クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第十三話

「ご協力、ありがとうございました」と、二人の青年が壮年の夫婦に笑顔で告げた。バフリムはつい先日の緊張状態がとけて、全くの平和な状態だ。
二人の青年、ヨナタンとアヒマアツは、先日アキトフェルを振り切りダビデに物資を与えるために協力してくれた夫婦に、約束の謝礼を渡しにバフリムに来ていたのだ。
アドニヤ達から協力者を探すよう言われていた彼らは、この夫婦と協力の契約を交わした。バフリムにつくや否や、彼らは夫婦にかくまわれた。家の中では見つかる恐れがあるので、井戸の中に縄梯子を放り込み、そこに隠れ、物資は裏の倉庫にしまってもらった。夫婦には、もしアキトフェルが来たらヨルダン川のほうに向かったと言ってくれと伝えて。
結果、何もかもが計画通りにいった。アキトフェルは夫人のほうが言ったすでに川に向かったという情報に騙されて、自分たちより先に行ってくれた。あとは彼らが引き返してバフリムを通り過ぎたという知らせを待ち、彼らと入れ違いに川に向かうだけの事だった。
「いや、どういたしまして」家の主人は穏やかに笑いながら、金を受け取った。
「どうなんですか、その後、王様は元には戻れるんでしょうね」
「おそらくは。あとはもう、とんとん拍子に倒すだけですので」アヒマアツが笑う。「アドニヤ王子が我々にはいますから」


「ああ、くそ……どうすればいいんだ」
同じころ、王宮の大広間でアブサロムが一人悩んでいた。つい昨日聞かされた、ダビデが川を渡ったという情報は本当のようだった。それどころか、計算ならば彼らは遅くても今日中にマナハイムについてしまう。行くならば今しかない。
「いったいどこに行ったんだ、アキトフェルもフシャイも」彼は忌々しそうにぼやいた。実のところ、その情報を聞かされてから夜まで彼が動かなかった理由はと言えば、協力をしてくれることになった国や地方の領主からの援軍を待つためのほか、アキトフェルとフシャイの意見を待っていたからである。ところがフシャイが消え、アキトフェルもフラフラどこかに行ってしまったと言うので、どうしようもなかったのだ。
アキトフェルは自分のプライベートの事を語らなかったので、宮廷にいるだれもアキトフェルの家を知らなかったのである。そしてフシャイは、アドニヤ達のいる隠れ部屋に隠れていた。
孤独感を覆い隠せない。心もとなくてしょうがない。しかし、迷っている暇はないのだ。もう後には引けない。父親を倒さなくては。自分の野望のために、自分が生きるために。アブサロムは自分を鼓舞した。またあのような無気力な生活になど戻りたくない。あのころ、自分は本当に死んでいた。生命を維持していることがつらかった。もう、そんな自分はごめんだ。王となって、生きているものらしく生きねば、と彼は拳を固めた。
「もう時間がない。そうだ、時間がないんだ」
彼は決心したように言った。一晩開けたおかげで、戦力は現在できる最大限までは固まった。軍隊の機動力ならば、一応川もすぐには越せる。夕方頃にはヨルダン川を越えるくらいはできるだろう。
「タマル、僕に力をくれよ」
彼は髪の毛の腕輪を撫でて、総攻撃の命令をかけようと腰を上げた。


「ソロモン、起きて」
耳元でそんな声が聞こえたのでソロモンはぱちりと赤い目を開けた。彼のすぐに近くにアドニヤがいた。
「おはようございます」彼は目をこすりながら言った。
「君は呼べばすぐ起きるね、お寝坊さんじゃないのはいいことだ」
「どうもありがとうございます。……で、何かありましたか」
アドニヤから距離を取ろうとするソロモンに、アドニヤが笑顔で言った。
「アブサロムが出陣したよ。今日中にヨルダン川を超えるつもりらしい」
「え?もう城を出たと言うのですか?」
「うん、もう」
ソロモンはすっと部屋の外に出た。確かに、王宮は全く元の静寂に戻っている。もう昼間を過ぎて、日は熱く輝いていた。彼はちかちかする眼を抑えて、隠れ部屋の中に戻った。隠れ部屋はカーテンが閉めてあるから少しは楽だ。
「目が痛いの?」
「……はい」
「いたわりたまえよ、君の目はきれいなんだから、つぶれちゃったりなんてしたら大損だ」
アドニヤのその言葉に、ソロモンは眉をひそめ、ついでに目を覗き込もうとする彼から目をそらした。
「私の目が褒められたものであるなど、聞いたこともありませんね」
「何言ってるんだい、きれいじゃないか。まるでルビーの宝玉みたいで。他の誰もそんな目を持ってはいない。きれいだよ、ソロモン」
「…貴方は少し変だ」彼は再び変な気持ちになるのを抑えようと、また、この話題を変えようと「アブサロムが出て行ったなら、もう私たちの出番は終わりですね」と言った。
「うん、後はお父上様の番だ」


翌日、マナハイムで軍の体制を立て直していたダビデのもとにも、アブサロムの情報が入ってきた。アブサロムはヨルダン川を渡り、今はギレアド地方に陣を敷いているとのことだった。
「了解した」ダビデは報告を聞かせてきた使いに短くそう知らせた。
「陛下」隣に立つヨアブが口をはさむ。「応援を含めると、軍の数は十分整いました」
「そうか。全体ではどのくらいだ?…なるほど。これほど集まったのならば百人隊と千人隊に分ける必要があるな。さらに全体で三部隊に分けるぞ。指揮官はお前とアビシャイ、イタイでよかろう」
「それでよろしいかと」ヨアブは深々と頭を下げる。「これ程がそろえば、アブサロムの軍隊にも楽に勝てましょう。所詮は烏合の衆ですから」
「衝突が起こるとすればエフライムの森か」ダビデは近くにある密林、エフライムの森を思い出していた。アブサロムが陣地を敷いている場所から言っても、衝突が起こるのならばそこになるだろう。
ダビデは兵士たちの方に目をやった。マナハイムについてからようやく十分な食料にありつけた彼らは今ではすっかり元気を取り戻していた。すぐにでも出陣はかなうだろう。
だが、アブサロムの事がやはりダビデの中で引っかかっていた。最近、思い出すことはと言えば、アブサロムの昔の思い出ばかりだ。あのずば抜けて美しく、素直でかわいかった自分の息子の思い出だ。まだ今のように王権が強固ではなかったころ、アムノン、キルアブについで彼が生まれた時から、今に至るまでの、彼の思い出を振り返らずにいることはできなかった。
彼を今回のようなことにさせてしまった理由は結局自分の優柔不断のせいだと、分からないダビデではない。それが一層彼を優柔不断にさせた。彼を裁くべきか、許すべきか、同時に行えない二つの事が、どちらも捨てがたいのだ。こんな反乱を起こしておいて、許す道理がどこにあろうか。いや、あるのだ。アブサロムはかわいい息子、それで十分だ。そして、彼を追いつめてしまったのは自分自身なのだ。自分がもっと、アムノンにしっかり罰を下していればこのようなことにはならなかったかもしれない。なぜ自分はあの時そうしなかったのだ?自分の中で何かが引っ掛かったのだ。その何かとは何であったか?
ダビデはふと、ソロモンの事を思い出した。アブサロムに足蹴にされ、ボロボロになりながら、めちゃくちゃになった愛する花畑を見ていた彼を思い出していた。シクラメンを埋葬する彼の指先を思い出していた。そうだ、あの時も自分は、アブサロムを罰しなかった。アムノンの件とは違い、迷わずとも罰しなかった。あの時から、自分の中で罰を下すということが特別なことになってしまったのかもしれない。
相手がソロモンだから罰さなかったのだろうか?ソロモンはどんな仕打ちを受けても、大人しく黙っている。それよりも興奮状態にあるアブサロムとタマルのほうが一大事だと思って、彼らに罰を与えなかったのだ。そうだ、それが自分ではないか。アムノンのいない今、アブサロムは何よりも可愛がってやるべき存在じゃないか。ダビデは心の中でそう言った。
今回のクーデターの事とてなんだというのだ。彼はようやく決心がついた。今からでも遅くはない。自分はしっかり王位に返り咲く。そしてもう一度、アブサロムと王と王子の関係になってやり直せばよいではないか。
「ヨアブ、明日にでも攻撃をかけられるな?」彼は言った。
「私も一緒に出陣するぞ」

彼ははっきりとした口調でそう言った。真剣な気持ちだった。
だが、ヨアブに至っては彼のその発言を歓迎せず、「それはなりません!」と言ってきたので、ダビデは少し決心に水を差されたような心持ちだった。
「我々が半数死のうと構いませんが、貴方様の命は我々一万人分の命にも等しい方、万が一と言うこともあり得ます!明日の出陣であれば、町の中にとどまって我々にご指示を出すにとどめてください!」
「それだというのなら」
ダビデは嘆息していった。
「明日兵士たちにも同じことは言うつもりだが……アブサロムを見つけてもけっして手荒には扱うな。私のもとに連れてくるのだ。よいか。彼は私の王子だ」
その言葉を聞いて、ヨアブに一瞬不満そうな表情が浮かんだ。ヨアブはよい軍人なのだが、少々忠誠心が強すぎて扱いづらいところがある、とダビデは常日頃感じていた。
それでも、なんとかヨアブは納得してくれた。「承知しました」と彼は敬礼して言った。
「ただ…陛下。これだけはよろしいですか」
「どうした?」
「今回、我々がアブサロムに追いつかれるまでに川を超えられたのはだれの助力だとお思いです?」ヨアブは険しい顔で言った。「すべて、王宮のフシャイと、アドニヤ王子が指示を出してくれたおかげなのですよ」
彼はそれだけ言って、「失礼いたします、武器を見てまいりますので」と、その場を立ち去った。ダビデは、その場に残されて、立ち尽くしていた。
ふと、風が彼の髪を揺らした。白髪が混ざっていた。


アブサロムはその晩、眠れなかった。眠ろうと思うと悪夢が襲ってくるのだ。あの美しい悪夢が。シクラメンの悪夢が。彼は何度も寝ようとしては、何度も跳ね起きた。一人だけの天幕の中で、彼は悪夢におびえていた。
「(なぜだ、なぜ、こんな重要な時になって?)」
アブサロムは乱れる息を整えながら、必死で心を落ち着かせようとした。
「(明日…明日にでも攻撃を仕掛ける。僕の人生の岐路なんだぞ!今まで生きてきたうえで、一番の!全てにおいて万端でなくてはならないのに……なぜ、僕を落ち着かせてくれないんだ!?なぜ僕は怖がらせられなければならないんだ!?あんな花ごときに!)」
彼は頭をかきむしった。ふと、分厚い天幕でも通してしまうほどの強い光が天幕の外から発せられているのがわかった。何事かと、アブロムは驚いた。外は全く静かで、誰ひとり気がついてはいないようだった。彼は恐る恐る、天幕を開けた。
そこに、天使が立っていた。波打つ長い金髪、空色の目、真珠の飾り、花冠、そして真珠のような光輝く翼を持った天使が。
彼は驚いて、声をかけようとした。しかし彼は、ベリアルは、アブサロムをしっかりと見据えてにやりと不敵に微笑みかけるとそのまま消えてしまい、彼の光も消え、元通りの闇がそこに残った。


翌日、決戦は起こった。ダビデはヨアブの進言通り町に残ることにし、兵士たちには先日彼に言ったとおり、アブサロムを見つけても決して傷つけるなと命じた。そして兵士たちは出て行った。ほどなくして、アブサロム率いるクーデターの軍も進軍を始めた。

エフライムの森で始まった戦争は、何というべきことだろうか、あっけないほどにすぐにどちらが勝つのかということは明白になった。はじまってから少しもせずに、ダビデの軍が圧倒的優位になった。アブサロムのもとにも多くが付き従ったとはいえ、軍隊の中でも、もともと優秀で戦争慣れした軍人はほぼ全員ダビデの方についていたのだから、無理からぬ話でもある。加えて彼らはフシャイの言ったとおり、ダビデを侮辱したアブサロムに対しての怒りを隠そうとはしていなかった。彼らはアブサロムに従った残りのイスラエル軍を裏切り者と罵り、怒涛の勢いで攻めた。対するアブサロムの軍は、彼らに比べると士気が足りていなかった。まして戦いが進むにつれ、ダビデ軍の勢いに完全に飲まれてしまい、怖気づいたのだからなおさらのことだった。

倒れる兵士はどんどん増えていく。エフライムの森の近郊はあっという間に、すっかり戦いにのまれ、剣の音と血の匂いが充満した。
「どけ、僕が行く!」アブサロムは見かねて、高いところから弓を放った。彼の弓の腕は流石のもので、たちまちにダビデの兵士数人を打ち取った。アブサロム軍はようやく少々元気になり、アブサロムもこの調子で士気を低めないよう自分が健闘せねばと歯を食いしばった。
しかし、それもまた上手くはいかなかった。彼がようやくこちらに風が向いてきたと思い矢筒から新しい矢を取り出そうと一瞬動いた矢先、彼の頭を何かがかすめた。そして、邪魔にならないように束ねてあったはずの長髪がパラリとほどけ、彼に覆いかぶさった。ふと、彼の首筋に血が流れた。
彼は前方を見た。ヨアブだ。ヨアブが自分に矢を放ったのだ。自分の髪留めを正確に打ち抜くことで、ヨアブは自分を威嚇してきたのだ。遠方からでも、彼が自分に対する怒りに燃えていることがしっかりとアブサロムには分かった。
彼は前髪を払いのけて、ヨアブのほうを見た。たちまち、心に恐怖心が巻き起こってきた。それは、軍隊にも伝染したようだった。アブサロムの髪がほどけたのを何人もの兵士が目撃した。そしてそれと同時に、彼らの緊張の糸も切れ、恐怖心に支配されてしまったかのようだった。総大将たる彼が、ともすれば首を射抜かれて死んでいたのだから、怯えるのも道理である。
彼らはパニック状態になって、逃げだした。「おい、逃げるな、どこに行く!」罵声が飛ぶ。アブサロムに従っていた将軍、アマサの声だ。彼らはその声にも耳を貸さず、一目散にエフライムの森の奥に入っていった。エフライムの森と言えば、奥の方は遭難者を多く出す密林でもあるのだが、彼らにはどうでもいいようだった。そしてアブサロムにも、そのようなことはどうでもよかった。アブサロム自身の手も震えた。
彼は矢を射た。しかし、それはだれにも当たらなかった。何発撃っても、今までの成果が嘘のように、当たらない。弓を習い始めた子供の打つそれのように、彼の矢は情けなく飛んだ。ヨアブがこちらにやってくる。ヨアブは王子を相手にするように自分の前には来ていない。反逆者をとらえる勢いでやってくる。
アブサロム自身も、恐怖を感じていた。先ほどようやく調子に乗ってきた気分が、矢で射抜かれて地に落ちてしまったかのようだった。
彼の体に冷や汗が伝った。息が荒くなる。汗で、矢を取り落してしまいそうだった。
「(なぜだ?僕は王になるんだ、こうでもしなきゃ僕が生きる道なんてないんだ!それなのに、それなのに、どうして、僕はこんな……?)」
ふと戦場独特の高揚が冷めてきたあたりで、アブサロムの目には死屍累々と横たわる死体の山が目に入った。それがとてつもなく気持ちの悪いもののように、アブサロムには思えた。アブサロムは吐き気を感じた。
そして、彼がそれでも持ち直そうと、弓ではなく剣に手をかけようとした時だった。

アブサロムの目に移る景色が変わった。音も、匂いも一切遮断され、彼には視覚だけが許された。
彼の目に、人間は映らなくなった。そして、血も映らなくなった。彼の目の前には血の代わりに、シクラメンの花が一面に生えていた。それは液体が広がるようにどんどん広がり、アブサロムの目の前までやってきた。
アブサロムの顔から血の気が引いた。
「や、やめろ……」
彼のその言葉を聞いてアマサが「どうなさいましたか、陛下?」と問いかけたものの、彼に聞こえるはずもなかった。
彼の足もとまでシクラメンが広がった時、彼らは夢の中のようにアブサロムのもとに這い上がっては来なかった。しかし、彼らはその代わり、一斉にうつむいたその顔をアブサロムの方向に向かってあげた。アブサロムは悲鳴を上げる。彼らは一本が一つずつ、まるで心臓から直接搾り取った血のような、鮮やかな赤色をした眼球をその中に持っていた。
彼らはぞわぞわとアブサロムのほうに寄ってきた。やがて、夢の中と全く同じように、アブサロムの体をヤドリギのように蝕み始めた。
「やめろ、くるな、くるな!」彼は剣を振り回してシクラメンを威嚇した。一輪のシクラメンの首が飛ぶ。その花は、桃色と白のまだら模様の花束を持っていた。
それと同時に、夢では起こらなかったことが起こった。その花が、燃えた。いや、違う。花は火に変わったのだ。まるで篝火のような形をしたシクラメンの花が、本物の火に変わった。
それが皮切りになった。
次から次へと広がる無数のシクラメンが一つ、二つ、と、炎の花弁をもつ花にその身を変えた。彼らは炎の花弁を携えてアブサロムを包み始めた。
「い、いやだ、熱い、熱い、苦しい……」彼は呟く。火の熱がすぐ迫ってきている。そして次の瞬間、髪に火が燃え移ったのがわかった。

「助けてくれ!シクラメンが僕を燃やそうとしている!」
彼の叫び声は、周囲の人間にはどう聞こえたろうか。おそらく彼らはこう思ったに違いない。負け戦を目の前にして、アブサロムは発狂してしまったのだと。
「陛下、お気を確かに!」アマサが声をかけた、しかし、アブサロムには聞こえていなかった。彼は手探りで自分のラバを探し当てると、「走れ、逃げろ!あの花から逃げるんだ!」と怒鳴った。
「陛下、アブサロム陛下、どこに行かれますか!」という声を無視して、アブサロムはどこへともわからない方向にラバを走らせた。だかその方向と言うのは、まさしくエフライムの森の奥深くだった。


彼はシクラメンを振り切ることができなかった。それどころか行く手にも無数の炎の花が折り重なっている。アブサロムは無我夢中でラバを走らせた。もうどのくらい長い間は知ったのかもわからない。彼は恐怖に声にならない悲鳴を上げた。彼は樫の大木の絡まりあったところに来た。彼の目には、それすらもシクラメンの集まりのように思えた。彼の頭は真っ白になり、ただひたすら、そこを駆け抜けようとした。
ふと、彼は違和感を感じた。自分が動かない。ラバを走らせているはずなのに。いったい、何が起こったのだろうか……。

そこで、幻覚が終わった。彼の目の前に広がっていたのは、うっそうとしたエフライムの森だった。自分はラバに乗っていない。いや、前方でまさに自分のラバが必死で駆け抜けていく。自分を乗せずに。自分の体が動かない。いや、足が地についていない。何やら髪の毛の付け根が痛い。全体重を髪の毛でささえているかのようだ。いったい何だというのか。彼は少しして、理解し、そして絶望した。
ヨアブに髪留めを射抜かれたおかげでばらけた長髪が、絡まりあった樫の木の枝に引っかかってしまったのだ。そして、自分は今、まるで首つり死体のように、樫の木の間に宙づりになっているのだ。
彼は抜け出そうともがいた。しかし、髪の毛は非常に深く絡まりあって、ほどこうとすればするほど枝に食い込むようだった。彼の剣は途中で落としてしまったのか手元にはなく、髪を切って逃れることすらもできない。このままヨアブが来ては、自分は殺されてしまうかもしれない。助けを呼ぼうにも、叫んだりなどすれば、自分の存在がばれてしまう。
「誰か、助けてくれ…頼む、アマサ、アキトフェル……父さん……」
彼が涙を流しながらそう言った時だった。彼の目の前に、光る何かが現れた。


「アブサロムを樫の木の森で見つけた!?」部下の声を聴いて、ヨアブはそう怒鳴った。
「はい、樫の木に髪の毛で宙づりになって、身動きが取れないようでした」
「それでお前、それをそのままにしておいたのか?」
「はい、陛下がアブサロム様には手をかけるなと命じられましたから……」
ヨアブはそう言いかけた彼を一発殴った。
「馬鹿!お前には期待せん!」
彼はそう言い切って、自分も森の真ん中のほうにかけて行った。
「(アブサロム!お前に甘くしていたのも、お前がダビデ様の息子であればこそ!ダビデ様に反旗を翻した貴様を甘やかしておく道理などないわ!)」
彼の頭には完全に血が上っていた。かの一件でアブサロムにさんざん世話を焼かされた鬱憤もあったのかもしれない。
「(お前がいずとも……その何倍も、王子に相応しい方がいる!)」
走りながら彼は、アドニヤの事を思い出していた。ダビデとアブサロムの仲を仲介し、今回ダビデを助けても何一つ威張りはせずに構えていた、あの青年が、彼には理想の王子のように思えていた。


現れたのは、彼が昨夜見た天使だった。すなわち、ベリアルだ。
「天使……?」彼は言った。
「こんにちは、アブサロム王子。お話するのは初めてだね」ベリアルは笑って、彼にそう語りかける。
「お、お前はだれだ……?僕を助けてくれるのか?」
「助けに…?あは、おっかし。アブサロム。ボクはむしろ、君にこう言いに来たんだよ。もうキミは、死ぬって」
その言葉を聞いた途端、アブサロムの血の気が引いた。「死ぬ……僕が、死ぬだって?」彼は震える声でそう言った。ベリアルは笑って「うん」と言った。まさに天使のそれに相応しい、穏やかで優美な微笑みだった。
「そんな……なぜ、なぜ僕が死ななきゃならないんだ」
「なぜって……王に反逆したからじゃない?今ね、ヨアブって男がこっちに向かっているよ。君を殺す気満々で」
こともなげにベリアルはそういう。アブサロムは真っ青な顔で、もがいた。
「天使、頼む、これをほどいてくれ!」
「なんでボクが解かなくちゃならないのさ?」
「僕はまだ生きたいんだ!僕はもっと生きたい、いろいろやることがあるんだ!こんなところで死にたくない、死ぬのは嫌だ!僕はまだ生きられるんだ、生きたいんだよ!死ぬのは怖い!いやだ、助けて!」
ベリアルはアブサロムの言葉に耳を傾けた。
「人間は皆、そう言うよ」彼は豊かな金髪を掻きあげて、そうつぶやく。
「でも、仕方ないだろ?これが神様がお決めになったことなのさ。君は王になる運命じゃなくて、こういう形で死ぬ運命だったんだよ」
「僕は……僕は、誰よりも王に相応しかったはずだ」
「違うね。王になる子はもう、決まっている。君じゃない」ベリアルは人差し指を立ててアブサロムを指さした。
「僕が何をしたんだ」アブサロムは絞り出すように声を上げた。
「僕は何も……何も悪い事なんてしてないぞ!アムノンを殺したのだって、タマルを犯したからだ!反旗を翻したのだって、こうでもしなきゃ僕はずっと廃人だったからだ!僕が全くの悪いことをしたことなんてないだろう!このくらいの悪い事なら誰でもするさ!なのに、なんで僕だけ、なんで僕だけこんな形で死ななきゃならないんだよ!それほどの悪いこと、僕はしてないだろ!こんなの理不尽だ、やりすぎだ!」
次の瞬間、ベリアルはアブサロムの顔を覗き込んだ。そして不気味なまでに美しい笑顔で、「ねえ、それ本気で言ってるの?」と言った。
「悪いことがない……?あっはは、人を殺すのも、国をひっくり返すのも、十分悪い事じゃない。理由なんて知ったこっちゃないよ。君は悪い。ああでも安心して、君だけじゃないよ。ダビデにヨアブ、アムノン、ヨナダブ、君の妹、アキトフェル、みんなみんな悪かった。そうさ、悪いんだ。人間なんて、生まれた時から悪いんだ。全員が悪いんだ。あの日、君らのご先祖が神を裏切ってエデンを追放されたあの日から、君たち人間が悪くなかった日なんて一日もあるものか」
彼は両手でアブサロムの頬を抱いた。「ああ……綺麗。さすがに人間だ。神が何よりも愛される存在だ。罪深くとも、神は人間を愛される……なぜだか分かるかい?……いや、分からなくてもいいか。不平不満をぼやくなよ。人間として生まれて死んだ、それ以上の幸せがこの世にあると思っているのかい?笑って死ねばいいさ。君らは何より素晴らしい。罪深くとも、素晴らしい。ボクも、そんな人間が大好きだ」
そういって、彼は立ち去った。アブサロムは助けてくれ!行かないでくれ!とわめき続けていたが、ベリアルは静かに立ち去った。
やがて、異質な音が聞こえた。彼の叫びを聞きつけた、ヨアブの足音だった。


アブサロムは死んだ。ヨアブと彼に続いてやってきた彼の部下によってめった刺しにされた彼の遺体は、その場でエフライムの森の奥深くに葬られたと言う。彼はエルサレムはおろか、父の胸元にすら戻ることはなかったのである。


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