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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第二十二話

イスラエルの祭司の長として君臨するアビアタルの前に、つい数日前ソロモンが送られた。彼を見るのは、アブサロムのクーデター以来だった。その時も、彼とソロモンはろくに言葉など交わさなかったどころか、目すら合せなかった。ソロモンはほとんど口をきかなかったし、アドニヤに促されるか、あるいは自分の策を語るときのみその薄い唇を開いた。クーデターが終わってからはなぜだかアドニヤにはべったりなつくようになったものの、アビアタルとは依然赤の他人と言うにふさわしい距離感だった。だというのに、彼が突然送られてきたのだ。しかも、彼の目に悪いから、部屋のカーテンは閉めておけと、ダビデ王から直々に来たものだ。昼間の明るい時間にカーテンを閉めるなど、薄暗くて気持ち悪いじゃないか、と言いたいのを彼はぐっとこらえた。ましてや自分も少々年で若い時ほど目はよくないのだから、手元が暗いのは喜ばしい事ではないというのに。
一体私に何の用だ、この売女から出た化け物風情が、とアビアタルが内心で思っていると、ダビデは彼に、律法を教えるように言った。王の頼みとあっては断る理由はないものの、ただ何故今になってこの塵芥にも等しい王子を教育するのです、とアビアタルは言った。
ソロモンはそれに対して特に何も言わないどころか反応すらせず、彼の代わりにダビデから帰ってきた返答に、アビアタルは言葉を失った。
「塵芥か。私はその発言を、二つの理由で咎めよう、アビアタル。一つには、どんな出生、どんな容姿であれ、彼はお前の主人である私の息子であり、お前は私の臣下であるとともに彼の臣下なのだ。お前の態度は、どう考えても臣下のそれではない。もう一つには、彼は神の意志によりこの私の家を継ぐ存在となるのだ。そのため必要な教育をせんと、お前に律法の教師を頼んでいるのだ。それの何が塵芥であるものか」
自分の耳を信用したくなかった。アビアタルにとって、その言葉は受け入れがたいものだった。ソロモンは相も変わらず、マントの下にその表情を隠していた。ただ、そのたたずまいには、自分が異形の悪魔であると自覚した卑屈さも、将来の王になるのだと調子に乗った尊大さも感じられなかった。彼は、菜をむしばむ霜のように透明なただずまいをしていた。彼はただ、教育を受けにきた少年として、アビアタルに向かい合っていた。それがさも当然であると言ったように。


「もう一度聞くが……本当に、ソロモンを王位につける動きが始まっているんだな?」
「はい、アドニヤ様。間違いはありません」
人気のない王宮の端に、祭司の頭と、軍の総司令官と、一番年上の王子。実に不思議な光景だと、アビアタルも思わざるを得ない。しかし、このような場所でこのような面子で話さなくてはならないことが、残念ながら今起こっているのだ。
アビアタルは目の前のアドニヤの表情に、自らも痛ましく思う。彼はアドニヤを信じていた。アブサロムのクーデターが起こった時も、責任者として宮廷に残ったアドニヤにつき、決してアブサロムに心を売ろうなどとは考えなかった。アブサロムが反旗を翻したあの日より、彼が王子と認めるのはアドニヤをおいて他にはなかった。
この隣に立つヨアブも同じようだった。彼はアドニヤより早く、アビアタルから件の情報を聞かされて、その場で激しく怒り狂った。アドニヤを置いて、他に王など認めないと彼は言った。
彼は、混乱しているらしいアドニヤに言う。
「ああ……お可哀想に、アドニヤ様!あの日、自分の危険を顧みずに陛下の命を救った王子をないがしろに、あの出来そこないの売女の子を王に据えるなど、陛下は何を考えているというのか!あの雌犬が王に取り入ったに違いない!アドニヤ様、清廉な貴方様が彼らにみすみす侮辱されるいわれがありましょうか!」
彼はアドニヤの肩をつかんで、激しくガクガクと揺らす。アドニヤはそれをうけて、「すまない、痛いから離れてくれないか」と、少し震える声で言う。ヨアブはあわてて離れ、「申し訳ありませんでした」と言った。
「お前たち、もう行っていい。……ぼく自身で情報を確かめたい。信じないわけじゃないが、なにせ、あまりにも奇怪なことだから」
アドニヤの顔から、普段の余裕たっぷりな笑顔が消えていた。アビアタルは興奮するヨアブを抑えて、「は、殿下」と、礼をし、言われるままに立ちさろうとした。その際、ヨアブが叫んだ。
「殿下!我々は何をおいても貴方様の味方です!たとえダビデ王に逆らおうとも!」
アドニヤは一言「声が大きいぞ!」とだけ、その言葉に返した。



昼下がりで日の光の気持ちいいころだったが、影になっているソロモンの花畑にそんなことは関係なかった。彼は花畑にいて、折よく遊びに来ていた例のヤツガシラの相手をしていた。彼はソロモンは手ずから差し出す餌を上品についばみ、聞いていて気持ちのいい泣き声を上げた。
「かわいらしいですわね」と声をかけたのは、隣にいるアビシャグだ。彼女もあれ以来、毎日のようにここに来る。ソロモンは黒いマントの下から「もっともです」とだけ言った。
「ソロモン様は小鳥がお好き?」
「嫌いではありません」
「あら……そんなに楽しそうに餌をあげていらっしゃるのに」
その発言に、ソロモンの体がピクリと反応する。「楽しそうですか?」と彼は問いかけた。
「ええ。とても。貴方様を見ていると……そう、アドニヤ様を思い出しますわ。あの方も楽しそうに鳥や動物に餌をあげますもの」
アドニヤの名前が出て、ソロモンはアビシャグのほうに目線を移した。と言っても、その赤い目はマントに隠れて彼女には全く見えない。
「餌を上げるという行為は、兄から教わりました」彼はそう言った。
「あら、そうでしたの」
ソロモンのほうに寄ってくるヤツガシラを、彼はそっと膝に乗せる。ヤツガシラは逃げなかった。彼は、指の先にヤツガシラのふわふわした羽毛の感触を感じた。なんと、この鳥は美しいのか。金と黒色のコントラストが、実に高貴ではないか。派手に立ち上がった冠羽も含めて、本当に王のごときたたずまいだ。彼は、アビシャグに向かい合うことに対する多少の照れを隠す意味もあり、再びヤツガシラに視線を返した。
「兄を思い出すと言いましたね、アビシャグ」彼は目を合わさないままそう言った。「光栄です。私も、あの兄のようでありたかった」
「ソロモン様は、アドニヤ様を尊敬していらっしゃいますのね」
「はい。最高の兄です」
ソロモンはよどみなくそう言う。アビシャグはそれを聞いて、クスリと笑った後、彼女自身の頬を赤らめて言った。
「私もそう思いますわ。本当に、素敵なお方」
「兄が好きですか、アビシャグ?」
彼が唐突にした質問に、アビシャグは一瞬言葉を詰まらせ、そして戸惑った。まさか、彼との関係がばれているのでは?と彼女は不安に思った。ソロモンはそのような彼女を見て、「兄の事を、素晴らしい男だと思いますか?」と、質問を変えた。
この王子は気が付いているのだろうか?と、アビシャグは不安な気持ちを抑えられなかった。しかし、逢瀬には気を使っているつもりだし、第一、今目の前が見えているかすら怪しいこの少年に、自分たちの関係がわかるわけはないではないか。最近はアドニヤにもろくに会っていないらしいのに。
それに、ソロモンがアドニヤに、多少異常なほど愛を感じているのはアビシャグの目から見てもわかった。はた目から見ると、もう子供と言った年齢でもないのに、まるで乳母から離れられない幼児のようにソロモンはアドニヤについて回っていた。男をろくに見ずに育ったアビシャグにさえ、それが異常だということは分かる。しかし、要はそれほど兄への愛が深いということなのだろう。彼は兄を無邪気に愛するものとして、他人にも兄の事を聞いているだけなのだ、とアビシャグは自分に言いきかせた。それに、たとえ保身のための嘘であっても、愛しい男に対する感情に嘘をつくつもりはなかった。
「ええ……本当に、素晴らしいお方だと思っていますわ。アドニヤ様は。あんなお方と会ったのは、初めて」
彼女はできるだけあたり触りのなさそうな言葉を選んだ。口にするだけでも、アドニヤの声が思い出される。あの美しく整った顔も、自分のものに重ねられる唇も、しっかりと男らしい肉体も、彼の事を口に出しただけでありありとよみがえった。彼女自身は気が付かなかったが、彼女の柔らかい頬にほんのりと赤みが差した。
ソロモンはそれを横目で見ると、ヤツガシラを壊れ物を扱うように指先だけでなでながら「それは嬉しい。……私も、愛しています。兄の事を、誰よりも」と、ぼそりと呟いた。

アビシャグはその言葉を聞くと、妙に複雑な気持ちになった。ふと、彼女もようやく、ヤツガシラに触れるため彼がマントから指先だけ露出させていることに気が付いた。彼女は、彼の噛まれすぎて白いところのなくなった爪の先より、その色に驚いた。目の間違いだろうか、影になっている中、色がよく見えないのだろうか、と、彼女は黒いマントから覗いている、冷たい白色を見た。
ソロモンはその視線に気が付いた。そして、指先をそっとマントに隠した。
「どうかしましたか」彼は言った。重い声だった。アビシャグは「いいえ、何も……」と、多少混乱したような声で答えた。
彼はヤツガシラを地面に離した。ヤツガシラもとっとと花々の間に降り立つ。
「アビシャグ、兄の事を好きだと言ってくれましたが」彼は言った。
「私は嬉しかったです。貴方が兄をそう言ってくれて。ありがとうございました」
彼の言葉の意味が、アビシャグには理解しがたかった。ひょっとすれば、やはりこの彼は自分たちの関係を知っているのでは、と感づいた。一度そう思うと、恐ろしさが一度に襲ってきた。何か、彼ならばわかっているのではないかという気すらしてきた。彼女にとってソロモンは何か得体の知れないところがある存在だ。何にせよ、アビシャグとて王宮に来てからそれなりに時間はたつのに、いまだに彼の素顔どころか、肌の一片も見たことがなかったのだ。先ほど見た指の先が初めてだ。何か、彼なら見透かしているような心配が膨らんで、彼女の心を離れなかった。彼女はあたりを見回す。誰もいないようだ。アビシャグは決心を固めた。ソロモンはそんな彼女を見て「どうしましたか」と言う。
「ソロモン様……ひょっとして、気づいていらっしゃいますの?」
「……?」
「私と、アドニヤ様の、ことについて……」
ソロモンはその言葉を聞いて、一瞬びくりと動揺した。次になるほど、自分の言ったことがまずかったかと反省をした。正直な話、自分でもあのようなことを言うべきではなかったと思っている。気づくも何も、自分がその件に一枚かんでいるのだから、知っているのも当然だ。だがそのことを忘れてしまうとは、完全に自分の落ち度だ。昔の自分なら信じられない。
ソロモンは返答に困って黙っていた。アビシャグはそんな彼を見て、言った。
「お願い、おっしゃって。……知って、らっしゃるの?」
ソロモンは観念した。静かに「はい。存じております」と、彼女に告げた。どうせしらを切ったところで、彼女にしてみれば、何も知らない人間にむざむざ自分の不倫の恋をばらしてしまったも同然なのだから、正直に言ったほうがまだ彼女に優しい対応であろうと思ったからだ。
アビシャグは案の定真っ青な顔になった。ソロモンはその顔を見て、おそらく兄と彼女が、もうお互いに愛し合うようになったどころか、深い関係になったのであろうということも理解した。アビシャグはどうも、自分がそこまで承知の上だと思っているようだったが、そこに関しては彼は今初めて知った。自分の関わった計画が完全に成就したらしいことを、彼はようやく知ったのだった。
アビシャグはガタガタ震えだした。それはそうだ。王の妻の身で不倫などしたことがばれれば、彼女だけでなく一族ぐるみでどのような報復が帰ってくるかわからない、と考えるのは当然の事だろう。実際のところ、ソロモンはダビデがそこまでするとも思っていなかったが。あの、何もかもにどこか淡泊な感情をもった事なかれ主義の父が、今さら若く美しいだけの側室一人の不倫にそこまでの激しい怒りを向けるとはソロモンは思わない。自分の娘が自分の息子に手籠めにされても黙っているような男なのだ。だが、自分と違って彼と一年も知りあっていないアビシャグがそこまでダビデの事をわかっているはずはない。
ソロモンはどう声をかけていいものか分からずに、目の前のアビシャグをぼんやり見ていた。彼女がここまでうろたえるのを見るのは初めてだった。彼から見る彼女はいつも楽しそうにしていたから。

彼女は震える頭を上げた。涙ぐんでいた。「ソロモン様」彼女は半ば泣いていた。「お願い、絶対に誰にも言わないで。お願いします。悪事を働いているなど承知の事です。貴方のお父様を侮辱しているとよく分かっています。でも……でも、止められないのです!お願い、誰にも言わないで下さい。お願いします、お願いします。私にできることならば何でもしますわ、だからお願い、絶対に、誰にも……」
彼女は泣きながら、必死な顔でソロモンにすり寄ってきた。急に彼女と距離を詰められて彼の心臓が跳ね上がった。彼女の愛らしい眼が涙にぬれ、頬を濡らしている様子が間近に見えた。「お願い……秘密にしてくれるのなら、何も惜しみませんから。この愛を守るためなら…」
彼女が今にも彼に触れようかと言うときに、彼は反射的に、マントに包んだ片腕でアビシャグをはじいた。彼女には一瞬、マントの下から見たことのない色の目が見えた。
彼に払いのけられたアビシャグは茫然として、その場にへたり込んだ。ソロモンはバクバク鳴る心臓の鼓動を整えようと、何回か深く息を吸い込んだ。マント越しに、口に手を添え、乱れた息を整えた。
アビシャグの目には、彼の態度はこう映った。この少年は、自分の兄を誘惑し、自分の父を侮辱するこの不埒な女など、断固として拒否する存在なのだと、その体を持って示したのだ。それを黙っておけなどなんとおこがましい行為だと、彼は自分に知らしめたのだ。と。
彼女は絶望したように、その場で泣き出した。ソロモンはその様な彼女にやっと気がついて、同時に自分のやった行為にも気が付いた。
何と言うことだ!とソロモンはショックを受けた。自分は父にばらす気などない。しかしあのような態度を取られたら、アビシャグは自分がダビデに、周囲に彼女とアドニヤの関係をばらすと表明したと思うのは当たり前ではないか。先ほどからの自分は、何と短絡的で感情的なのだ。何が自分をこうさせているのか。
彼は泣きじゃくる彼女に、泣き声を切り裂こうかと言う鋭い声で「アビシャグ!」と言った。
その言葉に反応して、跳ね返るように彼のほうを見るアビシャグ。彼は慌てて言った。
「何か勘違いなさっていませんか。私は別にあなたたちの事を父や誰かにばらす気など毛頭ないし、それに何の見返りも貰おうとは思わないのです」
一気に言い切り、彼は少し息切れして言葉を切った。アビシャグは泣きはらした瞼をぱちりと瞬かせ、「黙っていてくださるのですか?」と言った。
「はい」
「そんな……」
彼女は信じられないと言った風だった。無理はないだろう。ソロモンには二人の仲を黙っておく理由など特にないというのが、彼女の視点から見た当然だ。ソロモンはマントを深くかぶりなおして、彼女に言った。
「先ほども言ったではないですか。私は…兄を愛しているのです。兄は、貴女に対する恋の感情を私には吐露しました。ならば、貴女と結ばれて兄は今幸せでしょう。兄の幸せを守ることは弟には当然です。見返りを求めることですらありません。貴女はそれをご存じないのだ。私ではない、貴女には」
彼の言葉は真に迫っていると、アビシャグには思えた。どこかしら、妙な真剣さがあるのだ。ふと、彼が頭一つ程度しか違わないアドニヤに、まるで幼児のように寄り添ってついていく様子が思いおこされた。なるほど、このソロモンなら、アドニヤにそれほどの感情を抱いていても不思議はない。彼女は納得した。納得と同時に、安堵した。
彼女はふと、いまだに震える声で、ソロモンにお礼の言葉を言った。何度も、何度も言った。ソロモンはそれを止めた。
ソロモンは、自分に湧く、この複雑な感情はなんなのだろうかと思っていた。自分はだれを愛し、誰に嫉妬しているのだろうか。アビシャグにここまで愛される兄に嫉妬しているのだろうか。あるいは、自分とは違い、女の身でアドニヤと愛し合えるアビシャグに嫉妬しているようにすらも思えた。このように人目をはばかるほどの愛に堕ちている二人の、どちらにも自分は嫉妬し、どちらをも自分は守りたいのだ。
ただ、アビシャグの目には、彼は自分とアドニヤの愛を守ってくれた、優しい少年とだけ、彼の姿は映っていた。彼女の安堵の表情から、それが読み取れた。そして、それは素直に嬉しかったようにも思える。もうすぐ、昼の休憩時間が終わろうとしている頃だった。



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