気に入った人間を心にとめた際、美しい動物の姿や、あるいは人間の姿に化け、人間に会いに行くと言われているのです。ですから、不定形と言う言い方が正しいでしょう」
「なるほど」ソロモンは言う。
「ビルキス女王は……精霊なのか?」
「これはこれは……イスラエル人は自らの宗教に誇りを持つと聞きます。他国の宗教概念にご関心を持たれるなど……」
「私はこの世の真理を、可能な限り知りたいまでのこと」ソロモンは言う。「あなたのおっしゃるイスラエル人的な宗教者として言うのなら、神がこの世の全てをおつくりになったのだ。シバ王国も、精霊すらも」
「……分かりました。お話しいたしましょう。水を拝借」
タムリンは、ようやくレモン水の御相伴にあずかった。髭をぬらしながらぐいとそれを飲み干すと、タムリンは言う。
「その前に一つ。ビルキス女王は……いいえ、ビルキスは、女王になる前から、私が知っていた娘です」
「なに」と、ソロモン。「あなた方はそれほどかかわりが深かったので?」
「ええ。ビルキスは……私の無二の親友、そいつの一人娘でした。そして母は……母は、わかりません。けれども、あいつがそう言ったのですから、精霊であったのでしょう。あいつは私に、嘘をつくことだけはありませんでした」


タムリンと、その親友ことアル・ヒムヤリの若いころ、シバ王国は、本当に砂漠の果てのつまらぬ小国でしかなかった、と言う。元はといえば、砂漠の略奪隊が作った拠点がシバ王国の原型だと言う。それだけに国民も、そんなに国に誇りを持っていなかった。略奪者であったころの血の名残だろうか、長旅する技術だけはあり、当時から細々とした行商が国の生業であった。
王がまた、代々よろしくなかった。身分にかまけて国の金を私欲のために使う、その私欲と言うのも酒に女にぜいたく品、と言った。駄目な君主の典型であった。
そのようなどうしようもなく腐敗していたシバ王国において、アル・ヒムヤリは心底国を憂い多いる優秀な若者であった。彼はその優秀さを活かしてとんとん拍子に大臣になり、政治に興味のない国王を献身的にサポートしていた。
アル・ヒムヤリについて語るべきところはそれだけでは無い。彼は、本当に美しかった。男のタムリンが見ても納得するほど、ほれぼれする美貌の持ち主。ひときわ輝くその金の瞳で見つめられれば、どんな娘もヒムヤリのとりこになるだろう、と当時持て囃されていた。
正直に言えば、王がそんな彼の事を内心快く思っていなかったことは知っている。好色な王には、自分ではなく自分の大臣の方が娘たちに色目を使われることは断じて面白くなかろう。そうでなくても、美男子は男に嫉妬されやすいものだ。空威張りした力でしか女を自由にさせられないような、本来は魅力のない男にほど。まあ、その程度の理由で左遷させるには惜しいほどのヒムヤリの手腕が、彼を大臣の座に居続けさせてもいたのだろう。
だが、そんなヒムヤリだが、当の彼は結婚などしようともしなかった。「私のような未熟者にはまだ早い」と言って、その美貌を使って浮名を流すこともなかった。その節制に満ちた態度がまた女たち、とくに節制も何もあったものではない王をしっている女たちの心を夢中にさせたものだが、その実タムリンには分かっていた。ヒムヤリは自分が女に相応しくないと思っているのではなく、女が自分に相応しくないと思っていたのだ。控えめな態度をとっていても、彼の心には確かにそのような傲慢があることを、旧来の親友であるタムリンは見抜いていた。それでも誰かに迷惑を欠けているわけでもなし、そう傲慢になるにふさわしい美貌と力があるのだから、問題はなかろうと、それを持って彼を嫌うこともなかった。
タムリンも結婚する気はなかった。彼はシバ王国中では裕福な口である行商隊の子供として生まれ育ち、小さなころから行商をやっていた。だが何年間も旅をし、そのあいだずっと夫を待っている母親やおばたちを見るたび、彼女らの顔にあまり幸せなものを見いだせず、自分が一人前になったら妻は作らないのが行商人たるものの美徳だ、と思っていた。
タムリンとヒムヤリが30を過ぎたころのある年、タムリンははるか東の国にまで行商に行くことになった。十年もの長旅になる予定であり、当時のシバ王国の国の規模からすれば、大変に責任重大な仕事だった。
「親友がこのような仕事を任されるとは、私も鼻が高いよ。気を付けてくれ。君の旅の無事を、アルマカ神に祈っているからね」親友アル・ヒムヤリはそう言って、その美しい顔をにこりとほころばせて青年だったタムリンを送り出してくれた。彼はタムリンが港を出る瞬間までいてくれた。

十年の行商は、長いようで短かった。タムリンの行商隊は空前の大成功をおさめ、国に帰還する手はずも整った。すでにタムリンは、旅先で行商隊のリーダーになっていた。
十年たって帰って来たシバ王国は、良くも悪くも変わりがなかった。不健康にでっぷり太ったまま老け込んだ国王に帰還をねぎらわれ、親戚連中に挨拶したのち、タムリンは親友アル・ヒムヤリの家に向かった。
「タムリン!」ヒムヤリは十年たっているというのに、もはや中年の年齢になっているというのに、全く思い出の通りのままの美しさを保っていた。
「聞いたよ、大成功だそうじゃないか……素晴らしい」
「お前に会いたかった。積もる話もある。家に上がってもいいか」
「もちろんだ!私も話さねばならぬことが……」
そう彼が言ってタムリンが家に上がろうとした途端、タムリンはある存在に気が付いた。彼女はじっと、物珍しそうな見る目でタムリンを見ていた。ヒムヤリにそっくりの、澄み切った金色の目。そして、彼のように、いや、彼よりもその身にまとう雰囲気は、水晶のように透き通っていて美しかった。
タムリンはどきり、とした、ヒムヤリはくすりと笑って「そんなところにいないで、挨拶をしなさい。お父様の大親友なのだから」と言った。
「お父様?」タムリンは素っ頓狂な声を上げて聞いた。ヒムヤリはにやりと笑って言う。
「紹介しよう。私の娘、ビルキスだ」
ビルキスと言われたその少女は、てくてくとタムリンの前に歩み出て、そしてぺこりと礼をした。
十かそこらの、年端のいかない少女だった。其れなのにタムリンは、この世でここまで美しい女性にあったことはない、という気持ちに襲われた。

「私に娘ができて、驚いているようだな」ヒムヤリはぶどう酒を傾けながら語った。
タムリンと別れた後の話であった。ヒムヤリは、王と共に夜の狩りに連れ出されたという。
狩りが禁じられているはずの、静かな満月の晩であった。
「精霊が誘惑すると言うなら、是非ともしてほしいもんだ」と王は息まいて、狩りに出かけたらしい。ヒムヤリも不承不承付き合った。彼はあまり、迷信を信じる方ではなかった。
王の安全を期して松明が点され、大勢の護衛も集まり此れでは静かな晩もあったもんではない、とヒムヤリが呆れている時だった。彼は、不思議な生き物を見つけた。
忌々しい山羊のようでも、穏やかなロバのようでもあるそれを、ヒムヤリは知らず、ただ言えることは、その生き物は非常に美しかった。ガサリと音を立てて、生き物は逃げた。彼はいつの間にか、ふらふらとその生き物を追いかけた。
どれほど歩いたのだろう。それも分からなくなって、しまいには王たちの喧騒も聞こえなくなり本当に静かな夜になった。その生き物は崖に追い詰められた。
ヒムヤリは矢をつがえ、それを射抜こうとした。そして、次の瞬間だった。その生き物は、美しい女性の姿になったのだ。
ヒムヤリは、弓矢を地面に落とした。今まで自分が馬鹿にしてきた、自分に釣り合う存在でも何でもないと思ってきた「女性」なるものが、初めて彼の心を焼き焦がした。彼女の美しさの前で、自分のちゃちな美貌など何に成ろうか。そんな想いすら、わいてきた。
彼の頭は真っ白になった。何も考えられない。感情の全てが消えたように、動かなかった。これを、人は恋と呼ぶのだ。彼には、強くそう思えた。
彼女が、何か口を動かした。何を言っているか分からなかった。人間の言語を彼女は話すことができないようだった。しかし、それでもヒムヤリの頭脳は、その言葉が自分を求めている言葉だと、自分に愛の言葉をささやいているのだとはっきり理解した。
ヒムヤリは、その眩惑の美女を腕に掻き抱き、口づけした。それから先は、よく覚えていないという。ただ、体中を幸福な快楽が包んだことをよく覚えている、とヒムヤリは話した。
意識が戻ったころ、夜は開けていた。ヒムヤリは、がけっぷちで独り、裸で寝転んでいた。ああ、あれは精霊だったのか、彼はその時はじめて思った。

王宮に帰ると、ヒムヤリが遭難したのではないかと心配していた、と同僚たちがねぎらいの言葉をかけてくれた。王は美しい精霊に会えなかったうえに猟自体も不猟でご機嫌が悪いが、まさかお前は精霊にたぶらかされたのではないだろうな、と言って。
ヒムヤリは笑っていいや、といった。たぶらかす?馬鹿な、あの伝説は間違っている。ヒムヤリははっきり思う。精霊が一方的に男を狂わす淫魔のような存在とするならとんだお門違いだ。自分たちは愛し合った。ただ、それだけだ。漸く、自分に相応しい花嫁を見つけた。
ヒムヤリはその日から、何度も満月の番が来るたびその場に通った。彼女は現れなかった。結局彼女は一度ヒムヤリにその姿を見せたきり、永遠に表れなかったのだ。伝説に語られる精霊が、男を故意に焦がすだけ焦がして、後を立ち去ってしまうかのように。
ただ、十か月後の満月の日だった。ヒムヤリが向かった崖っぷちに、一人の女の赤ん坊がいた。満月の光にてらされたその顔立ちの中に、ヒムヤリは、愛したあの精霊の面影を見た。
彼女は、自分の子を産み落としたのだ。
ヒムヤリはその子を連れ帰り、ビルキスと名付けた。

彼がタムリンに語って聞かせた奇談は、以上であった。

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