クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第十二話

朝になりしばらくすると、アキトフェルのもとに彼の送った密使が戻ってきた。
「アキトフェル様、ダビデ達の位置を特定しました」
アキトフェルはようやくかと思いつつ、素直に彼らを誉め、そしていよいよダビデを打ち取れるという歓喜に打ち震えた。
彼は自分の口からこの事実をアブサロムに伝えると言い、速足でアブサロムのもとへ向かった。

ダビデに忠誠がなかったわけではない。彼がダビデに仕えはじめたのも、もとはと言えば他の何人もの部下同様にダビデの王としての手腕や、その見るものすべてを圧倒するかのような美貌、全てをねじ伏せる力に魅せられ、このような人物のためにこそ自分の力を使おうと思ったからだ。繰り返すが、何もアキトフェルだけではない。同じ理由で何人もの有能な人物が、ダビデのもとには集った。
しかし初めてアブサロムと会った時、彼の肉体にダビデには感じたこともない衝撃が駆け巡ったのだ。アブサロムはまだ幼いと言ってもいい年齢の、全く無垢な少年だった。だが亜麻色の髪をたなびかせる、しなやかで涼しげな美少年の姿は彼にとってダビデ以上に偉大なものに思えた。彼は、アブサロムこそ王位を継ぐべきだと考えた。なぜかと言えば、王と言うのはイスラエルで最高の称号で、アブサロムのような美しい人間こそ最高の人間で、最高の人間が最高の称号を持つべきだと彼は考えたからだ。
彼は時を待った。アブサロムに最も貢献できるようになるまで。アブサロムが何の苦労もなく育って居るうちは、自分の存在など不要だ。しかし一旦雲行きが怪しくなれば、自分はアブサロムを助ける第一の人物として彼の前に立つことができる。彼は待った。そして、待つ間に情報という情報をかき集めた。アブサロムの利益になりそうなもの、脅威になりそうなものは自分が一番知っておくべきと考えたからだ。それ以外の事は何にも興味をはらわなかった。彼がただの人物ならば存在すら知らないか、知っていたとしても一顧だにしないソロモンの存在を知ったのもその時だ。
王子ならば全員警戒が必要と彼は考えていた。そして、ソロモンに関する情報も集めようと思った。彼につながる人物はほとんどいなかったので難儀な話だった。やがて、彼の教育係がナタンであることを彼は知った。そしてそれとなく彼の事を聞いてみた。アキトフェルはおののいた。注目すらしていなかったソロモンが、自分と同じく知性に恵まれた人間であることを知ったからだ。
知性は狂気と紙一重だ。知性ある自分だからこそ、それを一番知っている。ソロモンこそがアブサロムを脅かし得る人物だ、と彼は考えた。ただ、それ以上ソロモンについては突っ込めなかった。ナタンに面会を頼んでも彼はだれにも会いたがらないと言うだけだったし、彼の部屋には常に鍵がかかっていた。
そして、ある日例のナタンの預言を、アキトフェルは偶然耳にした。その場に、アブサロムが居合わせていた。
ソロモンこそが脅威だという自分の観測が的中していたこと、そして満を持して、アブサロムの役に立つチャンスが狙い澄ましたかのように、全く偶然にやってきたこと、二つの事実に彼はこの上なく喜んだ。これこそが神の恵みだろうとすら考えた。
ソロモンの事を気にかけているかのようなアブサロムを見て、彼は心の中でつぶやいた。「(ソロモンがどんな人間であろうと、私は知っている。ソロモンが貴方より美しいものか!)」

そして自分は今、アブサロムの隣に立つことができる。玉座はアブサロムにこそふさわしい。王冠もアブサロムでなくてはその輝きを失う。ダビデも、ソロモンも、アブサロムを差し置いて王冠をかぶる権利があるはずはないと彼は思った。
「アブサロム…なんと素晴らしい」
誰に言うではなく、彼は呟いた。彼はアブサロムのいるはずの広間につながる廊下を歩いていた。


「おはよう」と、ソロモンの背後から声が聞こえた。振り返ると、アドニヤが起きていた。
「どうしてカーテンを閉めるんだい?」
「日の光が嫌いなので」
「そうかい?まあ、そこは人それぞれだね」
「……それと、私らが万が一見つかってしまっては台無しでは?」
「それもそうだな」
彼は寝癖を手で治すと、「ところで、あの二人どうなった?」と言った。
「ヨナタンとアヒマアツならその……貴方が寝ている間に使いが来ましたよ。エルサレムにいるのは危険なのでエン・ロゲルにとどまっています。いつでも出発できるそうです」
「お兄様でいいってば」彼は笑い、「じゃあ、後はフシャイを待つだけだな」と言った。


アブサロムのもとについたアキトフェルは面喰った。むろん、そこにフシャイが一緒に立っていたからだ。
「なぜお前がここにいる?」至極当然な疑問を彼は投げかけたが、フシャイの代わりにアブサロムが答えた。
「昨日僕のところにやってきたんだ。僕に使ってほしいって」
「アブサロム様、信用がなりません」
「ほう、アキトフェル。それはつまり君は君ひとり王に媚を売り、得をしたいということだね」
アキトフェルの言葉を遮るように、フシャイが冷静に言い返した。
「なんだと?」
「そうではないのか?君とてアブサロム陛下に昔からつかえていたというわけでは無かろう。前王、ダビデ陛下もそうだったが、国を守るために王が多くの人材をかき集めるのは至極まっとうなこと。アブサロム陛下の行動には何の問題もない。また、私も国を守るという私の使命のため、新しく国となったアブサロム陛下のもとに来たまでの事。しかし君は自分一人が王に取り入り得をするために、国を守るという王家に仕える者の最大の任務すら忘れているのではないかね。そのような人物に、侮辱をされるいわれはない」
フシャイの冷静な言葉がアキトフェルの神経を逆なでした。アキトフェルは何よりも、自分のアブサロムへの忠誠心をただの私利私欲と同列に扱われたことに激しい不快感と屈辱を覚えた。自分のこの感情はそのようなさもしいものではない。自分はもっと崇高だ。しかしフシャイの言うことも言うことでまた間違いもなかったので、彼は反論しようとは思わなかった。したところでアブサロムが聞き入れるとも思わなかった。アブサロムの顔は完全にフシャイを信用していた。それがますますアキトフェルの心を波立たせた。
「アブサロム様」彼はフシャイを無視するように言った。
「私の送った密使どもが帰ってまいりました。ダビデ一行はマナハイムに向かう道中で、ヨルダン川で足止めを食っております。この調子ならばあと三日ほどは膠着状態であろうとの事ですが」
「なるほど」アブサロムは言った。
「私に軍隊を指揮する権利をお与えください、アブサロム様」アキトフェルはアブサロムに懇願した。「絶好のチャンスです。今こそ、ダビデを全力で叩き潰すとき。彼らに戦闘の準備が整っていないところを吸収し、ダビデの首を貴方のもとに持ち帰りましょう。ダビデがいなくなれば兵は散り散りです。その者たちを、貴方のもとに連れ返しましょう。ダビデに仕えるように、彼は貴方に仕えるようになりましょう」
アブサロムは少し考え込んだ。「悪くない、が……」彼は少し視線を泳がせていった。「フシャイ、せっかくだからお前の意見も聞いてみよう」
アブサロムの発言にアキトフェルがまた不快感を見せたのは言うまでもない。しかし、次にくる言葉が本格的に彼を刺激した。
「アキトフェル、愚策だな」
「なんだと!?」アキトフェルは激昂して言い返した。
「今行くのは得策ではない。三日動けないのであれば、その時間は有効に活用すべきです。諸地域の指導者に呼び掛けて、我らの軍勢を強化しましょう。その時間のうちに、ダビデを確実に打ち取れるだけの軍勢をそろえることこそ、我々の取る道でしょうな」

「なんだって?」声を荒げてアキトフェルは言った。
「それでも軍師か?時間を作ることは得策ではない、今できることなら今片づけるに限る。いつまでも『この調子』である保証はどこにもないのだぞ」
「普通の相手なら私も君と同じ判断をしただろうな」フシャイは言った。
「だが、私はダビデを知っている。あの方に長年お仕えし、そばにいた。そんな私だからこそ、ダビデには普通の常識は通用せぬということを知っている。ただの羊飼いの少年でありながらペリシテの巨人兵士を何の抵抗も許さずに倒し、王位を脅かし、ついには一国の王になったあの人の得体のしれぬ底力を私は知っている。それに、その偉業を成し遂げるにあたって大きな力となった勇士たちも、依然ダビデに従っているのだぞ。イシュバアル、エルザアル、シャンマの三勇士をはじめ、ヨアブ将軍にベナヤ、そのほかにも……アブサロム陛下、ダビデの軍隊に関して普通の常識は通用致しません。ダビデへの神の加護が残っていないとは言い切れない。準備が許されているのならば準備を万端にするに越したことはありません。付け焼刃の軍では、ダビデが勝利する可能性は十分にある」
「ふうん……」アブサロムは困ったように口に指を添えた。
「その間にダビデが逆転したらどうする?」
「幸い、有能な殆どのもとはダビデにぴったりとついていきました。裏を返せばはるばるとダビデに応援を送るほどのものの可能性はほぼ潰えてしまったということです」
言うまでもなく、フシャイはヨナタンとアヒマアツの事を知っている。実に大した演技だと彼は彼自身に言い聞かせた。
「おまけに、追い詰めると計算外の力を発揮するのが人間と言うものでございましょう。私のように国にではなく、ダビデに従っていた者たちは、今時分そのダビデが最大級の侮辱を受けたことで怒り狂っているはず。そのことを頭から外す方が危険でございましょう。ついでに言えばね、アキトフェル。君はダビデ王を打ち取ると言っていたが、あの人はもともと軍隊と一緒に休むのを好まない方だよ。自分の生死の重要性をよく知っておられる上、生半可な兵士など一人でも十分返り討ちにできるお方だからな。いまにしても、不測の事態に備えて彼だけ離れた場所にいる可能性は十分にある。万が一それが理由でダビデ討伐にしくじり、この作戦を失敗に追い込んでみたまえ。こちらの士気はがた落ちだ。ダビデやダビデの勇士たちの武勲は国中が知っているからね。結局このクーデターも無駄に終わってしまう」
アキトフェルはそこまで言うと、アブサロムに向かっていった。
「アブサロム王。今すべきは、ダンからベエルシェバまで、イスラエル中に我々の兵力を拡大することです。貴方様ならば数日でそれはできましょう。ましてアキトフェルがいるのならば鬼に金棒。人数さえ増えれば、ダビデを取り逃がすこともありません。町という町に目を光らせればよいのですから。そして彼をとらえてさえしまえば、あちらは何の脅威もなくなりましょう。ダビデに従う者どもは、ダビデがいなくては戦えません。ダビデのために戦う者どもと言うほどですから、その目標を失ってはどうにもなりません。ですから、ここはじっくりと、確実に勝てる道を選ぶべきでしょう」

アブサロムは考え込み、やがてアキトフェルに向かっていった。
「アキトフェル」
「は、はい」
「僕はフシャイの提案に納得しよう。お前に頼みごとがある。僕の軍勢が増えるよう、各地、各国へ使いを送ってくれ」
博打嫌いのアブサロムらしい考えではあった。彼ならば、いかにも安定性のあるフシャイの方を好みそうなものだ。「確実に勝てる道」と言うのはアブサロムの耳には、非常に聞こえがよかった。
アキトフェルは言い返せなかった。絞り出すように「仰せのままに」と言ったが、内心では屈辱に燃えていた。自分のアブサロムへの忠誠をアブサロム自身にないがしろにされたかのように思えた。


フシャイはアドニヤ達の待つ場所に向かった。その秘密部屋にはアドニヤとソロモン、ザドクとアビアタルがいた。フシャイは彼らに、こういった。
「お喜びください。アブサロムは私の提案を受け入れました」
「本当かい!よくやった、ありがとう!」アドニヤが言った。
「では、計画の最終段階に入れますな」口を開いたのはアビアタルだった。「エン・ロゲルにとどまっている我らの息子たちに使いを。今すぐに」
「フシャイ」ソロモンが口を開いた。「アキトフェルは?怒っていたか?」
「はい、非常に心外と言った風でしたな」
「だったら問題ないな。話した通りに行動するように、彼らに言っておいてくれ」
「ただちに」
それだけ言って、フシャイは去っていった。
アドニヤはソロモンの頭に手を置いて、「凄いじゃないか、何もかもうまくいっている」と言った。ソロモンはと言えば、少し眠そうだった。
「眠いのかい?」
「はい。まあ……昼は眠いのです」
「眠かったら寝ていてもいいよ、必要になったら起こすから」アドニヤは彼に優しくそういった。


数時間後、アキトフェルのもとに一人の男が駆け込んできた。
「アキトフェル様!」と息を切らしてラバに乗って駆け込んできた男は、礼をする余裕もないと言った風に叫んだ。彼はアキトフェルの密使の一人だった。
「大変です!ヨナタンとアヒマアツを見かけました!しかも、大量の物資を持って!」
「なに!?」
「エン・ロゲルでです!奴ら、ダビデの援助に行くつもりです!」
アキトフェルは焦った。それみたことかフシャイ、やはりダビデがこのままのうのうと三日間とどまっているはずがない。そう思いつつ、アブサロムのもとに申し開きをする時間すら惜しかった。エン・ロゲルからヨルダン川までのルートは彼の頭の中にも入っている。途中の街、バフリムを経由するのが一番のルートだ。
彼ははじけ飛ぶようにアブサロムのもとに行き、そのことを言った。
「時間がありません。すぐに私に一番速い馬と兵隊数人を使う許可をお与えください!」彼は早口でまくし立てた。アブサロムは「そんなことが…?」と少々動揺したように言ったが、「まあ、お前に任せる」と言った。アキトフェルは一礼すら忘れて厩に走り、早馬に飛び乗って数人の兵士とともにエルサレムを出発した。

バフリムについたあたりで、アキトフェルは念のため兵士数名と一緒に情報収集に走った。
忌々しいことに、聞き込みは難航し、誰もそんな男は知らない、と困ったような顔で言った。振り切られないためにもこのまま進もうかとアキトフェルが思い始めたあたりで、やっとのことで彼はとある大きな家のおかみさんから彼ららしい情報を聞いた。
「ああ、あの人たちなら川のほうに行きましたよ。ほら、あの道で」と、彼女は川に向かう道を、アキトフェルの予想通りに指差した。アキトフェルは、血走った表情で兵士たちとともにその道を走った。

彼らは、出会わなかった。行けども行けども、ヨナタンとアヒマアツに等出会いはしなかった。そのうち、あろうことか彼らのほうがヨルダン川についてしまった。
アキトフェルは物陰からじっと伺ったが、フシャイの言うとおりダビデの姿はそこにはなかった。そして、密使が言っていたような物資が届いたような跡もない。また、最初から二人だけを捕まえる目的で連れてきた兵士たちだったので、当然今ここで奇襲をかけても何が成功するわけでもないから、アキトフェル達は全くの無駄足を踏んだことになる。
それにしても何が起こったのだろうか。彼は混乱した。なぜ、ヨナタンとアヒアマツに出会わない?彼らは自分たちと鉢合わせするのを恐れ、逃げ出したのだろうか?
それならばそれで悪くもない、とアキトフェルは考えた。どうにせよ、アブサロムの時間が増えるのだ。フシャイの案のほうが最初から正しかったのかもしれない……
アキトフェルはそのまま落胆し、エルサレムに帰った。

エルサレムで待っていたアブサロムは、「なんだ、デマか見間違えだったということか?」と言い、アキトフェルにフシャイの言った通りの事を実行するように責務を課した。彼は、それに甘んじた。情けなさでいっぱいだった。

翌日、アキトフェルは屈辱に耐えながらアブサロムに味方をしてくれるような国への書状を描いていた。なぜかフシャイは宮廷に出ていなかった。
その時、彼のもとに急ぎの知らせが届いてきた。

「大変です!ダビデがヨルダン川を渡りました!」

アキトフェルはその言葉を聞いて、持っていたペンを取り落した。

「なんだって…?」アキトフェルは言った。
「夜が明けたら、もぬけの殻になっていたのです!ダビデ達は一晩で川を渡りました!」
「馬鹿な」彼は頭を抱えた。「私が行ったときには、確かにヨナタンにもアヒマアツにも出会わなかった……」
その瞬間、彼の頭にはっとひらめいたものがあった。彼は理解した。自分が出し抜かれたのだということを。
ヨナタンとアヒアマツの目撃情報は本当だったのだろう。援助の物資無くして、こんなに早く川越えの準備が整うとは思えない。彼らの物資は届いていたのだ。しかし、自分の行った時点では届いていなかった。とすると、自分の帰った後と言うことになる。これら二つを総合して出てくる答えは簡単だ。彼らは、自分をやり過ごすためにわざと一旦踏みとどまったのだ。どこの地点かははっきりしないが、隠れ場所の多さなどを考えるとおそらくそれは町だ。道中に大した町は一つしかない。バフリムだ。自分はおそらく、彼らがすぐそばにいるとも知らずに、血眼で聞き込みを行っていたのだ。
そして彼らは、自分たちが帰るためにバフリムを再度通ったのを見計らって、すれ違いにダビデ達のもとに向かったのだろう。時間を計算すると、それでちょうど夕方前になるはずだ。日のあるうちに大急ぎで作業を終わらせ、彼らは一晩かけて川を渡った……考えれば、全てに納得が言った。
そこまで複雑な策ではない。普段の自分ならみすみす引っかかるはずなどない。しかし、自分はあの時フシャイへの嫉妬とアブサロムの役に立ちたいという焦りでいささかばかり冷静さを失っていた。それがこのようにまんまと出し抜かれたことに無関係だとはとても言いきれない。そして、そこまでが敵の手のうちであったことも十分に考えられる。アキトフェルとて、人の感情を巧みに操り戦を勝利に導いてきた経験がある。アキトフェルは負けた。策に負けたのだ。
アキトフェルは真っ青になって崩れ落ちた。知らせを運んできた男が心配そうに彼に声をかけたが、彼の耳には届いていなかった。

「王に」
彼はぼそりと呟き、ふらふらと立ち上がった。彼の目は光を失い、ぼんやりと見開かれていた、。
「お前が、王に、このことを、お知らせしろ」
そういうと彼は夢遊病の患者のように、部屋を出て言った。
「お待ちください、アキトフェル様!どこに行かれるのですか!」
「さあ……私にもわからん。行きたいところに行くのだ」
男は彼を引き留められなかった。彼は自分のラバに乗って、黙って郊外にある自分の家に向かった。

彼の頭に浮かんでいたのは絶望のビジョンだった。ダビデはもはや、絶対に自分達より早くマナハイムにつく。着かれれば絶望的だ。彼はそこで体制を整え、戦に出るだろう。
ダビデが本気で戦の準備を整えれば、烏合の衆たるアブサロム軍がどうなるとも思えない。やはりどう考えても、あの時にアブサロムは自分の案をとっておくべきだったのだ。火事場の馬鹿力などに気を配らず、ダビデが弱い可能性があるときに、彼を殺そうとしておくべきだったのだ。
もうダメだ、全てが終わった。アブサロムは負けた。彼はラバの上でそうぶつぶつ呟き続けた。
家に帰ると、アキトフェルは唐突に家の隅々を掃除し始めた。衝動的と言ってもよかった。彼はアブサロムのためにこの人生を使うと決めた時から、家族も何もかも捨てて家を出て一人暮らしをしていたので、彼に気を止めるものはだれもいなかった。
すっかり終わったころには夕方になっていた。彼は部屋から一本の縄を取出すと、庭の木に吊るした。そして、夕日を眺めた。
「ああ、美しい」
彼は呟いた。
「アブサロム、それにもましてあなたは美しかった」
彼の目に涙がつたった。彼の精神が一気に逆上した。
「信じていたのに。何よりも美しいあなたに、何もかもをささげてもよかったのに。貴方は私を信じなかった。それで身を滅ぼしたのだ。はっはっは……ざまあみろ!ああ、アブサロム、何と憎らしく、ひどく、美しいお方!あなたは死にますよ!貴方は父には勝てない!このアキトフェルを信じなかったのだから!誰よりも貴方を愛し、貴方に忠誠を誓っていた男が、貴方にはわからなかったのだから!そんな人間が、王になれるものか!」
彼はわめき散らし、縄を木に引っ掛けた。
「ははは……それでも私も臆病だ。貴方と同じくらいに臆病だ。貴方に面と向かってこうは言えない。言えるものか、こんな事!貴方の前であなたを侮辱などできるものか。すべてに勝る美を持つ貴方に!ああ。アブサロム。これだけは揺るがない。この世の何よりも私は、貴方を愛していましたよ」

彼はその言葉を最後に、首を吊った。死に際に彼が見ていたのは、ちょうど王宮の方向だった。


その夜、アブサロムは悪夢を見て跳ね起きた。悪夢と言うには、ずいぶんと美しい夢だった。
無数のシクラメンが咲いていたのだ。見渡す限りのシクラメンが。ただ、それらにアブサロムは何か、ただならない恐怖を感じた。
シクラメンは無限に増えて、そのうち彼の立っている場所を蝕み始めた。やがて彼は、自分の足にシクラメンが生えてきたのがわかった。シクラメンは彼の体に生え、腕に生えた、彼が恐れていくら毟りとっても、無限に生えてきた。そのうち、彼は自分の口の中にシクラメンが生えるのがわかった。口の中で大量に増えたそれで、彼の口は無理矢理にこじ開けられた。同時に、視界が赤や桃色に染まり、光景が見えなくなった。目が花弁に覆い隠されてしまったのだろう。
そこまでで、彼は跳ね起きた。彼は人を呼んだが、誰も来なかった。
彼はベッドのわきに置いた水差しの水を一気に飲みこんで、荒れる息を整えながら夜風にあたった。まだ体中をあの花に蝕まれているような気分だった。今やイスラエルの王にならんと言う自分が花ごときにおびえるなどばかばかしと鼓舞するも、確かに彼が感じていたのは恐怖だった。
彼は震えながら、なんとか心を鎮めようと自室のベランダに出て夜風を吸い込んだ。アブサロムは知るよしもなかった。彼が見ている方向のちょうど先に、アキトフェルの死体があったことを。


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