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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第二十三話


「殿下に教えることは、もう一つもありません」
そう言ったのはアビアタルだった。カーテンを閉めたうす暗い部屋で、彼はソロモンにそう言った。彼は、心の中に渦巻く屈辱を抑えつつ、今目の前で、律法の勉強をすっかりおさめてしまったソロモンにそう言った。
自分は若い時、かじりつくような気持ちで何年もかけてこれを勉強してきたというのに、この目の前の穢れた生まれの子供がここまであっさりとものにしてしまうとは、と、彼はソロモンに対して嫉妬心すら覚えていた。アビアタルが思っていた数倍の速さで、律法の教授は進んだ。そもそも、もともとソロモンは律法を相当知っていたのだ。どこで習ったと聞けば、ナタンに書物を借りたと彼は返した。余計なことを、とアビアタルは心の中で言った。
相手がただの子供で、また、状況が状況でなければ、年端もいかない少年にこのような感情を持つアビアタル自身を、彼自身が内省しただろう。実に大人げない感情である。優秀な若いものが生まれるのならば、大人はそれを喜ぶべきではないか。老いたものが優秀な若者に嫉妬するなど、実に醜く、大人げない。もしも違う祭司が、全く普通の優秀な若者にそのような態度をとっていれば、アビアタルはたちどころに彼をいさめ、諭すだろう。
だが、ソロモンは別なのだ。アビアタルにとって、彼は称賛される権利があるとされることすら、目を覆いたくなるほどにおこがましい存在なのである。ダビデとバテシバの結婚を聞いたとき、彼はめまいがした。夫を見すて王と交わった女が、よりにもよって神に選ばれた王であるダビデの妻の座となるとは、と。アビアタルは生まれながらの祭司である。神を疑ったことなど一回もない。だからこそ、律法に背く不義の女の存在がどうあっても許せなかった。そして、それから生まれた子などは穢れた忌み子でしかるべきなのだ。ソロモンに人間としての権利などあっていいはずがない。それが彼の言い分だった。現に見てみろ、彼の容貌を。普通の人間から離れた、おぞましい姿を。神がこの子と穢れたバテシバを罰している証拠ではないか。彼らに人間らしく扱われるいわれなどないのだ。彼らは神に背いた存在なのだから。神自身がそれを証明したのだから。
それに比べて、と彼は思った。アドニヤはなんと素晴らしい事か。彼はアドニヤに心酔していた。アドニヤは本当に、小さいころから気の付く少年だった。王子だからと思いあがることなく、臣下である自分たちに細やかに気の配れる男に育った。
アムノンが死に、キルアブが王位を拒否し、アブサロムすら死んだとき、アビアタルはこれぞ神のおぼしめし、と思った。それまで王に相応しいと絶賛されていたアブサロムすら、その醜いわがままさと自分勝手さを露呈して、自分で自分の命を散らしたのだ。王に相応しくないものはすべて淘汰され、王に相応しい人格を持ったアドニヤが、神の力で繰り上がり、王位を継ぐべき立場となったのではないか。それだというのに、王はなぜソロモンを自分の座に据えようというのか。ナタンの預言と言ったって、あのぼけ老人の預言など信じられん、神がそのようなことをするはずはない、とアビアタルは思った。もしもだ、もしもソロモンが神に選ばれた存在であるのなら、なぜ彼は迫害されるような容貌で生まれたのだ?なぜ神に愛された存在に相応しい、健康的で美しい姿に生まれなかったのだ?そもそも、なぜ人から後ろ指を指されるような生まれ方を、彼にさせたのだ?明らかな矛盾ではないか。その時点で、もはやソロモンが神から選ばれた存在だという言い分など破綻しているのだ。おおかた、あの阿婆擦れのバテシバが、その色香を持って王を惑わしたに違いない。あの遠い昔の日のように、とアビアタルは思っていた。アドニヤのみならず、何より敬うべき神の言葉すら彼らは捏造し、侮辱している、とアビアタルが憤怒を覚えないはずはなかった。

アビアタルは、帰り支度をするソロモンの姿を見ながら「(待っていろ、王位を継ぐのはアドニヤ様だ!本当の神の采配が下されるのだ、この不心得者の悪魔めが!)」と、思った。


はじけるような笑顔で「よかったねえ!」と言ったのは、ベリアルだ。ソロモンは彼の言葉を受けて、少し困ったような目つきをしつつも、口元はしっかりと笑った。彼らは、王宮の二階の廊下にいる。廊下にはちょうど、誰もいなかった。
「もうあの怖い顔したハゲ爺にかからなくていいんでしょ?ほんと、よかった」
「ベリアル……まあ、たしかにハゲた老人ではあるか」ソロモンは困りと笑いが混ざり合った表情のまま、形容しにくい微妙な笑い声を出した。
「ボク、時々後ろから見てたけどさ」ベリアルは言った。「あいつ、君のこと嫌いだよね」
「だからどうした。俺が嫌われるなんて、今さらだろう」
「そうだけどさ。他の先生方は、あんなにあからさまじゃないのに」
「そんなものは人それぞれさ。得意なこともあるし、苦手なこともあるだろう。彼は、俺に対する憤怒と軽蔑を隠すのが人より苦手なだけだ」
彼はそう言って、すたすた歩いていこうとしたが、ベリアルはそれを少しとどめるような身振りをした。「なんだ」とソロモンが返す。
「ソロモン、ボク、まだ言いたいことがあるんだけど」
「な、なんだ?」
ベリアルは満面の笑みで「お疲れ様!律法のお勉強、よく頑張ったよね」と言った。
ソロモンは彼のそのはじけるような笑顔を受けて、「……別に、それほどでも」と言ったが、ベリアルは「そんなことないよ。ボクが君のしていることを知らないはずないじゃないか」と言い返す。
ソロモンは照れ臭そうに頭を掻きながら、「ありがとう。そう言ってくれて」と、ベリアルとはまた違う、少し不器用な笑い方をした。彼の目の下には、うっすら隈ができていた。


その様子を、遠巻きから見ている影があった。
「なんだ……あいつ、誰と話しているんだ?」
アドニヤだった。ソロモンは彼の気配に気が付いていないようであったが、アドニヤにははっきり誰かと話すソロモンが見えていた。だが、その視線の先には何もない。
「(あいつ、気がふれてるんじゃないのか?そうなってもおかしくない環境で育ってきたし、十分あり得る話だ)」
彼はそう考えながら、弟の前に出て行くかどうか迷う。調べてみたところ、信じたくない話だが、ソロモンを王とするべく教育が始まっているというのは疑いようのない本当の話だった。アドニヤは嫌悪感に背筋が冷たくなった。
ソロモンに優しくしてやったのも、全て自分が王となった時のこれ以上ない優秀で忠実な手ごまとして利用するためだ。ソロモンが代わりに王となってしまっては、本末転倒もいいところだ。なぜ、ソロモンに自分を差し置いて王となる権利があろうかと彼は心の中で思った。ヨアブもアビアタルも同じ意見で、太鼓持ちのように彼に同じことを言ってくれた。いけない。このままソロモンを大人しく王座に上げる気など、自分には毛頭ない。この状況をこの状況のまま放っておく気は、アドニヤにはさらさらない。
しかし、だ。アドニヤは一つ、思うところがあった。それは、ソロモン自身がこのことをどう捉えているのかと言うことだ。はっきり言って、アドニヤにはソロモンが、大人しくアドニヤを差し置いて王になるようにも思えないのだ。
アビシャグを彼のもとに送って、弟の様子が知りたいという名目でつぶさに語って聞かせたことから読み取れたことがある。ソロモンは、彼女に自分の好意を全く見せてはいないのだ。恋する少女と二人きりであっても、彼は何もしないのだ。そのくせ、普通に会話はする。何が原因なのか、アドニヤにはわかった。ソロモンの不器用さのみゆえではない。彼は、自分に遠慮しているのだ。彼女をアドニヤの女と思えばこそ、彼は自分の感情を押し殺し続けているのだ。
それほどまで遠慮がちで自分に忠実な弟が、みすみす兄の立場を奪うことに賛成するだろうか?彼にはそれがあやしく思えた。ひょっとすると、ソロモン自身も本気で王位を継ぐ気などないのではないだろうか?彼ならばとりあえず波風立てないために聞くことは聞いておいて、いざ自由になればアドニヤに王位を譲り渡す、くらいの事は考えそうなものだ。
アビアタルとヨアブは、ソロモンに強気な態度で当たるようにしきりに勧めてくる。特にヨアブなど、放っておいたら今にでもソロモンを切り殺さんばかりの剣幕だ。
しかし、そうしてソロモンがこの期に及んでも自分のために働いてくれるなら、それに勝るいいことなどないではないか。アビアタルは、ソロモンが貴方を差し置いて一瞬でも王座に座ること自体が許せないと言っていたが、アドニヤはそれを「古い」と一蹴した。結果として彼が玉座につけて、ソロモンが忠実な僕になってくれるのならば、アドニヤは何でもいいのだ。そして、このような状況になっても、そうなる可能性は多大にある。
今日は、それを確かめたかったのだ。ソロモンの意志を。この王になどなれっこない、正気がどうかも怪しい弟が、王に相応しい尊敬すべき兄に、自分の受け継いだ王位を渡す意思があるのかどうかを。

「ソロモン」
声をかけられて、ソロモンは驚いた。ベリアルとの会話を聞かれたのではないかと思ったからだ。ベリアルは素早いもので、すっとどこかに消えてしまった。
「ああ、お兄様。お久しぶりです。どうかしましたか」
ソロモンはアドニヤに久しぶりに会えて、落ち着いたと言ったような声色で話しかけてきた。周囲には誰もいないことだしとアドニヤが話を切り出そうとした瞬間、ソロモンを呼ぶ声が聞こえた。
ソロモンは声のした方角を振り向く。ドタドタと走ってきた中年男性は、アビアタルの部下、若手の祭司ザドクだった。
「ソロモン様!いらっしゃったのですね」
「……なんだ、俺に用か?何のだ?」
警戒心を強めてそう言うソロモンに、ザドクは慌てた声で言った。
「ソロモン様、今すぐ裁きの場に、大広間にいらっしゃいませ、ダビデ陛下が貴方をお呼びです」
その言葉にソロモンが何かしら反応をする間を与えず、ザドクはソロモンをマント越しにつかんで引っ張っていった。ソロモンもあわてて、転びそうになりながら彼についていく。アドニヤは、一息遅れて、あわててその後をついて自分も走っていった。ザドクは特に止める様子はない。
「お父上が俺に何の用だ!」
「厄介な裁きが行われているのです。証人も証拠もないのですが、両方自分の言い分を全く譲らないのです。そうして、ダビデ様がどうお裁きをするかと思っていたら、ダビデ様がおっしゃったのですよ。『この件は、ソロモンに裁かせる。今すぐここに連れてこい!』と」


ソロモンは大広間の真ん中に引きずられてきた。光をよく吸い込む明るい大広間の中に、一人黒いマントで全身を覆った少年が来たことに、その場にいる全員が、その異様さに引き付けられた。
彼はザドクに引きずられて、ダビデの玉座のすぐ隣に連れてこられた。
「ザドク、ご苦労だった。ソロモン、よくぞ来たな」ダビデは言った。
ふと、ダビデの前に跪く男と女のうち、男のほうが「陛下、この者は誰でございますか」と言った。
「誰でもいい。だが、私に代わりお前たちを裁くものだ」
ダビデは男にそう言うと、その発言に動揺する周囲の喧騒の中、ソロモンにだけ聞こえるような声で彼にささやいた。
「ソロモンよ、話は聞いているだろう。私はこの裁判を、お前に任せる。裁きは王の重要な職務だ。勉強の一つと思って、やってみなさい」
なるほど、父は自分の力をテストせんと、自分を呼んだのかと思った。いや、デモンストレーションの役割もあるかもしれない。王の職務を代わりにやらせるということで、また一歩、ソロモンを次の王たる存在として、周囲にほのめかすこともできるだろう。
どうにせよ、このような大勢の前では引き下がることはできない。ソロモンはダビデに向かってうなずき、二人に向かい合い、「改めて、お前たちの訴えを聞かせよ。お前たち自身の口から聞きたい」と言った。

訴えはこうだった。罪状としては、金銭の強奪。だが、その事実を、片方があったと言い、片方がなかったと言っているのだ。
具体的にはこうだ。まず、女の言い分は以下の通りだった。彼女は裕福な家に嫁いだが数年前、未亡人となった。それを受けてとある有力者の老人が彼女との結婚を望んだのだが、彼女は夫に貞節を誓うためそれを拒んだ。だが彼があまりにしつこく、彼女は身の危険すら感じ、しばらく国外にいる親戚のもとに身を寄せることに決めたのだ。問題はその後である。彼女は逃げるにあたって、大金を持っていくのも危険なので、財産をほとんど金貨に変えて隠したうえで、自分は着の身着のまま逃げようと決めた。それにあたって、彼女は隠し場所に蜂蜜の壺を選んだのだ。彼女は大金を複数の壺に分けて入れ、その上を蜂蜜で満たし、ふたをした。そして、隣人にそれらを預けたのだ。彼は快く、預かってくれた。もちろん中に金があるなどとは知らないままに。数年たって、礼の老人がようやく死んだと聞いて、彼女は安心して家に帰り、隣人から蜂蜜を返してもらった。だが、壺の中には蜂蜜があるばかりで金貨は一枚も残ってはいなかったのだ。隣人が盗み取ったことは明らかだった。
しかし、男、つまりその隣人の家族の主人が言うには、最初から壺に金貨など入ってはいなかったとのことだ。彼は、彼女が壺の中に金貨があったなどと言う有りもしない話をでっち上げて、詐欺行為で自分たちから金貨をせしめようとしているのだ、と言い張っている。自分たちには何のやましいこともないというのだ。何せ大金のかかった話、二人とも、鬼気迫る表情で必死にまくしたてた。
難儀なことに、女が金貨を隠すとき、立会人が一人もなかった。彼女は例の老人から逃れんと、ひっそり夜逃げするように逃げたからなのだが。男の側では、彼の家族が蜂蜜しかないのを見たと言っているが、いかんせん家族の証言とあってはそう参考にもならない。状況証拠だけではどちらが正しいのかわからない。かといって、かくたる証人も、どちらにもいないのだ。あるのはただ、蜂蜜だけが詰まった壺だけだというのだ。
なるほど、なかなかの応用問題だとソロモンは思った。ダビデも、彼が何かしら超人的な力で隠された真実を暴くとも思ってはいまい。王になればこのような、律法通りには裁けない厄介な裁きもいくらでも舞い込んで来よう。そして、そうであっても白黒つけなくてはならないのが王なのだ。ソロモンは、ダビデが自分に求めているのが、できる限り律法に沿った、最大限納得のできる判決だというのがわかった。男を罪に定めるか、女を罪に定めるか、賠償をいくらに設定するか、などなど。
さて、この場合は……とソロモンが考え始めた時、ふと、声が聞こえた。
「ソロモン?それじゃ、だめだよ」

ベリアルの声だった。彼は驚いた。ベリアルは彼のすぐ背後に立っているようだ。ベリアルの手が、すっと自分を抱く。彼は後ろからソロモンを抱きしめているのだ。ベリアルの声がすぐ耳元で聞こえた。マントにそこだけ穴が開いてしまったかのように、はっきりと聞こえた。ふと、周囲が自分とベリアル以外は存在しない不思議な空間につながってしまったようにも思えた、。の声のおかげで、何か周囲が重苦しい。柔らかくとろけたような、そう、まるで話に上がっている蜂蜜の壺の中だ。
「分かるはずだよ。君なら、事の真相が」
そんなことを言っても、と言おうとした瞬間、ベリアルはその手をソロモンの心臓の上に乗せた。波打つ鼓動をベリアルに読み取られているのを実感しながら、ソロモンは彼の声を聴いた。
「ダビデにできなくても君ならできる。大丈夫だよ。君は、賢いんだもの」
彼の声が、じんわりと染み込んでいく。まさに蜂蜜のようだとソロモンは思った。そのぼんやりするような甘さの中、彼は考える。できる、大丈夫だ、だって?しかし、事の真相を確かめる方法はと言えば……。

ふと、彼の頭に、ある考えがひらめいた。彼はマントの下で、目を見開いた。ひょっとすると、試していないことがあるはずだ。
「お前達」彼は二人に向かいあって言った。「その壺は今どこにある?」
「私の家に」女のほうが言った。
ソロモンはそれを聞くと、今度はダビデのほうに向かって「ダビデ王、兵に命じて、この女の壺を持ってこさせてください、調べたいことがあるのです」と、早口で言った。


女はそう王宮から離れたところに住んではいなかったので、壺は割かしすぐに持ってこられた。大きく丸く膨らんでいて、それに太めの首が付いている形のものだ。それがやたらとごろごろ持ってこられる。相当量隠していたらしい。
ここに来る前に調べたのだろう。蜂蜜は抜かれていて、裏面がべとべとしていたり、結晶化して砂糖になっているのが見える程度だった。確かに、ざっと口から覗いて見た限り、何もない。
「いかがですか?」と、口をそろえて男と女が言った。男が「何もないでしょう」と言い、女が「あなた方がとったんじゃありませんか!厚かましい」と言った。口論が始まったのを憲兵が抑えた。その次の瞬間だった。大広間に、大きな音が響いた。
ソロモンは、大広間の石造りの床に、勢いをつけて、激しく彼の持っている壺をたたきつけたのだ。ひとたまりもなく、壺は粉々に壊れ、破片や蜂蜜の結晶がその場に散乱した。
その音に、その場にいる全員が怯んだ。ダビデも、自分の息子の行為に少々面くらっていたようだった。目の前の二人すらも、その、物が壊れるとき特有の高く不快な音に縮み上がって、口論をやめた。
ソロモンは二つ目の壺をとって、それも叩き割った、次に三つ目、四つ目、と、彼は粉々にしていった。大広間の中に、次々と音が響く。彼は、一つ割っては次、といったように、その場ですべての壺をたたき割った。しんと静まり返った中、壺の割れる音だけが、いっそ軽快なほどに響き渡った。
その音がようやくやみ、恐ろしいほど静まり返った中で、ソロモンは大量にできた破片の中にしゃがみ込んだ。「何をなさるんです!」と、ようやく出てきた人間の声、すなわち女の声を、彼は無視した。彼はその場で、破片を一つ一つ調べ始めた。指先を蜂蜜の残りかすでべたべたにしながら、彼はじっと破片を見ていた。
と、その時、彼の視線は一つの破片に吸い寄せられる。彼はそれを拾い上げた。内側にひびが入って、そこに蜂蜜の結晶が張っていた。だが、よく見ると、その結晶はひびに挟まった何かを覆い隠すようにできている。そして、それは金色をしていた。
彼は指先で、結晶を削り下ろした。甘く、べたついた柔かい結晶の壁の中から出てきたのは、小さく薄い金貨だった。
「お前たち、これはなんだ?」
彼は、男と女の前にその、挟まったままの金貨を見せた。二人の顔はみるみるうちに変わっていった。男の顔は絶望、女の顔は希望に満ちた顔に。

「決まりだな」ソロモンは男に向かって言った。「この男とその家族こそが盗人だ。女の訴えこそが真実」
彼の声が、大広間に厳かに響き渡る。
「女よ、盗み取られた金の金額は?」
「財産を換金した時の証文が残っております。その通りです」
「では、ただちに男は律法に沿って、その分の賠償を払うように」
顔を真っ青にしながらわめく男に、ソロモンはそう言い放った。彼が振り返ると、ダビデも目を真ん丸に見開いて、目の前で起こったことを見ていた。
「ダビデ王。彼女の壺の弁償にあたって、都合をつけてはいただけませんでしょうか」
「……ああ、それはもちろん」
うろたえたようにそういうダビデに、ソロモンは一礼して「それでは、裁きも終わりましたので、私は失礼させていただきます」と言い、その場をさっさと立ち去ろうとした。
しかし、彼はふと立ち止まった。自分に向けられた声が聞こえたからだ。
女の声だった。済んでのところで財産を取り返すことのできた幸運な女は、跪いたままソロモンに向かって、泣きながら感謝の言葉を言っていた。
「ありがとうございます……ありがとうございます!!本当に、ありがとうございます!」

ソロモンはその顔をじっと見つめた。彼女には見えていないかもしれない。しかし、彼は見詰めていた。
初めて見る顔だ、と彼は思った。自分がここまで、他人から「ありがとう」と言われるようなことなどあっただろうか?アドニヤになら数度言われている。そういえば、先日アビシャグにも言われた。だが、それらとは何かが違う。
この女性と自分は、おそらくもう会いはしないだろう。アドニヤのように自分を庇護しはしないだろう。ただ、偶然今日会って、後はもう会わないだけの関係だ。
そんな相手に恩を売ったからとて、何のいいことがあるというわけではない。それなのに、ソロモンは、なぜだか、たまらない幸せを感じた。「ありがとうございます」と言う言葉が、彼には非常に甘美に思えた。一見意味のない事でも、確かに意味があった。自分が何かをして、その結果として感謝をされて、彼は、ただ単純に嬉しかった。
ソロモンは彼女の前に座り込んだ。そして、「……どういたしまして。……こちらこそ、ありがとうございます。そう言ってくださって」と言った。そしてそのまま、その場をつかつかと立ち去った。


アドニヤは目の前で起こったことを、ざわつく大広間の中で反芻していた。彼は群衆に交ざって、ソロモンの裁きを見ていた。
発狂したようにわめく男と、嬉しさに泣く女。散らばった破片。後ろには別の訴えをする人々がいるはずだったが、彼らすら次に進めと茶化しはしなかった。玉座に座るダビデは、信じられないと言った顔のままかたまっていた。
アドニヤの目をとくに引いたのは、訴え人の女だった。彼女は、去っていくソロモンになお思いをはせるような目つきをしていた。アドニヤはそれを知っている。自分がさんざん向けられるものだ。理想の王子、頼るべき人、そう仰ぎ見られる目を、ソロモンが向けられていたのだ。
アドニヤの背筋に悪寒が走った。
今まで彼にとってソロモンとは、頭はいいが、王の器ではない人物だった。人見知りで他人嫌い、不愛想で生意気。優秀なので右腕としては非常に役立つだろうが、間違っても人の頂点に立つような性格はしていないと思っていたし、彼についていこうという人間も現れるはずがないと思っていた。だからこそ、彼はソロモンをライバルとして見たことなどは一度もなかった。王継承のライバルとして、ソロモンは自分に劣る存在でしかないとアドニヤは確信していた。
しかし、どうもそうも言っていられないらしい。見ろ、この雰囲気を。
アドニヤは自分の不注意を叱責した。ソロモンは、本人も気づいていないだろうが、持っているのだ。人の上に立つ力を。自分のそれが人望なら、彼のそれは知性と結びついている。優秀な知性を持って、彼は人の上に君臨するのだ。
もしも、だ。アドニヤは考える。もしも、ソロモンがそれを自覚し、それを伸ばしてしまったら、どうする。もしも彼が王位を自分に明け渡したとして、ソロモンの方を王に相応しいという人物が増えたら?
それすら、夢ではないように思えた。現に彼は、大広間の人間を完全に呑み込んでしまったではないか。もしも……もしも、そうなれば、一切は無駄になる。結果として、アドニヤは王位を離れ、ソロモンが王位につくのだ。あの、自分の犬が。

どうやら、とアドニヤは考えを改めた。もうソロモンに彼の意思を確認する必要などはない。自分の思惑は、ソロモンが王の器では自分に遠く及ばないことが前提としてあって、初めて成り立つのだ。
彼の意志などは関係ない、重要なのは彼の危険性だ。彼がアドニヤの地位を脅かす人間である可能性だけが今となっては重要なのだ。
彼は大広間を後にし、ヨアブのもとに向かった。
ソロモンはもはや、彼に取って、完全に切り捨てるべき存在となった。さぞ、アビアタルやヨアブも喜ぶだろうとアドニヤは思った。



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