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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第八十四話

やがて、夜が明けた。
北の独房に、朝日が差し込むことはない。しかし、外が明るくなった事だけは、さすがにわかる。
ソロモンとビルキスは、一晩中、そこにいた。ビルキスの方が先に目覚めており、彼女は「おはよう」と、ソロモンに告げた。
彼は、その顔を見つめ、感慨深そうな顔で言う。
「なあ、ビルキス」
「なに?」
「俺はずっと幼いころ、ベリアルも来ないほど前の頃、この部屋に籠って、この寝台に横たわりながら……外で、兄弟たちが楽しげに遊んでる声を遠くに聞きながら、思っていたんだ。自分も彼らのように、太陽の光を目いっぱい浴びれたら、あの美しく輝く光に包まれることができたら、どれほど幸せだろうと」
そして彼は、ビルキスの頬をいとおしそうに撫でる。彼女自身を、じっと見つめて。
「俺は本当に幸せ者だな。その子供の時の夢が、今こうして叶ったのだから」
くす、とビルキスも照れて笑うソロモンはその手を、彼女の頬から右手に移した。
「ビルキス。君に頼みがあるんだ、受け取ってほしいものがある」
「あら、なあに?」
「君に渡したエイラットストーンだが、ハダドに砕かれてしまったろ?」彼は、彼女の細い指を撫でながらそう言った。
「その代わりになるものを、君に渡していきたくて……」
そう言うと、彼はその手を自分の手に移す。そして、三つはまった指輪のうちの、一つを引き抜いた。蓮の花のような薄紅色に輝く指輪。ヒラム・アビフが自分のために作ってくれた、スリランカ製のルビーの指輪を。
彼は、黙って指輪をビルキスの指にはめた。ソロモンの指に長らくなじんでいたそれは、ビルキスの指にも、すっとなじんだ。彼女の事を、新しい主と認めると言わんばかりに。
「これって、貴方の親友の……」
「ああ、掛け替えのない友、ヒラム・アビフが俺に送ってくれたものだ。俺の、忘れがたい記憶の一部だ……だからこそ、君に預ける。君に、持っていてほしい」
彼女はその言葉を、一言一句、真摯に聞いていた。ソロモンはどんな大金を積まれようと、ダビデ王家の指輪を手放すことになろうと、この指輪だけは、手放すことはなかっただろう。それを、自分に預けてくれたという事実を、真っ向から受け止めていた。
白い肌にも、褐色の肌にも、その鮮やかな薄紅色は良く輝いた。「ありがとう」ビルキスは言う。
「何物にも代えがたい、贈り物だわ」
「喜んでくれて、嬉しいよ」
彼らは素肌のまま、抱き合った。此れから別れると言うのに、不思議なことに、そのような悲壮感は一切なかった。
言葉無くとも、彼らはお互いが、お互いの思っていることを考えているのが、何とはなしにわかった。
よかった。
この人が生まれた時代に、この人が生きた世界に、自分も生まれて生きることができて、そして巡り合いお互いを知ることができて、本当に良かった。
それ以上に、何がいるだろう。この世にお互いがいる、と言うこと異常に幸せが、どこにあるだろう。
それに比べれば、イスラエルとシバの距離など、微々たるものだ。自分たちは愛し合っている。ずっと、繋がっている。それで、何もかも十分だ。
朝食会が終わると、シバの民たちはいよいよ帰国の準備に入った。サラヒル女史も、あわただしくビルキスの身の回りの世話をする。
やがてビルキスは旅衣装で出てきた。馬車の準備が整うまで輿の近くに座りながら、彼女はソロモンと最後の歓談をしていた。周囲では、シバ王国行きが決まった祭司たちが仲間や家族たちと別れを惜しんだり、なんとか拙い会話ができるようになり漸く打ち解けたイスラエルとシバの兵士たちが、お互いの無事を祈りあったりしていた。
「アヒシャル、あれを」ソロモンは宮廷長のアヒシャルに、身振りで指示する。「はっ」と彼は言い、宮廷の中に戻っていく。やがてすぐ帰って来た彼の手には、真鍮の壺が握られていた。
「まあ、それは」サラヒルが反応する。
「例の痛みどめですよ。長旅の最中では、調合もままならないかと……作って置きました」
「まあ、ありがたいですわ。あれは本当によく効きましたもの……」
サラヒルはにこにこと笑って、布で壺を包み、旅荷物の中に押し込んだ。
いよいよ、タムリン隊長の声が聞こえる。「女王陛下!支度が、すっかり整いました!」
「分かったわ」ビルキスは、凛とした声でそう告げた。
彼女は最期に、がっしりとソロモンの手を握る。彼にもらった指輪が、しっかり輝く手で。そして、彼に短く、キスをした。
「今度は、俺が行く番だな」
「ええ、楽しみに待ってるわ」
彼女はそう微笑み、そしてふわりとローブを翻して、ラクダに支えられた輿に乗り込んだ。「出発する!」タムリン隊長の、低く鋭い声が響く。ざっざっと音が聞こえ、シバの衛兵たちが行進を始める。
その行進は徐々に進み、やがて……ビルキスを乗せた腰を支えるラクダに、鞭が入れられた。ラクダたちが、歩き始める。ビルキスは手を振っていた。ソロモンも、手を振りかえした。
女王を乗せた金のラクダは、やがて、壮大なエルサレム宮殿の門を潜り抜け、見えなくなっていった。
「ねえ、タムリンおじさま」ビルキスは旅の道中、タムリンに向かって話を切り出した。
「私の事が嫌になった?」
「……嫉妬せずにいられるほど、私は尊い存在ではないのです。女王。……貴方や、ソロモンのように、私はなれない」
「相変わらずのおじさまね」彼女はそう笑った。
「嫌いになれるほど、そうはいかないまでも、思いを捨て切れるほどに、貴方に美しさがなければ、どれほどよかったことだろうか……と、日々考えます。しかし、女王陛下、貴方はただただ、美しいのです。私は一生、貴方にお仕え致します」
「おじさまがそう言ってくれてうれしいわ」彼女は言った。その瞬間、ふらりとめまいを覚える。
「大丈夫ですか!?」タムリンが慌てて駆け寄った。「暫く、逗留をなさった方が……」
「ええ、大丈夫……。サラヒルを呼んでちょうだい。少し気分が悪くなっただけよ」
サラヒル女史が呼ばれ、女王はしばらく天幕の中で休んでいた。返ってきたサラヒル女史は、真剣な顔でタムリンに向かい合った。
「タムリン隊長。私から、一つよろしいですか。貴方は女王陛下がどのようになっても、シバにお仕え致しますか?」
「貴方に聞かれる間でもない、サラヒルどの」
その言葉を聞き、サラヒルは厳粛な声で告げた。
「女王陛下は身ごもっておいでですわ」
それは、タムリン隊長の心を打ちの雌似た、確かに十分すぎるほどの言葉だった。「そ、それで……」隊長は言った。
「幸い、この調子なら臨月までにはシバにつきましょう。シバの王子、あるいは王女様に成ろうお方がシバで生まれないのは不当だ、と女王陛下もおっしゃいました。タムリン隊長。旅路を急いでくださいまし」
「と、なると……」タムリンは目を白黒させながら聞いた。「お産みになるのか、女王陛下は……」
「当然ですわ」サラヒル女史は言った。「あの方が初めて、殿方を心から愛されたのですよ。その方と結んだ結晶を、産み育てたくないようなお方であるはずがありませんでしょう、我らの女王陛下が。……あの方はずっと、愛とは何か、求めていたのですから」
「あ、ああ……」タムリンは、力なく言った。
「そうだったな……」
ビルキスを、愛するだけの気概が、この体調にはなかった。得ることができたのは、ただ欲望だけ。そんな自分を、タムリンは改めて、思い知らされた。
シバの正体は順調に旅路を進み、やがて王都マーリブに帰還した。民衆たちが、王宮へ続く一本道に出て、大歓声で出迎えていた。
その頃にはビルキスのお腹は相当大きくなっていた。
久々に女王の部屋に帰ったビルキスを、サラヒル女史は優しくいたわった。
「湯あみの準備を、ただいまさせております。妊婦の身で、長旅はおつらかったでしょう。帰国の宴会はしばらく、無しにしましょうか……」
「いえ、楽しみにしているものもたくさんいるはずよ。私の出席だけ、無しと言うことにして、後は予定通りに……」
その時だ。ずきり、とビルキスの体に激痛が走った。
彼女はうめき声をあげて、寝台に倒れ伏す。「陛下!」とサラヒルが金切声をあげた。
はあはあとうめく女主人の顔に、サラヒルは察した。急いで鐘を鳴らし、侍女を呼ぶ。
「お前たち、お産の準備をなさい、大至急!」
マーリブについたその日、ビルキスは産気づいたのだ。
出産は、難産を極めた。
ビルキスの体の秘密を知るサラヒル女史だけが、彼女のベッドを包む天蓋の中に入ることを許されていた。幸いにして、彼女は産婆の知識もある。
侍女たちはサラヒルに言われるものを、天蓋の中から延びる彼女の手に差し出すだけだ。
サラヒルの目に映るビルキスは、苦しそうだった。「お前たち!」サラヒルは告げる。
「女王の荷物の中にあった、真鍮の壺を持ってきなさい、大至急!」
「は、はい、ただいま」と言う声とともに、ドタドタと駆けていく声。入れ違いに、「女王陛下!」と言う野太い声も聞こえる。タムリンの声だ。
「お気を強くお持ちを!」おそらくお産と言うことを聞いて、飛んできたのだろう。しかも天蓋の中から聞こえる声に、難産だということを察したのかもしれない。
ビルキスは彼の言葉に返答する余裕もないようだった、うめき声だけが帰ってくる。タムリンはより一層、悲痛な声を上げた。女王の臣下と言う立場を、忘れてしまったかのように。
「ビルキス、ビルキス!大丈夫だ!君なら、大丈夫だ!」
ソロモンがうらやましい。彼女を愛せるだけの存在だったソロモンが。
しかし、ソロモンはこの場にはいないのだ。その気持ちが、彼を強く突き動かした。たとえそれが愛に足るものでなくとも、ビルキスに何かを言ってやりたかった。苦しんでいるビルキスに。
やがて侍女が帰ってきた、真鍮の壺が握られている。「よこせ!」とタムリンはひったくり、そして天蓋の中に手を突っ込んでそれをサラヒル女史に渡した。
「さあ、女王様、ソロモン王の痛みどめですわ」サラヒルはそう言い、口をビルキスの唇にあてがった。
「ソロモン……」
彼女はすがるように、その名前を呼ぶ。薬がとくとくと、彼女の喉に飲み込まれていった。すると、産道を通る胎児が大きく動いた。ビルキスは悲鳴とうめき声が混ざった声を上げた。頭がもう見えてきている。
「もうじきですわ、女王様!薬もすぐに効きますでしょう、もうじき、ご信望を!」
薄くではあるが、髪の毛が生えていた。ビルキスそっくりの、黒い髪。彼は少しずつ、少しずつ、外に出てきていた。
ビルキスのうめき声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。「ねえ、サラヒル……」と、彼女の声が聞こえる。
「なんでしょう?」
「生まれるの?私と、ソロモンの子が?」
「ええ」サラヒルは、娘のように愛した女王の声に、優しげに答えた。少しずつこの世に姿を現す。シバの王子か王女となる赤子を見つめながら。
「そう。良かった……本当に」
話せるだけ余裕ができてきたのだろう。良いことだ、とサラヒルは思う。
「ねえ。私、名前を考えたの。この子はきっと、男の子なのよ。なんとなく、そんな気がするの。……貴女にだけ、先に聞かせてもいい?」
「ええ、勿論」
「メネリク、よ。雅称はエブナ・ラ・ハキム」ビルキスは、シバの王族に代々つけられていたある雅称、自分は名乗ることの無かったそれを、息子にはつけた。雅称は基本的には、太陽に関連するものであったが、その時ビルキスが付けた言葉の意味は違っていた。
『知恵の息子』それが、エブナ・ラ・ハキムの意味だった。まさに、誰が父親なのかを、深く物語る名前であった。
「素敵な名前ですわ」サラヒルは返した。「あなたとソロモン王の息子の名前として、これ以上に相応しいものがあるでしょうか」
「そう……?そう思うのね。貴方がそう言ってくれるなら間違いないわ。良かった……」
彼女は、口をつぐんだ。その次の瞬間だった。大きな産声とともに、赤ん坊が生まれた。ビルキスの言うとおり、男の子だった。
天蓋の外が一気にどよめく。「お生まれになりました!男の子ですわ!」サラヒルは叫んだ。天蓋の外は歓喜の声に満たされた。
鋏でへその緒を着るなり、サラヒルは急いでビルキスの下半身を毛布で覆い隠した。天涯が開け、侍女やタムリン達も入ってくる。
「女王陛下、貴方の息子、メネリク様です」と、サラヒルは嬉々として告げた。
そして、その瞬間、彼らは気が付いた。
女王は何も言わず、身動きもせず、寝台に横たわっていた。
生まれた自分の息子を見ることもなく、腕に抱くこともなく。
痛みで失神してしまったんだろうか?サラヒルは思った。
「女王陛下?」
彼女はそう呼んで見た。返事はない。
そんな、まさか……?サラヒルは、ビルキスの手を握った。スリランカ産のルビーの指輪がはまった、その手を。
その手の感触を、温度を、彼女は信じることができなかった。彼女はふら、とよろける。泣き叫ぶ王子を抱いたまま。侍女が慌てて駆け寄った時には、彼女は失神していた。
「ビルキス……?」
タムリン隊長は、ゆらりとそばに寄った。そして、彼女の手を握る。サラヒルの落胆のわけが、彼にも分かった。
ポロリ、と彼は涙を流した。言葉では言い尽くせないほどに、様々な感情がこもった涙を。
ビルキスはどうしているだろうか、そろそろ国について返事が来てもおかしくない頃だ、と思っていたソロモンの元に、ある日、街に舞った一通の手紙が届いた。
ソロモンは嬉々としてそれをうけとった。ビルキスはどうしているだろう。自分のシバ訪問についても話を勧めねば。彼女への愛の言葉も、いくらでも送りたい。
だが書簡を開いてみて、ソロモンはまず不思議に思った。彼女の字ではない。
そして、次の瞬間、ソロモンは、書かれている内容を信じることができなかった。
手紙の差出人は、タムリン隊長。それが伝えているのは、非常に短い連絡であった。
シバの女王ビルキスが、死んだ、とあった。
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