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クリスマス市のグリューワイン

The Princess of Sheba 第一話



イスラエル王宮の渡り廊下は、白い朝日の光に包まれている。暑い国とはいえ、寒い夜からあけたばかりの明け方の空気はまだひんやりとしていて、三階の廊下にも届く樫の木の葉には露が張り、それが朝日に一層輝いていた。そのような中、イスラエル王国第十王子のソロモンは書物を胸に抱きながら、ひょいひょいと軽い足取りで王宮の最上階にある一室を目指していた。
こつこつと彼が扉を叩けば、「誰だい?」と、落ち着いた、とても優しそうな声。
「ソロモンです。兄上。入ってよろしいですか?」
「勿論いいとも。おいで」
その声とともに、ソロモンは勝手知ったるその扉を開く。広い部屋の中にある豪奢な寝台に、とても落ち着いた顔をした、青白い顔の男が寝そべっていた。
「ずいぶん早起きだね」
「兄上も。今日は、お身体の具合がよろしいので?」
青白い顔の男、キルアブはゆっくりと薄い寝巻一つにくるんだ上体を起こした。「なんとかね」
彼はそう告げ、穏やかに笑った。彼は、ソロモンの兄、ダビデ王の王子の中で最年長であり、当然次期王位継承者である。しかし、彼は生まれつき体が弱かった。特に最近は容体が悪く、ほとんど寝たきり生活だ。
ソロモンは彼の手つきに促され、寝台のすぐそばにおいてあった椅子に腰かける。「おすすめされた書物、とても面白かったですよ」と、彼は書物をキルアブの前に突き出した。キルアブはと言えば、薄い色の目を興味深そうに輝かせ、驚いたように弟に言う。
「読めたのかい?これはアッシリア語の書簡だよ。驚いた……君は、本当に賢いね」
「兄上ほどではないですよ。それに兄上が、アッシリア語を教えて下さった結果です」
「ははは、子供が謙遜するものじゃない」
キルアブは、そっと色白の手を伸ばして弟の頭を撫でた。ソロモンはこの兄にそうされる瞬間が、何よりも好きだった。
父は戦争や政治で忙しく、ほとんど息子たちにはかまわない。王位継承権には程遠く、年齢もまだ十四歳のソロモン相手ならばなおさらだ。母は後宮に居てめったに話しはしないし、兄弟たちは、往々にして彼の事を見下してかかる。ただこのキルアブは別だ。この優しい次期イスラエル王は、ソロモンの事を何よりも可愛がってくれた。
「君は、本当にできる子なんだから」
彼が笑顔で励ましてくれるたびに、ソロモンは心が満たされる思いだった。
彼の母は、ダビデ王と不倫の愛をした。つまりソロモンの母にはもともと夫があったのだ。彼は物心ついてからずっと、そのような自分の両親の事情を言い聞かされてきた。
王をたぶらかした売女の息子、そんな汚名を背負ってソロモンは育ってきた。このキルアブが目を留めてくれなければ、今のようにあたり前に自信を持って、生き生きと暮らすことなどできなかったのではないかとすら、思えるほどだ。
「ありがとうございます……ですが、数か所、実はわからないことがありまして。兄上にお伺いしたいと……構いませんか?」
「もちろんだよ。どれどれ?」
パサリと広げた書物の上に、ソロモンはゆっくりと指を走らせた。「ああ。これかい。これはね……」と、キルアブは彼が思いつきもしなかった読み方の方法を教えてくれる。なるほど、彼の説明ならば納得もいった。
「ありがとうございます!分かりました」
「いいよ。君が気に入ってくれるなら、何よりだ」
キルアブはそう言って笑い、外を見つめた。
「お父上は、立派な軍人だ。それにアブサロムやアドニヤも……それは、とても良いことだよ。でもね、ソロモン。何度も言うけどね……これから先は、学問も非常に重要になってくると、私は思うんだ」
キルアブはそう、改めて自分自身の心情を弟に語って聞かせた。
「君はその才能があるんだ。だから私は、君には学問の道を行ってほしい」
「ええ、僕もそのつもりです」
キルアブはもう一度、ソロモンの頭を撫でる。
ソロモンに学問を教えてくれたのは、この兄だった。体が弱くて他の王子がするように戦場に出たことなど一度もない彼が見出した楽しみである学問を、彼は弟にも分けたのだ。そしてそれを通じて、彼はソロモンの自己肯定感も育ててくれた。「売女の子だって?誰が君にそんなことを。バテシバとお父上は真剣に愛し合って君を産んだのだよ。バテシバには会ったことがある。美しいだけじゃなく、立派な女性だ……ねえ、君はそのような立派な両親から生まれて、こんな素敵な才能も持っているんだ。誰が、君を馬鹿にする権利があるものかね」……そう語る彼の姿は、ソロモンにとって本当に救いだった。
彼のような優しい王に将来統治されるイスラエルの人民は、きっと幸せだろう。いつかイスラエル一の学者になって国王の兄を支えることが、ソロモンの夢だった。

太陽も登り切ってくると、宮殿内は一気に忙しくなる。特に今日は、ダビデ王と王子たちが戦地から帰ってくる日だ。
今度の戦も勝利に終わったと知らせが入って、宮殿が喜びに包まれたのはつい二日前のこと。キルアブも病室で非常に喜んでくれた。
「今日の宴には出られそうですか?」と、ソロモンは兄に話しかける。キルアブは痩せた顔を少しだけ残念そうな色に染めて、小さく言った。
「私もそうしたいんだけれど……医者から許可が降りなくてね、無理そうだ」
「父上も、がっかりなさると思います」
「私の分まで父上によろしく言ってやってくれよ、ソロモン」
そんな話をしていると、ノックの音が聞こえた。
「キルアブ様、入ってもよろしいでしょうか?」
玉を転がすような可憐な声は、キルアブにとってもソロモンにとっても実に耳になじみのあるものだった。「ああ、頼む」キルアブがそう言うと、扉が開き、声に似合いの愛らしい容貌をした若い娘がにっこり笑いながら入ってきた。「あら、ソロモン様!いらしていたのですね。おはようございます」と、彼女はソロモンの方にも問いかける。ソロモンは兄の寝台にいちばん近い椅子をさっさと彼女に明け渡した。彼女は礼を言ってそこに座ると「お加減はいかがですか、キルアブ様?」と優しい声で問いかけた。「昨日よりは良くなったようだ」と、キルアブは静かに答える。
彼女の名前はアビシャグと言った。シュネム地方の貴族の娘で、王宮仕えをしている身だ。本来はダビデの側仕えとして雇われたが、彼の指示で、キルアブの看病も彼女の役目になっていた。
彼女が美しいのは先述の通りだが、それ以上に優しく、思いやりのある女性だった。ダビデが病弱な息子に彼女をあてがったのも、彼女のそう言うところあってなのだろうと言うことは容易に想像できた。ソロモンも、そんな彼女に憧れに近い好意を持っていた。だが一方で彼は、そのアビシャグ自身が持っている感情についてもすでに察していた。キルアブを、病弱ではあっても賢く穏やかな、軍人の兄弟たちとは全く違う、しかし包み込んでくれるような柔らかな魅力を持つ王子を献身的に支える彼女の眼は、いつもとても美しく輝いていたからだ。それに対して、特に嫉妬のような感情も抱かなかった。
キルアブに妻はない。男は勇敢で雄々しくあるべき、と言われている世間一般の価値観からすれば、彼の姿はけして良くは取られまい。だがそれでも、この兄には魅力がある。それをこの目の前の素敵な女性が理解してくれていることが、ソロモンにはむしろ、非常に良い事であるかのように思えていた。
今日は本当に良く晴れた日で、東から南に移ろいつつある太陽の光は、容赦なくキルアブの青白い肌を照らした。
「キルアブ様、眩しくはありませんか」アビシャグが心配そうに言った。「カーテンをお閉めしましょう」
「いや、いいんだ、このままで」キルアブは日光にあたり、そう返した。「気遣いありがとう。でも、私は今、太陽の光を浴びていたいんだ」
「承知しました」
アビシャグはそう言い、カーテンにかけた手をそっと離した。


やがて昼間になったころ、王宮にも、騒々しく鳴り響くラッパやシンバルの音が聞こえてきた。ダビデ王の凱旋だ。
王都エルサレムの民は喜び勇んで、戦車の上の王と、それに連なる王子たちを歓迎した。「偉大なるダビデ王、万歳!」と言う喝采に手を振る父親の後ろで、一人の王子は浮かなさそうな顔をしていた。長く伸ばした美しい髪の毛をたなびかれた美青年、アブサロムはその喧騒を、どこか物思いにふけりながら俯瞰してみているようだった。
「どうしたんです、兄さん?」アブサロムの隣から、また別の王子が声をかける。アブサロムのすぐ下の弟、アドニヤだ。
「耳を澄ませてみなさいよ、あなたへの声もいくらでも飛んでいる」
それは全くその通りで、湧き上がる歓声の中には「アブサロム万歳!」という声もいくらも混ざっていた。無理はない。アブサロムはダビデの王子の中でも、ひときわその武勇で知られた王子なのだから。だがアブサロムはと言えば、やはり浮かない顔で力なく「……ああ」というばかり。
アドニヤの方はと言えば、先ほどから降りかかる歓声に愛想を振りまいているのに、アブサロムは全く上の空だ。アドニヤはやれやれとため息をついた。全く彼は相変わらず、突発的に落ち込む癖がある。
行進も進み、彼らは王宮についた。王宮のものは総出で、王とその軍隊の帰還を出迎える。「おかえりなさいませ!」と、後宮の女性たちや、幼い王子たちも出てきた。ソロモンもその中にいた。
ダビデは戦車を降りると、自分を出迎える家族には一応の返答程度しかせず、早々と王宮の中、自分の王座に向かって歩いていく。憂鬱ぎみのアブサロムもまたしかりだ。アドニヤの番になってようやく、出迎えてくれた家族たちにねぎらいの言葉が発せられた。
ダビデは高官や祭司たちがずらりと並ぶ大広間の中心に添えられた玉座に厳かに座った。久しぶりの主君の帰還に、金の王座も喜んでより輝いているかのようだった。ダビデの家族たちも大広間に並び、王の発言を待つ。
「この度の戦も、勝利であった」ダビデ王は威厳を込めて、良く通る声で言った。
「わが優秀な部下たち、王子たちのおかげだ。そして私の留守中、城を守り通したお前たちのおかげだ。王として今一度、お前たちに礼を言おう」
ダビデはこういった男だ。冷たく傲慢な男ではない。優しさも思いやりも多分に持っている。だが父としては話せない。王座に座った時、王としてのみ、自分たちに向かい合える男なのだ。それに誰も異は唱えない。ソロモンも兄弟たちと一緒に父に頭を下げ、じっとダビデの演説を聞いていた。
「そして……今日は、客人があると聞いた」ダビデは演説が終わったころ、そう言った。
「この度の戦で、わが国の事を聞きつけ、援助を送ってくださった国の国王陛下だ。我らがイスラエルと同盟を結び、良い関係を築きたいと、今日参られるそうな……私も王として、喜んで彼と彼の国を受け入れ、良好な関係を築きたいと思う。参られよ」
ダビデがそう言うと同時に、大広間の入り口から入ってくる姿があった。ダビデにも負けず劣らずの立派な服に身を包んだ、威厳に満ちた、いかにも良い身分の男性だった。傍らには少女を連れていた。同じように立派な装い、またその年齢から、彼の娘であるのだろうということは容易に想像できた。
「はじめまして。シェバ王国国王、シェバ十三世と申します。こちらは、私の娘ニカウレにございます」
その男は娘とともにその場にひざまずき、「この度のご厚意、ありがとうございます。ダビデ王。まず、あなた様の戦の勝利を心より祝わせてくださいませ」と言う。
「良い。堅苦しい挨拶は無用。あなたの援助のおかげで、この度の戦の勝利があったのだ」ダビデは威厳と優しさをないまぜにしたような口調で、シェバと言う男に語りかけた。
「ぜひとも、我が国と良好な関係を結んでくれたまえ」
「は、ダビデ王。そのお言葉、ありがたく思います」
シェバは立ち上がり、ダビデとともに握手を交わした。だが王宮に居た殆どの人間の目線が行き着く先は、そこにも、彼らの後ろから出てきたシェバ王国の贈り物のもとにもなかった。
後ろでじっと、自分の父とダビデ王を見つめているシェバの娘、ニカウレ。彼女の存在は、大広間中の人間の視線を釘づけにしていた。彼女は、美しかった。信じられないほど、美しい少女だった。
彼女の肌は、その場に居る誰よりも白かった。光輝かんばかりの真っ白な、絹のように滑らかな肌をしていた。その真っ白な肌にくるまれた、慎み深く伏せられたその顔が完璧なまでに整っていることなど、遠目から見ても誰にでも分かった。人間とは、ああも美しくなれるものだろうか。それも、まだ年端もいかない少女であるというのに。艶やかに伸びた、癖のない真直ぐな髪は、また珍しい色をしていた。まるで炎のように、その髪の毛は赤かった。赤毛の人間と言うものを、イスラエル人はめったに見ない。イスラエルにいる人間の髪はたいてい、黒色だ。朝日のような白い肌と夕日のような赤い髪の毛を持った彼女は、イスラエル人にとってはまるで異常と言うべき他はなかったが、その異常は、彼らの魂を抜くほど、美しく光り輝いていた。彼女はその視線におびえることも、うろたえることも何もなく、ただただ父たちの会話を後ろでじっと見守り続けていた。

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