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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第三十八話


巨大な火が燃やされ、まだ日の出ているエン・ロゲルの地に一層の光が湧き上がった。「アドニヤ様万歳!」「アドニヤ様万歳!」と、言う声が響き渡る。
エン・ロゲルのアドニヤの地所で行われている宴会。護衛兵たちと、戦車と、馬と、招待客がずらりと並ぶ端っこにはひっそりと、アビシャグが来ていた。結局、アドニヤの言った通り、彼女は彼女が聞いたことを誰にも言うことはなかった。誰にも言わないまま、アドニヤが父を裏切り、全てを裏切るのを黙って見ていた。
ヨアブは真剣な表情で、彼の連れてきて護衛兵の中心にいる。アビアタルも結局最後まで渋ってはいたものの、大人しく言うことを聞いて、生贄の儀式を終え祭壇を降りたところだ。
エン・ロゲルにはゾヘレトの石と名付けられた大石があり、その土地の周辺をアドニヤは所有していた。彼はそこに祭壇を組み立て、肥えた家畜たちを生贄に捧げた。
めらめらと燃え盛る獣たちの躯は、やがて灰になり、消えていく。家畜であるということはつまらぬ一生だ。アドニヤは生贄を見るたびに、つくづくそう感じる。
「父はもはや死人も同じ。ぼくは父の座を継ぎ、今、ここで王となろう」
彼は威厳に満ちた声で高々とそう言った。この声すらも、作り声だ。熱狂する宴の客人たち。彼は、王宮に仕える高官や自分以外のダビデの息子たちすらみんな招いた。そして、その悉くが参加し、今こうして自分をほめたたえているのだ。ダビデの王子たちなど、本来ならば王位継承のライバルであるはずである。にもかかわらず、彼らは、アドニヤが王となるのを支持していた。むろん、アドニヤは彼らにも、信頼されるように気を配って生きてきたのだから。
ぶすぶすと肉の焦げる音が聞こえる。おそらくいずれ火も消えるだろう。日が暮れる頃にでもなれば。無残に消えゆく動物の体を見て、彼はふと、昔、誰も友達がいなかったころに自分がやっていた遊びを思い出していた。あの日の加虐心が刺激されるような思いだった。
周りの喧騒は彼にとって、酷く虚ろなものに聞こえる。アドニヤには、彼らがいたって本気で、大真面目にアドニヤを賛美していると分かるのに。だが、アドニヤは感じていた。自分は何も変わっていない。残酷で、孤独で、誰にも好かれなかった子供の頃の自分と、今の自分は何も違わない。優しい王子を演じてきた。誰にでも信頼される、理想の王子を演じてきた。しかし、ついぞ、自分の芯はそれになれないままだった。
どれほど、なりたかったことだろう。本当に愛される存在に。しかし、それはできなかった。いくら演じ続けても、仮面は仮面のままだった。彼自身は自分勝手で冷たい心を持ち続けたまま、周りがどんどん、彼ではない彼の姿を求めてきたのだ。
彼らが崇めているのはアドニヤではない。アドニヤが作り出した王子の仮面だ。しかし、アドニヤはそれでもいい、と感じていた。
「(おれはよく知っているもの。本当のおれなど愛されなくてもいい!愛される価値などないんだ!おれだったら、絶対に愛さない。ただ残忍なだけの子供など。おれでないものを崇めるのなら、崇めるがいい、愛するがいい。まんまと騙されているがよい。いくらそう言おうとも、仮面ではないおれの方は、お前らを愛しはしないのだから。おれは誰も愛せない。誰も愛さない。愛し愛される幸せなど、求めるのはもういやだ。見るがいい、おれは王だ。おれを愛するがいい。王を愛する、お前たちはそれを望んできたのだ。おれはよく知っているぞ、愛する者に愛されない苦しみを。お前たち全員、その苦しみに落とされろ。おれはそれが、愉快でたまらないんだ)」
めらめらと燃える火の熱をアドニヤは後ろで感じていた。彼は息を吐く。そうだ。演じるのだ。今までも、これからも。
誰も彼自身を愛さない。だから彼も、誰も愛さない。ただ愛しているふりをするだけだ。
アビシャグはあの後、結局、関係を続けていくことを選んだ。もう、妻にしてくれなどとは言わない。ただ、愛人になってでもアドニヤに縋り付くことを望んだ。彼女が恋をしていたのも、王子の仮面に過ぎないのに。ただ、彼女は、その仮面と同じ顔をした人物でもいいから、縋ろうとしたのだ。それほどにまで、彼を愛したのだ。アドニヤにはそれがわかっていた。そしてアドニヤは、彼女をこの上なく嘲笑した。
むなしい喧噪、無駄な賛美。だが、不思議だった。アドニヤはそれを受けて、全く、自分のしたことが虚ろなものであると失望しはしなかったのだ。王になるとはこんなものか、と言う考えなど全くもたずに、彼は確かに、満たされていたのだ。自分が今までの人生を賭け追い求めてきたものを、確かに得たのだという感覚があった。
アドニヤにはわからない。彼は果たして、王位を求めることで愛を求めてきたのだろうか。愛されたかったのだろうか。それともただ単純な愛の関係ではなく、愛されても愛しはしない、そんな関係を何よりも望んでいたのだろうか。それともこんな問答は全くの無駄で、彼はただ平凡な自己顕示欲と名誉欲、野心のためだけに、必死で王となることを求めてつき動いてきたにすぎないのか。
彼は一息つき、生贄を燃やす煙の立ち上る先を眺めて、まるでその先に言葉を突き刺すような思いのもと、心の中でつぶやいた。
「(一つ、確実に分かることがあります。例えあなたがそうおっしゃらずとも、おれが思います。おれは、勝利しました。おれを苦しめてきた何者かに。それは果たして、誰であったのか。人間なのか俺の両親か、悪魔か、運命と名のつくものか、あるいは……あなた自身だったのか。おれはただの人間です。そんなものは分からない。しかし、おれは確かに、この荘厳な空虚がほしかったのです。おれの生は今、報われました。感謝いたします。この瞬間をお与えいただいたあなたに、感謝いたします)」


「アドニヤ王子はどこにいる?」
「エン・ロゲルで宴を開いております。今日、あの方が王となるために」


喧騒の音がダビデに聞こえた。ダビデの耳があるかどうか、ダビデ自身にはわからない。わかりたくもない。わからないが、聞こえた。
「あれは何の音だ」弱々しく、ダビデは言った。そばでは、アビシャグがいないので、バテシバが看病をしていた。
「アドニヤが王になったと言っているのです」静かな空間に、彼女の声が鮮烈に響いた。「ダビデ王、貴方が約束していただいた通り、私の息子が王になるのです」
「ああ、そうだな。お前は全く幸福な女だよ。バテシバ」彼は言った。「お前の息子は、王になるのだ。お前は王の母だ。お前はダビデの系譜の中に、その名を留める女であった」


宴も進み、やっと彼らが食事をあらかた終えたころ、日が暮れた。アドニヤはそろそろ宮殿に帰り、即位を行おうと思い立った。
その時だった。何かの音がする。角笛の音だ。町の方から聞こえてくる。
「何故、町がこんなに騒がしいのだ?」言ったのはヨアブだった。
彼の刺すような声に呼応するように、転がり込んでくる一つの影。アビアタルの息子、ヨナタンだ。所用で少し、宴の席を外していたのだ。彼は顔を真っ青にし、信じられないものを見たという体だった。体中をがたがた震えさせ、冷や汗をかくあまり濡れ鼠になっていた。
「どうした」アドニヤは言った。「良い知らせだろうな?」
ヨナタンはぶんぶんと首を横に振った。そして、絞り出すように言った。
「町に、軍隊が来ております。小さい軍隊ですが。その……その、先頭にいるのが……」
「軍隊?」アドニヤは反応する。ヨナタンはそんな彼には特に構うことなく、途切れ途切れに続けた。
「……ソロモン王子様なのです。見間違えようもありません。白い体に赤い目をして、黒いマントを着ておりました。そして……ソロモン様に付き従っている者どもは、『ソロモン王、万歳!』と、角笛を鳴らし、言っているのです。ソロモンが……帰ってきたのです。アドニヤ様」


その言葉に、その場が凍りついたことは言うまでもない。ソロモンが帰ってきた。もう彼が行方不明になってから三年以上もたつというのに。
うろたえようは千差万別だった。ソロモンが王位継承者であったと知らないものは、ただ行方不明の王子が帰ってきたということに驚き、そして、彼がなぜ自ら王と名乗っているのかに不信感を持った。彼の継承権を知るものは、彼が何とか生き延びて帰ってきて、今継承権を主張し、アドニヤから王座を奪おうとしているのだということが分かり、それに対してうろたえた。そして、一番困惑し、起こっていることを受け止められないものが四人いた。アドニヤにヨアブ、アビアタル、アビシャグだ。ソロモンは死んだ。なのになぜ、この場に来れるというのか、確かに見たのだ。ソロモンが息を引き取るその瞬間を。
角笛の音はどんどん大きくなる。客人たちはパニックになって散り散りに逃げだし始めた。恐怖に駆られる余りだ。アビアタルは急いで息子とともに帰ろうとした。だが、彼らが帰途につこうとしたその瞬間、彼らは、宴席の場が一小隊に包囲されていることに気が付いたのだ。
アビアタルは逃げることをあきらめ、後ずさりしながらもといた場所に収まった。自分と同じように、逃げ遅れた客人たちも同様だ。ヨアブは顔を青くしながらも、それでもなんとか、自分の護衛兵たちを指揮しようと自分を奮い立たせていた。当のアドニヤはと言うと、彼は不思議なことに、その場から一歩も以後いていなかった。動けなかったのだ。まるで足が凍りついてしまったかのようだった。
やがてずらりと、全貌が姿を現した。百人ばかりの兵隊に囲まれ、一人の男がゆっくりと、足音を全くさせない足取りでアドニヤの前に進み出た。黒いマントの下に着た見違えるほど立派な衣装。小綺麗に整えられた長髪。記憶にある彼の姿は、これよりももっと惨めなものだった。しかし、自分の方を見る切れ長の鋭い目の赤さを、まさか間違えるはずもない。彼は、ソロモンだった。信じられるはずもない現実が、無慈悲なまでにアドニヤの前に立ちはだかった。自分が殺したはずの哀れな弟が、今、目の前に立ち、彼を怨嗟の眼で射すくめているのだった。確かに彼はソロモンであると分かっているにもかかわらず、その威圧感は、昔自分に心を許していた十四歳の少年とは、くらべものにもならなかった。

「ソロモン……」
アドニヤは、言葉を詰まらせたように、そう発した。かける言葉など、見当たらない。彼が自分を恨んでいることは、明らかであった。
アドニヤはじわじわと、自分の体からどんどん血が抜け落ちていくような思いを味わった。体中が凍りつく。先ほどまで希望に満ちていた体が、一気に絶望に満たされていくと分かった。
ソロモンはすっと、赤い指輪のはまった手をその場にいる全員に差し出した。そして、それを見せられた彼らは委縮して縮こまる。
「ここでアドニヤが、王位を継ぐための宴を開いていると聞いた」ソロモンは演説するような口調で言った。
「誰がそれを認めたのだ?ダビデ王が認めたか?この私、正当なる王位継承者、ソロモンを差し置いて?」
彼の声は冷たく、重く響き渡った。正当なる王位継承者、彼は確かにそう言った。そして確かに、ダビデが王位を認めたものにのみ与える指輪、アドニヤすら所持していなかったそれを、ソロモンは持っているのだった。
逃げ遅れた客のうち、ソロモンがその指輪を引き継いだなどとは知らないものは、混乱してざわめいた。
「私の問いに答えよ。この私、ダビデから指輪を受け継いだ王位継承者、ソロモンを差し置いて……私を、王座欲しさに殺めたその兄弟殺しが、王座に就くというのか」
アドニヤは息苦しさにすら襲われた。言い訳をしなくてはならない。だが、言葉が出ない。息を少しずつ、吸って吐くのがやっとだ。まるで水におぼれているかのようだ。アドニヤがソロモンを殺した。そのことを聞いて、いよいよ会場は混乱にどよめく。それはそうだ。彼らは、このことを知らない。
ソロモンが静かに手で合図をした。現れてきたのは、ベナヤだった。
「皆さん、聞いてくれ!」ベナヤは言った。
「俺は見たんだ。ここにおわすソロモン様がいなくなった前夜、俺は、アドニヤ様とヨアブ将軍が、彼を暗殺するのを見た!」
「そして、私から証言しよう!」ザドクが言う。
「この指輪が証明する通り、ダビデ様は彼こそを王位継承者とする予定だった!そのために彼に油を注ぎ、教育を施していたのだ!祭司長アビアタル様、貴方もご存じのはずだ!あなたが、彼に律法を教えたのだから!」
二つの事実を、彼らはぶちまけるように言った。ベナヤが続ける。
「分かるだろう。アドニヤ様は弟を殺して自分が王となるために、ソロモン様を暗殺したんだ!だが、その暗殺は未遂に終わった……この方は、生きながらえたのだ!そして、異国の地で復讐の時を待っていた!」
「ご苦労だった。ベナヤ」ソロモンが、ベナヤの言葉を遮った。あとは自分で話すとでもいうように。
「そういうことだ。そして私は、今舞い戻ってきた。今度こそ自分の継ぐべきもの、イスラエルの王座を手にするために。そして……私を殺した兄に復讐するためにな」
アドニヤは視界が歪んだ。まともな景色が見えない思いだった。自分が今まで隠してきたものを、何もかもぶちまけられてしまった。何もかも、自分の凶行が知られてしまった。
誰もが、そのことを疑いはしていなかった。ソロモンとベナヤ、ザドクの鬼気迫る雰囲気、そして唯一真実の言葉だけが持ち得る説得力に、彼らは完全に飲まれていた。
ソロモンがきっとアドニヤの方を見た。彼の瞳は、兄を見る目ではなかった。憎たらしい政敵を相手にする目だった。
「あ……あ……」震える声で、アドニヤは何かを言おうとした。だが、言葉は出てこない。無駄なうめき声が出るだけだった。
「おのれ、よくもぬけぬけとそんな作り話を!」
沈黙の中、そのような果敢な声で空気を引き裂いたのは、ヨアブだった。
「アドニヤ様が兄弟殺し!?よくもそんなことを言えたものだな、死にぞこないの悪魔の子め!皆様、騙されるな!こやつは嘘をつき、アドニヤ様を貶め、玉座を簒奪せんとしているだけだ!悪魔の子がやりそうな、卑劣な手ではないか!」
「ヨアブ将軍よ、貴方はどうも、いささか耄碌しすぎてもはや周りを見る目もないと見える」ソロモンは冷ややかながらも、明らかに敵意を込めた口調で、彼にそう言った。
「周りをよく見ろ。誰も、貴方の話なぞ信用していないぞ!」
ソロモンの言葉の通りだった。ヨアブの言葉に便乗して、ソロモン達を責めるものなどいない。
ヨアブは、行き場を亡くした視線をベナヤに向けた。
「ベナヤ、あのコソ泥はお前だったのだな……」
彼の視線はまるでただそれだけでもベナヤを殺せそうなものだったが、ソロモンはベナヤの背中をポンとたたき「ああ、そうだ。それで、人殺しに泥棒を非難する権利があるのかね?」と、ヨアブを負けじとしっかり見据えて言った。
「今でもはっきりと思えているぞ。貴方に切り付けられた瞬間は」
「お前たち!」ヨアブは叫んだ。「何をボサボサしている!アドニヤ様を裏切り者からお守りせんか!その命に代えてでも!」
彼は、自分の連れてきた護衛兵たちにそう言ったつもりだった。しかし、遅かった。護衛兵たちは全員、ソロモンの連れてきた兵隊達にとっくに押さえつけられていた。
ヨアブは言葉にもならないうめき声を上げる。そして、自ら剣を抜き、ソロモンに切りかかってきた。ソロモンは、その場を一歩も動かなかった。それで傷一つつくことはなかった。ベナヤが盾を差し出し、ソロモンを守ったからだった。
「おのれ、ベナヤ……」
「ヨアブ将軍、悪いが、俺ももうあんたには我慢ならない!」
彼は自分も剣を抜いて、ヨアブに応戦した。その時、一瞬の事だった。ソロモンはぎろりと、ヨアブを、激しい憎悪の念を込めて睨みつけた。
ヨアブは、歴戦の軍人だ。今さら、睨みつけられるだけで隙ができるなどあり得ないはずだった。だが、今までに戦ったどんな敵よりも、ソロモンのそれは恐ろしかった。心火が燃えるあまり彼の血の海のような目が、暗闇で化け猫のように輝いたかのようにすら思えた。
彼は一瞬、びくりとすくんでしまった。ベナヤはそれを見逃さなかった。一瞬の隙をついて攻撃した衝撃で、ヨアブの剣は彼の手を離れて、飛んで行った。すかさず、アンモンの兵隊の一人がそれを拾い上げた。
「く……」ヨアブはそれでも、なおも食い下がった。
「ソロモン。このダビデの家を惑わした忌み子が……」
彼は、先ほどの眼の光の余韻がまだ残っているようだった。そうだ、さんざん悪魔悪魔と罵ってきたこの王子は、人間ではない。人間ならば、あのような目つきができるものか。あれほどにまで激しい憎しみに燃えた目つきを……。そうだ。ナタンは言っていた。これらは全て、ソロモンの呪いだと。ソロモンのせいだ。ダビデが苦しんだのも、アドニヤの人生が崩されたのも、全部全部、ソロモンのせいだ。ヨアブはそう、心の中で、ソロモンに対する絶え間ない憎しみを感じた。
「私は、お前になど屈さない!アドニヤ様を捨て、お前の手に堕ちるくらいなら、この場で死んでしまったほうがましだ!」
彼ははっきりと言った。ソロモンはその言葉を聞いて、目つきだけはそのままに、口元だけでにやりと笑った。
「ベナヤ」彼は言う。「ああ言っていることだ。せっかくだ、今、ここで殺してやれ」

彼の言葉は、重く、宴の場に響いた。彼が指を鳴らすと、アンモン兵が二人やって来て、直ちに、ヨアブを取り押さえてしまった。
その言葉を受け、一瞬怯むベナヤ。ソロモンは続ける。
「奴がダビデの家のため、アドニヤのためと流した、理由もなき血を拭い去るがよい。ヨアブ、お前の死を持ってイスラエルはますます平和に栄えることだろう。お前が流した血の報いは、今ここになされるのだから」
彼はそう言い終わり、ヨアブを見下した。そして、ベナヤに向き直る。
「私の命令だ。ベナヤ。ヨアブを殺せ。誰よりもイスラエルに忠実だった、この人殺しを」
ベナヤはっきりと実感した。この言葉から逃れることは、許されない。
彼は押さえつけられたヨアブのもとに歩みを進め、刃を翻した。
「ヨアブ将軍。許してください」
ヨアブは、震えながら、憎悪に燃えていた。恐怖すればいいのか怒りを覚えればいいのか、もはや彼自身にも分かっていないようだった。その目は、ソロモンを見ていた。ベナヤには彼の眼に、ソロモンはまるで、会ったこともない恐ろしい悪魔に映っているのだろうと思った。輝く刃が振り下ろされ、断末魔の悲鳴とともにソロモンの眼にも似た赤色が噴水のように迸った。その血もやがて地面に落ち切り、ヨアブは息絶えた。

宴会場は再びパニックになる。兵隊たちがヨアブの護衛兵を抑えているのもあって、逃げ遅れた招待客たちもほうほうの体で逃げ出した。アビアタルも同様だ。ソロモンは兵隊たちに、追わないでおけと言った。それは、肝心のアドニヤ一人はそこに残っているのを見たからだ。
ヨアブの血を受けた彼は、自分の顔についたそれを軽く袖でぬぐうと、「お久しぶりですね。お兄様」と言った。周りの兵たち立は再び陣形をくんで、アドニヤの逃げ場はもうどこにもない。
「ひっ……ヨ、ヨ、ア……ブ……」
ヨアブの死を受けて、彼はもう、今にも気を失ってしまいそうだった。走ってきた犬のように息はとぎれとぎれで、瞳孔は開いている。
ソロモンはそっと、彼の前に立ちはだかった。
「ソロモン……ぼ、ぼくは……」彼は震える声を、押し出すように言った。
「ぼくは、お前を愛してやったじゃないか!だれからも化け物と言われていたお前を!そんなぼくを殺せるか!?殺せないだろう!ソロモン、おれを許せ、お前をまた愛してやるとも!だってそうだろう、お前は愛されたい!おれは誰よりも、それを知っている!」
「お兄様。一つ伺いたいことがあります」ソロモンは言った。「今日は、何の日ですか?」
「え……?」
少しの間が開いた。そののち、ソロモンはふうと息をつき、そして、少し悲しげにすら思える声で、言った。
「今日は私の、十八歳の誕生日です」
ソロモンはもう一度、腰を抜かして倒れている兄に向って言った。
「あなたの言った通りだ。貴方は、私を愛してなどいない。偽りの方法ですら、私を愛せない。結局、私の誕生日を忘れる程度にしか、貴方に私を愛する力はないのだ」
彼はふと、手をふった。そして、アドニヤはぎょっとした。兵隊たちがじりじりと、彼ににじり寄ってくる。
「お兄様」ソロモンは言った。
「貴方の髪の毛一筋さえ、この地に落としたくはなかった」
アドニヤには、無論のこと分かった。彼が次に何をしようとしているかを。
「や、やめろ」アドニヤは言った。
「止めろ、やめてくれ!頼む!!」
ソロモンに聞く様子はなかった。言葉にこそしなかったが、彼はこう思っていたのだろう。貴方は、あの時私がそう言ったら止めてくれたのかと。
自分に付き従っていた弟は、今や復讐の鬼と化したのだ。アドニヤはそれが、ありありと分かった。
彼は腰が抜けて動かない体を引きずりながら、逃げようとした。周りには何も見えない。彼の視界にあるのは、ソロモンだけだ。何も聞こえない。何も感じない。ただ、ソロモンから逃げねばと、彼の思考にはそれしかなかった。おそらくはナメクジのような歩みだったのだろう。それでも彼は、心臓がはちきれんばかりに逃げているつもりだった。

ふと、彼の周りの時間が止まったようになった。ソロモンの視線すら感じない。ここは、どこだろうか?真っ暗な空間の中にいるようだ。全ての感覚が止まった謎の空間。そこに彼は置かれていた。
彼は言いあらわし様のない不安に襲われ、まわりを見渡した。すると、ふと、目の前に立っている人物に気が付いた。その人物を忘れるはずもない。黒いマントを翻し、派手な踊り子の服に身を包んだ金髪の美青年。ただ、前に見た時とは違い、彼は背中に大きな真珠色の翼を生やしていた。
「お前は……」
「ベリアルだよ。お会いしたのは二回目だね、アドニヤ王子」
彼はそう、ひょうひょうと語りかけた。
「お前は……そうだ。お前に問いたいことがあったのだった。お前が来てから、お父上はおかしくなった。あれは、お前のせいだったのか」
彼はその言葉に、静かに笑った。
「お父上だけじゃない、ヨアブも、ナタンも、あれ以来おかしくなった。バテシバも、おれの母も、異常に取り乱すようになった……そうだ。お前だ。お前が来てから、イスラエル王宮はおかしくなったのだ。ベリアルとやら。あれは、お前のせいだったのか。全て、お前がおれ達を呪っていたのか」
ベリアルは軽く笑って、言った。
「ボクのせいでもある。そして……神様のせいでもある。だって、この世のすべての定めを決めているのは神様で、実際に君たちに呪いをかけて、狂気のどん底に落としたのは、このボクだからね」
「どうして」彼は言った。
「お前は、おれ達に何の恨みがあったんだ?」
「恨み?恨みなんて、何もないよ。ボクはただ、ボクのやることをするだけのつまらない存在さ」
「お前のやること?」
「ああ、そうさ」
ベリアルはアドニヤの頬をそっと撫でて、彼に顔を近づけて軽やかな口調で告げる。
「運命は、いつでも変わったよ。神様はいつでも変えられたもの。……もしも……もしも、君たちのうち、誰でもいい、誰か一人があの子を、ソロモンを、心の底から愛して抱きしめてあげたなら、こんなことにはならなかった。でも、誰ひとり、結局それはやらなかった。だからこうなった。……それだけの話さ。アドニヤ王子。君たち人間は所詮、それだけの存在なのさ」
そういって、ベリアルはふっと手を離した。すると、今までアドニヤの体を支えていた何かは消え、彼の体は奈落の底に堕ちていった。そう、アドニヤには思えた。

アドニヤがふと気が付いたとき、彼は生贄の祭壇の上にいた。意識もおぼつかないまま逃げるうちに、こんなところに来てしまったのだろう。ソロモンがいる。彼の連れている兵隊もだ。祭壇の上、自分の体が動かない。殺される。早く、こんなところから降りないと。しかし、足が動かない。その時だった。
ソロモン達はなぜか上を見ている。上?上に何かあるのだろうか。
気が付けば、空の上にはいつの間にか、黒雲が渦巻いていた。そして、その中に光るもの。
アドニヤははっとした。しかし、次の瞬間だった。黒雲から真直ぐに稲光が降ってきて、轟音と共にアドニヤの体に直撃したのだ。
体が破裂するほどの衝撃の中、アドニヤは、ものをいう間もなく、あっけなく死んだ。後には、火が燃えた。


ソロモンは目の前に起こったことを、非現実的な思いで見ていた。
殺そうとにじり寄ったアドニヤは、ふらふらと、来るな、来るなと呟きながら、祭壇にその足を進めた。よっぽど、彼が錯乱しているのだろうと思った。
しかし、祭壇に昇ったアドニヤは、その場で何かを見たようだった。彼は、自分たちなど意にも介さず、目に見えぬ何かと、わけのわからない言葉で話し始めた。その時、気が付けば空に黒雲が沸き起こり、落雷が起きるかのような空気になり始めた。
そしてアドニヤが正気を取り戻したと思えた瞬間、落雷が彼の頭上に降り注ぎ、彼を一瞬のうちに殺してしまったのだ。
祭壇はよく燃えている。まるで、生贄の動物を燃やすように。
一体何が起こったというのか。ソロモンには理解しがたかった。アドニヤの、あの愛した兄の体を燃やす火は、なぜ燃えているのだろうか。祭壇には薪もない、油も撒いていないというのに、その火は延々と燃え続けていた。

「ソロモン」
ふと、自分を呼ぶ声がした。
「ソロモンよ。新しい、イスラエルの王よ。私はお前を祝福しよう」
厳かな声だった。自分が今まで、聞いたこともないような声。ソロモンはなぜか、その声を聴くと、これまでの人生で感じたこともない安らぎを感じるような思いだった。
ソロモンはふと、声の主の見当がついた。なるほど。全ての説明がつくだろう。急に雷を落とし、アドニヤを殺し、燃えるはずもない火を永遠に燃え上がらせることができる者。ソロモンはふっと、表情を柔らかくした。
「なるほど……つまり、貴方なのか。イスラエルの神よ」
天使を自分のもとに使わした者。自分をイスラエルの王に選んだ者。彼が、今、ここにいるのか。今ここで、生贄アドニヤを受け取っているのか。
ソロモンは不思議な思いに満たされた。嬉しさとも違うが、憎しみと言うわけでもない。ただ、妙な安らぎがそこにはあった。誰も信じないし、誰にも頼らないという自分の信念を、そこでなら忘れてしまいそうだった。周りの空気が温かい。冷たくとがった彼の心を、今ここでのみ、解きほぐしてくれるかのような雰囲気が、その声にはあった。全く非人間的で漠然とした、人間では到底出せない暖かさだった。
「ソロモンよ。祝福を授けよう。お前の望むものを言うがよい。私はお前に、それを授けよう」
聞こえるのは声だけだ。目の目では、アドニヤが黒こげになり、天に向かっているところがありありと見えている。熱風に、自分の顔すら焦がされそうなものだ。だが、ソロモンは退かなかった。焦がしはしない。彼ははっきりと、そう確信していた。
「望むもの……貴方は、それをご存じのはずだ」
ソロモンはそっと、目を伏せて、小さな声で言った。
「富も、敵の死も、長寿も、私はいらない。……その程度のもの、何もいるものか!あなたは見ていたはずだ、貴方に願わずとも、私はそんなもの、いくらでも手に入れられる!今までも、これからも!私は自分ですべてを得られる。貴方はそれを見てきたはずだ!普通の体になりたくもない!そんなものは無意味だ!私は私なのだ、悪魔と呼ばれる異形の身でも、私はここまでになれたのだから!ああ、全能なる神よ、私が唯一、私の力で得たものではないものを与えてください。私はもっと知性がほしい。もっともっと、賢くなりたい。全てを、思いのままにするために。このイスラエルの王として君臨するために、私に、何にも勝る知性をください。貴方が最初の人類に、最も与えるのを拒んだものを、この私に与えてください」
火の柱が巻き起こる。「承知した。見よ、私はお前に、今まで以上に知恵に満ちた心を与える」と、声が聞こえた。
「ダビデのもとに行くがよい。彼の命は、もうすぐ消える。行って、彼の言葉を聞くがよい。私はお前に約束しよう、ソロモン。わが目にかなう、賢く、強きものよ。お前の生涯にわたって、お前より偉大な王はどの国にも現れはしない。お前が私の道を歩む限り、お前は生き続けるだろう」
彼の声は、あくまで重々しく、厳格であった。にもかかわらず、それは、ソロモンを安心させた。どこか、彼が、ソロモンが今この場に立っていることを喜んでいるような感触すらソロモンは味わったのだ。
声はぷつりと途絶えた。空気は元通り冷たくなり、ソロモン自身もまた元のつららのような心の人間に戻っていくのが、彼自身にはわかった。
「(主よ……)」
ソロモンは、頭を数度振って、気持ちを取り直した。そして、元通りよく通る声で、兵隊たちやベナヤに告げた。
「イスラエル宮殿に向かう。アドニヤが死んだ今、ここにはもはや用はない」


「ああ、高貴なお方、どこへ向かわれますか。もし、よろしければ、ここにおわすダビデ様のお子様を受け取ってください。この子を養ってくださいませ。哀れな子なのです。誰も、この子を愛せないのです。きっと貴方様ならできるでしょう。高貴なお方。お願い致します。この子の父はもうすぐ死にます。どうか、彼の代わりに愛してくださいませ」
ソロモン達がギホンの泉を通りかかった時、そう言いながらふらふらと出てきたその気の振れた乞食坊主の正体を、ソロモンは最初、分からなかった。彼は何日も食べていないかのように痩せ衰えて、何もない空間にある何かと手を必死につないで、まるでそこに子供がいるかのように話していた。
だが、ソロモンが彼の顔を見た瞬間、ソロモンには彼がわかった。彼は、ナタンのなれの果てだ。あの、自分の教育係の。
何故、彼がこんなところでこうしているのか。そんな疑問は問いかけても、無駄のように思えた、ナタンは必死で目に見えない子供を世話しながら、ソロモンに語りかけた。
「高貴なお方。お願い致します。貴方様だけが、この子を愛せるのです」
「その子の名は」ソロモンは言った。「ダビデとバテシバの子、ソロモンか」
「はい、そうでございます」
ソロモンの眼に、ふと涙が伝った。幼い自分。誰にも、抱きしめてはもらえなかった。
ソロモンは、乗っていた馬の上から手を差し伸べた。ナタンはそれに喜び、いもしない小さなソロモンを彼の手に渡した。彼は、それを抱きすくめた。彼の手は虚空を切るだけだったが、それでも、彼は、涙があふれた。
「愛するとも。愛するとも。この世の何よりも。お前よりも、この子の両親よりも、私はこの子を愛しよう」
「ああ、その言葉を聞いて安心しました」ナタンはやつれた顔を安堵の色に染めて、そう言った。「ありがとうございます。高貴なお方。名前をうかがいたく思います」
「……私は、ソロモンと言うのだ。この子と同じ名前だ。誰よりも、この子を知っているものだ」
ソロモンは短くそう言って、そのままそこを立ち去った。何があったかは知らないが、もはや十四年間も一緒にいた自分の顔すらわかりはしないほど気の狂ってしまったナタンを、どうかしようなどと言う気は彼にはなかった。死ぬのなら、あそこで死ぬのもよかろう。どこか彼はそれを望んでいるようにも、ソロモンには思えた。彼は後ろを振り返らずに、自分の兵士たちとともに、王宮に向かって進んだ。
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