クリスマス市のグリューワイン

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The Princess of Sheba 第十話

夜が明けた時、兄の部屋に向かおうとするソロモンをちょうど部屋から出たばかりのアビシャグが呼びとめた。彼は彼女の顔を見てぎょっとした。にこやかで美しい彼女は、かつて見たことがないほど鬼気迫る表情になっていたからだ。
「ど、どうしたんだ、アビシャグ?」
彼は初めて見る彼女の顔に少し恐怖しながら、それでも問いただした。彼女は泣いているようにも見えた。
「ソロモン様!あのニカウレと言う子に近寄らないで!」
戸惑うソロモンに、彼女は畳み掛ける。「騙されているのよ、誰もかれも!キルアブ様も、ソロモン様も!」
彼女はそのまま、昨夜の事を話した。清純な乙女ぶっておいて、アドニヤとふしだらにも関係していることを。昨夜、ニカウレが自分に言ってのけた言葉を。自分の事を、まるで乞食女を相手にするかのような憐れみと侮蔑の視線で見てきたことを。何もかも全て、赤裸々に話した。
ソロモンはそれを聞いて、頭が混乱した。
自分の知っているニカウレは、そんなことを言うような子じゃない。だが、そう言う前にアビシャグは言った。
「きっとあの子は、貴方の前でも猫をかぶっているんでしょう?……騙されないでください!売女は自分を偽るのが上手いもの、そんなものは全部演技です、これが、この虫けらにも劣る根性が彼女の本性です!」
「アビシャグ、頼むから落ち着いて……」ソロモンは感情を高ぶらせる彼女を必死でなだめながら言った。
「貴方の為に言っているんです!これじゃあ貴方まで、キルアブ様のようにあの売春婦に弄ばれて破滅してしまう!」
「わ、わかった。わかったよ……あなたの言うことを信じるから」
「本当に!?」彼女は念を押す。
「勿論……」
彼女はそれを聞くと、だっと走っていった。いったい彼女に昨夜何があったのだ。もしも……もしも本当にそんな言葉を言われれば、ああもなるのかもしれないけれども……。
開いた扉の向こうに、寝台に横たわるキルアブの姿が見えた、彼はじっと、咎めるような視線でこちらを見ていた。
「信じるなよ、ソロモン」
彼は遠くから、低い声で言ってきた。
「あんな雌犬の言うことなんか、信じるな」
「雌犬……」彼は呟く。「誰の事を言っているのですか?」
「誰の事?……アビシャグに決まっているだろう!」彼は叫ぶ。
「ニカウレを!あの純朴な愛らしい子を!私が初めて素晴らしいと認めた女性だぞ、それをあの女は侮辱したんだ!売春婦などと!」
「兄上、兄上、落ち着いてください!」ソロモンは慌ててキルアブをなだめにかかった。
「あの子は」据わった目で、彼はソロモンに語る。何故だか目つきが悪くなって、前よりも痩せて、彼はここ数日で妙に老けてしまったかのように見えた。
「穢れないんだ、美しいんだ、私の天使なんだ……」
ブツブツとうわごとのようにつぶやく兄の姿に、ソロモンは確かに異常なものを感じた。

キルアブやアビシャグがああなってしまったのは、やはりニカウレのせいなのだろうか?彼は疑問に思った。本を読むのにも集中できない。とにかくも、今度会ったらそのことを問いただしてみなくては……。
でも、やっぱり彼女がそう言うことを言うようには思えない。純朴とか猫かぶり以前に……彼女は全く、そう言った次元から離れた存在のように感じるのだ。この冷たい書庫の中を出たら、彼女は人が変わってしまうのだろうか……。
かさりと書をめくる音が聞こえた。ソロモンは不審に思い、そちらの方に行く。扉が開いた気配もないのに、そこにニカウレがいた。自分より先に来ていたのだろうか、自分の背より高いところに積み上げてある羊皮紙の束を下ろそうと、台に乗って背伸びをしていた。
「……降りなよ」
彼はそちらの方に歩み寄った。
「僕が取るから」
ありがとう、と彼女は素直に台から降りた。台の高さと合わせれば、ソロモンの背丈ならぎりぎり届く。
はい、と渡された文書を彼女は大事そうに受け取った。そこにいるのは全く自分の知っている彼女だった。これが、演技なのだろうか?売女だから、そんな表情を作るのもわけはないと?
売女。ソロモンが、小さい時から嫌いな言葉の一つだった。
お前は売女の子だ、と、彼は何回も、何回も言われてきたのだから。
「君、先夜、アビシャグに酷いことを言ったの?」彼は書物の束を抱えるニカウレに、そう言った。
「アビシャグが僕に、だから君を信用するなって言ってきた……」
彼女は傷つくかな、と思った。だが彼女はしれっとしたまま、書物を机に置くと一息ついて「別に、あなたの自由にしたら?」と言ってきた。
「私を信用する義務なんて別にないわよ」
ずいぶんひねくれたことを言う。ソロモンは少し、自分が信頼されてないようで嫌に思った。
「じゃあ、君は僕を信用してないの?」
その言葉に、彼女は面喰ったように目を開く。だが彼女は少し、黙り込んでしまった。
ソロモンも何の言葉も続けられなくて、長い沈黙が続く。だが、彼女はぼそりと、恐る恐る絞り出すかのようなか細い声で言った。
「……してないわよ、悪かったわね」
「なんで!?」
ソロモンは抗議した。こんなことを言われる筋合いはない、と感じたことを言った。彼女とは今まで対等に話せていたつもりだ。そのような目で見られているなど間違いなく、実に心外だった。
「だって、貴方私に嘘をつくじゃない!」
彼女の方は開き直ったかのように言う。
「嘘!?僕がいつ、君に嘘ついたんだよ!」
「言ったわよ!」彼女の声は、どこか悲しそうだった。
「私が立派に学者になって、女王様になればいいだなんて言ったわ!そうなったら素敵って言ったわ!」
ソロモンはその言葉に戸惑い目を瞬かす。「え……?」と言う一言しか出てこない、だが目の前の彼女は相変わらず、悲痛な声で言ってた。
「そんなこと、言うはずないもの……女が学者になるなんて、君主になるなんて、素敵なはずないもの!嘘ばっかり!そう言うことを言ってくるのは……皆嘘つきばっかりよ!」
彼女はそう言ったきり、ポロポロと泣き出してしまった。自分の涙でぬれないように、書物を丁寧に遠ざけて。
その姿を見て、ソロモンはアビシャグに言われた件を問いただしたい気持ちが消え失せてしまた。そこにはただ、自分と今まで話していた少女がいるだけだった。騙されているなんて思えない。たとえそれが、子供が故にあっさり騙されているのだと言われても、別にそれはそれでいい。誰に何と言われようと、この瞬間を信じたいと、彼はその時そう思えた。
「……僕は……」彼は、静かに切り出す。「君に嘘ついたことなんて、一度もないよ……」
ニカウレは否定しなかった。ただ、まだ泣き続けている。ソロモンは言葉を続けた。
「嬉しかっただけなんだ。一緒に書を読んでくれる友達ができたことが、こうして話せる人ができたのが嬉しくて……僕は、学問が好きだから、そのことで大成する人間がいたらきっと素敵だろうなって、そう思っただけなんだ……」
彼女を刺激したくないと、彼は慎重に、慎重に言葉を選びながら話を続けた。
「君を傷つけてしまったなら、ごめん。でも僕は……僕は少なくとも、嘘なんてついてない。君には全部、本当の事しか言ってないよ……」
彼女はふと顔を上げた。エメラルドの目をぬぐい、彼女は言う。
「いいの。わかってる……わがまま言っただけだもの」
顔を涙で濡らし、まだ泣き顔のまま彼女は言った。「ごめんなさい……」
彼女はそう言って、ソロモンの方を見つめた。
「……ニカウレ。僕も……君を信じたい」ソロモンは言った。「アビシャグは、きっと……何かを勘違いしているんだろうと思ってる。君とこうして暮らす時間が、本当に楽しいんだ。だから僕は、君を信じたい……そんな権利くらい、僕にだってあるだろ?」
「あるわよ」と、彼女。
「信じてくれるなら嬉しいわ。ありがとう……」
彼女はまだ悲しげな表情を引っ込めないまま、それでもにこりと笑おうとして、ソロモンに微笑みかけた。
ただの書庫に溢れる埃が太陽の光を浴びて、まるで彼女を煌めかせる星の砂に変わってしまったかのような、不思議な光が立ち込めていた。いつも通りの窓から差し込む細い光だが、その時ソロモンにはそう見えたのだ。。
「ソロモン、私ね……」
彼女は口を開いた。ソロモンは黙って耳を傾けようとした。だが彼女はもう一度長い時間黙ると、最終的に「ううん、なんでもないの」とだけ言い残し、ソロモンが下ろした文書に目を通しもせずに自分の部屋に帰っていった。


「お薬を替えにきました」
アビシャグが入ってくると、キルアブは彼女の事を睨みつける。
「お前一人か」
「そうですよ。今日はニカウレ様がいなくてあいにくでしたね……」
目の前に出された薬を飲むこともなく、彼は「ニカウレはどこにいる」と言った。
「アブサロム様のお屋敷に」
「アブサロムの屋敷!?」彼は反射的に言う。「この城にはいないのか!」
「いません」
「そんな、そんな……」
アビシャグはそんな彼を見て、心が押しつぶされそうだった。「今すぐここに呼べ」キルアブは呻く。
「無茶を言わないでください、キルアブ様……」
「ええい、黙っていろ、ブスのくせに!」
キルアブは激しい罵声で、アビシャグの言葉を封じる。
「私が来いと言っているんだぞ!頼みじゃない、第三王子アブサロムに、王位継承権第一位からの命令だ!来させろ!私はあの子がいいんだ、あの子にそばにいてほしい!」
暴言を浴びせられたアビシャグは、じっと黙って彼の言葉を聞いていた。「早くしろ!」もう一回彼は怒鳴りたてる。
「……はい、わかりました。それでは」
アビシャグは力なく言って、彼に追い出されるように部屋を後にした。そして、廊下の柱にもたれかかって、泣きはらした。なぜ、なぜ彼女をここに呼ばなくてはならないのか。あの何もかもを壊してしまった元凶、浅ましい悪女を……。

アブサロムは、全てタマルのものは屋敷に保管していた。
タマルが身に着けていたものも、日常で使っていたものも、全て。
「お兄様!どうでしょう」
さらりと細い赤毛を揺らして、ニカウレがやってきた。アブサロムはそれを見て大喜びで「似合っている、素晴らしい!」と言った。
「これはね、十四の誕生日の時に作ってやった晴れ着なんだ。あの子はこれが大好きだったんだよ。でもそれっきり、もう一度袖を通すこともなく……」
「私が着ましたわ。それじゃあいけなくって?」
「うん、うん、満足だよ……なんて、素晴らしいんだ……」
タマルの服を、靴を、宝飾品を、彼女が使っていたものをみんな君にあげよう、とアブサロムが言ってきたのは、つい昨日の事だった。
「その代わり、それを身につけたところを私に見せてくれ。私の屋敷に来て……私の家で二人きりで暫く過ごそう。タマルが生きて、元気に歩いている所を私に見せてくれ」
使用人たちが皆、異様なものを見ている目で自分たちを見ていることなどアブサロムは気付いていない。彼にとっては妹が全てだった。その全てが生き帰ったのだ。構い倒して何故悪い。
「次はこっちを着てみてくれ、な?」
「もちろん……お兄様が言うのなら」
そう言ってまた着替え部屋に帰っていこうとする彼女は、本当にタマルそのものに見えた。いや、違う!アブサロムは思う。あれはタマルだ。あれは私の妹なんだ……。
「お兄様?」
気が付いたときには、彼女を後ろから抱きしめていた。
「どこにも行くなよ。お願いだから……」アブサロムは彼女を抱きしめたまま、震えた。嫌だ、彼女をまた失いたくない。お前は美しすぎる。数年前に居なくなったタマルのように。またいつどこで、この美貌に狂った男が自分からこの子を奪ってしまうのか、そう考えると怖かった。彼女を手放したくないと思った。一度、一度手放してしまったせいで彼女は自分のもとを去っていった。あの時、アムノンのもとになど行かせなければよかったんだ。自分がずっと彼女を繋ぎとめていればよかったのに……。
ニカウレは逃れようとしなかった。くるりと体の向きを変え、アブサロムの胸にもたれかかってくる。彼は一層激しく抱きしめた。
「ああ……タマル、タマル!」
彼はそこだけは自分の妹と似ても似つかない、彼女の艶やかな赤毛を掻きあげ、彼女の額にキスをした。
「おまえを愛してるよ。ずっと私のものだ」
彼女はその言葉を、否定も拒絶もすることはなかった。「嬉しいわ、お兄様」とだけ言って、アブサロムの事を抱きしめ返してきた。
愛している。この子を愛している。絶対に手放すものか。自分が守ってやる。絶対に……。
だがその時、扉をたたく音が聞こえた。
「うるさい!なんだ!」と、アブサロムは扉の向こうの人物を怒鳴りつける。彼は使用人だった。
「あのう、王宮の方から……ニカウレ様をそちらに戻すようにと……」
「無視しろ!」彼は再び怒鳴った。
「それがその……キルアブ様からでして」
「キルアブが?だからどうした!」
相手にする様子のない主人に使用人はなおさら困っている様子だったが、それでも立場上言わないわけにもいくまい。震える声で言った。
「キルアブ様から伝言がありまして……。頼んでいるのではない、王位継承者からの命令だ、とのことです」
その言葉を聞いて、アブサロムは目の色が変わった。数年前のトラウマが、よみがえってくる。
自分は逆らえなかった。第一王子だから許せ、と言う言葉に逆らえなかった。
彼の体が激しく震える。彼はすがるようにニカウレを抱きしめた。「お兄様」彼女が口を開く。
「私、行ってきますわ」
「行かなくていい!」彼は必死で叫ぶ。
「でも……困るのはお兄様じゃないですの。お兄様は第三王子なんだから」
その言葉を聞いて、アブサロムは目の前が真っ暗になった。
自分は逆らえなかった。世界一愛している妹を汚されても、死に追いやられても、相手は第一王子だから黙っていろと言われた……。
アブサロムの全身から力が抜ける。はらりと木の葉が落ちるように垂れたそれから彼女は抜け出て、「今行くわ」と駆けて行った。

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