クリスマス市のグリューワイン

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美女ヘレネ 三話

アテネにつくころ、ヘレネはそろそろ旅に慣れてきていた。旅は、彼女にとって楽しかった。なんといっても、自分を見る周りの視線が非常に心地いいものだった。誰も自分を邪険に扱わず、女神エンノイア、と呼んで優しく接してくれる。珍しく市場に見た時などに見る、高貴な貴婦人の受けるような扱いを自分が受けているような気になった。もっとも、そんな話をシモンにしたら「お前はそんなものよりももっと偉大だ」と返されたが。
それに、男に抱かれるのも、今は一日に十何人も相手しなくていい。自分を抱いてくるのはシモン一人だけだ。シモンは自分の弟子ですらヘレネに必要以上に近づけたがらないし、彼らもそのことをよく分かっていた。至高の女神とともにいられるのは至高の神ただ一人だけということなのだ。ヘレネはやらなくてはならないからやっていたものの、男に抱かれるのは痛くて好きではなかったため、これは大変気分のいい事だった。
とにかく、彼女は昔から考えれば驚くほど苦労をしなくていい。まさか自分がこんな身分になれるとは、彼女も思っては見なかった。女神として民衆の前に立つ時ですら、話すのはほとんどシモン一人で、自分はじっと黙っているだけである。
ヘレネは寝台に横たわりながら、ちぎれてしまった青い薔薇の花びらを針と糸でつづって遊んでいた。シモンは彼女が青い薔薇を気に入っているのを分かって、今では彼女は毎晩青い薔薇に包まれて眠る。ふと、自分の部屋に近づく足音が聞こえたため「だれ?」と問いかけた。
「メナンドロスです」と声がした。シモンの弟子だ。彼は部屋の中には決して入ってこない。「シモン様が、そろそろいらっしゃるようにと」
「わかった。すぐいくわ」
ヘレネは寝台から体を起こし、裸の体を丈の長いドレスに滑り込ませた。


「プラトンの語ることであるから、貴様らも知っているだろう。魂と身体というのは別れたもの。聖なる魂は天使の創った愚かなる物質世界から分離され、救済されねばならない……」
その日もシモンはヘレネを連れて演説をしていた。ヘレネはいつも通り、彼の後ろから民衆をぼんやり眺めていた。陶酔した人々の表情は、ヘレネはあまり好きではない。生気が感じられない、と言うのが正直な感想だった。それどころか、演説しているときのシモンにすらどこか人間的な色が抜け落ちているようにヘレネは感じていた。かえって、毎晩自分を抱いているときのほうが彼はずっと人間らしい。しかし、神であるからには人間らしくないのも当然かもしれない、とヘレネは適当な結論を出した。
ふと、彼女の耳が異質な音をとらえた。足音だった。
何故異質と感じたのかといえば、その足音からははっきりとした生気が感じられた。足音ははっきりと自分達のほうに向かってくる。
「それは違うな。人間の肉体と魂は不可分だ。魂のみの救済などあり得ない」
ふと、シモンにも負けないほどはっきりとよく通る声が聞こえた。シモンが不意を突かれて言葉を止める。それと同時に、群衆もざわめいて声の方向を向いた。
一人の青年が立っていた。粗末な青色のチュニックに黄色いマントを羽織っていた。首から、金属製の鍵を皮ひもで下げていたが、見たことの無い金属だ、とヘレネは感じた。そして何より、彼の大きい目は生気に満ちていた。
「ペトロ!?」
シモンが叫んだ。
「お前達、騙されるな。その男はペテン師さ。そいつの語る至高の神など嘘っぱちだ。神はゼウスでもヘルメスでもなくただ一人、それは事実だ。だが断じて神はそいつじゃない」
ペトロと呼ばれたその青年は群衆の隙間をぬってそう言いながら、シモンのもとに歩いてきた。
「ペトロ、貴様!」
「救済の日、神に従った者はその肉体とともに復活し、神の国へと迎え入れられる。おれ達の主、イエス・キリストの教えだ」
シモンはヘレネを後ろに庇うようにすると、自分の目の前に立ったペトロに仁王立ちで相対した。
「貴様、どこでもおれを邪魔しおって!」
「お前だけを邪魔しているわけじゃないさ。おれの使命は主の教えを広めることだ」ペトロはシモンにそう言った。「お前が神だって?神はただお一人だ。断じてお前じゃない。ましてやこの世が邪悪な天使に創られたって?この世をお創りになったのは神だ。物質世界を創り出されたのも神だ。だから物質世界が不完全な存在などと言うのはありえない。全ては神の被造物であり、賛美される存在だ」
「そうとも!」と言う声が聞こえた。気が付くと、広場に集まっている民衆ほどではないが、何人かの人がペトロに続いて広場に入ってきていた。おそらくは、ペトロの仲間だろう。
「おれが神ではないだと?口を慎め、キリスト者が!おれはあらゆる術を操る、おれは大能だ!貴様風情おれの前に跪く存在なのだ!」
「術ができるからなんだ?そんなことは神の本質じゃない!お前は自分の奇術を自分の神性の証拠にしているようだが、そんなこと手品師にもできるじゃないか。神の所業とはそのようなことじゃない。シモン、おれにはお前こそが傲慢さゆえに自らの被造性を否定しているように見えるがね」
ヘレネは嫌な予感がした。このペトロという男のために、シモンは尋常ではないほど頭に血が上っている。シモンをここまで怒らせるこの彼は何者なのか、ヘレネには見当もつかなかった。
「黙れ!今日こそその口、ふさいでやる!」
悪い予感が当たった。シモンはもはや、民衆の事は意に介していなかった。彼が咆哮を上げると、たちまち広場は夜のように真っ暗になり、雷鳴がとどろいた。広場中の人々がどよめく。その途端、広場にあるアテナ像が動き出した。彼女の盾にはめられたメデューサの首がぎろりとその血走った眼を見開き、蛇の髪が鎌首をもたげる。アテナの肩に乗る梟が不吉な雄叫びを上げた。混乱状態になった群衆は、悲鳴を上げて広場から出て行った。アテナは槍を持つ腕を上げると、その槍をペトロめがけて振り下ろした。
ヘレネは怯えてシモンの後ろに隠れた。
しかし、彼女の心を満たすものはいくらもしないうちに恐怖から疑惑に変わった。いつまでたってもペトロの悲鳴が聞こえない。ヘレネはそっと顔を出してみた。そして驚いた。
ペトロは微動だにせず、その場に立っているだけである、しかし、アテナ像は彼の事を攻撃できないのだ。彼女が攻撃の姿勢をとったまま、また元の彫像に戻ってしまったように、動かない。彼の頭の上に、火が燃えているようにヘレネには見えた。
「イエス・キリストの御名によって」ふと、ペトロが口を開いた。「彫像よ、元に戻れ」
ふっと、彼の頭の上に浮かぶ火の光が強まり、全てを真っ白に染め上げた。そしてその光が消えた時、暗雲も、雷も消えて、アテナ像は元通り、ただ直立した姿勢の大理石の像に戻っていた。
「ペトロ、貴様……」
シモンは屈辱に満ちた声でそう言った。
「シモン、諦めろ」ペトロが告げる。「お前がなにをしようと、聖霊の力にはかなわない」
興奮状態のシモンをさっと何者かが抑えた。メナンドロスだった。彼は「シモン様、帰りましょう。ヘレネ様、一緒においでください」と言い、半ばシモンを引きずるようにしてその場を立ち去った。
ヘレネはまだそこにぼんやり立っていた。ふと、ペトロと目が合った。
「あなたはだれ?」
と、ヘレネが問いかけた。
「なんでシモンさまをしってるの?」
風が吹いて、彼の黄色いマントを揺らす。彼が口を開きかけた時、メナンドロスの「ヘレネ様!」という声が聞こえた。その声がやたらと鬼気迫っているので、あわててヘレネも答えを待たずにメナンドロスの後を追った。ふと、自分の足元に落ちた薔薇の花弁に気付く。
彼女は驚いて花冠を取った。薔薇の花はみんな、元通り暖かそうな赤色に変わっていた。

「あのひとはだれなの?」
夜に、寝台の中でヘレネはシモンに聞いた。
「おれの敵だ」
不愉快そうにシモンが答えた。
「ヘレネ、お前、キリスト者を知っているか?」
首を横に振ったヘレネに舌打ちし、シモンは続けた。
「数年前、イスラエル中を騒がせてた男がいるのさ。自らを神の子であり、ユダヤの救世主と名乗った男がな。ユダヤ議会の不興を買って最後には哀れな十字架刑で命を落としたが。ただ、そいつの事を今でも本物の神の子だと信じて教えを広めている馬鹿で物分かりの悪い集団がいるのさ。それがキリスト者だ」
ヘレネは一つ一つ、一生懸命聞いていた。自分はそのような男の噂は聞いたこともない。もっとも、ほとんど娼館から出なかったから何も知らなくて当然なのだが。
「奴はキリスト者のリーダーなんだ。その男、ナザレのイエスの一番弟子だったからな」
シモンは忌々しそうに語る。「もっとも!今はユダヤ議会に追われて逃亡生活を送っているらしい。だからアテネに来ていたんだろうがな!」
「わかったわ。でも、なんでシモンさまのてきなの?」
「それはな!おれがイスラエルにいたころ、おれをペテン師だなんだと言って失墜させたのがあいつだからだよ!」
シモンの語るところによると、彼がヘレネに出会う前に宣教活動をしていた頃、ペトロがやってきて今日の一件のようなことを起こし、そのせいでシモンには信者が一部を除きほとんどいなくなってしまったらしい。
「どこでもおれの邪魔をしやがって!あいつめ!」
急に彼はヘレネにのしかかるように彼女を抱きすくめ、彼女の首元に噛みついた。彼の苛立ちが体中から感じられた。ヘレネは黙ってそれを受け入れた。
誰かにこういう表情をされるのは久しぶりだな、と思いながら、彼女は月明かりに照らされた青い薔薇を見ていた。


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