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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第二十四話

ソロモンはパピルス紙に走らせるペン先を止めた。
「やった……やったぞ、ベリアル!」彼は叫ぶ。寝台の横たわってのんびりしていたベリアルが、「なにがやったのさ?」と言った。
「もう、描くことは何もないんだ。俺は描ききったんだ」
ベリアルがソロモンの手元を覗き込むと、彼は得意げに最後の一枚と言うパピルスを見せてきた。ソロモンは例の図形を描き終わったとのことだ。彼の頭の中にある空想上の建物を、彼は隅から隅まで、余すところなく描きあげたというのだ。ベリアルが来るよりも前、ずっと小さな時から、延々と描いては消し、描いては消しを繰り返していたそれを。
ソロモンは感動に震えているようだった。ベリアルは、彼の手を取って「おめでとう!」と興奮した様子で言った。
ソロモンは置いてあった大量のパピルスを並べる。どれも、成功作として保存しておいたものだ。
建物の奥行きは六十アンマ、間口は二十アンマ、高さは三十アンマ。建物は内陣と外陣に分かれていて、外陣前の廊下は間口と同じ二十アンマの奥行き。内陣の入り口が十アンマ。内陣自体の大きさは奥行き、間口、高さともに二十アンマの立方体。入口にはオリーブ材で作った扉が付いていて壁柱と門柱は五角系。外陣の方の扉は糸杉製で、二枚の折り畳み扉が付いている。ここにもオリーブ材の柱が立っていて、そっちの方は四角形。格子造りの窓があいていて、内陣と外陣の間には脇廊。螺旋階段でつながった、三階建てのもの。幅は一階のものが五アンマ、二階が六アンマ、三階が七アンマ。切り石とレバノン杉の角材で幾何学的な模様を描いた中庭もある。大黒柱になるのは青銅製の二本の柱。格子模様と、百合と、柘榴の浮彫のある柱頭をいただいた美しい柱だ。柱頭はそれぞれ五アンマずつ。建物全体は木造で、主にレバノン杉や糸杉を使用。そして、それら全てを純金で覆う。全体の彫刻の主なモチーフはナツメヤシと天使、そして彼の愛するシクラメンの花。
ここに挙げた以外のことすら、彼のパピルスには懸命に描かれていた。非常に緻密に、まるでその場にあるものをそのまま写したように、その空想の建物についてのあらゆる情報が描かれていた。ただ一つ、内陣の中身をのぞいて。
「ここに、何かが入る気がするんだ。しかし、俺はそれを描く気にはなれん。思い浮かばないのなら、それでいいのだ。彼も、俺の前に姿を現したくないだけだろう」
彼は笑った。ベリアルもつられて笑う。
「何年もかけて……ようやく完成か。ボクが来る前から描いていたものね。おめでとう、本当におめでとう」
「どういたしまして。……その、なんだ。嬉しいな。うん」
ソロモンは照れたようにそう言った。自分のここまでを人生をかけた偉業をほめたたえる相手はベリアルしかいなかったものの、それでも彼は何かしら満たされた思いだった。ベリアルが来るまでの孤独な十年間と、その後の四年間、自分に付き合い続けてくれた彼へ、ようやく報いることができたような思いだった。


その日は非常に気持ちのいい日だった。さんさんと晴れていたのにもかかわらず、厚さはあまりなく、ソロモンにもそこまで辛くはない光だと感じた。
いくらかの勉強を終えてしまって多少暇になった彼は、シクラメン畑に向かった。そこには既に、あのヤツガシラがいる。
彼が持ってきた餌を目の前にまくと、ヤツガシラは喜んでそれをついばみ始める。鳥と言うのは本当によく食べる。ソロモンはそれ、本当に嬉しくて、楽しかった。ベリアルも笑っていた。
「ねえ、ソロモン」ベリアルは言った。
「このヤツガシラ、好き?」
「ああ、勿論だ」ソロモンは言い返した。好きでないはずがあるだろうか。このような稀有なる美しさを持つ鳥が。自分に寄って来てくれるものが」
「君、この子の言葉を聞きたいとかは思わないの?」彼の言葉を受けて、ベリアルが返す。
「言葉だって?」
「うん、言葉。ボク、天使だよ。シクラメンを生み出したみたいに、どんなことだってしてあげられるさ。ソロモン、君がこの子を好きなら、この子と君がおしゃべりできるようにしてあげられるよ」
ベリアルはそう言って、自分もヤツガシラをつついた。ただ、ヤツガシラは彼を認識できないのか、どこ吹く風と言ったようでまるっきり反応を示さない。それに対してベリアルは少々不満そうな色を含んだ笑い方をした。
「(こいつと俺が、会話を……)」ソロモンは考える。この、自分の自慢の花園を気に入ってくれる美しい客人と、もしも会話ができるとすれば自分はどんな思いだろうか。ベリアルならばそれくらいのことはできる。できないという可能性は考慮する必要はない。彼は考えた。
「いや、やめておこう」と、彼は返した。
「どうして?」
「……怖いから」
ソロモンはそう言って、もう一度パンくずをヤツガシラの前に撒く。
「もしも……もしもこいつのほうは俺の事を好きじゃなくて、本当は俺の事を嫌っていて、ただ、餌をくれるからついてきてくれているだけなんじゃないかって、そう考えてしまうんだ。俺は、こいつが俺の事を嫌いじゃないって思いたいんだ。そう思っていて幸せなんだ。守れる幸せなら、守りたいじゃないか」
パンくずをあいも変わらず上品についばむヤツガシラの姿をぼんやり眺めて彼はそう語った。
ベリアルは無言でソロモンを抱きしめた。暖かいと感じる。ベリアルは暖かいのだ。体温とは何かが違う、まるで焚火にあたっているような暖かさが彼にはある。彼はその暖かさを持って、ソロモンを優しく包んだ。
信じていられるというのは幸せなことだとソロモンは感じた。気が付くと、アビシャグが手を振りながらやって来ていた。ベリアルもそれに気が付いたか、ゆっくりとその身を離した。


ソロモンはアビシャグを無言で花畑に案内する。彼女は座り込んだ。
アビシャグは安心している。ソロモンはあの一件以来、本当に自分とアドニヤの関係を誰にも言ってはいないようだった。最初のうちから不安を完全に拭い去ることはできなかったものの、いくら日がたっても彼女に送られる周囲の視線はそのままなのだ。とても、不倫の女に送られる視線ではない。そのうち、彼女も完全に確信することができた。ソロモンは本気で、誰にも言うつもりはないのだ。いったい、なぜ彼はそうまでするのだろうか。それほどにまで彼は、あの兄を慕っているのだろう。アドニヤはそこまで慕われる価値のある男だ、と彼女も思っていた。彼はどこまでもやさしい。まるで、自分が待ち望んでいた人物であるかのように。父はここまで優しくなかった。アドニヤは、自分に接してくれた誰よりも、自分に優しいのだ。
アビシャグはそのおかげで、ソロモンとも打ち解けられたように思っていた。アドニヤという愛すべき対象を共有するものとして、彼女は彼に感じていた一種の得体の知れなさを完全に忘れることができた。どちらもアドニヤをこれ以上なく愛しているのだ。恋愛と兄弟愛の差はあれど、それは同じだ。ヤツガシラと遊ぶ黒いマントにくるまった少年をみて、アビシャグはふと、話そうと思っていたことを口に出すことを決めた。
「ソロモン様、昨日、ダビデ陛下の代わりにお裁きをしたみたいですわね。素晴らしい事ですわ」
目を輝かせてそう言う彼女に、ソロモンは「ありがとうございます。アビシャグ」と返す。
「私、その場にいられなかったことを本当に悔やみますわ。聞くところによれば、とても素晴らしいお裁きだったようで」
「それは……言いすぎでしょう。噂には尾ひれがつくものです」
彼はマントの下で、少し照れたように目をそらしたが、それはマントの外にある彼女の視線に捕らえられることはなかった。
「あら、もっと素直にお喜びになればいいのに。……凄い事ですわよ。王の職務を立派に果たしたなんて」
「わかりました。素直に喜ぶとします。……ありがとうございます」
「まあ、なんで私にお礼をおっしゃるんですの?」
「いや……そういって頂いて、嬉しかったもので」
彼はマントの上から、裾にくるまった手で口元を抑えた。まるで照れ隠しのしぐさだが、いかんせん全身マントで覆われているために普通の人間がするそれよりも不思議な見てくれである。そんな仕草を見てアビシャグは少しばかり笑みを浮かべてしまう。
やはり、彼はどこかしら子供っぽい。アドニヤの前ではもっとあからさまなのだが、自分の前でそのようなそぶりを見せるのは初めての事だった。この王子が自分にも心を許し始めているのだろうかと彼女は思った。彼女はそんな彼がどこか、可愛らしくも感じた。
「何かおかしい事でも?」
口調はすっかり大人なのだが、と、そのちぐはぐさも彼女にはおかしく感じた。彼女は彼に感じたことを素直に言おうと思ったが、さすがにもう子供でもない年齢の男の子に面と向かって可愛いというのも気が引け、代わりに彼女はこういった。
「いいえ。ただ……ソロモン様を見ていると、厚かましい事ですが……弟ができたような気分になりますの」
「弟?」彼は疑問の色を込めたまま言った。
「ええ。私、弟がほしかったんですの。兄もいないけれど弟もいなくて。王に仕える身で王子様にこのようなことを言うのも不躾と存じますが、何かそのような気分になって、つい……」
その言葉を聞いて、すぐに返答はしなかったソロモンを見届け、アビシャグは慌ててその間を埋めるために次の言葉を言った。
「ソロモン様、お姉さまはいらして?」
「異母姉はいました。でも、あなたのようにシクラメンを大切には扱ってくれなかった」
彼は、その言葉にはすぐに返答した。
「まあ……」
「弟ですか」今度は、彼が例の話を蒸し返す。彼がマントの下で小さく笑ったような気がした。彼の笑い声を聞くのも初めてだ、とアビシャグは思った。彼はいつも不愛想だから。ああ、この王子もちゃんと笑えるのか、と彼女は実感を覚えた。
「私も、どうせ姉ならあなたのような方がほしかった。不躾などとんでもない。嬉しいですよ、アビシャグ。そう言ってくださってありがとうございます」
彼の声は、とても穏やかだった。満面の笑顔ではないだろうが、静かに微笑みながら言っているのが感じ取れた。
「どういたしまして」
彼女がにっこりとそう返して、ソロモンは返答せずに、代わりに縦にうなずいた。少しの間沈黙が続いた。
その沈黙の中で、彼女はヤツガシラをすくい上げて膝の上に乗せたソロモンの姿を見て、とあることを考えた。彼の微笑みとはいったいどのようなものだろうか?アビシャグには想像がつかない。あのダビデの息子であのアドニヤの弟なのだし、まさか目も当てられない不細工ではないだろう。現に、醜い人間と言うのはまず目元の時点でみっともないものだが、先日一瞬だけ見えた彼の眼はそうでもなかった。彼の眼もとは、彼の母だというバテシバに似ていた。後宮で、数回だけ姿を見たことはある。ソロモンに似て随分人付き合いは苦手そうだが、それにしても美しい人物だとアビシャグは思っていた。一瞬見えた彼の目つきは、彼女によく似て、切れ長で形がよかった。
だがこうやって隠すからには何かしら人には見せられない外見なのだろうか?と、急に彼女は疑問を感じる。何も今日初めて感じた疑問ではないが、彼女はふと、マントをとってみたくなった。無意識のうちに、手が伸びた。
無言のまま彼女の手が伸びるのを見て、ソロモンは「なんですか、アビシャグ」と言う。彼女はその声を聴いて一瞬、びくりと怯んだ。先日のように激しく手を弾き返されることはなかったものの、何か咎めるような声色を聞いて、彼女は慌てて言った。
「ソロモン様、その……お顔を、見せてはいただけませんか?」
気が付いたときにはずいぶん正直な物言いをしていた。
ソロモンはその言葉に、一瞬言葉を飲み込んだ。沈黙の中、ヤツガシラだけが鳴き続ける。アビシャグはソロモンをじっと見つめていた。
彼はマントの留め金を抑えると「それはできません」と言った。
「どうしてですか?」
「私は姿を見せたくなどありません。貴女がご存じないのなら、一生知らないままでいてほしい。他の方々にも同じです。私の姿を、見てほしくなどない」
アビシャグは何も聞かされていないのだ、と、ソロモンは知っている。自分の容姿も、生まれも、境遇も、彼女は知らないのだろう。彼女の前に自分はただ、奇怪な格好の少年でしかないのだ。
アビシャグはその言葉に戸惑う。彼女には理解ができなかった。そんな彼女の口から言葉が出た。
「アドニヤ様にも?」
「兄は知っています」
一瞬だけ間を置いて、ソロモンは兄の名前を出した。
「兄だけです。私が姿を見せても平気なのは、兄だけです」
彼はそう言って、体の向きを少し斜め向こうにそらしてしまった。彼女は、彼の触れてほしくないところについ触れてしまったのがわかって「ごめんなさい」と謝罪の言葉を述べた。
「いえ。もう大丈夫です」彼はそう返した。彼のマントの留め金は、ずいぶん古くなっていて、すっかり輝きを失っていた。


ソロモンが立ち去った後、アビシャグも彼と別れた。宮殿の中に入り、少し早足でダビデのもとに向かう。その時、柱の陰から人が出てきた。
「アドニヤ様!」
彼女は嬉しそうに声を上げる。
「アビシャグ、ちょっといいかな」
「ええ、勿論、アドニヤ様のお願いであれば」
顔を赤らめて心底嬉しそうにそういう彼女に、アドニヤはそっと耳打ちした。


ソロモンが扉を開けると、ベリアルは先に部屋に帰ってきていた。
「おかえり」
彼の机にいるベリアルがそう言う。彼は、ソロモンが描き終えた設計図を一枚一枚眺めていたようだった。
「ただいま」とソロモンは言って、彼自身は寝台のほうに腰かけた。アビアタルの授業が終わったせいで、午後に暇な時間が増えたのだ。日がかなり傾いている。あと1時間もせずに、日が暮れるだろうか。
「なあ、ベリアル、俺は幸せだな」
彼はぽつりと、唐突に言った。
「そうかい?」
「ああ。俺は幸せだ。お前が初めて来たあの時より、ずっと」
彼は、格子窓の外を眺めながらしみじみ呟いた。
「俺はものを描け、書を読めるだけじゃない。俺は生き物を育てることができる。それを美しいと感じられる。人を尊敬することも、人に恋することも俺にはできるんだ。そういう人に会うことができた。そして、人に感謝されることもできる。それが可能なことは、本当に幸せだ。なあ、ベリアル。幸せであるとは素晴らしいことだな」
「もっと素晴らしい事を教えてあげようか」
マントを着たまま寝台にその身を横たえてそう語るソロモンのそばに、ベリアルも寄り添いながらそう言った。
「君は神に選ばれた」
「そうだな。そして、お前が来てくれた」
ソロモンは、寝台に腰かけて片手だけをソロモンの顔の横に置き、それで体重を支えているベリアルの顔を見て思った。あの日、十一歳の時に見た夢は、現実だったのだろうか。ベリアルはこんなように自分を見下ろして、光の王冠を自分に与えた。ソロモンの事を、神に選ばれた子だと言って。
ベリアルはそっとソロモンの手に自分の手を添えた。
「ベリアル。俺の幸せは、お前から始まったんだ」
ソロモンはその手を握り返した。


日が落ちたころ、彼の部屋の扉を何者かが叩いた。


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