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クリスマス市のグリューワイン

The Princess of Sheba 第十四話


シェバの反乱についての新しい情報が届いた。彼らはベト・マアカのアベルという要塞都市を乗っ取り、籠城戦をしているらしい。
ダビデ軍はそこを包囲したらしいが、アベルの城壁を崩すのは至難の業だ。あちらも精力的に応戦しているし、アベルの住民たちの手前、城壁を無理に壊して攻撃に入るわけにもいかない。膠着状態になっているという話だった。

ソロモンはその晩、ただ書庫にいた。自分の部屋に戻るのすら、怖かった。ここでは静かでいられる。不安を感じずにいられる。
シェバの乱の件も、特に心配していなかった。ダビデやアドニヤがいるなら、なんとかなるだろう。自分が気にしたって何もならない……。
その時、彼はふわりと、風を感じた。小さな窓一つしかない書庫で。
気配がする。自分しかいないはずの、真っ暗な部屋に。彼はランプを持ち、そっと、気配のする方向に進んだ。
そこに、ニカウレが立っていた。
彼は、彼女の名前を呼ぶ。どうして彼女がこんなところに。自分は一日中此処にいた。誰かが入ってきたらすぐ気が付くはずなのに。反乱したものの娘が、こんなところに来られるはずはないのに。
彼女は、まるで彼女自身が発光しているかのように、暗い部屋ではかない月明かりを浴びながら、美しく輝いて、そこにたたずんでいた。そして、自分を呼んだソロモンに、そっと手を振って返す。
「どうして、来たの?」
彼は問いかけた。
「それは……どういう意味?」
彼女は穏やかに言う。
「なんで裏切り者がここに、ってこと?それとも……どうして私が、イスラエルに来たのか、っていうこと?」
彼女の微笑みを見て、ソロモンは非現実的な気持ちになった。「君は……」ソロモンは、彼女のエメラルドの瞳をじっと見つめて言う。
「君は、何者……?」
彼女は優しく、息を一つ吐いて言う。
「ある方に、ここに行くように言われたの」
風が吹かないはずのこの部屋で、ふわりと彼女の真直ぐな赤毛が揺れた。まるで室外に居るかのようだった。彼女の目も、またソロモンの目をじっと見つめていた。
「人間が生きていると、どこかに必ず罪はたまるわ……とくに、あなたの家は。ダビデの家はそうだった。アブサロム様の妹様も、あなたのご両親の事もそう……」
彼女はゆっくりと、小さな子に倫理を言い含めるかのような口調で話す。だが不思議と、下に見られているような感触はなかった。むしろ手ひどいことを言われているはずなのに、包み込まれるような安心感がそこにはあった。
「だから、いつか何かしらの形で、罪の清算は行われなくてはならないわ。今回は、私がその役目を仰せつかった……。だから来たのよ、この国に」
「じゃあ、君は……?」
ソロモンは目を大きく開き、彼女を見つめる。彼女はくすり、とほほ笑んだ。そして。ドレスの裾を翻してソロモンの側に寄る。
じっと、彼らはお互いを見つめた。
「ソロモン。私、あなたの事好きよ」
彼女はそう囁いた。
「あなたといられて楽しかった。ありがとう」
「……僕も」
ソロモンも、小さく言う。
「僕も、君の事、好き……」
彼女は真っ白な頬を少しだけ赤らめて、微笑みを絶やさずに言う。
「ソロモン。貴方が大人になった時、またあなたの所に来てもいい?」
王宮は騒がしいはずなのに、静かすぎるほど、書庫は静かだった。彼女の声だけが響き、それだけがソロモンの聴覚を支配していた。
「言ったわよね、大人になったらもっと自由だって……大人になったら私たち、もっといろいろなところに行きましょう。約束よ」
「うん」ソロモンはうなずく。自分の頬も、赤く染まっているのが何となくわかった。「分かった。楽しみに待ってる」
彼女はもう一度、目を細めて微笑んだ。とても純粋な、綺麗な笑顔だとソロモンは感じた。
彼女はそっとソロモンの頬を抱く。そして、静かに、とても自然に、彼の唇にキスを落とした。
それを最後に、ソロモンはふわりと意識が遠のいた。夢見心地のような気分だった。

キルアブはその夜も、ニカウレの事を考えていた。もう何日も眠れていない。発作に苦しみ、楽なときは彼女の事を考えながら自慰行為にふけるだけの生活。どこにいるんだ、早く来てくれ。お前がいないと眠れない。お前がいないと生きる意味がない……そう考えながら夜空を眺めていると、ふと、流星が一つ流れていくのが見えた。
その時だ。
彼の胸がキリリと激しく傷んだ。咳の類ではない、それよりももっと自分の体を痛めつけた。全身からみるみるうちに、生命が消えていく。血の気が、自分の体から引いていく。
彼は呼吸もままならないまま、かすむ目で人を呼ぶ鈴を探した。だが、それはいつも置いているサイドテーブルにはなかった。先日アビシャグに放り投げてしまったのだから。
絶望に染まり、誰も来ない部屋で、キルアブは一人、少しずつ、少しずつ目の前が暗くなっていった。
「……ニカウレ……」
彼は最期まで、その名を呼び続けていた。


要塞都市アベル。
ダビデ軍とシェバ軍の争いは、夜中になっても膠着状態だった。
アブサロムは長髪を掻きあげ、隣のシェバに言う。
「どうします?シェバ殿」
「焦らない事ですね」彼は鷹揚に言った。「心配せずとも、下手に動かなければこちらが負けることは……」
その時、シェバは言葉を引っ込めた。彼の眼は、夜空に吸い寄せられた。アブサロムはきょとんとして彼の方向を見る。だが彼は、一瞬のうちに消えていった流星の去った空を眺め「あ、ああ……」と、顔を真っ青にして激しく震えだした。
「どうしました……」
「いやだ、行かないでくれ!」
彼はがたりと椅子から立ち上がり、夢中で駆けだした。アブサロムが驚いて止めようとしても遅かった。彼は城壁の物見台に昇った。
「何をしているんです、シェバ殿!」アブサロムは叫ぶ。司令官の彼が弓兵に襲われるかもしれないのに。だが彼は自分のそんな言葉など意に介していないかのように、地平線に消えて行ってしまった流星を追うように、叫んだ。
「待って、待ってくれ!おいていかないで!貴女に……貴女に捨てられるくらいなら、私は!」
そして次の瞬間、シェバ軍は目を疑った。
シェバは城壁の上で剣を抜き、自分の首を切り裂いた。勢いよく血が吹きだし、首を失った彼の体は城壁の外、ダビデ軍が陣を張っているところに転がり落ちた。
その場はしんと静まり返った。たった一瞬起こった、余りの出来事に、誰もが言葉を失ったのだ。


シェバは、急に気をおかしくして自殺した。
頭を失ったシェバ軍は散り散りになり、王国軍に敗退した。
アブサロムも、逃亡中に殺された。
イスラエルには、そんな情報が入ってきた。かくして反乱は終わったと。にぎやかなダビデ王の凱旋のパレードがまたエルサレムにやってくる。しかし、その場にはもう、髪の長い、憂鬱そうな王子の姿はなかった。
そして王宮の、病弱な王子もすでに亡くなっていた。ある朝、頑として看病に行こうとしないアビシャグの代わりに看病に来た侍女が、苦悶の表情で死んでいるキルアブの死体を見つけたのだ。

すっかり終わったころに、ソロモンは意識が戻った。気が付いたころには、彼は自分の部屋のベッドで寝かされていた。
「よう、目が覚めたか」
そう言ってきたのは、アドニヤだった。
「兄上……?」
「おかえりの一言くらい言えよ。お前、まる四日意識がなかったんだぞ」
何だって?ソロモンにはそんな時間の感触はなかった。喉も乾いていないし、腹も減っていない。
アドニヤは、戸惑う彼に、何があったか話してくれた。アブサロムも、キルアブも死んでしまったことを。そして自分も、死んだのではないかと心配されていたということを。
「兄上たちが死んで……お前まで死んだら、皆悲しむだろう」
「そうでしょうか……」
「幸せに生きたいんならな、そうだと思い込むことだ」
彼はソロモンにため息をつきながら言う。
「狩りに行く約束をしていたな。喪が開けたらいっしょに行こう。綺麗な鹿がいる森を知っているんだ。動物も、植物もうんとあって……獲物が取れなくても、見ているだけで楽しいぞ。ものをよく知ってるお前ならきっともっと楽しい」
ソロモンはなんだか、おかしな気分になった。アドニヤはこんないい兄だったろうか?そのことを問いただすと、アドニヤは呆れて言った。
「キルアブの兄上にしか構わずにあとはずっと書庫に居て、俺とはろくに話したこともなかったくせに、何知ったような口ききやがる」
それもそうだ、と感じた。ソロモンは素直に彼に謝った。

二人の王子の葬儀が行われ……アブサロムの遺体は戻っては来なかったが……ダビデ王宮は誰もが喪に服した。しかし、喪服を着たアドニヤは、ある日父にこう言った。
「少々、お耳に入れたいことが……」
「なんだ?」
彼はいつもの通り、悠々と笑いながら言う。
「あのシェバ氏の持ち物から、身元が割れました。ベニヤミン族の、ビクリと言う金持ちの男の家の息子が、数年前から行方不明だったそうです。もっともひどいごくつぶしで、ならず者で通っていたようですが。そいつでした。遺品を送って人相も知らせて確かめさせたら、間違いはないと」
「なんだって……?では、奴はイスラエル人だったのか?」
「はい、そうです。それどころか……行商人に何人も聞いてみたんですが、誰もシェバ王国なんて国は知りませんでした。そんな名前の国は、存在しないそうです」
ダビデは首をかしげた。アドニヤはふっと不敵に笑って言った。
「ニカウレ姫もどこかに雲隠れ。シェバ王国とはなんだったんでしょう。いったい私たちは……何を見ていたんでしょうかね」


それから数か月がたったある日の事だった。
ソロモンは、城下の市場をぶらぶらと歩いていた。その中でふと、なんだか懐かしいような香りがした。見てみれば、おそらく外国の行商人の店だった。
だが、彼の目が引き付けられたのはその珍しい品物の数々ではなかった。その店にいた男は、抜けるほど白い肌をしていて、髪の毛は夕日のように真っ赤、そして目は、透き通るほど美しいエメラルド色をしていた。
「ニカウレみたいだ……」
彼はそう、ぼそりと独り言をつぶやいた。しかしその瞬間、店の男はその緑の目をギラリと輝かせた。
「坊ちゃん……?」
「な、なんだ?」ソロモンは怯える。
「ニカウレを……ニカウレを知っているんですか!?」男は震える声で問いかけた。その言葉を聞いて、彼も驚く。
「え、え……?あなたは?」
「ニカウレは、私の娘です!」
そう叫んだ、シェバとは似ても似つかぬ男を見て、ソロモンは驚く。だがどう見ても、シェバよりも彼の方が、ニカウレの父親であるはずだった。
「ニカウレは!?」ソロモンは必死になって縋りついた。「ニカウレは、今どこにいるんだ!?」
「娘は……」呻くように、男は言った。
「とっくに死にました。十年以上も昔に」
「なんだって……?」ソロモンは絶句した。
「じ、じゃあ……彼女は、どういう子だったんだ?」
彼は、ポツリポツリと、泣きながら話した。
「あの子は……不幸な子でした。とてつもなく、不幸な子でした。あの子は……美しすぎたのです。どんな男も、あの子を欲しがって、あの子のために争って。あの子が言うことを聞かないとあれば激昂して……私たちが、私たちがとめていればよかったんです。でも、私たちはあの子に恋する男たちがいくらでも落とす金に目がくらんで……娘に男たちの愛に答えろと、そればかり言っていました……」
彼は祭司の前で懺悔するように、絞り出して言った。
「だからあの子は……生きるために、あるすべを身に着けました。あの子は自分を愛する男が。自分自身じゃない、自分の美貌に皆惚れているのだと分かっていたのです。自分の美貌に理想の女性をみんな投影しているのだと分かっていたのです。だから……彼女は、新しい男に貰われていくたび、彼がどんな女性を望んでいるのか、いいえ、それにかかわらず、自分を見る相手がどんな自分を望んでいるのか、少し見るだけで分かるようになってしまったのです。生きるために、傷つけられないために、自分を殺して、必死で目の前の人物が求めるニカウレと言う虚像を、演じ続けていました……それで、何十、何百と言う男たちの間を渡り続けていたのです……死んだとき、まだ、たったの十四歳でした」
それを聞き、ソロモンはあまりの話のむごさに愕然とする一方ではっとした。全てに合点がいった。
誰もかれも、ニカウレを見る目がかみ合ってなかった。当然だ。彼らはみんな違うものを見ていたのだから。
妹に固執していたアブサロムは、妹の姿をみていた。自分のような奔放な女性が好きなアドニヤの前では、売春婦のような女としてふるまえたのだ。今となっては、キルアブが彼女に執着していたというのも、ちゃんと理解している。きっとキルアブも、彼が、内心では望んでいた、自分を受け入れてくれる女性を、彼女に見ていたのだろう。……ひょっとすると……アビシャグが見た彼女も、そうだ。アビシャグはキルアブの事が好きだった。きっと彼の心を引く彼女が、せめて、自分に劣る存在であってほしいと……途方もない悪女であってほしいと望んでいて、彼女は、それを嗅ぎ取ったのかもしれない。
そして……自分も。自分も、学問の話ができる相手がほしかった。彼女は自分の求める人物も、忠実に再現して見せたのだ。
あの自分の恋は、幻だった。それがわかってもソロモンは不思議と、さびしい思いはしなかった。「もう一つ、聞いていいか」彼は静かに言った。
「じゃあ……その彼女自身に殺された、本当の彼女って、どんな女の子だったんだ?」
「あの子は……ニカウレは」彼は震える声で呟いた。
「いくら男に愛されても……本当は男なんか、色恋なんか、嫌いな子だったんです。あの子はただ……書が好きで、学問が好きで、放っておけば一日中でも書物を読んでいて……将来は学者になりたいと、そう言っていました」
え?
その言葉を聞いて、ソロモンは頭の中が真っ白になった。
「私たちは……私たちは、女が学問なんかしても、好かれないからやめろ、女が学者になんかなれるか、女はかわいくふるまっていればいい、賢い生意気な女は見苦しいだけだと、そんなことばかり言っていました……あの子の夫になった方々も、誰一人そんな彼女は望んでいなかったからと、つい……けれど、けれど、こんなことになるんなら、こんなに早く死ぬのなら、許してやればよかった。ずっとずっと、好きなようにさせてやればよかった……」
彼のその懺悔を聞きながら、ソロモンは目を瞬かせた。
「じゃあ……僕が会ったニカウレは……」

その時、彼は思い出した。この香りがなぜ懐かしいのか。これは、ニカウレの香りだ。彼女がいつもつけていた香料の香りだ。
「これは?」ソロモンは男に指さす。
「乳香です。我が国の特産品ですよ」
「……買おう。いくらだ?」
ソロモンはそう笑った。
いつか大人になった時、彼女は自分に会いに来ると言った。香炉の中でたかれている乳香の香りを吸い込んで、彼はぼそりと、小さく呟く。
「約束だよ。僕は、ずっと待ってるからね」
乳香の香炉の煙が、青く晴れた空の上に、細く、高くたなびいていた。

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