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クリスマス市のグリューワイン

The Princess of Sheba 第八話

彼は漸く気が付いた。ここはおそらく、貴賓室の部屋の壁だ。それも、ニカウレの……。
ドキリと彼の心臓がはねた。
彼女はこちらに見られている事に全く気付いていないようだ。何をしているんだ自分は、早く蝶を籠に移しに行くんだ、それだけだ……。そう彼が思った時、ニカウレは立ち上がり、そしておもむろに手を後ろに回して、帯を解き始めた。
「(!)」
彼は理解した。彼女は自分に見られていると気がついてもないのに、よりによって男の前でなど絶対にやってはならないことを始めようとしている……。
いけない、駄目だ、早くここから立ち去らないと、あの子に失礼だ、つい先ほど反省したばかりなのに……。
彼の頭と理性は必死でそう言い聞かせていた。だが一方で彼の体は、体全体の全てがいくら離れなくてはと頭で思っていてもそれを一切聞いていないかのようにぴったりと壁に張り付いたまま動けなかった。
ニカウレは帯を緩めるとドレスの裾をまくり上げて、椅子に腰かけてサンダルの紐を解き始める。それを見て彼の体内にあの日感じた欲望が再び戻って来た。スカートの中から出てきた、彼女の純白の脛。鏡越しではなく、本物がまさに目の前にある……。
彼はごくりと生唾を飲み込む。
彼の頭の中に激しく感情が渦巻いた。見たい、見たい、ここから離れたくない……。あの子の真っ白な素肌に覆われた体が見たい、どうしても見たい……。先ほど反省したばかりじゃないか、何をまた考えているんだ、あの子に恥をかかせるわけにはいかない、あんな綺麗な優しい子に、自分は何をしようとしているんだ……。
だが彼女はそんな彼の葛藤など全く知らないかのように、帯で留めていた長いドレスの上着をパサリと脱いだ。肌着姿になった彼女を見て、薄い絹の肌着がまとわりついて、うっすらと彼女の体の滑らかな線を見せている姿を見て、キルアブは目がちかちかするほど興奮した。体中からむらむらと欲望がわいてくる。理性が溶かされてしまうのが実感できた。しかしそれを恐ろしいと思うほどの理性は、気が付いたら既に存在していない。
「……(いいさ)」
彼はそう感じた。
「(私は……体が弱くて男らしくないからって、私は昔からアブサロムやアドニヤみたいに、あの健康的で美しい奴らみたいに女に好かれなくて……力もないからアムノンみたいに強引に女に言い寄ることもできなくて……だから、ずっと、ずっと女なんかと縁のない一生を送って来たんだぞ!ずっと諦めて生きてきたんだ!このくらい……このくらい、別に許されたっていいじゃないか!)」
彼は夢中で壁にかじりついた。その間に蝶はとっくに逃げてしまっていたが、もうそんなことは全く気にしなくなっていた。
生まれて初めて、彼は女に対する情欲に取りつかれた。恐ろしくもなかった。恐ろしいと感じている暇すらも惜しかった。
彼女が肌着に手をかける。それはパサリと女主人に追従するように素直に落ちて、まるで生贄の子羊のように傷一つない彼女の上半身をあらわにした。年の割には膨らんだ彼女の胸も。キルアブはそれを目の当たりにしてさらに息が荒くなった。あの清らかな少女が、自分が見ているとも知らずに……その背徳観がさらに刺激的だった。自分の下半身が膨らんでいる。彼は迷わずそれに手を添え、ぎゅっと握った。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
頭が痺れる。ずっと自分が避け続けていた快楽は、皮肉なことに自分がずっと打ち込んできた学問が自分に与えてくれた十数年分の楽しさに、たった一瞬で勝ってしまうかのようだった。
ニカウレの体を覆う肌着はさらに下に落ちて、彼女のすらりと長くて、細い脚もすべて明らかになった。あの時一瞬で消えてしまったそれが、目の前にある。鏡越しに見たものなんて及びもしないほど、はるかに眩しいほどに白くて、きれいな脚だった。
キルアブは夢中で、彼女の裸体を舐めまわすように見つめながら服の上から自分の下半身を刺激し続けた。このまま死んでも構わない……彼は彼女の……もう身に纏うものは下ばき一枚だけになってしまった彼女の、握れば折れてしまいそうなほど華奢で、滑らかで、例える言葉が出ないほどの美しい肉体を見てそう感じた。早くその下ばきも脱いでしまえ!彼は思わず声を出してそう言いそうになった。早く見たい。彼女の肉体を、余すところなく全部見たい……。早く、彼女の、女性として最も晒してはならない場をこの目で見たい……。
彼のそんな思いを知ってか知らずか、彼女は最後に残ったその衣類に手をかける。キルアブの興奮は最高潮に達しそうだった。

「兄上、何をしていらっしゃるのですか?」
その時、声が聞こえた。低い、不信感に満ちた声が。
キルアブはぞっと背筋に寒気が走った。跳ね返るように彼は後ろを見る。そこに立っているのはアブサロムだった。
「ア、ブサロム……」キルアブは口をパクパクさせた。冷や汗が吹き出し、全身が震える。彼の顔色も、真っ青に染まっていた。
「そんな壁際で何を?」
震える声で「わ、私は、その……」と言う、どうにも要領を得ない彼の後ろに、小さな穴があるのをアブサロムはすぐ見つける。
「何かあるのですか?」
「あっ、ちがっ、違うんだ、その……」
アブサロムはひょいとキルアブを簡単にのけて、その穴を覗き込む。だが一瞬目の前に入ってきたものに愕然としたかと思うと、くるりとキルアブの方を向いた。鬼のように怒りに染まった形相で。
「ち、違う、誤解しないでくれ、私は……」
キルアブはガタガタ震えた。腰が抜け、地面にへたり込む。だがアブサロムは怒りの表情を引っ込めないまま、彼を睨みつけた。
キルアブには分かるまい。
彼を見た時自分は一瞬、とてつもなく恐ろしかったのだ、何かに似ている気がして。今思い出した。あれはタマルを見つめる、アムノンの目だった……。
「貴様……」
震える声でアブサロムは必死で弁解しようとするキルアブに掴みかかった。
「殺してやる……!この、クズが!」
彼はすでに立てない状態のキルアブの顔面を思い切り殴りつけ、地面に沈めた。キルアブは悲鳴を上げる。だがただでさえ体力差が歴然としているうえキルアブの方は完全に腰も力も抜けてしまっているので、かなうはずがなかった。
「殺す……殺す!殺してやる!」
アブサロムは彼に馬乗りになると、容赦なく何発も彼を殴った。本気で殺す気だと、キルアブには感じられた。
だが幸いなことに、その騒ぎを聞きつけて人が集まってくるのにそう時間はかからなかった。
既に兄を一人殺している第三王子が、次期王位継承者の第二王子を一方的に殴っている。騒ぎにならないはずのない事態だった。貴賓室の近くにいた使用人たちは皆団結して「アブサロム様、お気持ちをおなだめ下さい!」と彼を抑えにかかった。だが彼の方は、五人ほどの使用人たちに押さえつけられても、必死で握り拳を振り下ろさんとしながら「離せ、こいつを殺すんだ!」とほぼパニックと言ってもいいような状態で怒鳴っていた。
「キルアブ様!」アビシャグも飛んできた。「酷いお怪我ですわ……」
「そいつの手当てなぞするな、アビシャグ!」アブサロムは威圧的に怒鳴る。「したら貴様も容赦せんぞ!」
「そんな、ひどい……」アビシャグは怒って抗議する。「キルアブ様が何をしたとおっしゃるんですか!」
「なにをしただと!?この壁の向こうが何だか知っているか?」
シェバ王国の王女様のお部屋です、と使用人の女の一人が言う。アブサロムはああそうさ、と声を荒げて言った。
「こいつはその部屋を覗いてやがった!女に興味などない聖人面をして!未婚の女が着替えているところを覗いてたんだぞ!」
彼は大声でそうまくしたてた。使用人たちは全員ぎょっとする。そりゃそうだ。誰だってキルアブがそんなことするとは思っていない。
「違、違うんだ、私は……」
キルアブは必死で弁解しようとしたが、アブサロムの恐ろしさに言葉も出なかった。すると、つかつかとこちらに歩み寄ってくる軽い足音が聞こえた。
「どうしましたの?」
ニカウレが、当の彼女が姿を現した。
キルアブは彼女の顔を見て、さらに顔を青くした。アブサロムはそんな彼を軽蔑するように睨みつける。
「お兄様、一体何が……」
「ニカウレ!こいつは……こいつはお前に辱めを与えたんだ!」アブサロムは全く変わらない調子でどなった。「お前の部屋を、お前の裸を、こいつは卑怯にも覗き見していた!」
彼女の前ではっきり言われて、キルアブは死にたいような思いに駆られた。先ほどはこのまま死んでもいいと思っていた。いっそその時に死にたかったとすら思えた。顔を上げられない。彼女の顔を見るのが怖い。彼女の、あの慈愛に満ちて自分を眺めてくれたエメラルドの瞳が、恐怖か、軽蔑か、いずれにしても自分を否定する感情に染まっているのを見るのが怖い……。
少しの間沈黙が流れる。しかしその場に響き渡ったニカウレの声は、キルアブに対する罵声でもなければ恐れの声でも、恥じらいの声でもなかった。
「あはは……そんなことってあります?」
「ニカウレ!」アブサロムは大声を上げる。「こいつは、お前の部屋にあいていた穴から……」
だが、ニカウレは全く怯むこともなく穏やかな声で続ける。
「キルアブ様は、お散歩の途中で調子がお悪くなられたのたのでしょう……それで壁にもたれかかって息苦しそうにしているか、休んでいらっしゃるかしている所を、勘違いされたのではないですか?」
ばかな!アブサロムは大声を上げてそれを否定したかった。息が荒れているのはまだ分かる。だが体調を悪くして、下半身を膨らませるわけがあるか!何より……何より、あの視線はアムノンのそれだった。妹を汚してこの世から奪い去っていった、あの憎むべき卑しい兄のものと、キルアブの目は、そっくり同じものだった……。
「キルアブ様は、清廉なお方ですわ」ニカウレは堂々と言う。「私、信じていますの」
だがアブサロムはそう口にするニカウレを見て、何も言えなかった。たまらなく切ないような思いに駆られた。
そうだ。生前タマルも、こんなことを言っていた。お前はタマルを見すぎじゃないかと言われているアムノンの事を庇って……。
「それよりお兄様!どうです、これ?」
何も言えないまま使用人に押さえつけられているアブサロムの前で、ニカウレはふわりと花弁のような鮮やかな色のドレスの裾を揺らして見せる。
「似合ってます?タマルさんの衣装!」
「あ、ああ……」
アブサロムは、タマルの使っていたものは一切捨てずに屋敷にとってある。彼女が持っていたお気に入りの服を、肌着も、靴も、宝石も全部身に着けてみてほしい、きっと君に似合うからと頼み込んだのはつい先日の事だった。
「とてもきれいだ……」
「うれしい!じゃあお兄様、馬車で散歩に連れて行ってくれるって約束だったじゃありませんか、行きましょう!」
そう言って彼女はアブサロムの腕をつかむ。アブサロムはもうこれ以上、何も言えないような気がした。
「離せ、もう暴れない。こちらの姫君と約束があるからな」彼は使用人に短くそう言う。使用人たちは渋っていたが、ようやく解放された。
「大丈夫ですか、キルアブ様!」アビシャグは改めて彼に肩を貸した。
「私も信じています。キルアブ様はそんなことをなさるお方じゃないって。だから大丈夫ですわ……」
しかし、キルアブは彼女の言葉を聞いていなかった。
助かった。ニカウレに嫌われずに済んだ。だがそこに安心した途端、彼の中にはじわじわと、アブサロムに対する恨みがわいてきた。ニカウレを連れて去っていく彼の後姿をじっと見ながら……。

キルアブを部屋に戻し、「すぐお医者様を呼んできます!」とアビシャグは言った。だがそれに対する返答は、彼女が予想していないものだった。キルアブはあからさまに怒ったような声で「よせ」と言ったのだ。
「それよりも、私の部屋から離れろ……私が呼ぶまで帰ってくるな」
「そんなこと!大分殴られていますし、お身体に悪いですわ……」
「うるさいっ!」
キルアブは怒鳴った。彼女はびくりとすくむ。キルアブに怒鳴られたことなんて初めてだ。いや、キルアブ自身人を怒鳴った事なんて初めてだった。そもそもこれほどまでに怒りの感情を持つこと自体、彼にとってはありえなかったことだ。だがその時の彼は、そんなことを意に介してはいられなかった。
「良いから出て行け!」
「わ、わかりました……傷が痛んだら呼んでください」
震える声でアビシャグは言い、部屋から出ていく。キルアブは一息つくと、寝台を思い切り殴りつけた。弟とは似ても似つかない、貧弱な細い腕で。
「くそっ!アブサロムの野郎……アブサロムの野郎っ……!」
あいつの邪魔さえ入らなければ……!彼はそう考えた。よりにもよってあんな肝心な瞬間に邪魔が入るなんて!
何故だ、何故あいつに邪魔されなくてはならない!自分と違って健康体で美しい彼が!女なんて放っておいても寄ってくるような体の彼に、なんで自分の、あの初めて出会ったかのような快楽、生まれてきて初めて見つけた楽しみを邪魔されなくてはならなかったんだ!
ニカウレと一緒に去っていく彼の後姿が、さらにキルアブの怒りを増幅させた。
あいつのせいだ。あいつのせいで、ニカウレの一糸まとわぬ姿が見られなかったんだ、あいつのせいで……。
だがその時、彼の脳裏にはっきりと焼きついた光景が躍った。あの白くて細い、柔らかそうな体。間違いなく、自分はあれを見た……。
誰もいない自室で、キルアブは着物の裾をからげ自分の男性器を取り出す。そしてそれを直接つかみ、思い切り扱いた。
「はぁ、はぁ、ニカウレ……」
自慰行為をすることすら、彼にとっては初めてだった。だがもう、彼はそれをしなくてはどうしようもなかった。
あの子の柔肌に触れたい。あの日思った感情が、今はもう抑えきれなくなっていた。あの繊細な肢体を抱きしめたい、口づけしたい、我を忘れて、この欲望の赴くままに、思い切りむしゃぶりつきたい……。
「(あの子を)」
彼は極度の怒りと興奮を覚え、心の底からそう思った。
「(あの子を、抱きたい……)」
理性を戻そうという気すら、彼の中からは消えうせた。

自分を呼ぶ鈴が鳴らされ、ようやく落ち着いたかとアビシャグは安心した。医者を連れて、キルアブの部屋に行く。
「キルアブ様!お医者様を連れてきましたわ」
だが彼女はまたしてもぎょっとする。彼は相変わらず不機嫌そうで、目が据わっていた。「おい」彼は短く言う。
「は、はい、なんでしょう……」
「洗濯しろ」
彼はばさりと、自分が先ほどまで着ていた着物をアビシャグに押し付けた。「は、はい……」と彼女は普段通りの自分の仕事をこなそうとしたが、そのうち自分に投げられた着物にべったりと付着している冷たいものがあることに気が付いた。
ひっと声を上げて、彼女は自分の指についた、異臭を放つそれを見る。
「キ、キルアブ様、これ……?」
彼女も未婚の女性だ。本物を見たことはない、ないが……それがなんなのか全くわからないような年齢でもなかった。
「なんだって良い、お前には関係ない」
しかしキルアブは短くそう言うだけだった。アビシャグは恐怖を覚えた。昨日まで看病していた人間とは全くの別人が、そこにはいた。

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