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クリスマス市のグリューワイン

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美女ヘレネ 五話

ネロがパトロンについてからというものの、シモンはいよいよ力を増してきた。同時に、ヘレネには暇ができた。
シモンは最近ではヘレネに昼間のうちならば勝手に出歩くことを許してくれる。どうせ昼間のうちはシモンはネロのもとに行っていて不在なのだし、何よりシモンには元通り絶対的な余裕が戻ってきていた。シモンを神と崇める人々が彼の神像を作り始めたという話も聞いたが、ヘレネにとってはどうでもいい事だった。
町を自由に出歩けるようになっても、彼女の遊び下手は相変わらずなので、彼女はずっと外で魚の模様をいくつも描き続けていた。ローマの喧騒も、娯楽も、彼女には何の良さも分からない。ただ、なんとなく外の空気が吸いたいから外に出るのみである。時々男に声をかけられはするが、シモンには絶対誰にもついていくなときつく言われているので、彼女は言葉通りついていくことはなかった。大体、何年も娼婦をやっていたのだから直感的に男の下心は分かる。もう男に抱かれるのは彼女は嫌だった。できることならシモンにだって抱かれたくはないのだ。今、自分は女神なのだ。やりたくないことをする道理はない。
ただ、その日声をかけてきた少年は別だった。彼女が砂地に木の棒で魚の模様を描いていると、少年が一人歩みよってきて、ヘレネの書いた魚の模様をまじまじと見つめた。
ヘレネが不思議そうに少年を見上げると、彼はふいに彼女の棒をとり、それでヘレネの遊んでいた砂地にバラバラに直線や曲線を描き始めた。その中に、魚の模様の半分になるにちょうどいい曲線を一つだけ混ぜて、無言のまま彼は木の棒をヘレネに手渡した。ヘレネは訳が分からなかったが、ただまた魚を描かなくてはと思い、一つの曲線にもう一つの曲線をかぶせて魚を完成させた。
「安心した。貴女もなんですね」少年が話しかけた。
「おいでください。そろそろ集会が始まりますから」
彼はヘレネの手を握って立ち上がった。ヘレネにはふと、シモンの誰にもついていくなという言葉が頭に浮かんだ。ただ、彼女は少年の手を不思議と振りほどけなかった。彼の眼には一片の下心のようなものは見受けられなかった。振りほどこうと思えば彼女の力でも振りほどけるほど、少年の握り方は優しかった。そこがかえって振りほどきがたく感じた。ヘレネは少年に導かれるままに裏路地に入っていき、やがて何かの入口にたどりついた。
少年が扉をたたくと、中から年配の女性の声で意味不明な言葉が聞こえてくる。対する少年も、不思議な言葉を持って返した。所謂合言葉なのだが、ヘレネはその言葉の意味を一生懸命に考えていた。
「ごきげんよう。クレメンス」と、優しそうな笑顔の女性が姿を現した。
「キリスト者の女性の方を連れてまいりました」クレメンスはヘレネを指してそう言った。キリスト者、という言葉がヘレネの頭に残った。どこかで聞いたことがあるような、と彼女は思い出そうとした。いずれにせよ、自分はそんな存在ではないのになぜここに連れてこられたのか、問おうとした際に件の女性がまたにっこりとほほ笑み「こっちですよ」と奥の方に彼女を連れて行こうとした。蝋燭に照らされた二人の顔が、なぜだか彼女には夕日に照らされたあの子羊の顔に見え、ヘレネは彼に導かれるように階段を降り始めた。通路を進むうち、彼女はここが地下に造られた墓所であることを理解した。壁に掛けられた棚にすら、何人も人が埋葬されている。ふと、墓所の中から控えめな声で祈りの声が聞こえてくる。シモンの信者達とは違う。息をひそめるような小さな祈り声だった。しかし、確固たる信仰の色が見て取れた。
クレメンスが「ごきげんよう、皆さん」と言う声とともに扉を開ける。明かり取りの小さな天窓と蝋燭の光に浮かび上がった数人の顔が、一斉にこっちを向いた。ヘレネはその一番奥に、見覚えのある青いチュニックと黄色のマントをきた青年を見かけた。その時、ヘレネはキリスト者がシモンが忌み嫌っていた彼らの事だということを思い出した。
「ごきげんよう、クレメンス。そばにいるのは新しい我々の姉妹かな」ペトロが口を開いた。
「はい、そうです。イクトゥスを知っていましたので……」
「あなた、シモンさまのてき?」
クレメンスが言い終わらないうちに、ヘレネが問いかけた。ぽかんとするクレメンスを放って、ヘレネはつかつかとペトロの前に出る。
「なんだって?」ペトロが不思議そうに言った。
「あなた、アテネでシモンさまとけんかしてたでしょ?」
ペトロも彼女の顔をじっと見つめて、「まさか、魔術師のシモンと一緒にいたあの女か?」と言った。ヘレナは何の問題もないという風に「ええ、そうよ」と返した。とたんに、地下墓所中が動転する。なんでそんな女が?クレメンス、どういうことだと言う声が地下墓所の壁に反響した。きょとんとしているヘレネの前に立つペトロは「なんでイクトゥスを知っていたんだ?」とヘレネに聞いた。
「イクトゥス?」
「これのことだ」
ペトロは地べたに、指で二つの曲線が合わさった魚の模様を描く。ヘレネが何回も描いていた模様とそっくり同じものだ。
「これはおれ達の暗号だ。どこで知ったんだ?」
「そこらへんでみたの」ヘレネはこともなげに言った。「よくわからないけど、これをかいてるとね、かなしいの、わすれるの」
「イクトゥスを?」ペトロは怪訝そうに言い、ため息をついた。「名前はなんて言うんだ?」
「ヘレネ」
「そうか、ヘレネ。ここはな、おれ達キリスト者の隠れ家なんだよ」
ペトロ様、そんなことをばらすのは……と声が聞こえたが、ペトロは「ばれてしまったんだからしょうがないだろう」と嘆息するように返した。
「これからおれ達は集会を始めるんだ。君は帰ってくれないか。この地下墓所の事はだれにも言わないでもらえると、助かるのだが……」
その時、ふっとヘレネにはペトロの顔も例の子羊の顔に重なって見えた。
「わかった。だれにもいわないわ」ヘレネは笑顔でそう返す。「でも、ここにいさせて」
「なんでだ?」
「ひまなの」とヘレネは地下墓所の端っこに腰かけて「じゃましないから」と言った。
「ペトロ様、どうしましょう?」クレメンスがペトロに不安そうに質問する。ペトロは少し考えた後、「追い出すこともないだろう、いたいと言うならいさせてやれ」と言った。
「隣人を愛することは異邦人にもできる。しかし汝の敵を愛することこそが愛の神髄だ」
ペトロは独り言のようにも説教のようにも聞こえるような口調でそう言い、手で合図して仲間達を集めた。地下墓所の人々もうろたえてはいたものの、ペトロが彼女をここにいさせることを了承したことを受け入れたのか、ヘレネには何も触れずにそそくさと祈りの場に戻った。
ペトロが祈りの言葉を唱えている最中、ヘレネはずっと地下墓所の中を見渡していた。薄い明かりに照らされて、いくつもの壁画が描かれていた。ただ、壁の年季と壁画の年季がかみ合っていない。壁画はごく最近描かれたかのようだった。ベールをかぶった女性が赤ん坊を抱いている。その傍には子羊と羊飼いがいる。隣では一人の男性が川でもう一人の男性に水をかけられている。ハトと光が頭上に降り注いでいる。その次の絵は、その男が真っ黒な悪魔のようなものと相対している。その次は、その次は……鮮やかな壁画がぐるりと地下墓所を回っている。ヘレネは、やっとこの絵が一人の男の人生の絵物語であることを理解した。最初の絵で抱かれていた赤ん坊が生まれたばかりの彼だということも。ある絵の中では彼が山の上で、民衆を前に話をしている。その傍に十二人の男が寄り添っている。別の絵では彼は体中ぼろぼろの皮膚病人に手を差し伸べている。派手な宝石を付けた娼婦に優しく語りかけている。そうして彼の人生が何枚にもわたって語られている。彼が大勢の人々に歓迎されながら都の門をくぐる。彼が神殿商人のテーブルを蹴散らす。彼についていたうちの一人が祭司から銀貨を受け取る。彼が例の十二人の男とともに食卓を囲んでいる。銀貨を受け取った男もその中にいる。彼は夜の山で祈っている。銀貨を受け取った男が、兵士とともに彼の前に現れる……おしまいの絵のもとにヘレナの目線はたどり着いた。男が十字架にかけられて死んでいる。ぐったりした彼のもとにはあのベールの女性がよりそっている。彼女は泣いていた。
ヘレネは何周も何周も、一連の絵の輪を目でたどった。一人の男が生まれて死ぬ物語を彼女は何度も何度も、じっくりと見つめた。断じて幻想的な物語ではない。みじめな男の話だ。人を殺したわけでもないのに、物を盗んだわけでもないのに、殺されてしまった男の話だ。ヘレネはふと違和感を覚えた。この物語は完結していないような気分だった。
ふと、ヘレネはその一番端にあるスペースに気が付いた。うっすらと下書きはされているらしいが何の場面なのかよく分からない。この場に、真の終幕が入るのかもしれない、とヘレネは思った。不意に「アーメン」と全員が声をそろえて言う。ペトロ達の祈りが終わったことに彼女は気付いた。

祈りの集会が終わり、めいめいが帰り始めてもヘレネは地下墓所にいた。勝手に歩き回って、例の壁画をもっと近くでまじまじと見ていた。
「面白いか?」
ペトロが彼女に声をかけた。彼女は壁画を見つめたまま「ええ」と言った。
「ルカもうかばれるな」ペトロが笑う。
「ルカ?」
「おれ達の仲間さ。画才のあるやつでな、これを描いたのもあいつなんだ。視覚的な情報があれば、もっとおれ達の教えが分かりやすいって言ってね。今日は来ていないが」
ペトロはヘレネの隣に立って、自分もまじまじと壁画を見上げた。男が海の上を歩いている絵だった。ペトロはとても懐かしげな眼をしていた。
「この方は神の子だ。おれ達の主だ。そして、おれの先生でもあった」
優しくヘレネに語りかけるけるような口調で、彼は語った。
「かみさまのこども?」
「ああ」
ヘレネは最後の絵を指さし、「じゃあ、なんでしんだの?」と言った。ペトロはその言葉を聞くと、ふっと笑った。
「人間を愛していたからだよ」
ヘレネには彼が死んだことと、彼が人間を愛していたことの因果関係が呑み込めず、困ったような顔をした。ただ、何とはなしに考えを放棄する気分に離れなかった。何らかのヒントが得られないかと、また壁画をぐるぐる回るように目線を動かした。そんな彼女を見て、ペトロが「知りたいのか」と言った。
彼女は無意識に、間髪をいれず「ええ」と返した。そう言ったことに、自分でも驚く。
神はシモンだ。そして自分は彼に従う女神だ。シモンは神が死ぬなどとは語らない。神の子が死んだ等と、全く荒唐無稽に思えた。それでも、なぜか知りたいと思えた。美しい絵物語につづられた悲劇を、この目の前の青年の口から聞きたいと思った。
ペトロは「もし来たいなら、いつでも来るといい。おれは毎日ここにいるから」と言って、「でも今日はそろそろ帰ったほうがいいんじゃないか」と、夕日で赤い光の差し込み始めた天窓を指さした。


「ネロは馬鹿だ」
シモンとヘレネだけで夕食をとっているときに、シモンはネロについて語っていた。
「政治よりも自分の好きな芸術を愛している男なんだ。ありゃ若死にするタイプだな。ロマンティストで耽美主義なのは結構だが、芸術家気質と言うものは往々にして政治家気質とは相反するものなんだ。今はまだましにふるまっているが、もっと年を取ればもっと悪化するだろうよ。もっとも、おれにとってはそれが好都合ではあるが」
悠々とそう語るシモンの前で、ヘレネはぼんやりと例の壁画の事を考えていた。十字架刑に処せられて死ぬ神の子なんてありえるはずがない。シモンはそんな話はしない。シモンの語らないことは嘘なのだ。シモンは神なのだから。それでもヘレネは考えることをやめられなかった。シモンが数回語りかけても、彼女は気付かないままだった。


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