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クリスマス市のグリューワイン

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美女ヘレネ 四話

結局あの後、シモンの一行は逃げるように最終目的地であるローマに向かった。
ただ、そのローマについてもシモンのやることはほとんど変わらなかった。自分を至高の神と名乗って、民衆を不思議な力で引き付け、ヘレネは彼に付き従う女神として傍にいるだけの事である。ヘレネは多少拍子抜けだった。
それのみならず、ヘレネにはシモンの様子が出会った時とは違うのを薄々感づいていた。彼は焦っているように見える。何かと必死な様子だった。彼の術に心捕らわれる人間達は気付いてはいないようだが、明らかに彼には余裕がなかった。それがペトロに出会ったせいだということまでは、彼女には分からない。ただ、シモンが常に不機嫌なのはヘレネにとっても面白い事ではなかった。シモンが他人をヘレネに近づけたがらない以上、彼女にとって一緒にいる他人は基本的に彼だけだ。ヘレネには、自分が何かするたびシモンの癪に触っているように思えた。ヘレネのみならず、シモンはローマについてからというもののしょっちゅう他人の言動に腹を立てた。彼は八つ当たりのようにヘレネを抱く。別にヘレネにとっては娼婦として暮らしていた頃にはよくあったことだし慣れたものだから格別辛くもないが、嫌いなものは嫌いだ。それに、最近はシモンがことの最中に噛みついてきたり殴ってくることが多くなった。しかしそれで痣でもできようものならまた彼自身が不機嫌になるのだから、ヘレネはメナンドロス達におしろいをたくさん買わせるようにした。
ある日、ヘレネは彼らが住居にしている家の庭にどこからか子羊が迷い込んでいたのを見つけた。窓辺から呼んでみると、その子羊も人なつっこいと見えて、喜んでヘレネのほうに寄ってくる。ヘレネは嬉しくなって、青い薔薇を一本、彼のふさふさした毛に刺した。
「にあってるわよ」と彼女は初めて会った日のシモンを思い出して言った。子羊はすっかり彼女になついて、窓辺から出した彼女の手にすり寄ってきた。彼女も羊がかわいくなって、窓辺から直接庭に降りて羊を撫でた。
「ヘレネ?いないのか?」という声が聞こえた時、彼女は自分のそばで庭の草を食べているその羊をうっとりと眺めていた。
「シモンさま、ここよ」と彼女は窓の外から声をかけた。
彼が少し急いたように窓から首を出すのが見えた。彼は見慣れない羊に戸惑っているらしく「ヘレネ、そいつはなんだ」と問いかけた。
「まいごなの。かわいいでしょ」
「なんだお前は。そんな汚い羊ごときに薔薇なんかさして」
シモンは相変わらず機嫌が悪いようだった。彼も庭に降りると、羊をいぶかしげにじろじろ見つめた。羊は少し、シモンにおびえているようだった。
「まったく、呑気なもんだ」
吐き捨てるようにそう言うと、シモンはふと「いや、待てよ」と呟いた。
「ヘレネ、その羊の世話をしたいかい?」
シモンの唐突な言葉に、ヘレネはぱっと笑顔になって首を縦に振る。
「もしかすると、おれの仕事に必要になるかもしれん。大切にしろよ」と、彼はヘレネの頭をポンと軽くたたいた。

それからというもの、ヘレネの毎日の仕事が増えた。しかし、今までが暇すぎたのもあってヘレネにとっては楽しみが増えたも同じことだった、何よりも、シモンがいくら不機嫌でも羊は怒っていることなんてめったににない。自分によくなついて、かわいいしぐさを見せてくれる。彼は今では持ち主のところに帰る気などはさらさら無いらしく、ヘレネが運動させようと縄をほどいても大人しく庭を散歩しているだけだった。そんな羊を眺めているだけで、ヘレネは幸せだった。
「ねえ、あたし、めがみさまなのよ」
自分の足元で水を飲む羊に向かって、ある時ヘレネはそう言った。午後を過ぎたあたりで、大分暖かく、穏やかな日だった。シモンはヘレネを連れずに、弟子達と一緒に外出してしまい、彼女は羊と二人きりだった。
「みんなをあたしがつくったんだ。あなたもよ」
羊はきょとんとして、ヘレネのほうを見てメエと鳴いた。
「あなた、しあわせ?あたしがすくってあげよっか」
「救う」というのはシモンがよく使う言葉だった、もっとも、ローマに来て分かったのはそんなことを言っているのはシモンだけではなく、神を語る人間なら誰でも言っていることだったが。とにかく、「救い」を誰でも求めているのはヘレネにも分かった。
「すくわれたら、しあわせになれるのよ」
彼女は羊の頭を撫でて、そのまま抱き寄せた。羊はヘレネの顔をぺろりと舐めた。くすぐったく感じて、ヘレネは笑った。
そのまま、彼女は庭の木の陰で羊と一緒に昼寝を始めた。彼女は夢を見た。真っ白な世界で、真っ白な服を着た自分が羊と一緒に歩いている。ただそれだけの夢だ。彼女にはその空間が非常に幸福で、暖かいものに思えた。何もない、ただ真っ白な空間で彼女は永遠に羊と一緒に歩いていた。ふと、今までその空間になかった音が聞こえた。シモンの声だった。その声で、彼女は目を覚ました。
目の前に帰ってきたシモンが立っていた。
「もう夕方だぞ」彼は言った。羊はヘレネより先に起きていて、自分で勝手に草を食べ始めていた。ヘレネは夕方と聞いて、急いで羊にあげるための藁を取りに歩き始めた。

その夜、シモンはヘレネにアラバスタ製の小瓶をよこした。彼が帰りに買ってきたものとのことだった。中を開けると、薔薇の匂いの香料だった。
「今日風呂に入る際はそれを使え。最近のお前は羊臭くてかなわん」と彼は言った。
「明日は宮廷に行くんだ。お前もついてこい」
彼女が香料の匂いを嗅いでいると、シモンは言った。彼の言うことはだいたい、いつも唐突だ。
「きゅうてい?」
「ああ。今日やっとのことでネロ帝に謁見できることが決まってな。おれの力をローマに知らしめす絶好のチャンスだ。お前無しでははじまらん」
すでにローマでシモンの事はある程度有名になっていて、信者もいた。その力を試してみたいと皇帝のネロが言ったとシモンは二人だけの夕食を食べながら語った。
「それと、お前の羊も一緒に連れて行く」
シモンのその言葉を聞いて、ヘレネは驚いた。「ほんとに!?」と彼女が問うと、彼も「本当さ。必要なんだ」と返した。

次の朝、ヘレネはドレスに着替えるより早く羊のところに行って、彼を水で丹念に洗った。「すごいところにいくのよ、ちゃんときれいにしましょ」と彼女は羊をふいて、昨日使って余った分の薔薇の香料を彼に塗りながら言った。羊は彼女があまりに一生懸命に洗ったので、今では雲のように真っ白になっている。ヘレネはふと思い立つと、青い薔薇を何本も持ってきた。
「あたしとおそろいにするのよ」
ヘレネは自信満々で花輪を編みにとりかかったが、どうもシモンのように器用には編めない。とうとう彼女は諦めて、一本一本を雲の色になった羊の毛に刺し始めた。まるで雲の中に空ができたようになった羊の姿を見て「きれいよ、すてきよ」とヘレネは笑った。
「ヘレネ、まだなのか!?」
不意に窓の中からシモンの声がした。ヘレネは急いで窓から部屋に上がりこむと、「ごめんなさい」と言った。
シモンは羊を見咎めると「なんだ、ありゃ」とだけ言って、ヘレネが着たままだった寝巻をはぎ取った。彼女はドレスを着始めたのを見届けると、シモンは羊のもとに降りて行って、彼に向かって何かしら呪文を唱え始めたが、彼女は意に介さなかった。机の上には既にシモンが編んでおいた青い薔薇の花冠が出来上がっていて、ヘレネはそれをそっと自分の頭に乗せた。

宮廷に行く道中、ずっと羊は不安そうで、ヘレネのそばに寄り添っていた。シモンは睨みつけるような視線でローマの街並みを眺めていた。ヘレネは羊を撫でながら「だいじょうぶ、きれいよ、しゃんとしてなさい」と話しつけていた。
彼らは宮廷につくやいなや、あっと言う間に皇帝ネロの前に通された。羊はもうその頃はすっかりうろたえていて、ヘレネがなだめすかしながらではないと前に進もうとはしなかった。
玉座に座ったネロは、色白で華奢な男だった。孔雀の羽の模様のマントを着ていて、一瞬、傲慢な孔雀が玉座に座っているようにヘレネには見えた。どこか女のような印象すら受ける、人形じみた美しさがあった。細長い指の爪は長く伸びて、目つきだけは異常にギラギラしていた。不気味だという印象を受け、ヘレネも少したじろいた。シモンはそんなヘレネを小突くと、恭しく皇帝にお辞儀した。
「話は聞いておる。なんでも、至高の神ということで不思議な術を使うそうな。朕はそのようなものは嫌いではない」ずけずけとした態度でネロはシモンに語りかけた。「面を上げい。ひとつ、それを見せてみよ」
「では、皇帝様」シモンはネロに負けないほどのぎろりとした目で言った。「ひとつ、たぐいまれな神業をお見せしましょうか。人間が最も望み、しかしできぬものでございます」
「ほう、と言うと?」
「私をここでお切りください。三日後、復活してお目にかけます」
謁見の間がどよめいた。ヘレネは、シモンの術がすでに動いているのだと分かった。いつもこのような空気になって、誰もかれもがシモンに釘付けになるのだ。
ふとシモンが、真鍮の指輪をこすりながら小声で何かしら呪文を唱えているのが分かった。ふと背筋が寒くなる。謁見室の空気がどす黒く染まってしまったような雰囲気だ。羊は怯えきっていて、メーメーと鳴き声を上げてヘレネに縋り付いた。しかし、不思議なことに誰も騒ぐ羊を気には留めていないかのようだった。
それどころか、ヘレネと羊以外は誰もこの雰囲気に気が付いていないようだった。「面白い、やってみろ!」とネロが酔ったような言葉づかいで言った。ネロのその一言で、たちまち剣を持った将軍が前に出てきて、シモン達の前に躍り出た。
すると、シモンは「ヘレナ、そいつをこっちに」と羊を自分のもとに引き寄せる。ヘレナが動揺していると、やってきた将軍がむんずと、シモンではなく羊をつかんだ。
「なにするの!?」とヘレナは叫ぼうとした。しかし、それより早くシモンは彼女の口を手でふさいだ。
「ヘレネ、下手なことは言うなよ」シモンは小声で囁いた。「お前にも分かるように言ってやろうか。奴ら、あの羊がおれに見えているのさ。そして、おれの事はもう見えなくなっているんだ」
ふと、ヘレネは羊を見つめる将軍の目にシモンが映っているのが分かった。彼の剣の刃面が映しているのは紛れもなく羊だというのに!黒い空間が一気に歪み、ヘレネは激しいめまいと吐き気がした。彼女が目をつぶった瞬間、羊の叫び声が聞こえた。
目を上げた時、羊は首をおとされて息絶えていた。彼女が彼に刺した青い薔薇が、まだらに赤色に染まっていた。

ヘレネはポロポロと泣き出した。ネロは将軍に「死体を片付けよ。復活するか否か、後はとくと待つのみよ」とそっけなく言って、将軍も無言のまま羊の死体をまるで人間を抱きかかえるような持ち方で持ち出していった。「ものども、用が済んだならばとっとと帰るがよい、朕は暇ではない」冷徹な口調で、ネロが言い放った。後ろに控えているメナンドロス達もシモンの術にかかっていると見えて、彼の死に動揺していた。きっと誰もが、ヘレネの涙も彼の死を悲しんでの事だろうと思っていただろう。シモンは彼女を立ちあがらせ、お辞儀ひとつせずに彼女の手を引いてさっさと宮廷を出て行った。ヘレネに続いてメナンドロス達も出る。
「ヘレネ。おれは三日間身を隠す。お前はメナンドロス達と一緒に帰るがいい。勝手には出歩くなよ、いいな」と言うと、シモンはマントにくるまるようにして、さっとヘレネ達の前を立ち去ってしまった。ヘレネはまだ泣いていた。
「ヘレネ様、大丈夫です、シモン様は必ずご復活なされますから」弟子達が口々にそう言った。それでも、ヘレネは泣きやまなかった。シモンが復活しても、羊は復活しないのだ。彼女は羊の声を、暖かさを、様々なものを思い出して泣きじゃくった。
その時、ふと彼女の目にあるものが留まった。二人の男が、地面に描いている模様だった。曲線を二本組み合わせた、魚の形だった。
不思議と、その形を見ていると一瞬羊を失った悲しみが和らぐような気がして、ヘレネは地面に描かれた模様を凝視しようとした。しかし、男達は急いでその模様を土をかぶせて消してしまい、どこかに行ってしまった。メナンドロス達も早く帰ろうとせかすので、ヘレネは立ち止まることができなかった。

三日間、ヘレネは羊のいなくなった庭でぼんやりと過ごしていた。悲しくなったら、魚の模様を描いて過ごした。羊と遊ぶことの代わりに、魚を描くことがヘレネの楽しみになっていた。もっとも、羊と遊んでいるときのような幸福感はなく、ただ彼を失った苦しみを癒してくれるというだけだったが。
三日後、シモンは宮廷に姿を現し、住居にも帰ってきた。弟子達はみんな彼の復活を喜び、神と崇めたたえた。彼はこれからは自分はネロのお抱えになって、宮廷に自由に出入りできるようになったと言った。それを聞いて、いよいよ誰もが歓喜した。
ヘレネはその騒ぎの中、ほこりのつもった机の上で指で魚を描いていた。壁の向こうから聞こえてくるシモンの声は久しぶりにかなり上機嫌そうで、今日は自分も痛い目をしないで済むだろうと思いながら、何尾もの魚を机の上に泳がせた。


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