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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第九十二話


その夜、ヤロブアムは家に帰らなかった。
女性の賓客の止まる迎賓館に許可なく男が行けば処罰は免れない、だがそれも、迎賓館の人々の協力が泣ければ、の話だ。
何事もなかったかのようにふるまうエチオピアの使用人たちや、名によるマケダ本人に招かれて迎賓館に入ることは、全くたやすいものだった。

夜が明けた時、彼は隣にいるマケダに言った。
「マケダ、オレはね……今まで、王子に嫉妬と言うものは感じたことがなかった」
まだ熱に浮かされて異様な、幸せな気分だ。だが「急にどうした?」と帰ってきた声に返答もできなくなるほどではなかった。いや、むしろ、彼女に言われることならすべてこたえなくてはならない気分ですらある。その服従こそが、幸せのようにすら思えてくるのだ。
「貧民街育ちでも、自分より劣る相手に嫉妬するほど落ちちゃいないさ。いずれ自分が王になるのだと思えば……身分にすら嫉妬の気持ちはわかない。だが、昨夜初めて嫉妬したよ。あいつは……やろうと思えば今にでも、君に求婚できる身分なんだからな」
「意外と、そう言うことも考えるのだな、お前も」
マケダは余裕綽々に笑って言った。とても処女を失った十四の少女には見えない。別段処女でもなかったのだろうか。それならそれで、彼女は魅力的なようにヤロブアムには思えた。育ちが育ちだ、処女でなくては結婚を断るような王族と同じような貞操観念など持ち合わせていない。
「女であれ男であれ……私は、自信のない奴は好かんことにしている。それにしおらしげな貞女よろしく、何があってもあなたを待ち続けます、と言う言葉はあまり好きな方では無くてな」
「王子や陛下の前ではいかにもそう言いそうなけなげな少女だろう、君は」と、言いつつ、ヤロブアムの中に、そんな彼女に対する呆れなど一編もなかった。彼女が自分いだけは素が襲魅せてくれるような感覚に、我ながら子供じみているとは知りながら、純粋なときめきを覚えた。
ふっ、と笑ってマケダは言った。
「だが、そんな私に惚れているのだろう?」
「ああ、好きだよ、王女様……」
狡猾に生きてきたヤロブアムにとっては、言いながら自分で呆れるほどに素直で飾り気も何もない、本心だった。子供のころからずっと、栄光の陣し絵を思い描いて生きてきた。だがたった一晩で、自分の脳裏に浮かぶ栄光の人生の景色における全てに、彼女が移りこんだ。イスラエルを捕るなら、彼女と共に。まるで寄生されたかのように、たった一晩の彼女の逢瀬が、もはやヤロブアムの人生を彼女無くしては無価値なものとしてしまったかのようだった。
「外出できそうな日取りはあるか?」ヤロブアムは持ちかけた。
「オレの同志たちに会わせたい」
「ぜひとも」マケダはニコリと笑った。本当に、その笑顔のためなら何でもできそうな気分にヤロブアムは陥っていた。

神殿の祭司たちは不安に駆られていた。
王が、ぷつりと神殿に現れなくなった。今までは外国の妻たちに自国の神への礼拝を認めていても、自分自身は必ずイスラエルの神の祭儀の場に現れるからこそ、なんとか体裁も保てていたし、あくまでそれぞれの神への信仰を重んじているだけ、と言う言い訳もできた。
だが、王がイスラエルの神殿に、自分が設計し長年愛してきたはずの子の神の家に現れないとなると、いよいよそうもいかない。王はイスラエルの神を忘れられたのではないか、と言う不安の声が次々に飛び交った。
「皆の者、ソロモン王は信心深き王として、イスラエルを長年治められたではないか」すっかり年老いたザドクが、若い祭司たちを必死で言冷めた。
「何か思うところがおありなのだ、決してあの方は、自らを愛して下すった神を忘れたりなどせぬ」
「人間は、忘れやすいものです」ぼそりと、イエドが呟いた。
「僕が子供の頃は、あの方も律法に正しく、まさに理想のイスラエル王でした、だが、今はどうでしょう?外国の女とあんなにも通じて、派手な宴会に明け暮れていらっしゃる。神を忘れた所で、何の不思議がありましょう!」
「不敬な!」ザドクは言う。ソロモンの即位の頃からの付き合いだ、彼に思い入れだってある。自分はソロモンを信じている。だと言うのに……。
「不敬と仰いましたか?」イエドは口を閉じない。「イスラエル人にとって大切なことは、王以上に、我々と契約を交わしてくださった神に仕える事であるはず!王すらも、神のしもべにすぎぬはずです!真の不敬ものは、ソロモン王自身だ!」
その声に、数年前なら非難の声が号号に飛び交っただろう。だが今や、言え度の言葉に強く言うものはいない。若い祭司たちはすでに、王を疑い始めている。
いや、祭司たちでだけでないことも、ザドクは知っている。民衆の間にも、既に王がイスラエルの神の祭儀を拒否し始めていることが噂になっているらしい。
自分も、王の様子がおかしい事に気が付いてから、何回か相談した。だが王は、神の名前を聞くたびに重苦しく沈黙してしまうばかり。怒りとも、悲しみとも違う顔をして。
ザドクも鈍くはない。実際、王の信仰心が揺るがされているのだろうという思いもあった。だが、一体何があったのだろう?神の仕える身として、イスラエルの神にイスラエルを見放してほしくはない、イスラエル王と神の間に、断絶があっては欲しくないのに……。

夜の事、ギイと扉が開いてやってきた姿に、ネバトは驚いた。
「これはこれは……うわさに聞くマケダ様ですか。ごきげんよう、ヤロブアムの育ての親、ネバトと申します。育ちの悪いもので、なっていない礼で失礼」
「良い。其れどころかなかなか、様になっているではないか。貧民育ちとは思えんぞ」
マケダは鷹揚に笑い、ネバトの手を握った。「堅苦しい態度は無用」
「それであれば……しかしヤロブアムの話している通りだ。利発そうで、美しいと話していた」
「言われ慣れている」マケダは勝手知ったるようにネバト邸に入り、部屋の隅にうずく増す生き物に目を付けた、彼女にじっと見つめられたツェルアは、普段のように怯えることをせず、代わりに彼女の事を腫れあがった瞼の奥の目で見つめ、ケラケラ笑った。
「はじめてみた……はじめて見たわ!」部屋の隅にいたままだったが、彼女はかん高い声で騒ぐ。ヤロブアムは辟易した顔になったが、マケダは特に怯えたり気色の悪いものを見る目にはならなかった。軽蔑していないようでもないが、自分の心を動かすに足るほどの存在でもない、と言う風に。その肝の強さが、全く彼女には似合っていると、ヤロブアムは感じていた。
「私よりきれいな人……初めて見た!」
だが、その言葉にはヤロブアムも、マケダを抜きにしても呆れた。皮膚がずるずるに崩れた母親と、エチオピアの宝石のようなこの王女を、何故比べられる者か。
「お前の母は、随分と筋金入りの箱入り娘であったらしいな」
「話した通りの狂人だろ」ヤロブアムは笑う。「預言者様よりも前に、オレをイスラエルの王子だなんて言っていた奴さ」
「うそじゃないわよ」ツェルアはケラケラ笑いながら言った。「あたしはイスラエルの王妃なのよ。アドニヤ様の王妃なの……」
「アドニヤ……?」マケダが眉をひそめる。ヤロブアムはいい加減うんざりしてきた。
「ネバトさん、母さんを二回へ……」
ああ、と軽く返事をしてネバトは請け負う。荷物のように担がれて運ばれるのを見届け、もう一人素の部屋にいた人物、アヒヤに、ヤロブアムは目を向けた。
「と、言うわけだ、まあ、彼女が話していた人物だ。手伝ってもらおうと思う。異論はないかい」
だが、ヤロブアムの期待とは裏腹に、アヒヤは神妙な顔をしていた。
「誰だ、それは……」
「だから何回も言っているし、さっきも言っただろう。エチオピア所御イスメニーの末娘、マケダ王女……」
「私は、彼女を見ていない」
それを聞き、びくりと一瞬マケダの顔がこわばった、何か聞きたげなヤロブアムを差し置いて、アヒヤは喰い気味に言葉をつづけた。
「誰だ?私の視た未来、神から授けられた景色の中にに、このような女はいなかったぞ……」
「アヒヤさん?」ヤロブアムは眉をひそめた。
「どうして、そんなこと……」
「お前は誰だ。お前は、イスラエルの歴史に関与せぬ」
マケダも、さすがにピクリと眉をひそめた。だがそれを見届けるまでもなく、ヤロブアムは激怒する。
「あなたも、全てを見ているわけじゃないだろう!」
「お前が子供の時、私は天使様より預言を受けた。ここ最近でも、神様より何度も同じ預言を受け取るのだ。私はお前が王となるところを二度、見た。エチオピアの王女など、そこにはいなかった……」
次の瞬間、ヤロブアムは思わずアヒヤを張り飛ばしていた。
「口を慎んでくれ、預言者殿!オレの前でこの王女を侮辱するな!」ヤロブアムは怒鳴った。
「この人は、今ではオレが王になる意味の一つだ!」
「ヤロブアム。私は、お前が王となることを望んだわけではない」アヒヤは神妙な顔で、ヤロブアムを睨んだ。
「お前を王にするという神の預言が成就なさることを望んでいるのだ」
ヤロブアムの心が、激しく動いた。マケダの前で恥を欠かされる屈辱もあるにはあったが、それ以上に、子供のころからこの人は味方だ、と信じてきた相手にそのようなことを言われ、頭に血が上ったのだ。
彼はついに、アヒヤに向かって平手を打ち上げた、だが、それを空中ではじいて止める相手があった。
「私はエチオピアの神を信じる者。イスラエルの神の預言など、私にとっては関係ない」
マケダは流石に少しばかり動揺している様子であったものの、ヤロブアムよりは毅然として言う。
「味方は多い方がいいはずだ、違うか」
アヒヤは、何も言わない。だがその目はやはり、マケダを不審な目で見ていた。
そのままアヒヤは立ち上がり、無言のままに退室する。
「悪いことをしたか?」マケダはヤロブアムに聞く。ヤロブアムは「……いいや」と返した。
よく見れば、ネバトもすでに帰って来ていた。言葉が発しづらい様子で、黙って二人を見ていた。
「ネバトとやら」マケダは沈黙を破る。「お前は、私を歓迎してくれるか?」
「……当然だ」ネバトは答える。「私は正真正銘、そのヤロブアムが王になることを望んでいる。たとえ神が望まなくなったとしてもな」
それを聞くと、マケダはその滑らかな黒い肌にくるまれた美貌をふっとほころばせて笑いかけた。
「良い父親を持ったようだな、ヤロブアム」

それを、外から見ている存在が一つ。ヤロブアムの家に窓はない。だが、彼に取っては関係ない。人ならざるベリアルには、壁を通して物を見るなどお手の物だ。
彼は、じっとマケダを見た。
「なんなの……あいつ、何者?何がしたいんだ?」

マケダが帰った後も、ヤロブアムは一人悩んでいた。
自分のために王になりたくて、なぜいけない。
何故、昔の貧乏暮らしとおさらばしたいと思うことがいけない。自分の優秀さに似合う名誉を望みたいと願うのが、なぜいけない。
始めて心を焦がした女に、釣り合う身分になりたくて、何故悪い。
王を目指すのも、革命を考えるのも、全ては自分のためだった。
アヒヤに出会ってからも、一度も、神を信じたことなどない。
「ヤロブアム」後ろから、ネバトが声をかけてきた。肩をポンとたたき、悔しげな顔をあえて覗き込むことなく、ネバトは言ってくれた。
「私だけは何があっても、お前の味方だよ」

「まあ……そんなことが」
部屋に帰ってマケダの話を聞いた侍女は、そう呆れて呟いた。
「だが、問題は無かろう。ヤロブアムはもはや、私の方が大切なようだ」
侍女に豊かな黒髪をほどかせ、梳かせながら、マケダは不敵に笑って言う。
「少々奴がうらやましくもなったな」
「まあ」
「穏当に、奴はいい父親を持ったものだ。息子の幸せを、神の決定よりも優先できるとは。……私も、そのような父がほしかった」
「マケダ様……」
「もっとも、イスラエル人は神への信心のために息子をも殺すような男を、太祖と崇める者達らしいがな」
マケダは侍女のしおらしい声を笑い飛ばすように、少し無理に笑って見せる。
「それにしても……アドニヤ、か……」
「どうかなさいまして?」
「いや、なんでもない。少しひっかかっただけだ」マケダは呟いた。
「まあ、どうあれヤロブアムの父には悪いが……ソロモンは、私の獲物だ。私一人の……!イスラエルの神がどう望もうと、私にこそその権利があるのだ。私にこそ……!」

迎賓館の外で、その会話を聞いていたベリアルは、輝く額に冷や汗を流し、しかしそれでいて面白そうに笑った。
「なんて……なんて、ことだ!」
彼の澄んだ目は輝き、小さな唇箱を描き、真珠のような歯があらわになり、端正な顔は満面の笑顔に染まる。うっとりするほどの美しさを兼ね備えるにふさわしいものをすべて持ちながらも、それらが合わさったベリアルの表情は、名状しがたい程に恐ろしかった。そんな笑みを浮かべ、ベリアルは呟く。
「くすくす……確かに、これはどうあっても……まず、ヤロブアムを阻止してもわらなくちゃ」
ベリアルは翼を広げ、その場を飛び立った。


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