FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

The Princess of Sheba 第六話

ふわりと薔薇の花弁が飛び交うイスラエル王宮の宮殿を、早足で駆け抜ける姿があった。ニカウレだ。彼女はもうすっかりイスラエル王宮に慣れてしまったと見えて、まるで生まれた時からここに住んでいるように自由に飛び回っている。
だが彼女が小さなサンダルで一生懸命石畳の床を走っていると、不意に長く伸ばした黒髪を翻し、アブサロムが駆け寄ってきた。
「ほらほら遅いぞ、全く……そら、捕まえた!」
アブサロムに捕まり、ニカウレはケラケラと面白そうに笑う。その様子を遠くから見ている周囲も安心している。あの王女が来てから、アブサロムは目に見えて機嫌がよくなった。まるで……こう言っては何だが、タマルの生前のように。違うのは、いつもタマルを物陰から、恐ろしい、執着に満ちた目で睨みつけていたもう一人の王子の姿がないことくらいだ。
「ああ……楽しかった。やっぱりアブサロム様は足が速いですわ」
まあねと答えながら、アブサロムは思う。タマルも自分と駆けっこをするのが好きだったっけ。自分が追いつくと、いつも悔しそうに、そして面白おかしそうにケラケラと笑っていた……。
ふうとため息をついて、アブサロムは彼女を東屋の中の椅子に座らせた。「飲み物か、菓子でも持ってこさせようか」とアブサロムが言うと「いいえ、アブサロム様ともっと二人きりでいたいですわ」と彼女は返してくる。
「私とね……ふふ、君は美しいが、また年端もいかないと見える。そのようなことを他人の男に、気安く言うものではないよ」
アブサロムはそう思う。そもそも、タマルはアムノンに優しかった。自分がいくら言っても、アムノンの事を良い人間だと信じていた。自分にコンプレックスのあったアムノンの眼にはきっと、それが非常に貴重で崇高なものと映ったのだろうが……それがあんな結果を生むなら、優しさなどなくてもよかった。
そう思うとアブサロムはまた少しだけ憂鬱気味になってしまう。目の前の少女は首をかしげて、悪びれていない様子であった。もう少し言葉を続けようとしたアブサロムの言葉をさえぎって、彼女は言う。
「だって、アブサロム様はお兄様みたいなんですもの!」
「……え?」その言葉に、アブサロムは固まる。「兄がいるのかい?」
「いません。だからずっと憧れていたんですわ。アブサロム様は、私が欲しいと思っていたようなお兄様にそっくり」
「そ、そうかい……」無邪気に笑う彼女の顔にアブサロムの顔もほころぶ。「嬉しいよ……私も、君の事を妹のように思っていたところだ」
彼女の言葉がアブサロムには確かに嬉しかった。まるで目の前の彼女が、どんどん消えていてしまったタマルに同化していくようだ。
「ねえ、それだったらお兄様ってお呼びしてもよろしくて?」
だからそんな彼女の返答にも、アブサロムは二つ返事で「かまわないよ」と言った。
「お兄様!」
彼女の口から声がこぼれる。タマルが自分を呼んでいるかのようだ……。アブサロムはたまらないほど、幸福感に包まれた。妹にまた出会えた。見たかアムノン!お前は彼女を手になど入れられなかった、だが自分はタマルを取り戻したぞ!醜く愚かなお前にはそんな運命がお似合い、だが自分たちは幸せになる、それが当然だからだ!

「お兄様、早く!」
「まあ待て……せかすなよ」
「なんですの、追い駆けっこしているときはあんなに早かったくせに」
そんな会話を遠くに聞いて、キルアブははてな?と思う。あの会話は聞いたことがある。でも、ずっとずっと昔のようで……まだ、タマルも、アムノンも生きていたころに、こういう風に窓から聞こえる声があった。

「こんなに晴れた日だってのに、お前は相変わらず陰気くさいね」
そう振ってきた声に、ソロモンは振り向いた。気が付けばアドニヤが目の前に立っている。どうも新しい政治文書を保管しに来たらしい。
「兄上、ごきげんよう……」
「律法の書なんて読んでないで、スカッと狩りにでも行かないか?たまには兄弟同士の交流も悪くないだろう。俺が連れて行ってやる」
「いえ、僕は……」
「馬はともかく、弓の方は弟たち以下だからな」
その言葉にソロモンはカチンとくる。アドニヤは実際、分かってこんなことを言ってくるような男なのだ。
「……人には誰しも、得手不得手のあるものではないのですか?」
「もっともだ。もっともだが……」アドニヤは書庫に軽くもたれかかって腕を組み、半ば大げさに告げる。
「キルアブの兄上と違って五体満足のお前が、何故病人並の暮らしをして日がな一日こんな書庫に閉じこもっているんだ」
「キルアブの兄上を馬鹿にしないでください!」
「俺がいつ馬鹿にした。……まあ、してるけどな。お前もアビシャグも、全くあの兄に感化されすぎさ。そんなに大した兄か?」
「女たらしのあなたよりは……」
「おやおや、俺も嫌われたもんだ。まったく兄が浮名を流さないのをいいことに、皆そこでばっかり比較してきやがる」アドニヤは首を振る。アビシャグにも同じことを言われたな、と思いながら。「こう見えても俺は兄弟思いなんだぞ。ことにあの人は体を病み過ぎて心まで病んでしまわないかと、俺は小さいころから心配していてね……」
「あんな精神性の高い兄上がそうなるわけは無いじゃないですか」
「精神性?そんなものどうやって計れる」アドニヤは眉をひそめてそう言った。「まあ、狩りに行きたくなったらいつでも連れてってやる。俺の馴染みの店に連れてっていってやってもいいぞ……お前もそろそろ年頃になるから」
「なんですって!?」
「冗談だ」
彼は笑いながら書庫から去っていく。嫌な兄だとソロモンは思った。いつも、ああやって人にやたら絡みたがる。もっとも、得手不得手、と言う言葉を言ったが、自分やキルアブが持っていないものを彼が持っているのもまた確かなように思えた。


トントン、と上品に扉をたたく音。アビシャグのものと似ているようだが少し違う。
「ニカウレ、君だね……?おいで」
「失礼します」
扉が開いて、赤毛の可憐な姿が入ってくる。キルアブはそれを見るたび、ここの所ほっと落ち着くのだ。
「キルアブ様は本当に、音だけで人がお分かりになってしまいますのね。すごいですわ」
別に欲しくてつけた技能でもない。せいぜいこんなことくらいしか、磨くもののない体、磨くもののない生活だったのだ。だが彼女が褒めてくれると……キルアブは素直に照れて「ありがとう」と言うことができた。
シェバはイスラエル以上に医学の発達した国であるらしい。王女であるニカウレも、生薬の調合などお手の物と見えて、最近差し入れをしてくれるようになった。
「先日のお薬、効きまして?」
「聞いてるよ……昨日から、胸の具合がとてもいい」キルアブは痩せた顔に、薄い笑みを浮かべて言った。
「君が来てくれて本当に良かった……でも君の方は、外国にまで来てこんな病弱な王子の世話を焼くなんてあまり楽しくもなかろう」
「あら、どうして?キルアブ様といるお時間は、とても楽しいですわ」
「本当かい。……君のような素敵な人に言われれば、私も嬉しいよ」
少し言葉を詰まらせたが、それでも彼は言った。女性にこのような台詞、言ったこともない。そもそも全く女性とは縁もなく、結婚もせず、今まで生きてきた。自分の言ったことに照れるキルアブを彼女は笑うことなく見つめるだけだった。
「ソロモンはなぜ、君を私に紹介してくれたんだろう……」
「……さあ?」と、彼女は短く言った。
「きっと、キルアブ様が素晴らしいお方だからですわ。あの王子様は本当に、キルアブ様の事を慕っておいでですもの」
「ふふ、全く嬉しいね……私を慕ってくれるものなどほとんどいないもの。みんな気にかけるのは武術のできる弟たちばかり……もっともそれも仕方がないが」
こんな陰気くさいことだって本当は言うべきじゃないと分かっている。しかしどうしてもキルアブは、口をついてこんな言葉が出てしまうのだ。病弱、頼りないと言われ、アムノンも死んでからはどうしてこんなものが世継ぎだと陰口を叩かれたことを知っている身としては……。
「あら、どうしてですの?」
ニカウレは笑ってそう言った。
「仕方がないなんて。他の皆さんに見る目がないだけじゃありませんか?それにキルアブ様はとても博識な方だとか。すごいじゃありませんの。賢人に生まれることは、武の才能を持って生まれることと同じくらい、恵まれた、まれな事ですわ」
キルアブは苦笑いしながら、確かに自分の言ってほしかった言葉を言ってくれた目の前の少女をありがたい存在だと思った。アビシャグも同じようなことを言ってはくれるが、それよりも彼女は、もっと自分の心をくすぐってくる。まるで自分が何を言ってほしいのか分かっているかのように。
ニカウレは、「あら、花が枯れていますね」とサイドテーブルにおいてあった花瓶の花を抜きとった。
「あ、君は王女じゃないか。そんな、下働きのするようなことをする必要は……」
「いえ、いいんですわ。今は薔薇園の薔薇が盛りですわよ。キルアブ様も飾ってみたらいかが?」
キルアブは申し訳なくなって、手を伸ばす。しかし手がもつれて、サイドテーブルのすぐ上にかけてあった鏡が落ちた。
「あっ……これは失礼を……」
「大丈夫ですわ。拾いますから」
その時だ。キルアブの目はただ一瞬だけ、ある一点に釘づけにされた。
すっと片膝をついてしゃがみこんでニカウレが鏡を拾い上げた。その瞬間、鏡の銀色の面が、彼女のドレスの裾の中を映していた。間違いない。一瞬だが見えた。スカートに包まれて普段は見えない、彼女の顔や手足同様、真っ白な脚が……。
「元通りかけておきますね」と言った彼女の言葉も聞こえなかった。彼はたまらなく不埒なものを見てしまったようで、頭が混乱した。なににせよ、まともな身分の女性なら足を出すような衣装など着ない。王宮育ちでろくに外にも出れず、女と関係したこともない彼は、一瞬でも何にも守られていない女性の脚を見るなど初めての事だった。
「どうかしました?」
彼女がそう声をかけてきたことにキルアブはびくりと震え上がる。彼女の顔を見れない、と感じた。
「何でもないんだ……すまない、一人にしてくれないか」
「は、はい……それでは」
ぺこりとお辞儀をして、彼女は去っていく。一人とり残された中で、キルアブはぼうっとした。
彼は慌てて、鏡を取る。もちろんそこに映っているのは、不健康に痩せた自分の顔だけだ。我ながら何を考えての事だ、ばかばかしい……と思いつつ、それでも彼は、銀の鏡に映った先ほどの光景が目から離れなかった。
艶やかで綺麗な、女性の足。自分が初めて見るものだった。そして……彼女の美しさに全く見合うほど、それは美しいもののように感じた。
キルアブはそもそも、今まで女と言うものを意図的に断ってきた。ことにいつしか、女性と言うものは弟たちの様な健康的な男を好きになるものだと気づいてからは。彼女は看病や見舞いに来る女性の事も、あくまで「人間」であり「女性」としては見ないことを心掛けた。世の男がするように、女性に惹かれるのが怖い。女性はどうせ、自分を馬鹿にするのだから……。だから彼は結婚もせず愛人も作らず、ひたすら逃げるように学問に没頭した。祭司たちもここまではしないと言うほどの禁欲生活を自分に強いてきた。だってどうせ、女性には好かれないのだから。こんなことは自分に似つかわしくないのだから。得られぬ望みなら、最初から持つべきではない……そう思って生きてきた人生を彼は鏡を撫でながら思い返していた。
それだというのに。
始めて彼は、女性の体の一部を綺麗だと感じた。あのみんな愛らしい愛らしいとほめそやしたアビシャグにすら、心を乱されることなどなかったのに……。あのたった一瞬の光景が目に焼き付いてどうしても離れない。自分の痩せぎすな脚とはまるで違う、瑞々しく、脂肪ときめ細かい白い肌に包まれた、柔らかそうな彼女の脚……。彼は鏡に手を這わせる。彼はかつての自分なら、絶対に考えなかったようなことまで考え始めた。
「(あの肌に触れてみたい、この鏡越しにできるものなら……)」
キルアブはそれを思えば思うほどどんどん息が荒くなり、心臓が早鐘をうつ自分を自覚した。加えてその一方で、自分の理性のようなものが少しずつ抜けていくのを感じた。代わりに別の欲望が体から沸いてくる。
彼は無意識のうちにうめき声を上げる。そして毛布の中の、自分の下半身に気が付いたら手を添えていた。そこにある欲望を発散したいと、もはや思考することもなく……。
彼は衣服の裾をまくり上げ、自分のものに触れようとした。その時だ。扉がこつこつと叩かれ、あわててキルアブは我に返った。
「もしもし、兄上ですか?僕です、ソロモンですが……」
聞こえてきた声に、彼はろくに返答ができなかった。ソロモンはしばらく大人しく立っていたようだが「入りますよ」と言って扉を開けて入ってきた。
「な、何の用だい?」
「あのう、律法を読んでいたら解釈に困る箇所が……」
「わ、私は今忙しいんだ!」恥ずかしさをおさえながら彼は言う。「律法の事なら祭司たちも十分詳しいはずだ……そっちに行っておいで!」
しどろもどろに、とにかく彼はソロモンを遠ざけようとした。今の自分を弟に見られるのがたまらない恥だと感じた。
「わ、わかりました……申し訳ありません」
「いや、良いんだ。気にしないで……」
そう言って去っていくソロモンを見送りながら、キルアブはようやく大きく一息ついた。
「(私は、一体なにを……)」
先ほどの自分を思い返してみれば、ただただそんな感情が沸き、彼は空しい気分に襲われた。なんだか、自分が堕落してしまったような。

その夜、寝る前の薬を届けに来たアビシャグが、花瓶の花が枯れて、ごみ箱に捨てられていることに気が付いた。それを指摘する彼女の横顔を見て、キルアブは感じる。彼女の顔なら、見ることは出来る。昼間の自分は一体、なんだったのだろう……。
「キルアブ様」彼女は言った。「新しいお花は何にしましょう」
「ああ、そうだね……」彼は熱に浮かされたような声でいう。「薔薇がいいかな……薔薇園の、あのシャロンから持ってきた薔薇が、今ちょうど盛りらしいから」

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する