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クリスマス市のグリューワイン

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The Princess of Sheba 第九話

事実、その日からキルアブは変わった。あの柔らかい雰囲気が消え失せてしまったようだった。
アビシャグは何をおいても、彼がそう変わり果ててしまったことに心を痛めた。おまけにもっと心を痛めることに、彼はニカウレが看病に来ると、その時だけ以前のように柔らかい、優しい王子に戻るのだ。
どうして、どうして……彼女は悶悶とする。かなうと思ってもいなかった恋だ。それでも悔しい。静かにキルアブに寄り添う彼女を見ているのが。たった数日前まで、あそこにいるのは自分だったはずなのに……。
おまけにキルアブはいつも彼女を見ていた、彼女が自分の方を見ていようといまいと。自分はああも注目されたことなどない。おまけに彼の視線は、嫌にギラギラしていて恐ろしかった。彼はいつもこの少女を気味が悪いほど、舐めるように見つめていた。そんな目をする人ではなかったのに……。
「じゃあ、私はこれで……」
ニカウレが去ろうとする。だがキルアブは「待って、後一分でいいからいてくれ!」と彼女にすがった。
「困りますわ、キルアブ様……」
「私がこんなに頼んでいるのに!」
あんな子供に必死にすがる彼は姿など見たくなかった。どう考えても、彼はニカウレの事が好きなのだとしか見えない。そりゃあ彼女は高貴な身分だし、何より文句なしに美しい。でも、何年もキルアブと一緒に居て築いてきた立場を、イスラエルに来て一か月もたっていないこの少女があっさりと得ているのが、掛け値なしに悔しかった。
「(キルアブ様……その方と結婚するおつもり?)」
もしそうなら自分は黙って祝福しなくてはならないのだ。自分はただの小間使いにすぎないのだから。それでも……それでも、それで割り切るには、自分はキルアブの事を想いすぎてしまった。
ニカウレはなんとか彼をなだめて、つかつかと外に出て行く。そもそも彼女は何をやっているのかしら?とアビシャグは疑問に思った。こんなにキルアブが一緒にいてくれと頼んでいるんだから、一日中そうしてあげればいいのに……。
第三王子のアブサロムも、彼女の事を執心と言ってもいいほど可愛がっているというのはすでに有名な話だ。アブサロムの方もそれを隠そうともしない。なぜかシェバ国王も何も言ってこない。だが、アビシャグは不安だった。あの少女がイスラエル王家にとって、非常に危険な人物であるかのように彼女には思えていた。

ある日彼女は、書庫の前を通りかかった際にそこから出てくるニカウレを見つけた。
「ごきげんよう」と彼女は声をかけてくる。
「え、ええ、ごきげんようございます……」
アビシャグのあいさつの後、彼女はすたすたと歩いていく。女である彼女がこんなところに、何の用があったのだろう。書庫と言えば、いつもソロモンが陣取っている場所だが。
「もしもし?」
彼女は少し心配になって扉を開けた。中には案の定、ソロモンがいた。
「あれ、アビシャグ?あなたがここに来るなんて珍しいな」
自分の部屋のようにそこに陣取る彼は、全くいつも通りだった。しかし先ほどまで、ここにニカウレがいたのか?と思うと、急にアビシャグは何かしらが怖くなる。
「あ、あの、ソロモン様……」
「なんだ?」
「ずっとここでお一人でしたか……?」
恐る恐る聞いた彼女の問いは、実にむなしく「いいや」と言う返答で終わった。
「ニカウレがいたよ。それで……?」
「そうでしたか……」
アビシャグは震える声で言う。
「彼女とは、仲がおよろしいのですか?」
「……?うん、とても話が合うよ。よく会ってる。この部屋でだけだけど」
「そう、でしたの……」
アビシャグがなぜ少々悲しそうなのか、ソロモンには呑み込めなかった。
「本当に、本当に素敵なお方なのでしょうね……キルアブ様も、アブサロム様も……」
「アビシャグ……?何の話なんだ」
目をパチパチ瞬かせるソロモンを見てアビシャは慌てて我に返る。「何でもありません!申し訳ありませんでした……ソロモン様、どうぞ、ごゆっくり」と急いで立ち去っていく。ソロモンはそれを見送って、再び首をかしげた。

その夜の事だった。
最近、キルアブは毎晩のように洗濯ものを押し付けてくる。彼が毎日何をしているのだろうか、アビシャグは考えるだけでも身の毛がよだった。
冷たい水は手を引き裂きそうだ。でもそれ以前に、服にこびりつく液体が気持ち悪くてならない。キルアブはこんなものを吐き出すような人間だったのかと思えば、気色が悪くてしょうがない。服についたその汚れを必死で落とそうと、ランプの光のもと石鹸を動かす。汚れが落ちていくたびに、自分の不安も何とか拭い去れるような気がした。
ようやく洗濯を終えて、物干し場に持っていく。だがその帰る途中、彼女はニカウレを見つけた。
なんでこんな夜遅くに出歩いているのかしら?と彼女は疑問に思った。もうとっくに寝ているかと思ったのに。おまけにここは貴賓室から大分離れている。
彼女はそっとあとをつけた。ニカウレはまるでこちらのことなど気にしていないかのように、しずしずと歩いていく。悔しいほど、その後ろ姿は可憐だった。まるでひらひらと飛び去っていく蝶のように身軽に階段を上っていく、
そっと、そっと息をひそめて後をつけるアビシャグは、廊下を進むにつれてどんどん背筋が凍りついていく。
「やあ、来たのかい?」
彼女が向かったのは、アドニヤの部屋だった。
アビシャグは目の前がくらくらした。あの姫君が、あんな男の所に……!?何をしに行ったのだろう、こんな時間に。
しかし何をしに行ったのかなど、すぐわかることだった。扉が閉まる。そして扉の向こうから、いずれ甘い声が聞こえてきた。
何が行われているのか、火を見るよりも明らかなことだった。あの女好きの王子が新しく来た美しい客人に手を出す、それはまあまあ理解のできることだ、だがあの少女がアドニヤに体をさし出すなどと!
その事実が彼女の頭を揺さぶった。キルアブが女にあまり縁のない、禁欲的な生活を送ってきたことは百も承知だ。そんな彼が、初めて女性に心動かされた。きっと、あの汚れた衣装も、彼女の事を考えて……。
それなのに。彼女はキルアブの気持ちを知りもせずに、こんな男と交わっているというのか?
せめてアドニヤに無理強いされたのだと思いたい。自分のように強引に言い寄られて、自分より幼い彼女はアドニヤに逆らうのが怖くて言いなりになってしまったのだろう、そうに決まっている。
扉の中から聞こえる快楽に満ちたような声のなかに、男の低い声に混ざって、高い少女の声が混ざっているのも信じたくなかった。あれはきっと演技だ!キルアブがそんな、娼婦じみた女なんぞに惚れることはない……。
地獄のような時間だった。けれどもそこを離れるわけにはいかなかった。事が終わって、彼女が泣きそうな顔で出てくれば、自分は救われるのだ。キルアブの恋は無駄ではなかったと思うことができるのだ、今離れてしまったらそれさえ思えない、疑惑の心を持ち続けてしまう……。
身を裂かれるような思いで彼女はそこに立ち続けた。厚い扉を通して聞こえてくるのは、全ての音ではない。衣擦れの音も吐息も聞こえず、ただ男と女の声が聞こえてくるだけ……。しかし、それもいずれ終わりを告げた、冷や汗でぐっしょりとなり、もうその頃には半ば放心状態になっていたアビシャグは、「もう帰るのかい?」というアドニヤの声ではっと我に返る。
「まあ、しょうがないね……では、おやすみ」
彼の声が聞こえる。コツコツとこちらに歩いてくる声。彼女はどんな顔をしている、きっと悲しい顔だ、好きでもない男に犯された、惨めな女の顔……。
だが金細工に飾られた扉が開いたとき、アビシャグの望みははかなく消えた。彼女は全く満足げな美しい顔をして、「アドニヤ様、ありがとうございました。またね」とひらひらと彼に手を振りさえしていたのだ。
アビシャグはもうたまらなくなった。悲しみと怒りが一気に湧きあげてくる。
性格のいい子ならばよかった。それならばまたキルアブの恋を認めることができた。でも、でも……自分から、あの初めて恋した男を奪っておいて、そのくせこんな売女のまねをするなんて!
「ちょっと、あなた……」
気が付いたときには、彼女の前に出ていた。怒りの感情を止められなかった。純朴な姫君ぶっておいて、なんて汚らわしい!彼女を非難しなくては、気が済まなかったのだ。
ニカウレはふっと、挑戦的な笑みを投げかけてきた。「なに?」とだけ言う彼女の顔を見て、アビシャグはなおのこと憎らしくなった。色気たっぷりに自分を挑発する、まるであくどい娼婦のような顔。ああ、これがこの子の本性か!キルアブの前では純朴な乙女の仮面を被っていただけか。
「アドニヤ様と、猥雑なことをしていたみたいね」
「それで?あなたに何の関係があるの」ニカウレは言う。ランプに照らされる彼女の顔の美しさが、悪意に満ちた美しさが恨めしい。このランプの火をその顔に落としてやりたい、とすら思えた。
「キルアブ様があなたにどんな思いを持っているのか、知っているの」
彼女はわなわなと震えた声で言う。
「キルアブ様を裏切っておいて、悪いと思わないの!」
彼女は必死でそう言った。だが目の前の少女は彼女を冷たく見たまま、ランプの赤い光にその白い顔を照らして言った。
「なんであなたにそんなことを言われなきゃならないの?私に嫉妬してるのね」
いよいよアビシャグは、怒りに気が狂いそうだった。なんで、なんで自分よりいくらも年下の彼女に、こんなにも醜い心を持った彼女に、ただ少しばかり少しだけ美しいと言うだけで、こんなに屈辱を浴びせられなくてはならない。
「嫉妬!?関係ないでしょう!」
「あるわ。だってあなた、キルアブの事好きだもの。キルアブに気に入られている私が気に食わなくて、せめて何かけちの一つでもつけたいんでしょう?」
彼女はふふふと不敵に笑う。
「ほんと……私よりブスな女の嫉妬って、いつも見ていて気の毒になっちゃう。もっとも、安心していいわよ。どんな女の人だって私よりはブスだから」
彼女はなおのことかっとなった。この女にもう言葉など使ってやるものか!と思い、片手で思い切り、彼女の顔面を殴りつけようとした。
だが、その手は何者かに掴まれ、宙ぶらりんになってしまう。
「アドニヤ様……」
アビシャグは必死に言う。「ご自分の愛人を庇われるおつもりですか」
「おいおい。暴力を止めただけでそう言われるとは、全く俺は信用されてないな」
「暴力?」アビシャグはきつい口調で言う。「暴力なんかじゃありません。そんな売春婦は……罰を受けて当然です!」
「罰?」彼はそう言った。
「ははは……キルアブの兄上がこの子を好きだから、俺と契っているのが悪いって?そんなの兄上の責任だ、この子に言い寄る度胸のない兄上が悪い。ただの負け犬の遠吠えだよ、アビシャグ。この子がどんな男に抱かれたいと思おうがそんなの全く彼女の自由だと、そう思わないか?」
「……では!」彼女は皮肉たっぷりに言う。「アドニヤ様も、ほかの男に彼女が奪われても文句を言わないと……神に誓えますよね!」
「当たり前じゃないか、俺達の関係はそういうものだ」
だが、そんなものは皮肉にもならなかった。アドニヤの恋愛観に、改めて彼女は目の前が真っ暗になる。止めとばかりに彼は言った。
「やめろよ、的外れな批判をしたがるのは……嫉妬ってものは実に見苦しいぜ、なあニカウレ?」
屈辱に震えるアビシャグを見て、ニカウレは言う。
「あら、私は構わないと思いますわ」
「どうして?」意外そうに言うアドニヤ。
「だって……私の美しさにかなわない、好きな男の心も動かせない、それほど魅力のない哀れな女性ですもの、負け犬の遠吠えを言うくらいの慰めは許してあげなくちゃ!」
これが、ニカウレの本性か。
アビシャグは震え、清らかな目に涙をためて、それでもニカウレの姿を睨みつけながらそう思った。
愚かだ。何もかも愚かだ。イスラエル王宮中が、彼女を穢れない純粋な少女と信じ、こんな売春婦にも劣る傲慢な雌豚をチヤホヤしている。自分しか知らない、この事実を……。
ああ、違う!そうだ、自分はいっそ、こんな状況を望んでいたのだ。心の底でこんなことを思うのは醜いと思っていたから抑制していただけ。ニカウレはキルアブの心をたぶらかす悪女にすぎないと思いたかったのだ。自分より心も体も美しい相手にキルアブを取られたと思いたくなかった。だがはたして自分の、この女の感は正解だった、大正解だった!
アビシャグは駆け出した。居てもたってもいられず。アドニヤ達はその後ろ姿を見送った。
「……で、どうする、ニカウレ?本当にもう帰るのかい?」
彼らはアビシャグがいたことなど忘れたかのように、会話を再開する。
「ええ、眠いから……」
「惜しいね、おやすみなさい」


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