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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第五話

王宮は騒がしかった。ダビデが新しい事業を始めたようだった。
王宮の陰にひっそりと咲いたソロモンの花園にもその喧騒は届いていて、ベリアルとソロモンは虫よけ薬を撒きながらそれを聞いていた。ソロモンが薬草学の本を応用して作った虫よけ薬である。作るにあたって、生まれて初めて筆記用具以外のものを要求してきたのでナタンはいささか戸惑ってはいたが、深くは追及せずに差し出してくれた。
「効果があるといいんだが」喧騒を無視して、ソロモンはベリアルに話しかけた。
「きっと大丈夫」
ベリアルは励ますようにソロモンに言う。
「試してみてはいないから」「大丈夫、きっと大丈夫」と言うやり取りを彼らは繰り返した。
「これできっともう虫は入ってこないよ。……あっ、またあの猫だ。しっしっ、入ってくるなよ」
「ベリアル、お前普通の奴らには見えないんじゃなかったか?」
「そうだった」
彼の言葉に全く反応しない猫を背にして、ベリアルはふざけたように笑って見せた。
「今度は猫よけ薬が必要かも」
「考えてみようか」
ソロモンは花園に入ってきた細身の猫を手で追い払いながらそう返した。この猫は最近よく花園に来る。ただ猫らしいと言えば猫らしく、遠慮というものがない。そのため、ソロモンは煩わしく思っていた。
桃色と白のまだらのシクラメンは今も花園の中心で誇り高そうに咲いている。一輪だけ異彩を放つそれだが、彼の親たる桃色と白のシクラメンは彼を守るようにしっかりと彼に寄り添っていた。ソロモンはそれを見て、微笑ましく思った。
「(手足も口もないとは、幸せなことだ。親がこいつをどう思っていようと、彼を払いのけることも、罵ることもできないのだから)」
「ソロモン、あの騒ぎなんだい?」ベリアルのほうが先に、騒ぎについて言及した。
「ナタンから聞いた。ダビデがついに、神殿の建立に取り掛かるそうだ」
「神殿?」
「そうだ。ダビデが即位した際に、神と神殿を立てるという契約を交わした。天の使いなら、知っているんじゃないのか?」
「聞いたこともあったっけ。ほら、人間って次から次へいろんなことするからさ」
ソロモンはぼんやり空を眺めながらそう言った。
「神をまつる大神殿だそうだ。モーセの十戒の板が入った聖櫃を収めるんだと」
「へえ。設計とかってできてるの?」
「これからだろう」ソロモンはそっけなく答えた。「そもそも、そんな契約があったあったとは言いつつずっと先延ばしにしていたそうだ。それが急にやると言い出したので、各所が右に左に大騒ぎらしい。まあ、計画の方向性が決まり次第すぐに収まるさ」
彼は日陰の冷たく湿った空気を肺に吸い込んで言った。「俺には関係ない話だ」
ベリアルはふっくらした頬に指を添えて「ふーん」と言った。
「まあ、そうだね。ボクらはボクらでやることがあるんだから」
如雨露の水をまきながらベリアルは言った。ソロモンは「お前……はた目からは如雨露が浮いているように見えるんだぞ、それは俺がやるって言っているのに」と、少しだけ笑いながら言った。


扉をノックする音が聞こえて、タマルは振り返った。ほどなくして入ってきたのは兄の姿だった。タマルは椅子から腰を浮かせて彼のもとに走り寄った。
「お兄様」と彼女が言い終わらないうちに、アブサロムは彼女を抱きしめる。
「ごめんなさい、来るとは思わなかったから、お菓子の用意がしてなくて」
「かまわないさ。僕も突然来たわけだから」と言って、アブサロムは持参した花束を彼女に渡した。
喜んだタマルがそれを花瓶に飾っている間にアブサロムがソファに腰かけると、少し大きめなそれの端には既に先客がいた。タマルの飼っている猫である。アブサロムが彼女の喉を撫でると、彼女は気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らした。
「その子散歩から帰ってきたばかりですのよ。泥がついているかも」
「別に気にはしない」
アブサロムはリラックスして、猫を自分の膝に座らせるとあいたスペースに変わりに妹を座らせた。
「お顔の色がすぐれませんわ」タマルはアブサロムをじっと見つめてから、言った。当のアブサロムはこめかみに手を当て、「そうかもしれないな」と、つぶやくような音量で言う。アキトフェルから例の預言の事を聞かされて以来、アブサロムは心穏やかでなかった。アムノンが王位を継ぐのならばまだ納得できる。アムノンは自分ほどではないが立派でまともな人間だ。おまけに長男だ。しかしソロモンのどこに王位を継ぐべき要素があるのか?とアブサロムは憤りを押さえつけられなかった。ただ、タマルに余計な心配はかけられない上、何よりこんなグロテスクなことを聞かせてはならないと、アブサロムは「いや、大したことじゃないんだ。すまない」と、預言のことについて妹と話すのは拒んだ。
「ほら、お父上が新しい事業を始めるって話だろ?いろいろ忙しくなると思ってな。僕もできることがないかと考えていたところだ」
「まあ……どんなお仕事が来ても、やっていけますわ。お兄様なら」タマルは口元を隠して笑った。
「(父上様がこの事業を始めるのは、父上様もあの預言を聞いて不安に思ったからかもしれない)」
アブサロムは口には出さずに考えた。
「(ばかばかしい、預言なんて当たるものか!あいつのどこに王位を簒奪する力がある?あいつが頼れるのはあの老いぼれのナタンただ一人だ。年だってまだ子供なんだし。あんなまともな体をしていないやつのもとに誰も集まるものか)」
アブサロムは頭を抱えた。「(なんでこの僕があんな出来そこないの事を気にしなくてはならないんだ?それと言うのもあの預言のせいだぞ!いや、ソロモンのせいだ!あいつが生意気なときは嫌に生意気だから、僕は何となくあの預言を笑い飛ばしきれないでいる!)」
お兄様?とタマルの心配そうな声が聞こえた。いつの間にか、鬼気迫らんばかりの険しい表情になっていたらしいのをアブサロムは理解した。
「すまない。……考えすぎてしまうんだ。お前と話したら、少しは落ち着けるかと思って」
「まあ……そういっていただけて、私もうれしいですわ」
にっこりと笑うタマルを見て、アブサロムも笑った。自分ほど美しい男はダビデしかいないと彼は思っている。では妹ほど美しい女は?父親の側室に美しい女は数あれど、妹ほどではないと彼は思っていた。あの側室の陰にひっそりと座っているバテシバは側室の中では群を抜いて美しけれど、タマルにはかなわないと彼は思っていた。
「いや、ほんとに落ち着いてきたよ。お前の顔を見るだけで」
彼は妹の肩を抱いて言った。タマルはもともと薄紅色に染まっている頬をさらに紅潮させて、彼に抱かれるままになった。
「(ああ、幸せだ。僕と一緒に居られて、タマルも幸せだ。妹の幸せを見ることこそが僕の幸せだ。そうとも、タマルの幸せ、父上様の幸せ、汚すものは誰であろうと容赦するものか。……たとえ、悪魔でも、そう、神でも)」
彼は妹の暖かさを感じながら、心の中でそう自分に言い聞かせた。


妹と一緒に小一時間過ごして、剣の鍛錬でもしようかと部屋を出たアブサロムを待ち構えていた人物がいた。
「アキトフェル?」アブサロムは少し警戒心をあらわに言った。
「何をしている、ここは妹の部屋の前だぞ」
「申し訳ございません。アブサロム様はここにいるとうかがったもので」
恭しくお辞儀をするアキトフェルを、アブサロムは軽く手で押しのけた。
「話があるなら別のところで聞く」
「もっともですな、ここは話をする場所ではない」アキトフェルは素直にアブサロムの後ろについて歩くと、歩きながら小声で話を切り出した。
「アブサロム様、昨日の預言の事を気にしていらっしゃるようですね」
その言葉を聞いて、アブサロムは少し苛立ちを感じた。自分の心を見透かされたかのような気恥ずかしさからくるものだった。
「行っておくが、僕はあんな予言を信じてはいないぞ」
「何故ですか?」
「赤い目とはソロモンの事だろ?」アキトフェルのほうを向こうとはせずに、アブサロムは言った。
「あいつのどこにそんな力がある。王位継承権はずっと後なのだし、年齢も足りない、人望もない、力もない。何より、まともな体をしていない。王となる要素なんてどこにあるというんだ」
「『この僕を差し置いて』ですか?」
アキトフェルのとっさの一言に、アブサロムは背筋が寒くなった。「僕がいつそんなことを言った!?」と彼は声を荒げて、アキトフェルの方を振り返った。
「アブサロム様。預言はここ数日で完成すると言っているわけではありませんよ」アキトフェルはにやりと笑った。「とすれば、年齢の問題はどうにもならない。それに、今からその時が来るまでにソロモンが何をするかは私たちにはわからないのです。仮にですよ。仮に……ソロモンしか王位につくものがいなくなれば、どれほどふさわしくなかろうと、彼が王になるのです」
「アキトフェル、貴様……何か企んでいるのか?」
「誤解なさらぬように、アブサロム様。私は軍師です。助言することが私の仕事なのですよ。私は貴方様に助言をしたいだけです。ええ、確かにソロモンは得体がしれませんね。私も多くは分かりません。ろくに会ったこともないですからな。しかしね、アブサロム様。先ほど、彼には何もないと言いましたが、ナタン殿が一つ、彼に恐れるところがあるのをどうやらご存じないようだ」
「なんだって?」
「彼は知性においては天才の域らしいですよ」
その言葉を聞いて、アブサロムは一瞬固まった。アキトフェルはその隙をつくように鋭く言う。
「私もこのような職ですからね、知性たるものについては僭越ながら王子様以上には存じ上げて居るつもりです。知性あるものが恐ろしいのです。なんといっても、『知性と狂気は紙一重』。知性あるものが暴走すれば、軍の暴動より脅威となります」
「……あいつ、そんなに頭がいいのか?」アブサロムは柳眉をひそめた。
「バカな。よかったとしても、僕ほどじゃあるまい」
「……それに関しては、ナタンどのの口から確かめる方がよろしいでしょう」
アキトフェルは薄く笑っていた。アブサロムはその笑いをうけて自分の頭の血が上るのを感じた。次の瞬間、彼はアキトフェルに詰め寄った。
「……貴様、ソロモンの何だ?」
「ソロモンの!?ばかばかしい、私はソロモンの何でもありませんよ!言ったでしょう。あなたに助言をしにきたと。貴方には助言が必要だと考えましたから」
アキトフェルは恭しくアブサロムの手を取り、手の甲にキスした。
「私は貴方の味方ですよ。アブサロム様。よいですか。楽観に揺れるのはおやめなさい。ソロモンは危険です。そう確信しておしまいなさい。その方があなたは、より迅速に正しい行動に出ることができるはずです」


その日の夜に、ダビデは一人、玉座に座りながら大広間で考え事をしていた。昼間にはにぎわっていた広間が水を打ったように静かだ。このような静かな晩は彼にとって久しぶりだった。
「(神殿を)」彼は考えた。
「(神殿を建てますとも。お約束の通りに。ああ、主よ、どうかこの胸のざわめきを取り払ってください。何もかも万事うまくゆきますように。この愚かな僕の罪をお許しください。主よ。つまらぬ羊飼いだった私を王となさってくれた方よ……)」
その時。不意に一瞬、全ての光が消えた。一瞬のみ、月と星が光るのをやめ、闇に溶け込んだ。そしてその一瞬から抜け出したダビデの心からは、そのたった一瞬の暗闇が決して離れなかった。
「(赤い目……血の清め油……アブサロムの首……)」
彼は心の中でイメージを反芻し、恐れから逃れようと、自分の体を抱いた。夏空のもと咲き誇る大輪の花のように美しかった自分の体に、老いが近づいてくるのが自覚できた。


ソロモンは何かの声で目を覚ました。ベリアルの声かと思ったが、違った。もっと鬼気迫る年老いた声だった。ナタンの声だと分かった。
「ナタンか?」
寝ぼけ声で答える彼の目の前に、ナタンは来ていた。何が起こったか、必死の形相だった。
彼は壁に掛けてあるソロモンの黒いマントをとると彼にそれをかぶせた。
「ソロモン様……おいでください」
何かの非常事態を察知してソロモンは完全に目を覚ました。聞くと、自分の部屋の窓のすぐ外から何かすすり泣く声が聞こえる。すぐ外はシクラメン畑だ。
「(何が!?)」
ソロモンは反射的に、窓に駆け寄った。そして彼の目の前に飛び込んできたものを見て、彼の心を、いや、もはや全身を無数の刃が貫いた。
「(あの花が!あの花が、死んでいる!いや、あの花だけじゃない!)」
あの白と桃色のあいの子のシクラメンが、土から掘り起こされて地面の上で死んでいた。美しかった花弁はすっかりしおれて縮こまっていた。遅れて、彼の両親も、周りのシクラメンたちも同じように死んでいるのがわかった。
「(なぜ、なぜだ!?)」
ナタンの声を聴かず、彼はマントを纏って部屋から飛び出した。彼は走った。めったに走らないのですぐに息切れしそうになったが、かまわなかった。心臓が異常に速く動く。のどに血の味がこみ上げてくる。それでも彼は走った。走って、シクラメンの花畑についた。

花園について、ソロモンは急いで、一番かわいがっていたあいの子のシクラメンのもとに急いだ。自分と違って、周りから違っていても控えめながらも誇り高そうに咲いていたまだらの花弁はすっかり水気を失い、ところどころは茶色くなって、全く命を失ってしまったようにうなだれていた。彼の上に、ソロモンの涙がこぼれた。ふと、ソロモンは彼の体がまっぷたつになっていることに気付いた。もともとそのシクラメンが咲いていた場所を、彼は指で掘った。「ない、球根がない!」彼は叫んだ。球根が消えている。そしてそれはほかにも言えることだった。美しい彼らは球根を引きちぎられ、息絶えていた。
「球根、球根はどこだ!?」
そのソロモンの叫びと同時に、一本の腕が彼のもとに伸びてきた。腕の主は、アブサロムだった。
「おい、ソロモン」彼は怒りに満ちた声でそう言った。「何が球根だ?……お前、これを見ろ!」
アブサロムは強引にソロモンの頭を自分が指し示す方向に向けた。その先では、タマルが泣いていた。タマルの膝に抱かれているのは、あの猫だった。猫は死んでいた。
「わたしの、わたしの」タマルは泣きじゃくって猫の死体を撫でていた。彼女の侍女たちが必死で彼女を慰めていた。アブサロムはソロモンの胸ぐらをつかんで「ここで死んでいたんだ」と言った。
「お前の花を食べて死んだんだ。……こんな……こんな物騒なものを育てやがって。ソロモン、花なんかの前に、僕の妹に言うことがあるだろう、え?」
アブサロムがそういったとき、ソロモンの意識はすでにシクラメンのほうに言っていた。花園の四分の一ほどが食い荒らされていた。よく見れば球根だけじゃなく、花や葉っぱを食いちぎられたものもいる。シクラメンの、特に球根には毒があることはソロモンは知っていた。人間が死ぬほどではないが猫くらいなら死なないことはない。そのことが頭に浮かんで、ソロモンは起こった自体を一気に把握できた。
「(俺が、俺が寝ている間に、こんなことに……)」ソロモンはショックを隠し切れなかった。彼らが身を切られる苦痛、死の恐怖と戦っている間に自分はのうのうと寝ていたのだ。あんなにも、自分に安らぎを与えてくれた彼らの苦しみを何も知ることがないまま。赤い目から涙がこぼれた。取り留めもなく、いくつもいくつもこぼれた。彼は手に握ったまだらのシクラメンを見つめた。彼は最後に水を望みたかったろうと思いながら。
「かわいそうに……」
彼がそうつぶやいた瞬間、「誰がかわいそうよ!」と金切り声が聞こえた。
「お花なんかの前に、この子がかわいそうじゃない!」
タマルだった。泣き顔を怒りに燃え上がらせて、彼はソロモンの前に彼女の愛猫の死体を突きつけた。
「お花なんかどうでもいいでしょ、それよりもこの子は、死んだのよ!わかっているの!?お前、生きているものを殺したのよ!こんなに可愛かったのに、いい子だったのに、お前みたいな嫌われ者でもないのに、死んだのよ!かわいそうだと思わないの!?ごめんなさいの一言も言えないの!?お前、人間の心がないのね!やっぱり悪魔の子なんだわ!生き物を殺しておいて、全く心が痛まないなんて!」
ソロモンは黙ってまだらのシクラメンを見続けていた。「どうでもいいだって?」震える声でソロモンは言った。
「この子だって生きてた。この子だって殺された、この子だって俺を助けてくれた……」

その瞬間、ソロモンの頭にかつてないほどの衝撃が走った。アブサロムがソロモンの頭を殴りつけたのだ。彼は倒れてまだ咲き誇っているシクラメンの間にうずもれた。起き上がろうとしたが、できなかった。アブサロムが片足でソロモンの頭を抑え込んだのだ。
「口答えするな!」彼は恐ろしい勢いでどなった。
「生き物を殺しておいて、僕の妹を泣かせておいて、謝りもしないのか!」
彼はソロモンの脳天を何度も足蹴にした。タマルはタマルで「人でなし!悪魔!売女の子!」と泣きわめきながらソロモンの事を罵った。
アブサロムは興奮状態だった。自分の可愛い妹を泣かせたことも許せないのはもちろんのこと、かの預言のおかげでソロモンに感じていた鬱憤をすべてあてつけるかのようにソロモンを蹴りつけた。「ソロモンのことは危険だと自覚してしまえ」というアキトフェルの言葉が頭によぎった。彼は何度もソロモンを蹴りつけた。彼の頭が切れて、血が出た。頭のみならず、全身を蹴りつけた。それでも蹴りつけるのをやめなかった。
「恥を知れ!お前、何様のつもりだ!お前と僕たちは住んでいるところすら違うんだぞ、分かっているのか!僕らは由緒正しい王女の子供、お前は夫を棄てた売女から出た忌み子!お前はダビデの家の禍なんだ!死ぬことでしか家に貢献できないごくつぶしの化け物だ!その程度の価値しかないくせに、その生意気な態度はなんだ!」
何回目かもわからない蹴りをアブサロムが入れようとした頃、横から静止がはいった。ナタンだった。そして後ろには、ダビデが来ていた。
ダビデの姿を見て、アブサロムはいったん蹴りをやめる。ソロモンは開放されたのを知ったが、花園にうずくまったままだった。立ち上がる気力すらわかなかった。

ダビデは静かにタマルに寄り添うと、「タマル。ここにいるともっと悲しくなるだろう。部屋にお帰り。この子はちゃんと弔ってやろう。新しい猫も探してあげるよ。父のためだと思って泣き止んではくれないか」と優しく言った。彼女はぐずりながら、素直に部屋に帰ろうとした。侍女たちに起き上がらせてもらい、振り返り様ソロモンを睨みつけて去っていった。
「アブサロム」ダビデは言った。「その辺にしておきなさい。お前の弟だ」
「弟?こんなのが弟だというんですか」アブサロムは怒りの感情を父親相手にも隠しきれなかった。
「そうとも。お前もソロモンも、私の子供だ。兄弟同士で殺し合いなど、しないでくれ」ダビデは悲しげな目つきでそう言うと、ソロモンのそばに立膝をついて座り、一瞬彼の赤い目を覗き込んだが、すぐにそらしてしまった。ソロモンもそれにあわせて地に目を伏せた。
「父上様。私は、こんな悪魔を弟とは認めません」
震える声でアブサロムは答えた。ダビデの返答を聞かないうちに、彼も踵を返して走り去っていった。あとには、ダビデとソロモン、ナタンだけが残された。
しばらくの間、ダビデはソロモンに何も言わなかった。ソロモンもダビデのほうを向こうともしなかった。彼は、蹴られている間でも握りしめていたあいの子のシクラメンを、前にベリアルがしていたように指で掘った小さな穴に埋葬した。
「ソロモン」ダビデが口を開いた。
「やろうと思って、やったのかね?」
ソロモンは顔を上げて父親を見た。頭が割れるようだ。頭蓋骨が割れてしまっていても驚く気にはなれなかった。
「……答えないほうが、よいのでしょう」ソロモンは暗い表情でつぶやいた。
「私の思惑は、貴方の都合のいいようにしてください」
弁解などしたくもなかった。したところで何になるというのだろうか。彼らの誇りは戻らない。彼らはもう死んだのだから。
ソロモンは起き上がった。ナタンが止めるのも聞かず、頭から流れる血の存在を感じながら、よろよろと部屋に戻った。倒れそうになる体を、ふと、誰かが支えてくれた。ベリアルだった。
「ベリアル……」
それ以上は、言えなかった。


ソロモンが目を開けたころ、すでに真っ暗になっていた。ソロモンのそばにベリアルはいなかった。体には包帯が巻かれていた。おそらく、寝ている間にナタンが医者を呼んでくれたのだろう。滑稽なことだとソロモンは思った。
「(生かしておく気があるのなら、どうして一人にしておくんだ)」
呼んでみたが、やはりベリアルはいなかった。彼はたまにいなくなるのだ。珍しい事ではない。
シクラメンに水をやらなくては、と彼は思った。全身が痛む。
その時、窓の外から不意に物音がした。ドポドポと液体の流れる音だ。異変を感じたソロモンは、体に慢心の力を込めて、窓の外を覗き込んだ。そしてそれと同時に、パッと目の前が明るくなった。
シクラメン畑が、炎で燃え上がった。
「あ……」
一瞬、彼は目の前で起きていることが理解できなかった。小さくそんな声が出た後、せきを切ったかのように叫び声が迸った。言葉にもならない絶叫は、部屋の壁中に響き渡った。のどがつぶれそうな勢いで、ソロモンは悲鳴を上げた。
「燃えている!シクラメンが、燃えている!」
ふっと炎に照らされた人影が去っていった。ソロモンは傷ついた体を起こして、よろよろと部屋から出た。亀のようにしか動けない傷ついた身が、死ぬほど恨めしかった。早くしないと、早くしないと、と思いつつ、彼は地面を這いつくばってシクラメンのほうに向かった。自分の頭の中に、無数の叫び声がこだましているかのようだった。彼らは助けを求めていた。もだえ苦しんでいた……。

ソロモンが付いたころ、火はすでに消えていた。そばには、ベリアルが立っていた。
彼は何も言わず駆け寄って、立っているのもままならないソロモンを抱き起こした。ベリアルの体は強く光を放っていて、ありありと暗闇の中のシクラメン畑がどうなってしまったかがわかった。
色とりどりの花園の跡には、ただ大量の灰が散らばっていた。
「ああ……」彼は、シクラメンを撫でるように手を差し伸べた。手には、大量の灰が残った。まだ火の熱を十分に残していた。
ソロモンの目に涙が浮かんだ。それと同時に、彼は大きな声をあげて泣いた。まるで子供じみたわめき声をあげて彼は泣きに泣いた。
彼はシクラメンの灰の中に飛び込んだ。火の熱を残したそれが自分の体をも焼くのがわかったが、それでも構わなかった。彼は灰をかぶって泣いた。彼の涙が混ざって、彼の白骨のような肌に灰がまとわりつき、彼は何かみじめな薄汚れた塊のようになった。そうなってもなお、彼は子供のように泣きじゃくっていた。十一歳の子供、そのものだった。

「ベリアル、お前は言ったな。俺はこの子たちを愛していた」
しゃくりあげながらソロモンは言った。
「今わかったよ。今愛とはなんなのかわかった。そうか。これが愛なんだな。この感情こそが愛なんだな」
たいまつの明かりに映し出されたあの人影をソロモンは思い出していた。夜風になびいた、亜麻色の長い髪。
「憎い、苦しい、恨めしい……それ以上だ!ああ、これが愛なんだな!愛と言うのはこう思えることなんだな!自分ではないもののためにこう思えるのが、愛していたということなのだな!」
ソロモンの必死の叫びを、ベリアルはじっと黙って聞いていた。
「ベリアル」
全身を灰に浸したソロモンは静かに彼の方を見上げて言った。
「殺したいと、思っても、いいのか」
ベリアルは、自分も灰をとり、握りしめた。
「良いに決まっているじゃない」
「ああ、そうか、そうなのか。やはり、これが愛なのか」


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