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クリスマス市のグリューワイン

The Princess of Sheba 第五話

「昔、俺達にはアムノンと言う兄がいた」彼は話し始めた。
「武術はまあできたが……余り、大した兄ではなかったね。それどころかコンプレックスまみれの、鬱屈した兄だった。死んだ今だから言えるけれどさ。図体ばかりでかくて、俺やアブサロムみたいな色男では断じてなかったからね。そのことをずっと気に病んでたのさ」
「まあまあ……」呆れたように、ニカウレは言う。アドニヤも我ながら、自業自得とはいえ死んだ兄をこうも悪く言えるものかと思った。
「でだ……彼は、ある女の子に懸想してたのさ。それも、自分とは少々年齢の離れた……全く馬鹿な話で、やつは第一王子なんだからさ、遠慮なく彼女に言い寄ればよかったのに、それができなかったんだ。嫌われるのが怖かったのと、そんなことするのはプライドが許せなかったんだろ。いつか彼女の方から自分を好きと言ってくれて自分がそれを受け入れる、好かれる努力もしていない不細工のくせにそんな妄想ばかりしていて……そのくせ自信がないからかえって嫉妬深くて独占欲ばかり勝手に燃やしていた」
「なんでそんなことを知っていますの」
「奴、アブサロムの事は大嫌いだったしキルアブ兄さんはその時から体調が悪かったのさ。だから酒の相手はいつも俺だったわけ。酔った勢いで、飽きるほどくだらない恋の嘆きを聞かされた」アドニヤは笑った。
「まあ、でもとある日……ついにあいつは、その子を犯してしまった。でかい図体横たわらせて、仮病を装ってその子を看病に呼び寄せてね……怖いだろうねえ、あどけない少女が、あんなむくつけき大男に力づくで抑えられて好き放題されるなんて……彼女はね、当時十四だったんだよ。君と同い年さ。……で、こんな話して君、大丈夫?」
「あら、全然大丈夫ですわ」ニカウレは言葉通りけろっとしていた。「話を続けてくださいな」
「気丈な子だね」アドニヤは頭を数回掻くと、続けた。
「結局その子は、心に傷を負って数日後川に身を投げたよ。自分の身に何があったのか、同じ母から生まれた兄にだけ知らせてね……で、その兄が」
「アブサロム王子様?」
「そう言うこと」アドニヤはニカウレを指さして言った。
「父上はなぜかアムノンの兄上を罰しなかった……それに、ことがことだから堅く口止めしたのさ。いつか自分の跡を継ぐ第一王子だし、こんな醜聞広めるわけにはいかなかったんだろ。その妹、タマルが川で死んだのは事故死で片づけられた。……でも、アブサロムが許したわけないよな。結局その後、ことが忘れられたころに、アブサロムはアムノンを殺してしまったってわけだ」
「納得いきましたわ」ニカウレは深くうなずいた。
「先日アブサロム様が怒ったのは、本当に最もですわね」
「まあ、気にする必要ないだろ。あいつはあいつで、気味が悪いくらい妹の事を愛していた。……まるで、兄妹の域を越しているかのようにね」
「あら、本当ですの?」
「本当さ。他の女には目もくれず、日がな一日妹の事ばかりじっと見てた。それこそ、彼女を犯そうと虎視眈々と狙っていたアムノンにも負けず劣らずにさ……」
そのことを聞いて、ニカウレはエメラルドの瞳を泳がせる。アドニヤはそれを見てクスクスと笑った。
「まあ、何にしてもアブサロム兄妹もさることながら、アムノンの兄上は不運な人だったよ。俺たちみたいに美しく生まれなかったからね」
「美しく生まれなくては幸せになれないとおっしゃるの?」
「とんでもない!この世はそんな絶望の世じゃないよ。けどアムノンに至っては別さ。彼は醜いことを、絶対の不幸と信じ込んでたんだから。自分が美しくないから劣っているんだって信じ続けて、そのせいで勝手に歪んで、勝手に命を落とすほどなら、美しく生まれてきてこれらの何の問題も起こらない人生の方がはるかに有意義だった!」
で、とアドニヤは彼女の肩に手をかける。
「まあ、俺の部屋に来てこんな殺伐とした話だけして帰る法もないだろう……。酒、飲めるかい。蜂蜜酒だから味はきつくないぜ」
「いただきます」
ニカウレはそう微笑み、アドニヤの手からグラスを取った。


ぼんやりとしていたキルアブの耳に、音が聞こえた。あの力が有るんだか無いんだか分からないような音は、アブサロムのものだった。
彼はキルアブが返事をするまで待つこともなく、入ってくる。
「兄上。お加減はいかがですか」
「今日は悪くはない。……君が来るなんて、珍しいね」
「明日あたり帰ろうと思っているので。兄上の顔も久しく見ていませんから。最後に顔だけは見せようかと」
もう帰るのかい?と言おうとして、キルアブは慌てて口をつぐんだ。彼は目が虚ろだ。また落ち込んでいるのだろう。長居はしたくないはずだ。
「心を病むと、体までおかしくなるよ。ものの本にもそう書かれている」キルアブは言う。「帰るのはいいことだ。屋敷に帰って落ち着くまで、ゆっくりしたまえ」
はい、とアブサロムは返して、顔だけ見せるという言葉通りそっけなく帰ろうとする。彼はあれ以来、兄と名のつくものすら嫌悪してしまったかのようだ。本当は自分とも話したくなどないのだろう。こうして来るだけ、まだ義理堅い。
「……あの、兄上、本当にお加減は良いのですか?」
だが、彼は去り際、そう言ってきた。
「ああ、そうだけど……」
「いいえ、普段よりぼうっとしておられましたもので……失礼いたします」
そう言って彼は、後は振り返りもせず真直ぐに去っていってしまった。それを見て、若干キルアブも決まりが悪くなる。
確かに彼の言うことは正しい。昨日から、熱はさっぱりないのに、熱に浮かされたように妙に頭がぼうっとする。何かものを考える気にもなれなかった。そう言えば、朝薬を持ってきたアビシャグにも同じことを言われたような気がする。

夕方になった。やたらと晴れた夕方で雲一つなく、太陽は夕焼け雲などに頼ることなく、その真っ赤な光を届けていた。
今日も戦勝祝いの宴があるのだが、アブサロムはもう、そこに出る気も起きなかった。かまわない。他人が笑っている声を聴くだけで、もう気が狂いそうだ。
何故、タマルは幸せになれなかった。あんな醜い兄に欲望のまま犯されなければならなかった。あんな宴会に出ている人間すべてを合わせても彼女に比べれば何千、何万分の一ほどしか価値もない、それほど清く美しかった自分の妹が。タマルが嘆いて死んだのに、お前たちのようなくだらない人間たちがゲラゲラ笑って生きているなんて理不尽だ。アムノンを殺した時のように、宴会場で剣を抜いて暴れてしまいそうだとアブサロムは心底思っていた。
「(なぜ、私は薔薇園を目指しているんだろう……)」
そこに自分の望むものなどあるはずないのに。昼間見かけたあの影を求めて?あれが本物のタマルでないと分かった時、自分の心は何倍も、何倍も悲しくなったのに。でも一方で、その一瞬、ただ一瞬の嬉しさを求めてしまう自分がここにいるのだ、と言うこともアブサロムにはわかっていた。
白い薔薇が咲いている。桃色の薔薇も、赤い薔薇も……花を愛した彼女のために、薔薇の名産地であるシャロンから株ごととってきて植えた薔薇が……。
そして、彼女はそこにいた。薔薇の中にたたずんでいた。真っ白く咲いた薔薇を静かに眺めながら、夕日の中にじっとたたずんで……こちらを見ていた。彼女はどこに居ても、アブサロムを見つけた。アブサロムがどこに居ても彼女を見つけたように。
アブサロムの胸が高鳴る。だがそれは興奮と歓喜だけではなく、不安の鼓動でもあった。そうだ、こんな時、いつも別の男がいた。自分の他に彼女を見つめている別の男が。汚らしい男が。自分が、あいつに気付いてやれたら、もっと……。いけない、彼女を、彼女を見せてなるものか……!
「タマル!」
彼は駆け出し、夢中になって薔薇園の少女を抱きしめた。守ってやる。お前は私が守ってやる。汚い世の男どもに、お前を二度と汚させはしない……。
「……様」
彼女が自分の胸の中で呟く。ああ、怖いんだな!怖いんだな!そうだろうそうだろう、お前は汚れた視線が怖かろう!世の中のなにもかもが、お前を猥雑な目で見ている。そのことが怖かろう!
「ああ、お兄様だよ、お兄様だよ……お前のお兄様がここにいるよ!」
「もしもし、アブサロム様?」
その声を着て、アブサロムははっと我に返った。自分が抱きしめていた少女の髪は、燃えるような赤色だった。アブサロムはぎょっとして慌てて離れる。
しまった。賓客である少女に、なんていうことをしてしまったのだ……。だが、アブサロムは恐怖と羞恥心、彼女に対する申し訳なさ以上に、畏怖のような感情を覚えた。得体の知れないものに人が感じるような感情を。なぜだ?自分がタマルと他の少女を見間違えるはずがない。だが確かに自分の目には見えていたのだ。彼女の髪は赤ではなく、自分と全く同じ黒髪に見えていた。あの中にいたのは確かに、可愛い妹タマルだった……。
だが、それはそれとしてこの現状の方をどうにかしなくてはならないのもまた事実だ。年端もいかない少女に勝手に抱きついた。しかも相手は敬意を払わなくてはならない、他国の王女。どう言い訳しても、彼女が声を上げれば無傷で済む状況でもあるまい……あの時とは違う。アムノンは、第一王子だったのだから……。
「す……すまない……私は、その……」
「どうしました?」
ニカウレはうろたえるアブサロムとは裏腹に、不思議な表情をしていた。彼女は全く怯えても、軽蔑してもいないようだった。彼女は髪を掻き上げ、右耳に乗せる。アブサロムははっとした。タマルが自分と話す際に、しょっちゅうしていた癖だ!
「私が、そんなに妹様にそっくりに見えました?」
「あ……ああ。そうだ。そっくりで、つい……」
実際、言葉に出すとそのように思えた。タマルのように彼女も美しい。タマルがいなくなった時と年齢も同じだ。髪や眼や肌の色は違っても、背格好も同じくらいで……声まで似ているように思えた。一度そう思ってみると、どんどん、彼女のイメージがタマルにかぶって見える。
「い、妹も君に会えたら喜ぶだろうね、はは……」
「妹様の事、うかがっているんですよ、私」
その言葉に、アブサロムの肩が跳ね上がる。
「不幸な事故がおありでしたのね……川で溺れてしまうなんて」
「あ、ああ、そうだな……」アブサロムは長い髪を弄って気をそらそうとした。「不幸な事故だった……実に、不幸な事故だった」
彼はため息をついた。だが不思議なもので、彼の眼にはあの日の、川の藻にまみれた無残な妹の水死体の姿が浮かんでいたのに、この目の前の少女を見ると、あれはただの白昼夢ではないかと思えてしまった。
「そんなにびくびくなさらないで。アブサロム様は父が友好国にと望んでいる国の王子様なのですもの。いやらしい気持ちなんてなかった事は百も承知ですわ」ニカウレは微笑んで言う。
不思議なものだ。アブサロムは疑問に思った。先日大広間に立っていた少女は、もっと大人っぽくて堂々としていたような気がする。だが、目の前の彼女はあどけなくて、言葉がしっかりしている割にその高い声は頼りなくて……まったく、自分の後ろをちょこちょことついてきた妹そっくりに見えた。
そこを、アブサロムはたまらなく愛おしく思った。タマル、と彼はまた声を上げて呼びたかった。
「ありがとう……助かるよ」アブサロムは言う。
「その……ぶしつけな出会いをしてしまったが、これからも仲良くしてもらってもいいかな?」
「ええ、勿論。アブサロム様」
アブサロムはその言葉に出かけた言葉を飲み込んだ。「……そんな他人行儀な呼び方は、しなくていいよ」と言いたい自分を見つけてしまったのだ。だがまさか本気で言えるはずもない。
「ありがとう」
彼はそう言って頭を下げる。だが、その頭にふわりと何かが被せられた。
取ってみると、それは薔薇の冠だった。タマルがいつも編んでいたものと、色合いも、編み方のくせも、不自然なほど何もかも同じだった。

その日の晩餐にアブサロムが急に表れて、一同は驚いた。戦から帰って来てますます情緒不安定気味だし、もう日暮れとともに帰ってしまったのでは、少なくとも部屋で独りで夕飯を取るのだろうと誰もが思っていたからだ。
だが彼は全くすっきりした顔で席に着き、給仕に自分の分も料理と酒を持ってくるよう命令した。
「良い顔になったな」隣に座るダビデが言った。
「はい。ようやく今度の憂鬱もとれまして……」
「それがよかろう」ダビデは淡々と告げる。
「ところで父上……二日だけと言うお話しでしたが、気が変わりました。もう少し長い間、王宮に滞在させていただいてもよろしいでしょうか?」
彼はよどみなく言う。上の王子たちはその言葉を聞いて声には出さねど驚いた。いつもは人を食ったようなアドニヤまで驚いた顔をしている。アブサロムは憂鬱が取れたところで、王宮に好きこのんで近寄りたがりはしていなかった。無理もない。第一王子と……国王に、彼は愛しい妹を殺されたも同然なのだから。
「ここはお前の育った家で、お前は私の王子。お前がいることに何の不都合があろうか」ダビデは相変わらず、淡々と言い返した。
「好きなだけ滞在しろ」
「ありがとうございます……国王陛下」
彼はようやく自分のもとに運ばれてきた杯で、父と小さく乾杯した。
彼はじっと、シェバの隣に座るニカウレを見ていた。それをアドニヤが見つめる。面白そうに笑って。
「どうしたんです、兄上。馬鹿にあの子を見つめますね」
「タマルのように愛らしい……そう思わないか?」
「は?ご冗談を。兄上の目は節穴ですか。あっちの方が、タマルの何倍も美人でしょう」
その言葉に、アブサロムは一瞬で怒り、彼を激しく睨みつける。だが、ダビデが一言「いさかいを起こすな、アドニヤ、お前が悪い」と言ったので、それ以上アブサロムも何も言えなかった。
「……申し訳ありませんでした、兄上様!」
「……以後、気をつけろ!」

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