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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第七十六話

ハダドはしばらく、静止していた。彼女を目の前にして。彼の手から力が抜け、ずるりとソロモンは解放される。
当の彼女はハダドに一瞥だけをくれると、静かにソロモンの元に向かった。長い裾を、血に汚れた敷石に泳がせて屈みこみ、白絹が血に塗れるのにも構わず、彼女はソロモンに手を差し伸べた。
「まあ。酷い傷」
不思議な人だ、とソロモンは思った。なぜ、彼女は落ち着いているのだろう。このような状況で。
その時だ。ソロモンの心に一つの答えが舞い降りた。それは彼自身の考察ではなく、確固たる答え、彼女自身と神以外はあずかり知るはずのない真実が、ソロモンにも与えられたような感覚だった。
そうだ。まだ、神殿に行っていないから。まだ、この私が、死ぬはずがないからだ。

ペタリ、と感触がした。マント越しに、傷口に何かが触れられる感触。彼女の手だ。彼女の褐色の柔らかい手も、黒髪も、白いドレスも、宝石をちりばめたローブも、ソロモンの血で汚れた。
そして、彼は自分が子供の時教えられていたことが、全てうそだったのだと悟った。お前は気色悪い、お前の赤い目は醜い、みんなお前のことなど嫌う、お前のその姿は美しさと対極にあるから。
全部、違っていた。
彼女は血、ソロモンの血で赤く汚れながら、何の違和感もなかった。あれほど美しく、今なお美しい彼女が。自分は、醜くなどなかった。劣ってなどいなかった。食べず嫌いの子供のように、誰もかれも、自分のこの血に触ったことがないくせに、汚れていたと言っていたのだ。
「おいたわしい……」
「いいえ……ビルキス様」
まだエルサレム市街は戦乱のはずなのに、そこだけ静かだった。ハダドはそんな二人を見て、逃げた兵隊たちにも気絶したベナヤにも構うことなく硬直していた。
「私は今、幸せです。この人生の中で、一番。玉座についた時すらも、ここまで幸福な瞬間ではあり得ませんでした」
自分は王だ、自分は優秀だ、と言う自覚の下でも、その時言われ続けた心の傷が冷たく眠っていたのだ、とようやくソロモンは思った。そして、その冬眠ももはや終りだった。彼らは安らかに、眠ったまま、溶かされていった。
ビルキスは全くハダドに構う様子は見せなかった。彼の事を脅威とすら認識していない様子であった。
「吉報ですわ」彼女は静かな声色で言った。
「レゾンの軍隊には、ただいまヒラム王が向かっております。しかし敵方は予想よりもずっと人数が少なく、鎮圧は目前です」
ハダドがはっと目を剥いた。ソロモンは激痛を抑えながらも微笑み「そうですか、それは何より……」と告げた。
「あなたは……」不安定な、低い声が響いた。ソロモンとビルキスの世界に入るノイズのような声。事実、その声は震えていた。ハダドが発したものだった。「あなたは、誰だ?」
ビルキスはそっと細い首を動かし、ようやくハダドの方を見た。ハダドの瞳は、既に復讐者のそれではなく、ただ闇夜の中に明るく輝く金色の光にすがる死にかけの虫のようであった。
「はやく……離れてくれ。そいつは、貴方が触れるべきものじゃない。貴方は、そんなものの側にあってはいけないのだ……」
ビルキスは少しだけ、目を細めて彼に言った。ハダドが無意識に差し出したその手を、言葉を持って叩き落とすかのように。その言葉は透き通るほど美しく穏やかな声音であったのに、その時エルサレムで多々あっていたどの戦士よりも強く、残忍な兵になり、女王に手を差し伸べる不届きものから主を守った。
「あなた、誰?私の、何をご存じなの?」

ハダドの手から力が抜けたようであった。それでもタルシシュの鋼の剣を手放さなかったのは、彼の執念のなせるわざであった。
誰、だと。
当たり前の問いであるはずであった。自分と手彼女の名を知りはしない。だがあの時、彼女は一瞬で自分の心を刺し貫いたのだ。どのような女にも、復讐の心をかき乱されることなどなかった自分の心を。
そんなあなたが、何故私を知らない。私の事を知りもしない人間が、何故私の心を、こうも射止めたというのだ。そのようなことが、この世に、あって成る者か。
「知る者か。貴方が、どなたかなど」ハダドはそれでも、なんとか言い返した。
「だが、そ奴の事ならば知っている。エジプトの奴隷の末裔だ。その中でも、賤しい羊飼いよりでたものだ。……人の姿を持たず生まれてきた、できそこないだ!」
「そして」ビルキスはすっと立ち上がった。ソロモンを庇うように。血にぬれたドレスの裾が重そうに動き、再び地面に泳いだ。
「偉大なるイスラエル王。神より知性を預かり、イスラエルに繁栄を導いた王……その名を、ソロモンと言うお方」
彼女の白いドレスは、ソロモンの血でもはや真っ赤だった。だが、それでも、彼女は何も変わらず、美しかった。背筋はぴんと伸ばされ、自分より身長の高いハダドの事ですら、その目つきは上から見下すかのような圧倒的な威厳を持っていた。
彼は、誇り高き亡国の王子であったかもしれない。だが、彼女は、今この世に君臨する誇り高く麗しい国、シバ王国の、たった一人の女王であったのだ。
「そして」彼女は桃色の唇で弧を描いた。いったいどれほどの男が、そこに口づけしたいと願ったのであろう、その唇で、はっきりとこのように告げた。
「この私、シバの女王ビルキスが……誰よりも大切に思うお方です」
ありがとうございます、と、そのような言葉すらも、必要がないかのように、ソロモンには思われた。
彼女はただただ、この世の絶対の真理を言うかのように、その言葉を言った。人の目は赤ではない、などという言説よりも、ずっと、彼女のその一言の方が、ゆるぎないこの世の真実であるかのようだった。
「シバの女王……なるほど、道理で、高貴なお方だと思った……」
ハダドはそれでも、言った。彼は本当に、ダビデとソロモンを憎んでいたのだろう。
いや、それだけではない。ソロモンは激痛の中でも、思った。この男はきっと、真直ぐな男であったのだ。理不尽を見過ごすことのできない、正義感の強い、真直ぐな男。おそらくその点は自分よりも数段人間として格上だ。
ただ、理不尽に誰かを虐げる悪として一度誰かを認定してしまったら、もうその考えを消し去ることが断固としてできない人間であった、それだけなのだ。
「ならば、なおのこと……離れるがよい。そのような言葉を口にはせぬことだ……」
彼は鋼の剣を再び構えた。
「大切になど、思わぬことだ!誇り高き雌獅子が、賤しい家畜の犬と結ばれることなどは有り得んのだ!そいつが貴女に何をした、イスラエルの邪神に与えられた知恵とやらで、美しい貴女に、何をした!」
剣の切っ先がぎらつく。彼は決して、ビルキスを殺しはしないのだろう。だが、その煌めきの中の殺意を、ソロモンは感じたことがなかった。なるほど、我欲ではなく正義感から来る殺意とは、これほどにも純粋で恐ろしいものか、と、彼は感じた。アドニヤの微笑みすら、あそこまでの恐ろしさはなかったのだから。
ひゅん、と刃物が振り下ろされた。彼の剣の腕は確かによかった。彼の剣はビルキスを傷つけることなく、彼女の胸元に飾られた首から字の鎖を引き裂いた。ビルキスがそれに気が付き拾おうとした刹那、鋼の剣はエイラットストーンに突き付けられた。
「こんなもの……こんな、石ころ!」
彼はいつから気が付いていたのだろう?二人を結びつける二つの青緑の宝玉、世界に二つしかないその青緑に。ビルキスが何か告げる間もなかった。鉄よりも固いタルシシュの鋼は、オアシスのごとき青緑を、一瞬で粉々に砕いた。ハダドの嫉妬を受け切るには、その可憐な宝石は、余りにも脆かったのであろう。
ビルキスは黒大理石に散らばる青緑の粒を見て、瞳を瞬かせた。だがハダドはそんなことには気が付かない様子だった。
「あなただけではない……」ハダドはその切っ先の殺意を、そのまま音に変換したような声色で告げた。
「こいつのせいで、ダビデの血筋のおかげで、苦しむものがいる。賤しい羊飼いのくせに……奴隷にすぎぬ者達のくせに……」
「ソロモン様」
ビルキスは少しだけ振り返り、言った。
「お願いしてもよろしゅうございますか」
「何をです?」ソロモンはかすれるような声で言った。
「あなたは、信じられないものを目にするかもしれません」彼女は静かに言う。ハダドの持つ剣を、金色の目でじっと見つめながら。
「それでも……あなたが今までその目にとめられた私は……シバの女王ビルキスは、ただただ……変わらずに私であるのだと、どうか信じてください」
「そのようなことですか」
聞く間でもない事だった。だがその聞くまでもない質問をする彼女が、ソロモンには無性に、愛おしく思えた。
「このソロモン、貴方の頼みとあらば何でも聞きましょう。麗しのビルキス様」
ビルキスはくすりとほほ笑むと、すっとハダドに向かって歩みを勧めた。ハダドも、じっと彼女を睨みつける。
「お退きになることだ。貴女を傷つけたくはない……!」
「彼の事を、家畜の犬と言ったわね」
彼女は今度こそ、ハダドの言葉を何も聞く意志などないとでも言わんばかりに、鋭く言いすてた。そしてハダドが二の句を注ぐ余裕もないままに、告げる。
「何をされたですって……?何よりも、大切なことを教えてくれたわ。誰も、教えてくれなかったことよ。貴方みたいな……そう、貴方みたいな人たちが、誰一人教えてくれなかったことを。彼は教えてくれたの」
ペタペタと音を立てて、ぬれた重いドレスの裾が大理石の床を這う。
「彼が犬なら、貴方は何。雌獅子にたかる、ノミかしら」
彼女はハダドの目の前に立つと、こう告げた。王宮のバルコニーから勅令を告げる女王の声、そのままに。
「ならば、雌獅子に噛み殺されて、死んでおしまい」

視界が揺らいだ。
見えるはずのないものが、そこに起こった。
それは、燃え盛るエルサレムの熱風が見せた幻覚であろうか。 いや、違う。見えるはずのない物でありながら、それは確かに、現実であった。
刹那、ビルキスの体が発行したかと思うと、その人型の光は瞬く間に姿を変えた。まるで彼女の瞳のような、眩しい黄金の毛並みを持つ……雌獅子の姿に。
そして、ソロモンにも、ハダドにも、驚く間も与えられなかった。雌獅子はしなやかな体を跳躍させ、ハダドに襲い掛かった。
血が飛び散る。真っ赤なそれは、ソロモンの者と特に違いはなかった。彼が奴隷と呼んだ血にも、国が亡くなっても誇り続けた血にも、違いなどなかったのだ。
ソロモンの体力も、そろそろつきかけていた。視界がかすむようだった。カランと聞こえる音。ハダドの手から、賢が離れたのだ。
そして、ハダドの体も、ずるりと床に倒れ伏したようだった。
ハダドはそれでもなお、呻き続けている様であった。かすむ視界の中、ソロモンは告げた。
「ハダド。コヘレトの居場所を知りたがっていたな」
彼の返事も聞こえない。自分の耳もかすんできたのか、彼はもう声すら出せないのか、それとも自分の声が非常に小さくなってきたのか、判別はつかない。だが、これだけは言っておきたいと思っていた。
「奴はお前の目の前にいる。……このような体だからと、誰からも忌み嫌われて。人目を避けるように黒いマントを羽織って、子供時代を過ごしたのだよ。私は……」
うめき声がどよめいた。先ほどの剣の切っ先よりも、それは恐ろしい殺意を宿したかのように感じた。それはおそらく、屈辱のせいか。よかった、聞こえてはいたのだな、とソロモンは感じた。
「感謝しているぞ。来てくれて……本当に、この人間の生きる世界で、誰も私に同情し、助けに来てくれるものなどは、いなかった……」
それを言い終わり、ソロモンはいよいよ力が抜けた。外の音も収まりつつある。
「ソロモン様」
そう声が欠けられた気がした。しかしそれは音声ではないようにも思えた。だが、はっきり彼は分かった。ビルキスが、ここにいる。
ソロモンはそのまま、眠るように意識を失った。

丸腰になったレゾンの首元に、刃物が複数突き付けられた。
「観念するのだな。賊の王」ヒラムはレゾンに、部下たちに代わってシリア語で告げた。部下たちがとうとう、レゾンを縛り上げた。狂犬のような目で自分を見つめる彼に少しも怯えることも是図、ヒラム王は言う。
「よくも私の貿易を散々邪魔してくれたものだ。落とし前はたっぷりつけさせてもらうぞ……!」
「は、そう言っていられるのも今のうちだ、銭ゲバのフェニキア人ごときが!」しかしこのような状況になっても、レゾンは語気を鎮める様子を見せない。
「今に見ていろ、援軍が……」
「援軍?援軍どころか、見た手よりもずっと少なかったぞ、貴様らの軍隊は」
「なんだって……?」
その返答を見て、ヒラムも異常に思った。この目の前の男も、どうやら軍の少なさを知らない様子であった。
強気な姿勢を崩さずに居つつも、その目つきの中に確かにおどおどしたものを感じ取ったヒラムは、ふっと彼をあざ笑って言った。
「ひょっとして、お前達……」
エルサレムの火もそろそろ消えるだろう。あらかじめ兵隊たちの支持のもと避難もさせた。大した損失にはなるまい。
「仲間から、切り捨てられたのではないか?」
レゾンはその言葉に、目を白黒させた。
「なんだと……ふざけるな!奴隷の末裔に尻尾を振る誇りもくそもない守銭奴どもが!我らの誇り高き革命に何を言う!」
「ふん、私は国を富ませることができないなら、お前の言う所の誇りなど、別段欲しくもないのだがね」
彼は護衛兵達に拘束されたレゾンを馬車に乗せ「帰還する!この者の処罰は牢に拘束してから考えるとしよう」と言った。
「見ていろ!ソロモン王は今時死んでいるはずだ!奴の汚らわしい血筋に相応しい罰を受けているはずだ!」
「ある種では、お前の人生がうらやましいねぇ」ヒラムはあっさり言い返す。「目に見える数字ではなく、実体のない概念的な理想で心が満たされるなら、どんな状況でも幸せでいられるだろうよ。そんなもの若者だけの特権だと思っていたが、お前みたいなのもいるもんだね」


どれほど時がたったのだろう。
ポッポッポ、と音がした。聞き覚えのある音。ソロモンは瞼を持ち上げてみた。
見知った、自分の部屋だった。窓から何羽もヤツガシラが集まってきている。「お前達……」ソロモンは言って、体を起こそう落とした。幸いなことに、痛みは大分消えていた。傷もあらかたふさがっているらしい。蝋燭の光がまだともっていた。
外は夜だった。どうやら相当長い間寝込んでいたらしい、すこし体に巻かれている包帯を乱してみると、はっきりいと袈裟懸けにされた傷跡が残っていた。左胸に小さく残り続ける傷痕と一緒に。
だが、生きている。ソロモンはその事実に、ふっと安心した。
こんな時間に誰かを起こすのも野暮だ。だから別に、誰と話そうという気も起きなかったが、夜が明け次第状況を聞かねば、聞くべきことを整理しようと思い当たった。だが、その時、ソロモンの目に飛び込む二つの光があった。
倉上の中に、二つの目が光っている。猫の目だ。まるでオフィルの黄金にも勝るのではないかと言うきらめきを持つ……金色の目の猫が、そこにいた。
猫がいると言うのに、ヤツガシラ達は少しも怯える様子を見せない。猫はすっと部屋の中に入り込むと、刹那光輝き……ビルキスの姿になった。
「ビルキス様……」
「お目覚めになられたのですね。よかった……」彼女はすっと彼の寝台まで寄ってきて、傍らにあった椅子に腰かける。
「なんてお早い傷の治りでしょう。やはり、貴方の作られた傷薬は違いますわ」
「え、私の……ああ」
そういえばビルキスがけがをした時、サラヒル女史に調合法も一緒に教えておいたのを思い出した。サラヒル女史は何とも、頼れる女性だ。
ソロモンは寝台から起き上がってみようと試みる。大した違和感もなく、体は動いた。あれほどの大けがからすれば、本当に早い傷の治りだろう。
「私を、心配して下さっていたのですね」彼は寝台に腰かけながら言った。
「もちろんですわ。心配しない理由など、ありますでしょうか……」
しばし、彼らは微笑みあった。何羽ものヤツガシラが、彼らを見守ってくれていた。
「ねえ、ソロモン様」ろうそくが燃えつきそうな頃、ビルキスは微笑んで言った。
「神殿に連れていって頂けるお約束をしていましたわね?」
「ええ」
「行きませんか。今すぐに」
今に消え入りそうな炎の光に照らされる彼女の顔は、まるで無邪気で悪戯好きな少女のそれだった。ソロモンも笑った。今では自分も、レハブアムに負けもおとりもせぬ腕白小僧になれる気すらしていた。
「いいですな。行きましょう」
ソロモンは寝間着のまま起き上がる。引き続き少し笑って、ビルキスはソロモンの胸元に寄りかかった。そして、次の瞬間、彼女はまた、光輝き、姿を変えた。
蝋燭の明かりが燃え尽きる。バルコニーから差し込む薄い月明かりと星明りにのみ照らされて、そこには言いようもない美しい生き物がいた。
まるで心優しいロバのようでもあり、荒々しく不気味な山羊のようでもあり、しかしただただそれは美しく、穏やかな目でソロモンを見つめていた。お乗りください、と言っているように、その生き物……いいや、ビルキスは、首を動かした。
「ええ」
ソロモンは返答し、ひらりと彼女の背に飛び乗った。彼女はかっかっと蹄を鳴らし、ふわりとバルコニーから飛び立った。屋根から屋根へ、神殿を目指して。
まるで飛んでいるかのように軽やかな感触で、少しも傷痕に響くことはなかった。気が付くと彼らは、明かりの消された、真夜中のエルサレム神殿へたどり着いていた。


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