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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第十一話

「あなたは?」
夕方になりかけているようで、格子窓から見える空気は赤く染まっていた。それにやかましいパレードの音か響き渡っていた。
ソロモンの部屋の扉を開けてやってきたアドニヤは、穏やかな微笑みを浮かべてソロモンに向かい合っていた。蝋燭をつけていないので、部屋はかなり暗い。彼は静かにソロモンの部屋に入ってきた。
「その後、階段からは落ちていないかい?」
「はい」
「それはよかった」
まさかそんな話をしに来たのでもあるまい。ソロモンは警戒心を緩めはしなかった。アドニヤは彼が読んでいたままの本をとると「へえ。バビロニアの書物じゃないか。こんなものも読めるのかい。大したものだ」と笑って見せた。
「勝手に触らないでください」とソロモンが言うと、アドニヤは「ああ、悪かったね。そうだ、確かに君には君のプライバシーがある。ごめんよ」と言った。
「何をしに見えたのですか」ソロモンは問いかけた。
「君にもわかるだろう。アブサロムがたった今、城に入ってきた」
「そうですね」
「ずいぶん冷静だな」
「私には関係ありません」ソロモンはアドニヤに目もあわそうとしないままそう言った。
「関係がない?どうして関係ないんだい。君も家族じゃないか」
「…父上の家族であるというのなら、アブサロムの家族でもありますからね」
そっけなく答えたソロモンに、アドニヤは笑って「なるほど、一本取られたな」と言った。
ソロモンはそのまま彼に部屋を出てほしいと思っていた。しかし、次のアドニヤの言葉はソロモンにとって非常に衝撃的だった。
「君がお父上のために働きたくない気持ちもぼくには分かるよ」

アドニヤにそっけなくあろうとするソロモンに、アドニヤは急に近づいてきて、そっと囁いた。彼はソロモンの肩に手を置き、長く伸びた彼の白い髪を手ぐしで梳いた。ソロモンは急に距離を詰められたことに怯んだ。
「そりゃあ、小さい時から邪険にされて、こんな部屋で育てられてきたんだ。今さら家族なんだから父上のために働けなんて、実に虫のいい話だよね。君はおそらく、ここに残されたんじゃなくて、置き去りにされたんだろ?ぼくはアブサロムとお父上ならお父上の味方をするけど、でもそれに関しては酷いよね」
アドニヤは優しくそういった。ソロモンはどうしようもない違和感を覚えていた。こんなことを他人から言われたのは、生まれて初めてだ。
誰も彼の境遇に同情しはしなかったし、ダビデの彼に対する扱いを否定はしなかった。ナタンですらそうだった。それがなぜ、今日になるまでろくに話もしなかった異母兄にそんなことを言われているんだろうか?彼は状況が呑み込みがたかった。呑み込むにはあまりに突飛な状況だった。
凍えそうな寒さの中、急に熱湯を喉に直接流されたような感触だった。
彼は赤い眼をパチパチ瞬かせた。アドニヤは彼の目をまっすぐ覗き込んでいた。居心地の悪さすらソロモンは覚えた。妙な気持ちだ。
「それ以前の問題ですよ」ソロモンはあくまで冷静であろうと努めて、そういった。「何ができます。私のような年端もいかないものに」
「いや、君はできる。この館に今のこっている人間のだれよりも君はできるよ、そうだろ?」
アドニヤの言葉は今度こそとてつもない異質感とともにソロモンに降りかかってきた。「溺れる者は藁にもすがる、とはよく言ったものです」ソロモンは吐き捨てた。何か妙に心がざわめく。ベリアルに優しい言葉を与えられて感じる感情とは勝手が違う。もっと体中が熱くなる。もういいから、とっととアドニヤには部屋を出てもらいたかった。
「そうとも、その言葉はよくできている。しかし君は藁じゃない」アドニヤは必至で目をそらそうとするソロモンの顎をつかんで、自分のほうに引き寄せた。日はいよいよ落ちて、アドニヤの顔もうっすらとしか見えない。それでもしっかり彼の体温をソロモンは感じていた。自分とは違って、大切に育てられた彼の手はしっかりとした体温があった。彼は震えた。
「ナタン様から聞いたよ。君、とても頭がいいんだって?」アドニヤの声が小さな部屋の壁に反響する。パレードの音は消えていた。アブサロムはすでに宮廷内に入ったのかもしれない。
「今、宮廷に残っているぼくたちでは、奴らに真っ向から立ち向かう力はない。だが奴らが城に来た今、内部から崩すことはできるかもしれない。それに力は必要ない。ただ、知恵が必要だ」アドニヤは一層顔を近づけて、ソロモンの耳すれすれに自分の唇を置いてそう言った。なれない距離に、ソロモンの心臓は早鐘を打つ。ぞくぞくと変な感触だ。
「君がここに残されたのは、きっと神様のお導きだ。他の誰が君を認めなくても、ぼくが君を認めよう。ソロモン、力を貸してくれる気はないかい?」彼はほぼ密着しそうな距離感でそう言った。ソロモンは彼から逃れようと慌てて手を動かして抵抗した。彼は意外にもあっさりと離れた。
部屋はさらに暗くなって、アドニヤは彼の影しか見えない。影だけの彼は外套を正して「来たくなったら来てくれたまえ。ぼくは君を信頼してるよ。君の知性を信頼している」と穏やかな声で言って、部屋を出て言った。


ダビデはエルサレムの近くに、様子見に戻ってきていた。郊外にあるオリーブ山の頂上に立ち、彼は都を見下ろした。
ふと、一人、物資を積んだろば数頭を連れた男がやってくる。「陛下、ろばと食料をお持ちしました」と彼は言った。
「ご苦労だった。……エルサレムは今どうなっている?」
「アブサロムはエルサレムに入城したようです。城内で死者が出たという話は聞きません。彼は『今日にでも、父は私に王座を返すだろう』と豪語しております」
「……そうか」
「それと、将軍の一人アマサがアブサロムに寝返りました。このどさくさに紛れて、前王サウルの血を継ぐ者も、彼らの王位継承権を主張し始めているという噂も立っています。想像以上に、謀反の勢いは大きくなっております」
ダビデは柳眉をひそめた。
「私は野営場所に戻る。お前も物資を運びについてこい」
「はい」彼は短く返事をして、ダビデはオリーブ山を下り始めた。所狭しと実るオリーブが彼らを隠した。
「(……主よ。私になぜ、このような責め苦を負わせるのですか)」彼は心の中でつぶやいた。道中、彼の目に実際あるはずの景色は映っていなかった。彼の頭の中には、何人もの姿が渦巻いて見えた。彼らは皆、ダビデに向かって石を投げた。ダビデは石打ちの刑に処せられた罪人のようだった。
「このいやしい羊飼いめ!主君であったサウルの恩も忘れて、サウル家を貶めた人でなしめ!これがその報復だ!主の報いだ!お前も恩を知らない息子に蹂躙されるのだ!」彼らはダビデを攻め立てた。
「(主よ、これが貴方の下さることですか。私は受けましょう。私は貴方に与えられた使命を受け入れます。貴方が私の苦しみを受け取ってくださいますように)」ダビデの目から、涙がはらはらと流れた。ろばを連れた男はあえて、何も言わなかった。

同じころ、アブサロムは大広間の玉座に座った。玉座は全く何の抵抗もなくアブサロムを受け入れた。これはどうして王しか座れぬ椅子なのだろうか。ただの椅子ではないか。全く、ただの椅子だ。アブサロムはそう思った。
「玉座は私の手に落ちた。次は王冠だ」彼は大広間に集まった自分の従う人々の前でそう言った。彼らは狂喜乱舞して、「アブサロム様、万歳!」と言った。
アブサロムは有頂天だった。彼は腕にはめたタマルの髪の毛の腕輪を撫でた。
「(タマル、見ているかい?お前を見殺しにした理不尽な国はもうすぐ終わろうとしているよ。ああ、お前にも見せてあげたい、本当に!)」
彼は隣に立つアキトフェルにも笑いかけた。「すべてお前のおかげだ。ありがとう、アキトフェル」
「なんの。アブサロム様の手腕と魅力のなせるわざでございます」
「正式に王になれば、お前にも何か、誰にも勝るいたわりをせねばならないな」
アキトフェルはその言葉を聞いて、笑って首を横に振った。
「アブサロム様。お忘れですか。私は貴方の味方をできればよいのです。貴方を初めてお見かけした時から、貴方こそが王になるべきだと私は確信しておりました。それが現実となったこの瞬間に勝る褒美が、どこにありましょう」
「アキトフェル…」アブサロムは照れ臭そうに笑った。「お前のような男を部下に持てることほど、僕にとっての僥倖もない」
彼はアキトフェルに「さて。次に何をするべきか、お前の意見を聞かせてはくれないかな」と言った。アキトフェルは「アブサロム様、お疲れでしょう」とにやりと笑っていった。
「貴方様が次にすべきことは、お父上の権威を奪ったということを示す具体的な行為でございます。それで、ダビデの誇りは地に落ちたと示せましょう」
「と言うと?」
「簡単なことです。王の残したあの側室どもを貴方のものにしておしまいなさい。それも、宮殿のバルコニーに天幕を張って、晒し者にしておしまいなさい」彼は下卑た笑いを浮かべてそう言った。
アブサロムもそれを聞いて、にやりと笑い「……なるほど、面白いかもしれないな」と言った。


ソロモンはフラフラと散歩していた。なんとなく部屋でじっとしているのが落ち着かなくて、外の空気を吸いたい気分だった。アドニヤの体温と手の感触がまだ残っている。心臓が嫌な鼓動を打った。
「(俺の事を信頼しているだって?こんな状況にならなきゃ、はなもひっかけなかったくせによく言う)」彼は心の中でそう毒づいたが、なんとなくそれで心を固めることはできなかった。非常時に都合よくすがってきただけとはいえ、「信頼している」等と言う言葉をかけられたのはソロモンにとって初めてだった。
アドニヤは自分の技量を見たことなどないはずだ。確信が持てないままに彼を頼ってきたのだ。なんと計画性がないのだと笑うことは簡単だ。しかし、彼は笑い飛ばせないでいた。正直に言えば、ソロモンは嬉しかった。初めて、他人に友好的に話しかけられ、しかも信頼されたのが嬉しかった。自分を人間以下という扱いをせずに、むしろ他の人間より優秀だと言ってくれたことが嬉しかった。そんな自分の感情を、ソロモンは分かっていた。わかっていても、彼はなんとか押し殺そうとした。
「(しっかりしろ、他人を信用していい事なんてあるはずがない!この状況が終われば、アドニヤだって俺を捨てるはずだ、どいつもこいつも、俺を見下しているのだから)」
ソロモンはたった一人で王宮の庭をうろうろしていた。夜だが、人がそれなりにいるので彼はマントをかぶっていた。
ふと、彼の耳に、マント越しに異様な音が聞こえてきた。女の喘ぐような声だった。何事だと思って彼は、声のする方向を見た。彼はバルコニーの斜め下に立っていたが、バルコニーの上からその音は聞こえてきた。

バルコニーには天幕が張られていた。何人もの女の声がその中から渦巻いているのだ。何かにあえいでいる声。苦痛と言うよりも妙に官能的な色を伴ったようなその声が、ソロモンの耳に響いた。彼はとてつもない不快感に襲われた。吐き気すら覚えた。体中に鳥肌が立った。気が付けば、その場にいる数人も音の方向を見ていた。その場にいるのはほとんど男だったが、皆下品ないやらしい笑いを浮かべてそれに釘付けになっていた。
天幕の中は何本ものろうそくで明るく照らされているようで、中にいる人々の様子が影絵のように映っていた。ソロモンの目に映ったのは、立派な長髪を持った、他の誰よりも一回り大きい影が他の影を蹂躙している姿だった。みんなにやにやしてそれを見ていた。ソロモンは彼ら自身に注意を払った。股間を膨らませているものすらいた。ふと、大きく聞こえてきた喘ぎ声が、彼にはバテシバのものであるような気がした。
ソロモンは天幕の中で何が起こっているのか理解した。とたんに、不快感が燃え上がった。
彼は顔をしかめてその場を立ち去った。静かに、何物も気にかけないように。
なんと醜いんだ。あの卑猥な空気が彼には耐えられなかった。権威のため父の妻を犯す息子、それを拒まない女たち、それを見て下種な笑いを浮かべ欲情する男たち、何もかもが醜い。タマルもあのような汚らしい性欲のもと死んだのか。自分の復讐は百倍も千倍も成功したかのように思えた。ああ、自分もあの醜さの中で生まれてきたのか。あのはしたない行為のもとに。自分に対する嫌悪感すら彼の中に湧き上がってきた。あのような行為を行わず球根で増えるシクラメンの花のほうがずっと高尚な存在のように思えた。
ソロモンの心の中で、何もかもが冷めきってしまった。くだらない。この宮殿はなんとくだらない空間だ。自分を見下していたこと以前の問題ではないか。そのような宮殿に生まれた自分もくだらない。この場にいると言うだけで、彼は自分自身すらばかばかしく思えた。
アブサロム、なんと見下げた男だろうか。最初から彼に尊敬の念など持っていなかったが、彼も所詮は父と同じなのだ。性欲、権威欲、欲のためにつき動く猿に過ぎない。ダビデを見ていればわかりきっていることだったが、アブサロムを見てあのように偉ぶっていた、美しい男でも助平な感情を持っているのかとソロモンは改めて実感した。そしてソロモンは非常に無気力になった。なんてくだらない世界なのだろうか。自分ももっと大人になれば、あのような感情を持つようになってしまうのだろうか。ようやく少し静かなところについて、彼は考えた。
彼はしばらくそこに居た後、宮殿の中に歩みを進めた。アドニヤの場所は何となく目星がついていた。宮殿内の何もかもがソロモンには醜く思えていた。ただ、自分を認めてくれたアドニヤだけは不思議と否定する気になれなかったのだ。
信じるわけじゃない、どうせ裏切る。だがアブサロムよりましだから行くだけだ。彼はそう呟いて、アドニヤのもとに向かった。バルコニーの上で、淫蕩な宴はまだ続いていた。


「よく来てくれたね、ソロモン。来てくれると信じていたよ」ソロモンの姿を見たアドニヤは笑った。彼は自分の隣に立っているきりりとした顔つきの老人を指して言った。
「こちらはフシャイ。父上にお仕えしていらっしゃる軍師だ。アブサロムの目を隠れて、応援に駆け付けてくれたんだ」
「お初にお目にかかります、ソロモン王子」彼はソロモンに恭しく膝をついて挨拶した。王子にする態度としては当然だが、ソロモンにそんな態度をとる臣下などほとんどなかった。アドニヤが、自分の機嫌をとるためにちゃんとそうしろと言ったのだろうと彼は何となく察した。
「ではソロモン、さっそく君の意見を聞かせてほしい」アドニヤは真剣そうな顔をして言った。彼が手で合図をすると、フシャイはイスラエルの地図を広げた。
「エルサレムはここ」アドニヤは指差した。「つい先ほどやってきた伝書鳩からすると、父上は今このあたりだ」と、ついで荒野の真ん中を指さす。
「荒野にとどまっている状態ですか」
「ああ、おそらく」アドニヤが言う。
「ヨルダン川の向かい、マナハイムにつけば一息つける。あの町には要塞があるからそこの装備を使えるし、体勢を立て直せる。父上は今、そこを目指しているんだ。だけど今のままの進みだとアブサロムの軍勢に追いつかれてしまうかもしれない。大勢連れているから進みが遅いんだ。なんならアブサロムがやろうと思えば、一晩で追いつけるかも」
「ヨルダン川を早く渡らないのは、雪解けの時期だからですね?」ソロモンは言った。フシャイが「その通りです」と言った。
「ダビデ様のもとにはただの群衆も付き従っていますから。十分な用意ができないうちは安全に渡せません。犠牲者を出すわけにはいきません」
ヨルダン川はそこまでの大河ではない。モーセの前に立ちはだかった紅海とは違い渡ろうと思えば渡れる。ただ、増水の時期になると水かさはかなり増える。戦いの心得もない素人や女子供を含んでおいて全員を安全に渡そうとするのならば確かにそれなりの手間だ。
「アブサロムはそこを狙うだろうな」ソロモンは言った。「アブサロムに軍師はついているのか?」
「アキトフェルと言うやつが」フシャイが言った。「なかなか切れる奴ですよ。少し変わり者ですが」
「なるほど……おそらくアブサロムに味方を集めさせたのもそいつだな」ソロモンは言う。「それほどの奴なら、父上のルートもわかっている可能性がある。伝書鳩が捕まっていなければ、今日に各地に密使を派遣したとしてそれらが帰ってくるまでの計算をすると特定までにかかる時間はおよそ一晩強かな。明日にでもアキトフェルはアブサロムに、ヨルダン川に全力で追い打ちをかけるようにするだろう」
「なるほど」フシャイが言った。「…して、王子。何か策は?」
「一晩しかないんじゃ、大変だね」
「違いますよ」ソロモンは言った。「一晩あれば十分だ」
ソロモンはその場で、すぐに彼の考えた計画の全貌を話し始めた。


数時間もするころ、アブサロムは天幕から出てきた。彼はぐったりしている父の側室たちを置いておいて、一人ガウンを羽織ると王宮の中に入っていった。しかし、彼は廊下で自分を待ち構えていた男の存在に驚いた。
「新王、アブサロム様に栄光あれ」彼は言った。
「なんだ、なぜお前がここにいる?」アブサロムは戸惑った。フシャイはダビデの部下の中でもヨアブ達と並んでかなりの古株でその能力の高さのみならず王と非常に仲が良かったことで知られていた。
「王よ、私目はただ貴方に万歳を言いたく思っているだけです」フシャイは恭しく言った。
「なんだ、お前。ダビデはお前の友だったのではないのか?お前の忠誠心とはそのようなものなのか」
フシャイがダビデを裏切ってこの場に来たのだとアブサロムは理解した。そして新しい王たる自分に取り入ろうとしているのだと。アブサロムは若干嘲笑気味に彼にそういったが、フシャイは意に介してはいないようだった。
「王よ、私が忠誠を誓っていたのはダビデにではありません。イスラエルにでございます」彼は言った。「イスラエルの選んだ王が私の仕える主人でございます。私はイスラエルの民が選んだ方とともにあり、その方に忠誠をささげます。アブサロム様、今や貴方がイスラエルに選ばれ、神に祝福された王となった身。この私が仕えるべき相手はどなたでしょう。ご子息様、あなた以外にあり得ましょうか。私はお父上に仕えたように、貴方にお仕えさせていただきたく存じます」彼はまっすぐな目で、はっきりとそう言いきった。
彼のその言葉を聞いて、アブサロムの心の中で、何かがざわめいた。父に圧倒的な忠誠を誓ってきたこの男すら、自分になびく。父の女をわがものにしてやったのと同じ快感が彼の脳に駆け巡った。
フシャイの言葉にわざとらしく媚び、すり寄ってくる様はない。彼はあくまでイスラエルへの忠義のもと、アブサロムに従おうとしているのだというように見えた。そこが帰って彼のプライドを満たした。この男にとってイスラエルたる人物は父では無くアブサロムなのだ。まさに自分は今、父から最も大きなもの、国を奪っているのではないか。それにアキトフェルだけでは心もとなくもある。良い軍師は多いに越したことはない。
「わかった、面を上げろ、フシャイ」アブサロムは言った。フシャイはその言葉通り、顔を上げた。アブサロムが満足そうに笑っているのを見て、彼は内心で安心した。
「よろしく頼むぞ。この僕の率いるイスラエルのために」
「アブサロム王、万歳」彼ははっきりとした口調でそう言った。


「成功したよ、ソロモン」アドニヤが言った。
「そうですか。よかった」
ソロモンは、アブサロムはあっさりとフシャイを信用するだろうと思っていた。あれはプライドが高いが、見た目よりも弱気だ。安全な策がとれるのならばそちらを行き、博打には出ることができない。だからこそ、内心ではここまで大それた権威欲があるのにずっと文句も言わず第三王子の地位に甘んじていたのだ。
そんな彼なら、非常のために保険をかけておこうと軍師を増やすことはするだろうと彼は思っていた。ダビデに忠実なことで知られていたフシャイならば、アブサロムの高いプライドを満たすこともできて一石二鳥だ。だから彼は、フシャイがアブサロムに取り入るのは一瞬で済むと判断し、フシャイを送った。唯一心配があるとすれば、彼のダビデへの忠誠心ゆえにアブサロムになびくことが計略と思われてしまうところだったが、フシャイは演技をし通して見せると言ったのでソロモンも彼に賭けることにした。結果、見事に成功したというわけだ。彼は文句なしにアブサロムのプライドを立ててみせた。
「ヨナタンとアヒマアツは?」ソロモンは言った。ヨナタンはアビアタル、アヒマアツはザドクの息子である。二人は、ダビデのもとへの伝令の係を請け負っていた。
「川を渡す準備の物資をそろえているよ。君の言うとおり、一晩あれば父上様のところで足りない分は補えるだろう」
「ではここまでは順調だ。明日は正念場ですね」
「大丈夫さ。君の立てた作戦だ」と言うアドニヤの声を聞いて、ソロモンは少しばつが悪そうに作戦会議に使っている部屋の窓から月を見た。北向きの自分の部屋からは月など見えない。月はきれいな三日月だった。
「ソロモン、ぼくは少し寝るよ。君は?」
「…いえ。夜は眠くないのです。先にお休みください」彼は言った。自分の部屋ではないところで夜を過ごすのも珍しい。
アドニヤは簡易な寝場所に横たわり、「じゃあ、おやすみ。ソロモン」と言った。
「はい、おやすみなさいませ……」
言葉に詰まったソロモンをみて、アドニヤはくすりと笑った。
「お兄様でいいよ。だって、兄弟じゃないか」

夜は更けようとしていた。

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