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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第七十一話



タムリンの話を聞き終わり、しばらくソロモンも何も言えなかった。
「野暮なことを、一つ伺ってもよろしいか」ソロモンは言う。
「あなたから、ときどき私をとがめるような視線を感じた」
「……!それは」
タムリン隊長自体は、どうやら気が付いていないようだった。ソロモンはふっと顔をほころばせ「いや、いい。責めるつもりはないのだ。そう言うことだったのか、と、納得したまでの事」と言った。
「なるほど。タムリン殿。貴方の心配は正しい。私は間違いなく、貴方の国の女王に慕情を抱いている」
ソロモンはあえて、堂々と言った。あたり前だが、タムリン隊長も言葉に詰まる。その言葉を言うことを遠慮させようという意図もあって、先ほどのような話をしたのだろうから。だが、ソロモンにしてもこの隊長への宣戦布告のような気持ちはなかった。ただ、自分が初めて得たこの情に、嘘をつきたくなかっただけだ。だからこそ、彼はこう続ける。
「安心してくれ。昔のあなたと私の間には、明確に一つ違いがある。私は、あの方を妻になどと望もうとは思わない。あの方の輝きとは、自分自身の脚ですっくと立っている、その瞬間そのものだ」
広い空を飛ぶ鳥の羽を、花の間を舞う蝶の羽を、何故無残にもぎとれるものか。ソロモンはその自分の感情も、非常に素直にタムリンに語った。穏やかな気分でさえあった。
タムリンは言葉を震わせ、絞り出すように言った。
「……ソロモン王。やはりあなたは賢者と言われるだけあって理性的ですな。昔の私ではかないもしなかった極地だ。……ビルキスを独占したいと考えていた、私では……」
確かに、もう自分の愛が、他のものがビルキスに感じる愛と違うのであろうということは承知の上だった。だがタムリンがさらに声をふるさせていたのは、何もソロモンの理性故だけではなかった。
「だが……あなたは賢者、それゆえ、愚者が気づくものには帰って気づかぬものですな」
「何の……ことだ?」ソロモンは言葉を詰まらせて、聞く。
「別に、貴方が彼女に焦がれようとも今さら私が嫉妬するものか!彼女が王となった十年前ならそうだったかもしれん、諸国に行くたびあの子の事をみだらな目で見る諸王たちに私がいくら嫉妬や、時に殺意を抱いたことか!だがそんなことはもはや問題ではない!ソロモン王、貴方の考察は正しい、実に正しいとも。ビルキスは男など介さずに自分で生きるから美しい、彼女の輝きの本質とはまさにそれなのだ、私もそのことをいつしか悟りましたよ。昔の私自身すらあざ笑ったほどに。男性を失ったことを、私は何ら後悔していません。そうあるべきでした。男にいくら焦がれられようとも、男に見向きもしない。美しき精霊の娘に相応しく……そんな彼女が、私の中で、心の底から愛でるものとなっていったのです……なのに……それだと、言うのに……」
ソロモンもそこに来て、ようやくタムリンが言うだろうことが大方理解できた。
信じられないことだ。もしも予想が外れても、自分はおそらく何もがっかりしはしない。
だが、一方でああ、そう言うことだったのか、と納得するものがあった。しんと静まり返った「レバノンの森の家」で、意識も、理性も、何もなしに、ただ感覚のみで行われたような、荒唐無稽な会話。あれが成り立ったのは、自分たちが、感覚だけで想いを交わせるほど、あの場で、心が近しくなれたから。

「ビルキスも、貴方を愛しているのです」

辛そうに、タムリンはそう吐き捨てた。いや、この隊長にとっては心底辛い事だろう。
狂わんばかりに惚れぬいた少女に拒絶され、その拒絶を受け入れられる形で見出した彼女への愛も、ついに否定されてしまったのだから。
「見てわかります。日増しにあの方は変わってきました。あなたの……あなたのせいで……」
「……なるほど。タムリン隊長。先ほど私から、女王の脚の話を聞いて激怒したのも、その思いがあってこそか」ソロモンの方は、冷静にではあるが、それでも隊長を刺激せぬよう、なるべく穏やかに敬意を込めて話した。
「繰り返すが、その件は全く、安心して下さってよろしい。神に……いいや、貴方達琉に太陽に誓ってもいいだろう。先夜も、今も変わらずに、私は妻一人しか女を知らん」
「……どうも、ありがとうございます」
彼女と言葉を交わすたび、魂が歓喜に躍った。あれは今にして思えば、ひなびた荒野で一人しかいないだろうと孤独に打ち震えていたところに、もう一人誰かに出会えたような喜びだったのだろう。そしておそらく、その相手も、手を取り合い、言葉を交わし、歓喜に打ち震えるはずだ。
タムリン隊長は、しばらく言葉が言えない様子であった。
「……イスラエルが非常事態であることは分かっております。私も、いくらなんでもこのような折、私的な感情を持ち込もうとは思いません。私にも、責任ある者としてのプライドがございます」
彼はようやく、そう言った。
「女王様と、これからの成り行きについて話し合ってゆきます。ソロモン王、お忘れなく。シバはあなたの国の盟邦です」
「うむ、恩に着る、タムリン隊長」
そうして、話は終わった。


「貴様、ハダド様の心配をせんのか!?」
レゾンはネバトにそう怒鳴りつけた。ツェルアはまた驚いて、部屋の端に隠れてしまう。彼女の息子は特に何も驚くことなく、かといってネバトに味方する様子でもなく、埃の積もった床に絵を描いて遊んでいた。
ネバトはネバトで、冷静なものだ。彼らは、ラバに向かう道中のネバトの使いから、既に連絡と指示は貰っていた。お前たちもラバに先に行っていてくれ、と。
「焦るな。だからアンモン王女のもとに匿われているのはお前も知っているだろう?大丈夫だ、奴も自分を簡単に売るやつに命を預けるほどの馬鹿じゃない。ソロモンが打ち取れなかった、私たちも危険だ。だからひとまず、私たちはラバに向かってハヌン様に住まわせてもらうのだ。今は革命の駒が減るだけでも惨事」
「それよりも王宮に行き、ハダド様を助けるのが先決であろうが!ベナヤが帰らぬうちに!」
「だから焦るな。ベナヤがいないとは言っても兵隊が皆いなくなったわけではない。当然警戒は強化されているに決まっているだろうが。下手に私達が来たのがばれるだけでも、ハダドが内部に居るのが悟られるぞ。そしたら、私達よりはやくハダドを手にかけられるのはあいつらの方だ。奴も隙をうかがうと言っているし、ハダドを信じよう」
ハダドもそう言っていた。ソロモン達は警戒を強めるはずだし、下手に事を荒立てるよりは体が治り次第ひっそりと脱出したい、と。だがレゾンは納得がいかないようだった。
「黙れ、此れだから貧民は!高貴なお方を心配すると言う常識すら持ち合わせんのか!」
「おい、旅支度はできたか?」
ネバトは取りつく島がないレゾンを無視して、ツェルアと息子に語りかける。ツェルアは一人で歩くのも困難だろう。荷車に乗せて運ぶことになる。ネバトは震える彼女を半ば無理やり引っ張って寝せ、筵をかぶせた。何かに隠れると、この女はひとまず落ち着くのだ。息子も、ぴょんと荷車に乗る。
「お前のような軍人と、私たちが一緒に居ても不自然なだけだしな。お前は後から来い。お前と手下たちで王宮に行きたきゃ行け。最も愚策だと思うが……」
そう言い残し、ネバトはがらがらと荷車を曳いて歩み出した。「おい!」と言うレゾンの声を、完全に無視して。

二日経ったとき、アンモンの、ソロモンの義父から使いが届いた。大変なことになったね、と義理の息子を心配する内容とともに、有るアンモン人が送られてきた。ハヌンの敬語を行っている人物で、医術の心得もある人物らしい。
「ナアマのために、護衛をつけさせてほしい。彼の事は昔から知っているし、このようになってまた精神が不安定になるかもしれないから、彼がいるとあの子も安心できると思うのだ」
入用なものがあったら何でも言ってくれ、と言う言葉で手紙は締めくくられていた。ソロモンはその手紙をじっくり読んだ後「よろしい。それでは後宮の妻の元へ行ってくれ。謝礼は私からも出そう」と言った。
「ありがたき光栄です」
彼はぺこりと頭を下げ、さっさと後宮に行った。

ベナヤも、帰る道中エルサレムの事は聞いていたらしかった。伝書鳩から、現在地を知らせる手紙がひっきりなしに届いていた。
だがベナヤが帰るより先に、エルサレム王宮の門を、まさか、と言う人物が叩いた。
「頼もう、ソロモン王にお目通りを!」
そう言って急いで現れたのは、ティルスの王ヒラムだった。
ソロモンも、当然驚いた。「なぜ、いらしったので?」彼は謁見室も通さずに直接王宮の入口までヒラムを迎えに行って問いかけた。
「なぜですと?あなたと私の中で水臭い」ヒラムは眉をしかめる。「貴国に入った不届きものの話は聞きました。それがおそらく例のハダドであろうことも」
「しかし……なにも、ティルスからここまで、それに、こんなに早く……」
「フェニキア人の移動技術を舐めないでもらいたいものですな!ソロモン王、それに、例のレゾンも来ているとのことではないですか。我らの交易の邪魔をする不届きものに、そろそろ灸を据えてやりたいと常日頃思っていたところなのですよ」
ヒラム王はふん、と鼻を鳴らした。
「すでに兵も待機させてあります。ソロモン王、しばらく御厄介になりますぞ。貴方の鎮圧に、乗っからせていただきましょう」
「なるほど……たしかに、あなたはレゾンに随分損をさせられている身でしたな。いや、心強い」
ソロモンも、納得して片手を差し出した。
「あなたならば信用できる。ともにハダド達を捕えましょう」
「うむ、望むところ」
「迎賓館に、まだ部屋は余っておりますので……」早速、ソロモンはアヒシャルを呼んで部屋の準備をさせにかかる。その間、ソロモンとヒラムはひとまず謁見室で話し合った。

「ところで相談が。ハダドが反乱を起こしたとすると……どうもこの件、計算が合わないところがあるのです」
ソロモンはエイラットの反乱の事も含め、つぶさにそのことを語った。ふんふうむ、とヒラムも真面目に聞いた。
「なるほど……たしかに、レゾンも大悪党とは言えど所詮は賊。そこまで安定した値の供給などでき無かろう。どこかの国の王がひっそりとパトロンになっているかもしれない……何か、心当たりは?」
「実はあると言えば……あります」
ソロモンは、少し以前に心に引っかかった事を話した。即ち、アンモンからの朝貢品の車が、その日だけ不自然に大きかった事。
「なんと!?」ヒラムも驚いた。それはそうだ。アンモン王家はソロモンにとっても身内だ。しかし「もっとも、私としてもそのようなことで堂々と疑えないが……」とソロモンが言ったあたりで、ヒラムははっと顔色を変えた。
「まった。アンモン王は確か……?代替わりしていませんでしたな?まだ、ハヌンですよね?」
「ええ。そのはずですが……」
「……ソロモン王、よしんば白とも言えませんぞ」ヒラムは真面目な顔で言った。
「あなたはまだお若いから知らないかもしれませんが……少なくとも若い頃のあ奴は、気性は荒くプライドも相当高い奴でした。私も奴が王子だった頃に数度会ったきりですが……」
「なに!?」
ソロモンも驚く。彼はハヌンの元手数年働いていたものの、ハヌンのそんな面は知らなかった。
「結局奴もダビデ王に征服されましたが、ただの国家間の勝敗のみならず、ひょっとして何かダビデとトラブルを起こしたという可能性も……もしそうであるなら、奴のプライドの高い本性が、まだダビデへの敗北を完全に忘れさせていないとは言い切れない」
「……イスラエルの記録に、残っていないだろうか」ソロモンはふと思いついた。もっとも公的な記録は戦争してどっちが勝った、負けたというごく味気ないもので、そんな裏事情などはわからないが……。
「待てよ。確か、ザドクが……」
ザドクに以前聞いたことがある。かつてソロモンの教育係りだったナタンが、イスラエル王国の歴史書を個人的に作成していたと。なんでもナタンの師である預言者サムエルが書いていたものを、書き足していたらしい。
ナタンの作ったものなど見たくないと宮殿の書庫に置いておいたままだったが……ダビデと近しかったナタンなら、なにか知っているかもしれない。
ソロモンは急いでヒラム王を待たせて、書庫に行き、ナタンの歴史書を引っ張り出してきた。それを謁見室に広げて、読み込む。ほどなくして、有る一節にソロモンはたどり着いた。
そこには目を疑う内容が書かれていた。自分の知っているハヌンとは別人のような、気性の荒い嫌味な王の姿。一緒に呼んでいたヒラムも、愕然としつつ呆れていた。
弔問に来ただけのダビデの部下たちを勝手に疑って、恥ずかしい思いをさせ、その報復として征服されてしまった……と言う、何とも救いようのない愚か者がそこにいた。
かねてより、ソロモンは少しだけ疑問に思っていた。昔の自分はなぜ、自分にまがりなりにも優しくしてくれたハヌンに心開かなかったのだろう。今まで、それはアドニヤに裏切られた直後の心が人を信じることを封じさせたからだろう、と解釈していたが、どうもそれだけではないかもしれない。彼のこのような本性を、昔の自分は何処か、本能的にうっすら嗅ぎ取っていたのかもしれない。
「……恨んでいるかもしれませんな。イスラエルの事を……」
「ヒラム王。……頼みごとがあります。良いですかな?」
疑わしく思ったとて、ソロモンもハヌンとは身内の身だ。まだ疑惑の段階で下手に動いても、リスクの方が高い。できれば全くの他人であるヒラムの方から、調査にあたってほしい。
ヒラムも「お安い御用」と快諾した。
「……ちなみに、ソロモン王。アンモンから兵などは?」
「アンモンからはもともと軍隊をなくして、イスラエル軍を駐屯させておりますから。……ああ、でもまあ、妻のもとに一人男が来ましたね、護衛兼医者だとか……」
「……このタイミングで。怪しい」
「やはり、そう思われますね」
「理由をつけてやんわりと追い返した方がいいのでは?」
「それもいいが」ソロモンは言った。「今は、泳がせておきましょう。アンモンがもし黒であれば、余計に」
ソロモンはそう語りながら、まだナタンの歴史書を読んでいた。他にも見当たるものはないか、と。その時、ふと気が付いた。アンモンとの戦の項目の間に、挿入された話しに。

ラバの攻略線に、自らは出向かなかったダビデ王の話だった。
彼はある日、水浴びしていた美しい人妻、バテシバを見染め、彼女と契った。
彼女の妊娠を隠さんと、軍人であった彼女の夫ウリヤを、最前線に送って殺した。
ナタンは神の言葉をもってしてそれを叱責した。ダビデとバテシバの間に生まれた子は、彼らの罪の罰を受けたかのように、病気になった。ダビデの必死の懇願もかなわず、その子はすぐに死んだ。
やがてダビデとバテシバは、二人目の子を作った。その名は、ソロモンと名付けられた……。

勇ましい戦争の合間に放り込まれた、異彩を放つ生々しい話。自分の産まれる直前の話。
ソロモンの誕生に関するその章の最期、書くのを迷っていたかのように、ペンを置いた跡があった。しかしナタンは、それを断念したようだった。ナタンは、何を書こうと迷ったのだろう。おそらく……その子も呪われていた。そんな内容だろうか。
改めてみれば、何とも救いのない話だった。愚かな話。ハヌンにも負けぬ愚かさだ。
自分は、この時代に、このようにして生まれてきたのか。まさに、このハヌンの時代に。
何とも妙な巡り合わせだ。ソロモンはそう感じた。

ハヌンの連れてきた医者は、勿論ハダドの治療のためにハヌンが送って来たものであった、
だが、その医者も舌を巻いた。
「木の上から落ちて全身を追っておいて、これほど早く治るものですかね…?」
ハダドも全く同じ疑問を抱いていた。
あのベリアルと名乗る謎の人物は、そもそも自分を落としたのですらないのかもしれない。自分は落ちた時、落下音すらしなかったのだから。
奴は何者だ?
ただの存在ではない。ただ、自分かソロモンかのどちらかと言えば、おそらくやつはソロモンの味方だ。
「痛みます?ハダドさん」
心配そうに自分に声をかけてくるナアマ。そんな彼女の手を取って、ハダドは低い声で言った。
「いいえ。何も問題はありません」
「ハダドさん、もうじき、ベナヤが帰ってきますわ。ベナヤは……本当に強い軍人なのですよ」
ベナヤ、と言う男の名前も、何回か聞いた。一応大切なことは伏せている様子だったが、どうもナアマは彼と並々ならぬ仲らしい。
嘆かわしい!誇り高きアンモン王女が、イスラエル人の中でも平民と不倫の恋をする程度の存在に落ちぶれてしまうとは。ハダドはそう感じていた。だからこそ、彼の存在はそう言った意味でも邪魔であった。
ナアマは、もっと自分の味方になってもらわねば。
「ナアマ様。その男をずいぶん信頼なさっている様子」
「えっ?ええ……」ナアマはぎょっとしながら言った。
「なぜ、イスラエルの男などに?やつも、あなたの王国を滅ぼしたダビデに仕えていた身でありましょう」
静かな声色で、ハダドはそう言った。ナアマは返しに困っている様子で、どもっていた。だが、どもるということは少なくとも、自分にこう言われればすぐには言い返せない証拠である、とハダドは見た。
事実そうだった。ソロモンに言われでもすれば大声で啖呵を切って言い返していただろうが、ハダドに言われると、ナアマは何か迷うところがあった。
「彼は」それでも、彼女は言った。「私を、わかってくれたんです……私の苦しみを……」
「イスラエル人に、侵略者に、何がわかる者か!」ハダドはそう言いかえした。
「奴は甘い言葉は吐いても、結局はあなたやあなたと同じ境遇の異邦人たちを蹂躙した存在にすぎないと言うのに……その甘い言葉が何のためか、考えたこともないのですか?」
そう言ってハダドは、ナアマの腕を取った。そして、その手の甲に口づけする。
「あっ」と、ナアマの声
「ナアマ様……」
滑らかに、ハダドは腕のをさかのぼるように、キスを滑らせていった。ナアマはじっとしながら、それを受けつつ、戸惑っている様子だった。
だが、ハダドの唇が二の腕あたり前に来た時に、ナアマもようやく我を取り返したかのように、彼を跳ね返した。
「ごめんなさい、ハダドさん、でも私……ベナヤの事は、信じているのです……」
そうはいっても、明確な拒絶の意志というほどのものでないことは、ハダドが一番見抜いていた。
「私よりも?」
「いえ、それは、その……」
ナアマは言葉に詰まったが、「失礼いたします!」と、部屋を後にしてしまった。
肝心なところまではいけなかったが、でもまあ、幻滅されてしまった様子にも見えない。あと一押しだろう。
ナアマには、良き協力者になってもらわねば困る。自分の言うことを何でも聞いてもらわなければ……。

「……にゃあ」
急に、猫の鳴き声が聞こえた。振り向くと、先日の猫がまた部屋の中をじっと見ていあと。
ハダドも少しイラッとした。手で追い払おうとすると、猫はさっと気に飛び移り、見えなくなってしまう。
「二度と来るなよ……!」
ハダドが吐き捨てようとした、その時だった。

後宮の下にある庭。黄昏時の夕日を受けて、一人の女性が立っていた。
イスラエル人ではない。流れるような長い黒髪を、ターバンやスカーフで覆わず、風になびかせていた。
ハダドの国でも、そういった格好は下品なものだった。しかし彼女のたたずまいに、一切下品なものは見られず、その艶めく黒髪は、ただただ気品と美に輝いていた。
ハダドは、彼女の事を見たことがなかった、いや、厳密に言えば一度あるのだ。だがその時、彼女はスカーフで頭を覆っていた。だから気が付かなかった。自分があの日ソロモンの代わりに弓で射抜いたに弓でいた女性が、これほどきれいな黒髪をしていたことなど。
ハダドは夕暮れの光の中、窓の外から見えるその美しい黒髪の後姿にいつしか見とれていた。と、ちょうど次の瞬間だ。ポッポ、と鳴いて、ヤツガシラが飛んだ。
彼女はくるり、と振り返り、そのヤツガシラを指先へ止めたのだ。
その瞬間、彼女の姿を目にした時、ハダドは時が止まるかと思った。

自分にとって、女性とは、いつでも将来の復讐を果たすための物。
エジプトで娶った妻も、ナアマの事も。
だから女性を美しいと思ったことなどなかった。そのような余計な感情を持つことは、恥であるとすら思っていた。誇り高きエドムの復讐を色気ごときで忘れるほど、情けない人間ではないと思っていた。
だが、それもこの時までだった。
美しい。彼は、心の底から、彼女の事をそう思った。彼女の風貌も、長い黒髪も……彼女が首に飾っている見たこともない青緑の宝玉の輝きですら、全てがハダドの目を奪った。
ヤツガシラを掌に抱き、彼女がふわり、と優しく微笑んだ。そう、その時……そのただ一瞬だけ、復讐だけに心血を注いできたハダドの頭から、イスラエルの事も、エドムの事も消えた。
窓の外に見える、黄昏時の夕闇に包まれて、少しずつ消えていく、美しい女性。彼の意識には、ただ眼を通じて送られてくる彼女の映像以外はいる余地はなかった。
やがて日は落ち、彼女はすっかり見えなくなった。

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