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クリスマス市のグリューワイン

美女ヘレネ 六話

ヘレネはあの日以来、毎日のように地下墓所に通うようになった。ペトロは毎日そこに来ているというよりは、そこに隠れ住んでいると言ったほうが正しいようで、めったに外には出ないようだった。理由を聞いても、口を濁されてしまうのだが。
ペトロは、みんなに慕われているリーダーだった。基本的にキリスト者の仲間はみんなペトロの言うことに素直に従ったし、また彼にしてもむちゃな要求はほとんどしなかった。集会の集まりでのペトロの喋り方はヘレネにとっては興味深かった。シモンは毎日広場で演説をするので響き渡るような大声で話す癖がついているのだが、ペトロはひっそりとした地下墓所で話をする手前あくまで穏やかで静かな声で語りかけた。地下墓所の壁に反響して、彼の声はヘレネの耳には美しく聞こえた。
ただ、彼の声は好きでも彼女は集会に参加してもどうせ彼の言っていること自体はよく分からないので、参加はせずにじっと壁画を眺めていた。地下墓所に通ううちに壁画を描いたルカにも会った。彼が言うに件のスペースはまだ構想中で、最後の絵を入れる予定とのことだった。ヘレネはどんな絵が入るのか、とわくわくして完成を待ち遠しく思った。
ただ、彼女が何日通い詰めてもキリスト者達は基本的に彼女を避けた。虐めるわけではなかったが、よそよそしかった。極力彼らは彼女との関わり合いを避けようとしていた。
ペトロだけが毎日彼女に壁画に描かれる神の子、イエスの話とその教えを教授してくれた。ヘレネが話を飲み込む速度が遅いので、彼はごくゆっくりと話を続けた。彼の話は面白かった。シモンの語る神話とは少し違った世界が眼前に広がるのは楽しく、叙事詩を聞いているような気分だった。物語は彼がなんと処女から生まれるというところから始まったが、ヘレネはさほど疑問に思わなかった。そしていずれ大人になり、洗礼を受け、旅を続けて神の教えを教えて回った男の物語を、ヘレネは毎日神妙に聞き続けた。

何日もしたころに、ヘレネはまた地下墓所にやってきた。正午を過ぎたあたりで、おそらくもう集会は終わっていた。この時間になるとペトロはだいたい寝ているのだ。地下墓所の地べたに寝っころがって。ただ、自分が来るとむっくり起き上がって話を続けてはくれるのだが。
ヘレネはペトロを起こさないように入ってやろう、と思い立ち、ゆっくり忍び足で地下墓所に進む道を歩いていた。ふと、話し声が聞こえた。ペトロと、誰かもう一人の声だ。
そっと中を覗き込むと、ペトロは寝ておらず一人の男と話し込んでいた。背の低い男性だ。少々厳しそうな顔つきをしているが、品のいいたたずまいから育ちの良さがうかがえた。ふとペトロがヘレネに気付いたらしく。「ヘレネ、来てたのか。入ってきたらどうだ」と言った。ヘレネもその言葉を聞いて、素直に地下墓所に入っていった。
背の低い男性は彼女の事をまじまじと見て、「なるほど、例の娘というのはこいつだな」と怒ったような口調で言った。「祈りの場に異教徒が入るとは。それも、異教徒の『女神』が」
「彼女は何も分かってないんだよ」ペトロは男に言った。
「私はこのような存在はあまり好きではない。第一、女、特に美しい女というのは神への敬虔の心を鈍らせる。サムソンしかり、ダビデしかり、ソロモンしかり……」
「パウロ。あんたが考えてるようなことにおれはなってないさ、安心しろ」
パウロと呼ばれた彼はヘレネには一瞥もくれず、「まあ、何はともあれ君と会えて私はうれしい。私の力が必要になればぜひ呼んでくれ。そろそろ失礼するよ、私も監視下にあるんでね」と早口で言って、墓所の奥にある祈り台に簡素な祈りをささげるとすたすたと地下墓所から出て行った。あとにはペトロとヘレネだけが取り残された。
「あのひと、だれ?」ヘレネが言った。
「パウロと言うんだ。ずいぶん熱心なキリスト者だ。各地を回って布教してたんだが、今ローマに来てな。……気にするな。ちょっと偏屈だが、悪い人じゃないんだ」
ペトロはパウロに関してはそれだけ言うと、いつもの通り話を始めた。イエスがある日、ペトロ達弟子をはじめ多くの人に語ったある物語についてだ。
昔あるところに金持ちの農夫がいて、彼は二人の息子がいた。兄は真面目だったが、そうでない弟のほうは父親に財産の分け前をもらい、町に出て財産をすっかり無くすまで遊んで暮らした。そして彼が一文無しになったころ、ひどい飢饉が起こり、彼は困窮した。
そこまで聞いたところで、ヘレネはずいぶん妥当な話だと思った。ヘレネの視点からしても、弟息子のしたことは悪いことだと感じられたので、彼は罰を受けるべきだと思っていた。
困窮した弟息子が自分を責め、父親のもとに帰ろうとしたところでペトロはいったん話を切り、「ヘレネ、父親はどうしたと思う?」と質問した。
ヘレネは父親は怒ると思う、と返す。ペトロは「ああ。おれも同じように思ってたよ」と笑った。そして、物語を再開した。
父親は怒らなかった。泣いてこの放蕩息子の帰還を喜び、彼のために祝宴を開いた。ヘレネは驚いた。なんでそうなるの、と彼女はペトロに聞いた。
「そういうものだってことさ、神の愛って言うのは」
ペトロの言葉をヘレネはゆっくり飲み込もうと試みた。シモンは特別、愛については語らない。そこは常識的な倫理観に沿ったもので、おれが特別語ることではない、というのがシモンの言い分だった。
「かみさまは、ひどいことをされて、ゆるすの?」
「そういうこと」
ペトロはじっと壁の壁画を眺めていた。壁画の中では、イエスが夜、山の上で神に祈りをささげていた。ヘレネはちょうど隣にある絵を指さして言った。銀貨を受け取った男が、兵士とともにイエスの前に現れる絵である。
「じゃあ、あのひともゆるされる?」
「ああ、許されるよ」ペトロは間髪をいれずに返した。
「関係ないんだよ。神の前じゃ、人間なんて所詮みんな罪深いんだ。大切なのはそれをどう反省したかだな。自分のやったことを悪いことだと認めれば、それだけで許される資格を得るんだ。過去に何をしたなんて、大したことじゃない。大切なのは今どうあるかだ」
ペトロの目に、ふと涙が浮かんだ。
「ないてるの?」ヘレネは彼に問いかけた。
「……すまない。先生の事を思い出していたんだ」
ヘレネは涙を流すペトロをじっと見つめた。彼も特別、それをやめるように言わなかった。大人の男が涙を流すのを、彼女は初めて見る。悔しそうにわめく姿は見たことがあれど、彼のように静かに泣く姿は初めてだった。
ヘレネは自分の服の袖でそっと彼の涙をぬぐった。ペトロは抵抗はせず、「ありがとう」と言った。
「さみしいの?」
「……そうだな。時々、心細くなるよ。こんなとき先生がそばにいてくれたらな、ってね」
ペトロは自分の懐から布きれを取り出し、今度は自分で涙を拭いた。
「先生に会いたい?」
「ああ。……できるもんならね」
ペトロはふっと息をついた。寂しそうな顔だと思った。
ヘレネは今何か自分にできることはないか、考え出した。そしてふと、思い立つ。
「ペトロ」唐突に彼女は話しかけた。「いいことしましょ、げんきになるわよ」彼女は明るく笑って、静かに服をほどき始めた。天窓から差し込む薄い光に照らされて、彼女のあらわになった上半身が真っ白に輝く。彼女はそっと、ペトロに寄りかかった。
「なんだって?」
ペトロは呑み込めなさそうな表情で見ていたが、ふと彼女の真意が分かり、あわてて彼女に服を着せた。「なにするの?」ときょとんとするヘレネに、ペトロは言う。
「ヘレネ。おれのことを気遣ってくれるのは嬉しいけどね、肉体の欲は神への信心を鈍らせる。神の国に入るものは清貧たるべきだ」
ペトロが急に難しい言葉を使い始めたので、ヘレネはハトが豆鉄砲を食らったような顔で聞いていた。半分も理解できなかったが、ペトロが自分と関係を持つことを拒否したのだけは分かった。彼女は悲しそうな顔で、帯をしめた。
「あたしのこと、きらい?」
「そんなことはない」
今度はヘレネがポロポロと泣き出した。
「あたしは、これしかできないの」
先ほどまでペトロの涙を吸い込んでいた地下墓所の床が、今度はヘレネの涙を吸い込む。彼女の唯一できることが、彼に否定された気分だった。彼女はいよいよ声を上げて泣き、地下墓所に彼女の鳴き声がこだました。
ペトロはもう泣き止んでいて、そんな彼女にそっと手を添えた。
「ヘレネ。君はおれを気遣ってくれたじゃないか。それだけでもう十分、おれのためにしてくれているんだよ」
先ほどの布きれで、ペトロは彼女の涙をぬぐった。
「あたしのこれは、だめなことなの?」
泣きじゃくりながらヘレネが聞いた。
「君がもし、気持ちよくてそれをやっているならそれは捨てるべきだとおれ達は考えている。おれ達にとって欲望のための快楽は非道徳的だからね」

結局、ペトロの言葉がよく理解できないまま、ヘレネはその日地下墓所を後にした。
いまだに名前も知らない、自分の唯一できることを、ペトロ達は批判的にとらえているのだというところまでは分かった。結局それについての彼の話は実に分かりにくかった。姦淫の罪などという言葉は彼女には理解できない。唯一はっきりするのは、ペトロは彼女を抱いて、心の慰めにすることを拒否した。神のためにだ。
夕焼けに染まる庭をぼんやり眺めながら、ヘレネは青い薔薇で遊んでいた。子羊が生きていた頃には、今頃彼は餌の催促をしてメーメーうるさかったものだ。青い花びらをバラパラ散らしながら、彼女はふと放蕩息子の話を思い出した。
「(かみさまはいるの?シモンさまじゃないほう、わるいこともゆるす、かみさま)」
彼女は窓から身を乗り出したまま、心の中で言った。
「(かみのこどもさん。もしもあなたがほんとうにいるんなら、ペトロのところにきてあげてください。とても、さびしがっています。あなたがいなくて)」

不意に、後ろから手を引かれた。
「シモンさま」ヘレネは驚いた。いつの間にかシモンが帰ってきていたのだ。
「何回呼んだと思っているんだ、全く」シモンは嘆息し、そのままベッドに彼女を引っ張っていった。
ふと、シモンがしようとしていることが分かった。なんと言うことはない。いつもの事だ。ただ、ヘレネはペトロに言われたことが引っ掛かった。悪いことだと、すぐやめるべきだと言われたことが彼女の心に残っていた。
「あの、いまは、いやです」
ヘレネが言うと、シモンは「なに?」といぶかしげに返した。
「その、いやです」
そう言った次の瞬間、彼女は力任せにベッドの上に放り投げられていた。
「バカを言うんじゃない」
そうとだけ言われて、彼女はシモンに服をはぎ取られた。ふと、理由もなく目頭が熱くなるのが分かった。


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