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クリスマス市のグリューワイン

美女ヘレネ 一話

頭から石畳の床に落下した彼は、次の瞬間バラバラに砕け散った。人知を超えた存在であると畏れられた彼には似つかわしくないほど、あまりにありきたりな血の色が広場に四散し、彼がごく当たり前のただの人間であると、声高に彼の名誉を中傷した。
観衆の中にはむごたらしい光景に気絶するものが後を絶たない。ただ一人、青いチュニックに黄色いマントを着た青年が目を見開いて見ていた。その顔に血しぶきがかかった。ちょうど彼の頬を伝う血しぶきの中に涙が混ざっていたかどうかは分からない。誰もそれを見てはいなかったからだ。
ヘレネは塔の上に立っていた。栄光のローマ帝国を一望する塔。数分前まで、彼もここに立っていて、ここから飛び立った。
ローマ中がすべて彼の血に染まったかのように、ヘレネは見えていた。全ての街道が、家が、皇帝の宮殿までも彼の赤い血一色に染められて、ローマのすべての人が彼の、偉大な魔術師シモンの死を嘆いていると彼女には思えていた。また同時に、たった一日もすれば、その血はきれいに洗い流されて、誰もかれもシモンのことは忘れる。そのような未来もヘレネには見えていた。



エルサレムのはずれに生まれた彼女がヘレネと名付けられたのは、言うまでもなくトロイア戦争の傾国の美女ヘレネにあやかってのことだった。アキレウス以外のギリシャの男はすべてが彼女のために命を投げ出しに異国の地に向かった。それほどまでに男を思いのままにする女性に育ってほしいという願いを込められて、彼女は十二歳の時にその名を与えられた。
ヘレネと呼ばれるまでの十二年間の自分の名前が何だったか、ヘレネ自身にもはっきりしない。彼女は生まれつき、頭が弱かった。いつまでたっても、幼い子供のようだった。そうだったからこそ、十二歳でいよいよ親に愛想を尽かされてとあるヘレニスタイ(ギリシャ系ユダヤ人)が住む町の娼館に売られた。それから何年も、娼婦として生きていた。
ヘレネが美しいのは事実だった。パリスと恋仲になったヘレネに匹敵するほどの美貌であったかどうかは残念ながら定かではないが、少なくとも彼女の客はみんな彼女の美しさには満足していたし、だからこそ何回もやってきた。ヘレネには娼婦という仕事が具体的には何なのか、はっきり分かってはいない。当然娼婦の仕事のどこが世間的に恥じ入るべき要素なのかも分かっていない。彼女は、自分の処女が失われていることすら気づいていなかったのかもしれない。処女の概念を知る前に彼女は処女を失った。彼女にとってはただ、息の荒い男が一晩自分に何か痛いことをしているだけだ。それでなぜか若干の金がもらえる。
だからこそ、彼女には屈託がなかった。周りの娼婦達には当然何かしらの屈託がある。客に不快感を与えないために表面上明るく笑っては見せても、内心では自分を娼婦のような境遇に落とした世界と神に毒づいているか、娼婦の身分に落ちてしまった自分を激しく責め、痛めつけているかのどちらかだ。ヘレネにはそれがない。だからこそ、彼女はいつも心からニコニコ笑っていたし、それが一層彼女を美しく見せていた。
彼女の世界にあるのはただ性的なこと、と世間一般では呼ばれるものだけだった。わざわざ世間一般で呼ばれるもの、と言ったのもヘレネはそれを性的と認識していなかったからだ。彼女にぼんやり分かっているのは、それが自分の仕事で、自分がやるべきものだということだけだった。来る日も来る日も彼女は安い娼館の不潔な部屋で客をとる以外のことはしなかった。他の娼婦達の遊びにも入らなかったし、また彼女達も最初から頭の弱いヘレネを仲間に入れようとはしなかった。
ヘレネが最初に彼、つまり魔術師シモンと出会った日は、ちょうど娼館が休みで、仲間外れのヘレネはぼんやりと娼館の一階にある自分の部屋の窓から特に何を見ているわけでもなく顔を出していた。
誰かが娼館の庭に入ってきたのが分かった。物音がしたからだ。ヘレネは物音には敏感だった。彼女が目線だけそちらの方にやると、ちょうどその人物と目が合った。その人物、シモンも、彼女を見ていた。
シモンは背の高い男性だった。年はそんなにとっておらず、二十代後半から三十代半ばといったくらいに、ヘレネの目には映った。長い丈夫そうなマントに身を包んでいて、派手なものは何もつけてない。唯一、左手につけた指輪だけが妙に目を引いた。他人の指輪なんて普通は小さくてよく見えるはずがないのに、なぜかヘレネにはその指輪が真鍮製であるということも、五芒星の模様が入っているということも分かった。どこにでもいそうな、あまり裕福ではない旅人といった彼のいでたちの中で、その指輪だけが異彩を放っていた。
「おきゃくさまですか」
ヘレネは口を開いた。
「きょうはおやすみです。あした、まえのほうからきてください」
ヘレネはもう体だけは大きくなっているにもかかわらず、幼くて舌っ足らずな話し方だった。彼も一瞬そのアンバランスな話し方に戸惑ったようだが、すぐに冷静な表情に戻って言った。
「そうか。誰もいないのかね」
「おやかたさまもでかけています。わたしだけです」
「それはそれは」
そう言いつつも、彼は出ていく気配を見せなかった。それどころかヘレネのいる窓のすぐそばに寄ってきては、まじまじと彼女を見つめた。
「私はシモンと言うんだ、お前の名前は?」
「ヘレネです」
「そうか、たいそうな名前だ。ヘレネ、お前は神を信じるか?」唐突に、彼はそう問いかけた。
「かみさまですか」
ヘレネは神という単語を噛みしめて、なんとか自分の頭で引き出せる限りの情報を引き出す。数十秒が経過してから、彼女は口を開いた。
「しんじています」
「ほう、なぜかね」
「えらいひとたちは、みんな、かみさまはいるというので」
ヘレネの言うことは真実だった。律法学者もラビも、誰もまさか神はいないなどとは言わない。宗教で成り立つユダヤ人社会においてそのようなことを言うのは、それこそ娼婦などといった社会の最底辺だけだ。ユダヤ人にとっては、神を信じることこそがまっとうな社会人としての最低条件である。ただ、そのような事実にもかかわらずシモンは「何故偉い人が言うから、神はいるのかね」と問いかけた。
「だって、えらいひとはいいひとで、いいひとは、ほんとうのことをいいますから」
シモンはくすくすと笑う。
「そうじゃないんだ。私が問いかけているのは、もっと……そうだ、お前は神を恨んではいないのかね。と言うことだ。お前のまわりに、神を信じないとぬかす奴はいないのか?」
「いいえ、たくさんいます」
「そうだろう。それは、そいつらが神を恨んでいるからだ。神が全能ならば、なぜ自分達をこのような身分に落としたのかと。自分自身に罪があると思いたくない人間は、罪を神の罪にすり替えるもの。だが神を罪深い残酷な存在とするには、今度はいささかこの世には幸せな人間が多すぎる。そして行きつく先が、神などいない、妄想の産物に過ぎない、という結論だ。どうだね、お前はそう考えたことはないのか」
ヘレネは彼の言葉に目を泳がせ、また数十秒間考えたが、やがて口を開いて「おっしゃることが、よくわかりません。すみません」と返した。
「そんなこといったって、かみさまはいるっていわれてますし、わたしが、ここにいることは、かみさまとなんのかんけいもないです」
「何の関係もない!?娼婦であることが!?」
彼は大笑いを始めた。ヘレネが「だいじょうぶですか?」と問いかけると彼は「ああ」といい、口を袖でぬぐった。
「いや、傑作だ。神を呪わないのはもとより、神のおぼしめしとしてすら捉えていないとは。だが、いい。そこがいいんだ。何事も考えずただ空気や水がそこにあるのとおなじくただただ神をあって当たり前のものとしてのみ信じることこそ、私は究極の信仰の形ととらえている。初めてだよ、お前のような奴は。最高だ」
彼はマントの襟を正し、「聞いてくれてありがとう。お前、ところで花は好きかい」と、娼館の庭の薔薇の木のそばに向かいながら言った。
「はい」
「この世で最もきれいな花をあげようか」
シモンがヘレネに目も合わせずにそういうとヘレネも「いいんですか、それでは、よろしくおねがいします」と返した。
その言葉とともに、彼は一輪の薔薇に手を添える。すると、赤かった花弁が彼の手に触れたところから、海のような青色に染まっていった。じわりじわりと青色に侵されていった赤い薔薇は、やがてとがった花弁の先端の赤色もつぷりと青に飲み込まれたのと同時に、完全な青い薔薇に変わった。ヘレナはその様子をぼんやり見ていた。シモンはその真っ青に変わった一輪をぽきりと摘み取ると、ヘレナのところに戻り、彼女の髪の毛に突き刺した。
「きれいだ、よく似合っている。お前は美しいな」
「ほんとうですか?ありがとうございます」
ヘレネは髪に刺された青い薔薇をいじりながら、にっこりと笑う。彼も微笑んだ。

ヘレネは次の日、娼館を離れた。ある男が大金を払い、彼女を身請けしたのである。誰も彼女を見送りはしなかったが、ただ、門の前に立っているシモンのみが「よく来たな、さあ行こうか」と彼女に真鍮の指輪をはめた手を差し伸べてくれた。彼女に持ち物はなく着の身着のままだったが、唯一の荷物としてしおれかけた青い薔薇をしっかりと握りしめていた。

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