FC2ブログ
 

クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第八十六話

オリエントに名だたる大国、イスラエル。
その繁栄は、イスラエル王ソロモンの治世二十四年目を迎えても、なおのこと続いていた。煌びやかな神殿に参りに、なんでもある市場へ買い物しに、おびただしい数のイスラエル人が、毎日毎日、賑やかに、首都にエルサレムに行きかった。もはやイスラエルが貧しい小国であったことを知る世代も消えていった。今の若い世代にとって、イスラエルがとても惨めな国であったと言うのは、ただの歴史の一幕にすぎない、自分には関係のない事。
誰もが、この繁栄が長らく続くものだと確信して、イスラエル人は平和と繁栄の日々を享受していた。

大概の人々は、その繁栄を築いたソロモン王がいつの間にか変わってしまったことも知らずに。そして、変化を知る数少ない人も、その理由までもは誰も知らずに、イスラエルは繁栄の身を極め続けていた。



軽快な馬のひづめの音が聞こえて、巨大なエルサレム王宮の門があく。「王子殿下!」と、宮廷長のアヒシャルが慌てた声で寄って来た。
「ようやくお戻りになられましたか、もうじき客人もおいでになりますと言うのに……」
「ぼくの客じゃないだろ?父の客だろ」
ソロモン王の跡継ぎ、王子レハブアムは憮然とした表情で馬から飛び降り、使用人を顎で指して、馬を厩に連れて帰るよう指示した。そしてもう片手で、別の使用人に狩りの獲物を投げてよこす。
「そうは言えども王子殿下のご列席も必要です。大概になさいませ、毎日毎日好き勝手に遊んでばかりでは……」
「そのセリフ、父上にも言ってやったらどうだ?」
レハブアムは聞く耳を持つ様子もなく、アヒシャルを睨みつける。アヒシャルは憮然とした態度を取り続ける十七歳の王子に、困り顔だ。
「いえ、しかし……」
「アヒシャルどの」と、別に声がアヒシャルの頭上から降ってくる。レハブアムについて狩りに行っていた、ベナヤ将軍だ。
「王子殿下のやることに、あまり口出しはするな」
そう言ってベナヤは、彼を睨みつけた。アヒシャルも渋々と言った具合に頭を掻き「はい……」と力なく言い返す。
そして心の中で、大きくため息をついた。どうして、こうも変わってしまったのだろう。レハブアムも昔は明るくてかわいい子供だった。ベナヤ将軍も真直ぐな青年だった。こんな人物ではなかったのに。

十四年前、ソロモン王の妻であるナアマが急死した。あまりにも突然の死で不可解なことも多かったが、結局自体はうやむやに流された。そもそも彼女の死が意図的に仕組まれたことであったとしても、当時ナアマの実家であるアンモンが、属国でありながらイスラエルを裏切ったということはすでに周知の事実となっていた。だからむしろ、ソロモンに粛清されたならされたで、まっとうな話であったわけだ。ナアマ自身、無愛想であまり評判のよくない王妃であったことも、その風潮を手伝わなかったとは言えない。
ただ王宮では、今は亡き王妃ナアマへの話題はタブーになっている。ソロモンはナアマの死後、エジプトとの同盟のためエジプトの王女を妻に迎え入れた。それを機に婚姻外交を進め、今では何人もの妻が後宮に唸っている。
其れだと言うのに、彼の男児はナアマの産んだ子供であるレハブアム以外生まれない。唯一の跡取り息子の母を悪く言うのは、さすがに誰でも気が引ける。将軍であるベナヤがレハブアムに非常に忠実なのも、彼の母への話題をタブー視することに拍車をかけた。

アヒシャルが困っているうちに、レハブアムはベナヤに上着を取らせ、さっさと自分の部屋に帰ろうとしていた。それに気が付いたアヒシャルは慌てた口調で「お待ちください!」と言う。
「ですが、ご出席はしていただかねば困ります!冷え家の跡取り息子としても……」
「行くぞ、ベナヤ」
全く取りつく島もない。だが、宮廷長としては引き下がるわけにはいかなかった。しかし、そこにうまいこと、助け舟が現れた。
「王子殿下、おかえりなさいませ!おお、大猟ですな。さすがでございます」
そう恭しくお辞儀しながらその場に来た若い男は、労役の最高責任者で、名前をヤロブアムと言った。彼は本当に、ごく若い。レハブアムよりも七歳上の二十四歳だ。アヒシャルは、彼の姿を見てほっとした。彼は、こういう時大概頼りになる。
会えて、アヒシャルはこれ以上レハブアムを刺激しすぎ兄ようにと口をつぐんだ、ヤロブアムも察してくれたのか、目配せしてひとつうなずく。
「ヤロブアム……」レハブアムは若い役人ヤロブアムを見て、あまり面白くなさそうな顔をしていた。王子は、彼が苦手なのだ。ヤロブアムは薄く微笑みながら、鷹揚な口調で言う。
「早速、厨房に運んで料理させます。給仕たちには、貴方の取った獲物であると言うように、既に伝えておきました。今宵のお客人も、ソロモン王の偉大な息子はなんと狩りの名手なのかと、お慶びになりますぞ」
「そ、そうかい……」
「ええ、そうですとも!」彼は笑顔を崩さずに続ける。「私としましても、自らの遣える王子殿下が異国のお客人に賛美される様子を見るのは、非常な幸せでございます。今宵のお客、エチオピアの廷臣の皆様方が、貴方の座るテーブルに歩いてやってこられ、賛美の言葉を言うのですよ。偉大なる王ソロモンの息子レハブアム殿下に相応しい事でございます」
そこまで言われると、レハブアムも言葉に詰まる。ヤロブアムはニコリとほほ笑み、止めとばかりに行った。
「宴が待ちきれませんな、殿下?」
「……もういい。行け」
レハブアムは最終的に、そうぶっきらぼうに言い返した。彼のおかげで、宴会を欠席するわけにもいかなくなってしまった。迎えの場をすっぽかしておいて宴会だけは出席する、と言うのもさすがに決まりが悪くてできたものではない。必然的に、エチオピア人の来訪にも、自分が付き合わなくてはならない。
ヤロブアムは会言う変わらずにやにやした笑いをしたまま、「は。それでは」と歩いていった。アヒシャルも、彼に続いて去っていく。後ろから「いやあ、助かったよ、ヤロブアムくん」と言う声が聞こえたような気がして、レハブアムは歯噛みした。
「何様のつもりだ、あいつ!」
彼は隣のベナヤにそう話しかける。ベナヤも、追従するようにコクリとうなずいた。
ヤロブアムが王宮にやってきたのは、つい数年前の事だ。素性もろくにわからない若者だった。だが、ソロモンの部下たちが城下に非常に優秀な若者がいると言う噂を彼のもとに持ってきて、ソロモンが一も二もなく取り立てた、そしてその噂が事実だと分かるや、ソロモンは彼をあっさりと重役につけてしまったのだ。それで実際、ヤロブアムもその仕事を回せているのだ。ソロモンも、今や彼の園理髪ぶりをすっかり気に入り、重臣たちの中ではひときわ可愛がっている。
そんな彼の存在は、レハブアムにとっては癪だ。どこの誰かも分からない馬の骨の事はあんなに徴用するくせに、自分は王子なんて名ばかりだ。父親に、ろくに構われた記憶もない。
何よりも、頭の中にこびりついて、取れない記憶がある。ずっと小さなころの記憶だ。だけど忘れるはずもない。
自分の母は、自分の目の前で、ソロモンに殺された。
恐ろしいほどよく覚えている。母の首を掴み、鬼気迫った表情で締め上げる父の姿、幼い自分には、何もできなかった。
父はあれから一度も、そのことを悪びれる様子に見えない。それどころか死んだ母にあてつけるかのように、異国から何人も若い妻を貰い続けている。レハブアムにとって、偉大なルイスラエル王、平和の王と言われた父が、尊敬どころか憎しみに対象になるのも、全く無理からぬことであろう。
「あいつ、父上にちょっと気に入られているからってぼくの事を馬鹿にしているんだ、な、ベナヤ?」
小さい時からずっと一緒にいてくれて、自分のことを……それこそ、実の父よりも父親らしく可愛がってくれた将軍ベナヤだけが、レハブアム王子のよりどころだった。彼は、全くレハブアムの事を否定しなかった。
「全くです。私からも灸を増えておきましょう」
「うん、頼むよ」
レハブアムが成長するにつれ、明らかになってきたことがある。つまり、彼はイスラエルをのし上がらせた、神から知恵を授かった賢者と呼ばれる父親の才覚などは、全く引き継いでいないということだ。彼は良くて凡才。ソロモンの唯一の跡取りなのにあの様では、と陰で自分の悪口を言う輩が一人や二人でないことも、悲しきかな、レハブアムはよく知っている。
その為余計に面白くないのだ。自分と天と地ほども身分の差があるくせに、同じ王宮を我がもので歩く、優秀なヤロブアムの存在が。
少し会話の間が開いた、その後、ベナヤはぼそりと言う。
「王子殿下。ご安心を。あなたをこけにするものは、このベナヤが許しません」
レハブアムはその言葉に、目を瞬かせる。そして、少し照れくさそうに笑うと「ありがとな、ベナヤ」と言った。


ポッポッと泣くヤツガシラの声。イスラエル王、ソロモンは彼らに餌をやりながら、物思いに沈んでいた。
この十四年間、一人になるたびに思い出さないときは一瞬もありはしない。昔、このイスラエルに訪れた、砂漠の果ての女王。そしてソロモンがこの世で誰よりも愛した恋人、暁の娘ビルキスの事を。
今まで人生の中で、辛いことなどいくつもあった。だが自分はそのたび、乗り越えるだけの治世と能力を持っていた。
それなのに、彼女が自分をおいて、遠い砂漠の果てで死んだことは、ソロモンの全てを奪い去ったかのように、彼を空虚そのものにさせた。十四年にも及ぶ年月も、彼女を失った苦しみを癒すことも忘れさせることもできずに、むしろ傷口を広げるかのようにすら思えた。
気が付けば、自分の父がそうしていたように、手あたりしだい女を後宮にかき集めていた。それで少しでも、苦痛が和らぐような気がして。この年になって、初めて父親を違う視点で思い出せる、とソロモンは感じていた。人は妻を何十人も娶り、バテシバを無理やり手に入れた父の事を好色と呼んだ。自分も、そんな父の事を子供の頃は色狂いと軽蔑していた。だが、父は別段、特に好きでやっていたわけではないのかもしれない。ただただ、何かしないまま受け止めるには、余りにも苦痛が大きすぎてどうしようもなかった、と言う解釈はありえないだろうか。
自分にしたってそうなのだ。ビルキスを忘れられるかもしれない、と言う思いあって、若い女を抱く。けれどもそこに、忘れられる、と言う確信などない。それどころか女を相手にすればするほど、あの自分の幻の恋人と、世間一般の女と言う生き物がかけ離れているように思えてくる。自分の優秀な頭が、そのことを記憶しないはずがない。それでも、快楽に溺れざるを得ないのだ。
結婚など、望まなかった。自分が彼女の生きる世界に行き、彼女が自分の生きる世界に生きている。それだけで、何よりも幸せだと思っていた。其れなのに、その幸せはあっけなく崩れ去ってしまったのだ。
自分にとってのビルキスのように、父の心にあいた空虚の原因がなんであったのかなど、今さら知る由もない。ただ記憶の中の、いつももの悲しそうな父の目と、最近鏡に映る自分の目が、妙に似ている気がしてきたのだ。もしも父がこんな気分なら、なるほど、不気味な赤い目の息子など、視界にも入れたくはあるまい。美しい物だけを見ていたって、気を抜けば心がつぶれそうなときに、何故好き好んで醜いものを目に入れられるというのだろう。

ビルキス、と、幾とどなく心の中で、彼女の名を呼んだ。けれども、それに返答してくれる声はない。当たり前の事であるのに、いくら妻を迎えても、毎日宴会を開いても満たされないほど、空虚だ。

とはいえ、ソロモンにはイスラエルがある。これがどこかの貴族の恋に生きる道楽息子なら、一生自分の悲恋を嘆いてごろごろしていることもできるだろうが、あいにく彼は責任を持って守らねばならぬものがいくらでもある、王なのだ。
「陛下!」王の部屋に、ようやく彼を呼ぶ声が聞こえた。アヒシャルのものだ。
「エチオピア女王、イスメニー様のご一行がお付きです」
「準備はできている。今向かうぞ」ソロモンは物思いから目をさまし、そう言いかえした。扉を開け、豊かな黒いマントを床に泳がせ、廊下を歩いて大広間へ向かう。

黄金で飾られた玉座に彼が座ると、先にひざまずいていた長老たちも一斉に居住まいを正した。ソロモンは、じろりと広間を見渡す。息子のレハブアムが、こう言った席をよくよくすっぽかすのを知っているからだ。彼の母親も、自分にあてつけるかのように公的な責任をたびたび放棄していた。全く母親似だ、今日は……どうやら、レハブアムも出席しているようだ。渋々と言った体ではあるが。

エチオピア女王、イスメニーとは婚姻外交で縁を結んだ中ではないが、そこそこ友好的な関係を築いていた。そんな彼女が、娘をイスラエルに留学させたい、と持ちかけてきたのは約1年前の事だった。
イスメニーには子供が何人もいるが、これぞ自分の跡を継いで国を注がせるにふさわしい、と彼女が特別に気に入っている利発な王女がいる。それで、良く女王となるため見聞を広める当意味でも、賢者と名高いソロモン王が治め、学問も盛んな国であるイスラエルで教育を受けさせたい、と言うのだ。友好国の女王からの申し出、断る理由もなく、ソロモンは二つ返事で承諾した。それが、今日ようやく来るというわけだ。

「エチオピア女王、イスメニー陛下のおなり!」
やがて鋭い声が響き、大広間の徒が開いた。扉の向こうからは、アフリカ流の派手木に身を包んだ、見知ったイスメニー女王が現れた。黒壇のような黒い肌を持つ、ふくよかで健康的そうな老女である。
「ご無沙汰しております、ソロモン王。この度は、私どものわがままを聞いていただき、お礼の申しようもございませんわ」彼女は玉座に座るソロモンに礼をする。ソロモンの方も、彼女にそんな態度を取らぬようにと促しつつ「いいえ、貴方の頼みを何故断れましょう、イスメニー殿」と続けた。
事実、ソロモンは彼女の事は大分好意的に思っていた。何だったら、自分の後宮に数えきれないほど唸っている女たちよりも、彼女の方が人間として好きなくらいだ。
自分が即位するよりもずっと前から、エチオピアを責任もって治める女王。鷹揚さの中にも、しっかりとした気迫と威厳がある。女性的な美しさと言う点では実に失礼ながら比べものにもならないが、それを差し置いてもビルキスがあんな最期を迎えることなく、まだこの先生き続けているのならばこのような女王になるのだろう、と言う面影を、わずかなりとも感じることができるのだ。
イスメニーはくっきりと化粧した顔をh転ばせて、「娘も楽しみにしておりましたの、今日と言う日を……」と告げる。
「それはそれは。……して、王女殿下は?」
「あら……?これ、マケダ!何してるの!」
その一言で、大広間の人々は、初めて気が付いた。ソロモン王とイスメニーに注目し気が付いていなかったが、網状のベールをかぶった少女が、大広間の、池の衣装を施したクリスタルの床をじっと眺めていた。ドレスの裾を、少しだけ持ち上げて、不思議そうに。
「まあ、マケダ、はしたない」イスメニーは少し上ずった声で言った「ご挨拶なさい!」
「驚きましたわ、ソロモン王」
ベールの少女が一番最初に発した言葉は、それだった。偉大なる王ソロモンに対する、礼をはらった畏敬の言葉でもない言葉。だが、それはしつけのなっていないお転婆姫の言葉とするには、余りに品よく、綺麗な響きを持って大広間にこだました。不躾というよりも、その奔放さに、抗いがたい魅力を感じるかのようだった。
「宝石の鱗を持った魚を、水に泳がせているのかと思いました」
彼女はそう言って、すとんとドレスの裾を外す。彼女の踝が裾に隠れた。ソロモンも、その言葉に小さな笑いを持って返す。
「裾が濡れると思ったのかね、王女殿下」
「ええ、それほど精密なんですもの。イスラエルの建築って、なんて素敵なんでしょう」
彼女はカツカツと、クリスタルの床の上を歩く。そしてソロモンの前で跪くと、ふわりとレースのベールを取った。
「初めまして。エチオピア王女、マケダと申します。よろしくお願い致します」
その瞬間、大広間は凍りついた。エチオピア王女、マケダ。確かイスメニーの末語で十四歳だと聞いていた。
だが、そんな年齢にも似つかわしくないほどに、目の前の少女は美しかった。大広間の人々の目を、引き付けてしまうほど。先ほどのソロモンに対する無礼など、すべて忘れさせてしまうほど。
つまらなさそうにしていたレハブアムすらも、目を見開いて、茫然としていた。まるで、心を打たれたように。
だが、マケダと言う少女の不思議なところは、ただ美しいところではなかった。その場にいた、イスラエル王宮に昔から仕えていた何人かは、その彼女の容貌に、驚嘆するべきものを感じたのだ。そしてそれを一番感じたのは、何を隠そう、玉座に座るソロモン王だった。
彼は、自分に向けられたエチオピア王女の目を見て、呟いた。この十四年間、何回も心の中で呼べど、口には決して出さなかった名前が、彼の唇から無意識にこぼれた。ぼそりと、誰にも聞こえないような音で。
「……ビルキス?」

かつてイスラエルを訪れたシバ王国の女王、ソロモンが唯一愛した女、ビルキスに生き写しの少女が、そこに立っていた。彼女がこの大広間に訪れたように、堂々と自分に向かい合って、彼女と同じ顔をした十四歳の少女が、ソロモンの前にたたずんでいた。

スポンサーサイト

PageTop
 

コメントコメント


管理者にだけ表示を許可する