FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第七十七話

月の光が輝き、「海」と黄金の神殿をキラキラと照らしていた。数日前大騒ぎがあったとは思えないほど、モリヤ山かあ見下ろす夜のエルサレムは静かで、いつも通りの平安の都であった。
ソロモンが松明の明かりをともすと、ビルキスはいつの間にか、美しい人間の姿に戻って、ソロモンの隣にいた。「さあ」彼女はせかすように言う。ソロモンも静かに、神殿の扉を開けた。
懐かしい。ヒラムが死んだ日にも、ここに来たっけ。いや、それより前から、この神殿がこの世に実態を持つずっと前から、自分は何回も訪れていたのだ。この人が一人もいなくなったエルサレム宮殿に。
彼ら二人の足音が広い、広い宮殿にこだまする。二本の青銅の柱、ボアズとヤキンがしっかり立ち、その荘厳な空間を守っていた。彼らの脚だけが明かりに照らされ、上の穂は見えない。
ビルキスは昼間とは全く違うエルサレム宮殿をしげしげと眺めている様子であった。ソロモンは無言で、至聖所の扉を開く。
「内緒ですよ」彼は言った。だが、罰当たりなことをしている気分でもなかった。
彼女は、きっと大丈夫だ。
自分は、滅びの預言など見なかった。父も、ナタンも、ナタンの師サムエルも恐らく、見なかったであろう。
イスラエルの神に愛され他自分たちすらあずかり知らなかった未来を、イスラエルの神は、何故だかこの女性には見せたのだから。
至聖所には真っ白な天幕がかかっていた。ソロモンとビルキスは、その前に立つ。
「イスラエルの神に、御引き合わせしましょう」
厳かな声で、ソロモンは言った。ビルキスも「ええ」と言い返す。
ソロモンの真っ白な手が天幕の布にかけられ、ひらりと翻った白い天幕の中から、黄金に輝く箱が現れた。イスラエル人の秘宝、契約の箱が。
エジプトから先祖たちを連れだしたかの偉大なるモーセが神から受け取った石版、それを治めている、聖なる櫃。それが、ソロモンの掲げる松明の光に輝いていた。
だが、その輝きは先日のハダドの剣のように、目の前の人物たちを拒絶するものではなかった。返ってそれは暖かく、彼らを歓迎するかのように煌めいていた。
そしてその時のビルキスは、まさにその歓待を受けるにふさわしい人物であった。彼女はつつましやかに微笑み、いつも真にかそれにひれ伏していた。
「神を信じたことが、今までありませんでした」彼女は言った。「太陽も、月も、私にとっては天に輝くもの。神殿の黄金の偶像も、ただの彫像品でしかありえませんでした」彼女はソロモンに言うように、そして契約の箱を通じてイスラエルの神に言うように、ゆっくりと告白した。
「今初めて、私は、神と言う概念がこの世に存在した理由を知りましたわ。……ただ、あったからなのですね。貴方はここに坐していたのですね。世界をおつくりになられた、神様」
彼女の目は、契約の箱を映しつつも、さらにその奥にあるものをしっかりと見据えている様であった。イスラエル人ですら、一体何人がそこを見つめることができるのだろう。だが、彼女はそれを行っていたのだ。
彼女はしばし、じっと祈っていた、ソロモンも目を閉じ、感謝をささげた。ありがとうございます。イスラエルを、自分の命を、お守りくださり。そして、彼女を、自分と引き合わせて下さり。そして……彼女に、この世の真実を見せて下さり、本当に、ありがとうございます、と。
たとえ自分のこの国が、磔刑になって死ぬ男の手で滅ぶとも、それが貴方のおぼしめしであるのならば、喜んでその未来を受け入れましょう。ただ一つ願いが許されるならば、一人でも多くのイスラエル人を救ってくださいますように。神の道へと、天国に続く道へと、導いてくださいますように。
長い沈黙のうち、ビルキスは立ち上がった。そして最後に、礼を一つした。至聖所に冷たい夜の風が入ってきて、ふわり、とカーテンを動かした。契約の箱は金の光を発しつつ、カーテンの奥に包まれていった。

彼らは神殿の外に出た。明るい夜だった。神殿裏に色とりどりに咲くシクラメン畑に、彼らは向かった。
シクラメンの花に包まれるように、彼らは静かに腰を下ろした。あくまでソロモンの愛するその花をつぶさぬよう、細心の注意を払って。
ビルキスは静かに、ソロモンに寄り添った。エルサレムの都を見つめながら。
「コヘレトの一件ですが」彼女は言った。「そうである気が、していました貴方があのお手紙をしたためられるよりも、もっと……ずっと前から」
「そうでしたか」
「ええ。貴方も、自分が人間であるか否か、迷ったお方だと感じておりましたから……」
「本当に、貴方は私の事を良くご存じだ」ソロモンは薄く微笑みながら、そう告げる。「私の親兄弟よりも、貴方の方が、ずっと私をご存じでいてくれる……」
「もちろんですわ」そして彼女は、そんな彼を包み込むような優しい声で、返答した。
「ビルキス様、貴方は……」ソロモンは彼女の目をじっと見つめながら、はっきりと言った。その彼女の言葉での抱擁に、自分も報いるとばかりに。
「つねに、貴方自身が望むものです。貴方が人間と信じれば、貴方は人間だ。そうでないなら、そうでないでよろしい。麗しく、素晴らしいあなたと言う存在は何も歪むことがないのですから。その治世が、そのまなざしが見つめた自分を信じてください。私も、人生で一番孤独になった時、そうしました。……私と同じ道を歩んでください。漸く私たちは、孤独な旅路で、お互いに巡り合えたのですから」
ビルキスはそれを聞き、自分でもソロモンの目を見つめた。自分の目を、生きた人間にここまで穏やかに見つめられたことなどなかった、と、ソロモンはその時確信した。
「タムリンが話しましたでしょう?私の事を……」
「ええ」
タムリン隊長はそのことを秘密にしておけなかったのか。あるいはビルキスが聞きだしたのか。今となってはどうでもいいことだった。
「彼の記録は完全ではありませんわ、彼は、彼の目に映った事しかわかりませんもの。私のこの瞳が映したものは、あんなものじゃない……」彼女は続ける。「お聞きくださいますか、ソロモン王。私のことを……私と言う人間を」
「ええ」ソロモンは答えた。「私は、貴方の全てを知りたい……」
ビルキスは、そっと小さな唇を動かした。その唇の華やかさは、シクラメンの花弁にも似ていた。


ビルキスは、母のことは知らない。「お前のお母さんは、精霊なのだ。私を見染めてくれた、麗しい精霊だ」と父に幾度となく語られた母は、父のもとにも、自分の元にも姿を現すことはなかった。
ただ、母に関するおぼろげな記憶はあった。母に抱かれているような感触があり、そして母は自分に何か語りかけていた。
その内容が、どうしても幼いビルキスには思い出せなかった。覚えているのは、母が実在したこと、そして自分に何かの言葉をくれたと言う事実だけ。

父ヒムヤリは、ビルキスには優しかった。小さいころ、怒られたり、殴られたりした記憶は一つもない。彼はいつも彼女を前にすると優雅に微笑んでいた。ただ一つ、彼女が家の外に出る事だけは断固として許しはしていなかった。
しかし幼いビルキスは、別段それに違和感を覚えることもなかった。自分の脚が、父親や屋敷の召使の者と決定的に違う、と言うことを知っていたからだ。
父は、彼女に度々、外に出てはいけないと言った。
「外は怖いからね。お前の脚を見て、自分たちと違うから、と虐げる人が大勢いるんだよ。私は、お前にそんな思いをしてほしくない」
特別、それにショックを覚えることもなかった。ショックを覚えるにはあまりに彼女が与えられる情報は少なく、彼女にとっては自分の脚が他人と違うということも、だから外に出てはならないということも、太陽は東から上る、植物は水を吸って生きる、などと言う世界の真理と同様に、特にどうと言った感情もなく当たり前のように受け止めるべきことだった。
そんな生活が、彼女が十歳になるまで続いた。彼女の人生を大きく変えたのが、父の親友と名乗る男が家に来たことだった。

タムリン、と言うその男が屋敷に現れた時、ビルキスは最初、遠目から見るだけだった。父はたまに人が家に来る際も、自分は極力合わないように、自分達の人間は怖いから、と言い張っていたのだ。
しかしこの時ばかりは、父は彼をビルキスに紹介した。ヒムヤリにとって、タムリンは確かに間違いなく、無二の親友であったのだろう。ビルキスにしても、嬉しかった。新しく、コミュニケーションをとっていい相手ができたことが。だが、それ以上に、ある日彼女は経験したこともない嬉しさを知った。それは、タムリンが渡してきたものだった。

「ビルキス。これを、君に……」
ある日屋敷に訪れたタムリンは、そう言ってビルキスに赤いルビーの首飾りを渡した。真鍮の鎖につながれて、大粒の赤い宝石が煌めいていた。
ビルキスは、ルビーを見ること自体が初めてだった。父親は自分に色々と切り絵なものを買ってきてくれたが、ルビーはまだだった。
まるで、初めて見る美しさだった。その輝きに、ビルキスの脳と思考は躍った。
「気に入ってもらえたかな?」と言うタムリンの声に、「ええ」とにっこり笑って返すだけの余裕などなかった。代わりに彼女はこう答えた。
「うん……ねえ、おじさま。これ、なに?」
「ルビーだよ。私の言った当方で、良い取引の品になった」
「そう……」
彼女は心底、その宝石に惚れこんだ気がした。それは確かに美しいきらめきを持つ。だが断じて、それだけの存在ではないはずだ。それ以上の存在であるはずなのだ。
良い取引の品?なぜだろう。当方と一口に言われたが、具体的にはこれはどこでとれるのだろう。シバ王国でもとれるのだろうか。いったいどこでどれほどの価値が付いたのだろう。何とならば釣りあう品なのだろう。そんな好奇心が、爆発するように湧いてきた。
生まれて初めてとでもいうほど、その瞬間は楽しかった。気が付けば彼女は、思い浮かんだ質問を次々と奴具早にタムリンに浴びせていた。
少し落ち着いてきたころ、しまった、と彼女は思った。箱入り育ちとはいえ、シバの娘として取るべき態度は常識的な範疇ではわかっていた。自分は、はしたないことをしてしまったかもしれない、と思った。
だが、彼女の金色の目に飛び込んできたのは、みっともないものをとがめる大人ではなかった。タムリンは優しく、彼女の質問に非常にわかりやすく答えてくれたのだ。
ビルキスは、知識欲が満たされるその瞬間にも並ぶほど、それを嬉しく思った。
この自分の人生で初めて得る快感が、決して間違っているものではないと、担保されたような気分であった。

その日を境に、彼女はいろいろなものに興味を持った。ルビーと同じだ。この世の色々な物の側面を知りたくなる。文字を読んでみたい、星の知識を知りたい、いろいろな国の事を知りたい、計算をしてみたい、出てくる欲に際限などなかった。自分はこんな才能があったのか、と彼女は初めて知った。
才能の赴くままに、タムリンに知識を仰ぐのは本当に楽しかった。まるで自分が生きる道を生きているかのような充足感。十年生きた人生の中で、間違いなく非常に楽しい時間だった。
「こんな本が読めるのか、すごいじゃないか」
「外国語をこんなに早く覚えるなんて」
「こんなに計算が早いなんて。我々顔負けだよ」
驚いた顔で、タムリンは何回も彼女を褒めた。ビルキスは褒められるたび、本当にうれしかった。自分の楽しみが、自分の努力が、認められているようで。
宝石焼き物を貰うより、知識を貰うのが楽しかった。自分はこのために生まれてきたのではないか、と確信すらできるほど、ただひたすら自然に楽しい時間だった。

そんな日々を過ごす中、ビルキスはどうしても外に出てみたくなった。ヒムヤリが所要で家を空けている数日間の間に、タムリンが来た際、彼女は思い切ってそれを口にした。
タムリンは迷っていたようだが、それでも了承してくれた。その日、ビルキスは初めて外に出た。
何もかもが面白かった。学んだことがそのまま実在し、同時に知らないものがあふれている。市場の色とりどりの商品も、港から来た荷車に乗せられた銀の魚も、ヒムヤリ邸には植えられていない植物たちも、神殿にそびえる見事な彫像も、皆、ビルキスにとってはただただ面白かった。
タムリンは商人だ。世界中を旅している。きっとマーリブにないものもたくさん見ているだろう。自分も、そうあれればいいのに……ビルキスの中で、そんな思いが募っていった。
と、そんな時だ。ビルキスは気が付いた。外に出てからずいぶん経っている。けれど、まだ誰も、ビルキスにひどい言葉を投げかけたりなどしなかった。
当然と言えば当然だ、彼女は足を隠していたのだから。だが、父はいつも言っていた。外に出るな、出るとお前は虐げられる、お前は人間の脚をしていないのだから。
そんなことはないじゃないか。仮に、足をさらせば虐げられるにしても、隠していれば自分は全く普通の人間と同じだ。誰だって、ビルキスを変な目で見すらしなかった。みんな、目の前の事に一生懸命だった。ビルキスの衣服をまくって異形の脚をさらしあげ、嘲ろうなどとする人は、存在すらしていなかった。
自分は、外に出たって大丈夫なんじゃないか。彼女はそう、強く感じた。父はなぜ、自分をかたくなに家から出さなかったのだろう。世の中は、こんなにもビルキスのことをただの人間として処理してくれるのに。
外に出たっていいのに。家に帰る旅路の中、彼女のそのような思いはどんどん募っていった。外に出て、タムリンのように、世界中を飛び回れたら、どんなに楽しいだろう。
「ねえ、おじさま」気が付けば、そんな望みが口を突いて出ていた。
「私も、おじさまみたいな商人になりたい」
非現実的な望みだということくらい、知っていた。それでもタムリンは、きっと自分の望みを肯定してくれるだろう、そう思っていた。
「ああ、きっとなれるんだろうね。私顔負けの商人になるだろうな」
タムリン亜層返してくれた、嬉しくて。顔がほころんだ。
だが、その時だ。
ビルキスは一瞬、タムリンの顔に異常を見た。それは、身の程知らずの事を言う小娘を咎める視線ではない。もっと恐ろしい何かを、彼女はその時感じた。
恩義のあるタムリンに、それしきで嫌な顔もできない。彼女は笑顔のままだった。だが、彼女はその時、確かに異常を感じたのだ。大好きだったタムリンから。
曽於以上の正体を知ったのは、11歳の誕生日の時だった。その日もタムリンは、彼女に土産を携えて、誕生日を祝いにやってきた。

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する