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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第百話

神殿に向かう道には、不思議誰もいなかった。万人や夜番の祭司すらいず、静まり返っていた。其れだと言うのに、たった一人、見知らぬ男が神殿の門の前に立っていた。
「お待ちしておりました」彼はごく当たり前のように、そう言った。
「お前は?」
「お初にお目にかかります。シロの預言者、アヒヤと申します」
「預言者……アヒヤ」ソロモンはその名を反芻した。「ではお前は、神に示され、私をここで待っていたのか?」
「さようでございます」
アヒヤは重い戸を開ける。ソロモンは蝋燭も持たずに、入っていった。アヒヤがまた扉を閉めようとしているらしい。後ろから差し込んでくる光すらも、徐々に細くなっていく。
だが、ソロモンにはそんなこと男の虚位にもならなかった。たとえ目をくり貫かれようとも、この神殿あら隅々を、好きに闊歩できる気でいた。
真っ暗な中でも、全てが分かった。シクラメンの彫刻、そびえたつボアズとヤキンの二本の柱、螺旋階段に、レバノン杉の扉……。
ソロモンはやがて、内陣手と通じる扉を開けた。鍵すらもかかっていなかった。そしてその中は。眩しい程に輝いていた。其れなのに、ソロモンの光に敏感な目を、その光は一切刺激することはなかった。
「ソロモン。漸く、ここへ来たか」光の中から、声がした。

「あなたと会話をするのは、もう、あれきりなのかと思っていた」ソロモンは光に向かって問いかける。
「何故もう一度、私をここへ引き寄せてくれたんだ?」
「……今は亡きバテシバの胎内にお前が宿った際、私はお前を愛したのだ」声は、厳かに、内陣の中に響いた。
「私はお前こそ、次のイスラエル王と定めた」
「ああ……そうらしいな。ナタンは度々、その未来を予言していた」ソロモンもうなずく
「お前のその道を邪魔するものは、全て失せよ、と、私が決めた。お前はどれほどの苦痛を受けようとも……最終的に、王となったのだ」
「そうと、信じていたからな」
「だが、運命が変わった」声は言う。以前夢の中で聞いたものと、全く変わっていないようだった。怒りなのか、悲しみなのか、わからない。全ての激し感情が混ざり合って、何物でもなくなってしまったかのような声が、ひたすらに響いていた。
「もはや、お前をイスラエル王にすることはかなわぬ。お前は、私を忘れた。このイスラエルの神を、忘れた」
「それほど、俺に離れてほしくなかったのならば……」ソロモンは呟いた。何故、ビルキスを殺した。ビルキスと自分が共に居られない運命を定められていたのなら……なぜ、自分達を引き合わせた、と、とおうかと思った。だが、彼はもはや、それを言う気力も失せた。
「いや……なんでもない」
ソロモンは自嘲気味に笑った。
「そうだな……すべてを認めよう。俺があなたを忘れたことも。そして、今あなたとこうして向かい合って話しているのに、俺の心はもはや、貴方を救いとして見れなくなってしまったということも」
ソロモンはふう、とため息をつき、目元を抑えた。
「では、今のお前の救いとはなんだ」
「あなたともあろう方が、わからないはずがないのに」ソロモンは呟く。
「マケダだ。マケダだけが……今の俺の、唯一の救いだ」
ソロモンは、目を触れつつも、はっきりとした声でそう言った。光の中の声は、それを否定することはなかった。
「そうか……それも、よかろう」
意外なことにその声色の中には、皮肉や諦めのようなものは、一切見受けられなかった。
「ソロモン。私は、お前を愛した。お前を愛し、イスラエルを愛した。しかし、お前も知っているだろう。私は、お前の国を二つに裂く。お前の罪のゆえに」
ええ、わかっています、とソロモンが返答しかけた、その時だった。
「そして、もう二つ……。お前が生きている間には、それは行わん。そして、もしもその日が来たとしても……たとえ二つに分かたれようと、私はお前たちのもっとも偉大な財産を、取り上げはせぬ。ダビデ王家は続き、別れた国の片割れを治め続ける。いつか訪れる滅びの日までは。私が愛したダビデのため、私の愛した都エルサレムのため……そして、お前のために。私は、お前を愛し、お前も、私を愛したのだから」
ソロモンははっと、頭を上げた。
「あなたは」彼は呻く。「まだ、俺などを愛して下さると?」
「お前だけではない。全ての人間に対して、私は常々、かような思いを抱いている。……不思議なものだ。私は人間を憎み、そして同じほど、人間を愛する。私とお前たちのかかわりは、そのようなもの。そしてこれからも、同じように続くであろう」
「そうですか……俺の国は、まだ続く、と……」ソロモンはふっと笑う。
「あなたがビルキスに与えられた未来が、成就するまでですか……?磔になって死ぬ男が、イスラエルを滅ぼすまで?」
「滅ぼし、しかし、同時に救うまでだ」彼は言い切った。「イスラエルがどうしようもなく腐敗し濁りきった時、彼はその身を犠牲にし、罪をあがなうであろう。その時に、長い時代が終わるのだ。お前たちの時代が。そしてその先どうなるか……私もまだ、その運命を、定めてはおらぬ」
ソロモンは目を瞬かせた。「滅ぼし、そして、救う……」彼はぼんやりしながらも、必死に問いかけた。
「その男とは、一体……?」
「その男は、私自身だ。そして、私の一人息子だ」
よくよく考えれば、不思議な言葉であった、しかしソロモンには、不思議だとも感じられなかった。
「そうか……」彼は静かに、その言葉を受け入れた。ようやく分かった、神殿が崩れる中、自分と話したあの男の正体が。
「あなたは神殿が崩れる未来を、俺に見せられた。一つ。思うところがある……もうこの神殿は、貴方の唯一の住まいではあり得なくなるのだな?」
「うむ」声は少し、トーンが下がった。
「私も、先代の王たちもそれだけの事をした。謝りこそすれ、文句は言えない」ソロモンはその変化に、自嘲気味に言い返す。
「俺が問いたいのは、こうだ。……俺は子供の時からずっと、神殿を見ていた。だが一つ、内陣の中には……何もなかった。ずっと何故意味深に姿を隠していたのだと思うが……今になって、ようやく悟った。俺は、さらに未来を見せられていたのではないのか?この神殿からはもしや……聖櫃が、消えるのでは?」
「良く分かったな、ソロモン。その通りだ」声は厳かに、言いかえした。
「今でも克明に覚えている。エジプトからこの地に昇ってくるモーセに、あの石版を渡した瞬間の事を。だが、もはや石版はお前たちの手には必要ない。イスラエルはこれより、混沌の時を迎える。私の与えた十戒が、形あるものとして存在などできぬ時代がやってくる。それゆえ私は、あの聖櫃を写すのだ。その地は……既に、定めてある」
「あなたは聖櫃と共に、イスラエルから、そこに移ってしまわれるのか?」ソロモンは問いかけた。
「いや……そうではない。むしろ。私はどこにでもあるのだ。この世ある限り、私はいる。私は、そこにあるのだ」
「それが運命なら、従わざるを得まい。俺は所詮、貴方に打ち勝てるほどの器ではない」ソロモンは軽く微笑んだ。
「あなたがまだイスラエルを見捨てられないようで。安心した。あなたが……今の俺の幸せを、認めて下さったことも」
怒りも、屈辱も覚えていた。しかし彼と話した瞬間、やはり穏やかな気持ちになれたのだ。マケダといっそに居る時間のおかげで、元から心穏やかになれていたから、と言うのもあったのかもしれない。だがやはり、それだけではなかった。神は厳しく、人間に時に冷たく当たる。しかしそれを差し置いても、やはり自分を長い間包み込んでくれた存在には違いなかったのだ、と、ソロモンは理解した。
「あなたの運命に従おう。願わくばイスラエルに……俺の治めたこの国に、一つでも多い救いがあるように」
「ソロモン。お前にはもう、全てを与えている」声は言った。「私の望みを成就させる、全てを」
それを最後に、声は途絶えた。光も徐々に消え、内陣の中は、暗闇になった。
光が消え去るまでの光景が、ソロモンの目に強く焼きついた。黄金に包まれた、聖櫃。二体の天使に守られた契約の箱が、光を反射して輝き、徐々にその光を失い、輪郭だけの存在になり、そして最後に闇に溶けて消えてしまうまでを、彼ははっきりと見た。

神殿に出たソロモンを、先ほどの預言者アヒヤが出迎えた。
「主と、お話しができたようですな」アヒヤは言った。ソロモンも「うむ」と返事した。
「主もお喜びになっておられることでしょう。あのお方は心底、イスラエルを愛しておられました」
「分かっている」
「ソロモン王。一つ、申します。ヤロブアムに、お前が王になると告げたのは私です」
ヤロブアム。その、少し懐かしい名前を聞いてソロモンも反応を見せた。それを見届け、アヒヤはゆっくりと続ける。あてつけや、当てこすりのようなものは、一切見受けられなかった。
「しかし、彼とて完璧ではありませんでした。……彼は、やはり、理想の王には、信仰の王にはなれませんでしょう」
「私の息子もあの様だ、お互い様だ」ソロモンも軽く笑い飛ばす。「それでも、主は望まれたのだろう。彼を……二つに分かたれるイスラエルの片割れの王とすることを」
「ええ」
「ならば、それが運命。どうか……奴が帰ってきた暁には、神の声を聞かせてやるがよい。それが奴にとって良い物であろうと、悪いものであろうと……いや、預言者なるものに、こんなことをわざわざ言うのも野暮な話か。……ありがとう。私はもはや、神と離れてしまった。だが、まだ神とつながるイスラエル人がいる。それを知ることができ、嬉しかった」
「こちらこそ……陛下が神を救いと思えずとも、神を憎むご様子がないようで。そしてこのイスラエルを愛していたのだと知ることができ……満足です」
ソロモンは、先ほどあったばかりのアヒヤと、まるで旧知の中のように話すことができた。たった一瞬ながら、忘れられない、奇跡のような出会いであった。
「陛下。主は定められました。……貴方のお命にも、終わりか近づいてきております。もう、お会いすることはありますまい」
「うむ。ありがとう……さらばだ。神の預言者」
ソロモンは最期にアヒヤにそう言い残し、ラバに乗って、モリヤ山を後にしていった。神から、神殿から、自分の治世の栄光の象徴から、彼は遠ざかっていった。

「マケダ様、差し出がましくはございますが……」
ソロモンが神殿へ向かう数時間前の事。マケダの侍女は、主人に向かってそう言った。相変わらず、天球儀をじっと眺めながら物思いにふける主人に。
「なんだ?」
「暗殺をなさる気が、お消えになったのではありませんか?」
マケダはそのこと番カッと目を見開き、あわてて「口を慎め!お前と言えども聞き捨て難い!」と言い返す。しかし侍女は一言「申し訳ございませんでした」と言いつつも、発言自体は決して撤回しなかった。
「しかし……言わせてくださいませ。あなた様には迷いが見えます。あなた様が足腰もたたない頃より長年お仕えしてきたこの婆やが言うのです、どうか信じてくださいませ。ここの所のあなた様は……ソロモン王と、もっと共に居たいと思われていらっしゃるような……」
「私がなぜ、そのようなことを」
「だって、貴方様は……!」
「うるさい!そんなはずがなかろう!確かに、私は……しかし、そのようなものは何の意味も持たん!私は奴を殺せと、そう言われて育ってきたのだ!私とて、それを望んで生きてきた!」
「分かりました。わたくしめは止めません。しかし……どうか、此れだけはご存じになってくださいませ、マケダ様。何が望みとなるかなど、常に、変わり得る者です。そしてこの婆やも、イスメニー陛下も……ソロモン王をその手にかける、かけざるにかかわらず……あなた様がご自身の望みのままに生きる事を、何よりも望んでおります、と」
マケダはそれを聞き、しばらく黙っていた。「分かった……いや、分かっている」と、ぼそりと言った。
「分かっているんだ……お前も、母上も、そう思ってくれていると。それは幸せなことなのであることも、分かっているんだ。ただ……私は、認めるのが怖い。考えを変えるのが怖い。もしもだ、もしも私がソロモンに何かしらの情がわいてきたというのなら……私の十四年の人生は、一体なんだったのだ。それを認めるのが、怖くてならない。それも、私の本心だ!」
マケダはここ数日、ずっと感じてきた。ソロモン王に憎しみ以外の情がわいてきたことを。
あの日、初めて部屋に呼ばれた日以来の、ソロモンから自分に向けられる態度に、ずっと温かいものを感じてきた。女として彼に近づき、暗殺を遂行せよ、と言われ育てられてきた自分にとって、女として自分を見なくなったソロモンの視線は焦るべきものであるはずだ。だというのにその視線を受け取りながら、イスラエルの栄光の王の経験と神に与えられたと歌われる治世によって築かれる非常に充実した教育を与えられることが、マケダの心を温かく染める幸福になり得てきたのである。
だから、怖い。十四年間築いてきた価値観が終わりを向かえるのが怖い。ソロモンを殺せなくなったら、自分はどうなってしまうのだろう。自分は、自分でなくなるのではないか、周りの人間が許せど、十四年間付き合ってきた自分自身は許してくれるのだろうか。それが、どうしても見えなかった。
ソロモンは憎む相手ではない、とひしひしと感じる自分自身が、恐怖の対象以外のものになり得なかった。

そして、それから数時間後、ちょうどソロモンが神殿を立った当たりの時間である。
侍女は寝ているところを、マケダに起こされた。
「どうかなさいましたか」彼女は寝起きとは言えども、可能な限りシャンとした声で答えた。
「……夜が明けたら。準備をしておけ。兵達に知らせた。万一の事態に備え、お前は一足先にエチオピアに返す。お前の出発は夕刻だ、よいな」
「マケダ様、と、言うことは……」
「ソロモン王は、明晩、私の手にかかって死ぬ」マケダは言い切った。「私とて悩みぬいた結果だ。だが……今までの努力を、そしてあの人を……裏切れはしない」
「分かりました。それが貴女様のお望みとあらば……」侍女も、まだ何か言いたい気持ちを抑えつつうなずいた。分かっていたからだ。マケダが、まだ悩んでいることも、そしてそれを推しての、苦渋の決断であったことも、これ以上覚悟が鈍らないうちに決行せねば、と思ったということも。

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