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クリスマス市のグリューワイン

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feat: Elijah 第二十一話



エリヤは、親の名前を知らない。彼が親に関して覚えていたのは「親がいた」と言うことだけだった。
およそ二歳か三歳ごろだったろうか。とにかく、物心がついてすぐの頃だったらしい。エリヤは、どこかもわからない集会所の前に置き去りにされた。
自分を見ていた男性と女性。「ここにいなさい」とだけ言って、自分が置いて行かないでと叫ぶ声に振り返りもせず、すぐに自分から遠ざかっていった二つの影。それが、エリヤが親に関して覚えていることのすべてだった。

エリヤは天涯孤独の身で育った。街々を転々とした。彼を拾おうというものは現れず、誰もが親のない彼を全く無視した。
小さいころ、彼は毎日残飯を漁って過ごした。いくつかの店から出る残飯を、その店の人間の目を盗んであるだけ口に詰め込み、後は人目に付かず、なるべき猛獣も来ないところを見つけて寝る。それ以外の事は何もした覚えがなかった。誰とも話さず、誰とも打ち解けなかった。彼は、ただ一人だった。

ある日の事だった。また彼が残飯を漁っていると、一羽の鴉がやってきて、エリヤの食べようとしていた肉片を一瞬でついばみ、飲み込んだ。エリヤはそれに関して、特に考えることもなく鴉と一緒に食べられるだけ食べた。彼らにとって食べられるだけ、と言うのは彼らの胃袋が許す限り、と言う意味ではなく、食べ物の量がある限り、と言う意味だ。それは俺のものだと怒る時間ももったいない。食べなければならない。彼らはそう感じていたにすぎなかったのだ。
だが、翌日、鴉はまた同じところに来た。次の日もそうだった。そんな日が何日も続き、気が付いたら、エリヤと鴉は一緒に居るようになっていた。

鴉に名前はなかった。それに、エリヤも自分の名前を知らなかった。そして、それで何の問題もなかった。名前を付けて区別する必要がある世界に、彼らはいなかった。人間のたくさんいる街の中にあって、残飯と、薄暗くて不潔な寝床と、エリヤと鴉だけがその世界には存在した。
「なあ」ある日、鴉が口を開いてエリヤに言ったという。いつごろからそうなったのか覚えてはおらず、ひょっとしたらその時だったかもしれない。出会ったときには確かにわからなかったはずなのに、エリヤには鴉の言葉がわかった。そしてそれに、何の驚きも感じなかった。
「お前はなんで、一人ぼっちなんだ」
鴉はそう言った。
「この町にも、前いた街にも、捨て子が沢山いた。お前だって捨て子だろ。お前はなんで、あいつらの仲間にならないんだ」
「あいつらは盗みをして食ってる。あるいは集団で強盗したり、春を売ったりしている」
エリヤはそう答えた。飢饉が激しく、食べ物が不足していたので残飯を出す店すら三日間見つからないような日の事だった。彼らは泥水の薄いところを見つけて飲んでいた。
「だからどうした」
「俺は、やりたくないだけだ」
「善悪の問題か?」鴉はそう聞いた。「そんなことでもしなくちゃ、生き残れないだろう」
「そんなことをしてまで生き残りたい人生でもない」
エリヤは鴉に向かって言った。
「もしも狂って王になれるのだったら、俺は狂った王より正気の乞食でありたい。俺は、俺が正気でありたいのを知っているからだ」
「じゃあ、お前は人生に悲観しているのか」
「それは分からん。もしもそうなら、俺はとっくに食うことをやめていると思うからな。ただ、やりたくないだけだ」
鴉はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。大人の女の悲鳴が聞こえた。飢饉のおかげで街の治安は大分悪くなっていた。彼女を襲ったのは大人だろうか、子供だろうか。それもわからない。
「奴らがそれをしなきゃ生き残れないのは」鴉が言った。「ここが人間の町だからだ。ここには肉と肉の狩りなどない。金と物資の狩りがあるのみだ。奴らは動物的本能に従って狩りをしているだけだ。少なくとも、奴らはそう言っているんだから、おそらくそうなんだろう」
鴉は黒い羽を散らした。そして、エリヤに言った。
「ここで狩りができないんなら、いっそ人間の町を飛び出してみてもいいだろう。人間が町に居なきゃならんのは、そこに家族があり、仕事があるからだ。しかし、お前には何もない。それに、運が良ければ少なくとも今よりは食えるだろうからな」
「確かにそうだ。俺は町に居る意味はなかったっけな」エリヤは鴉の言葉にそう納得して返した。その日を最後に、エリヤは人里を離れ、そして乾いた風の吹きすさぶ荒野に出た。エリヤが荒野で暮らし始めたのは、その頃である。


荒野での生活は、エリヤの肌に合っていた。人の気配を感じず、何のためでもなく、ただ納得のいく方法で生き延びるだけの生活がより自然なものとなったようだ。広く、高大に伸びる荒野を彼は駆けずり回った。
彼は鴉と一緒に獲物をしとめてそれを食べて過ごした。最初はネズミやウサギを。しかし、しだいにどんどん大きなものを、彼は狩り取れるようになっていった。
それに、身体能力もどんどん向上していった。荒野で生き延びるにあたって身体能力を磨くことは大変重要なことだったし、また、彼にも天性の才能があった。
人間を見るのは、行商隊や修行者を遠くから見るとき、そして時々起る戦争のときくらいなものだった。戦争が起きると、決まってエリヤは鴉と一緒に軍が残していった物資を漁った。食料があるときもあったし、刃物があるときもあった。彼は残飯を漁るようにそれを時々はぎ取ってつかった。
そんな生活は、彼が成長し、そして鴉が死ぬまで続いた。鴉が死んだのは突然の事で、ただ、昨日まで普通に食べながら話していたものが、起きたら物言わなくなっていて冷たくなっていただけだ。二、三日の間、彼は鴉が生き返るかもと思っていたが、その兆しはなかった。
エリヤは悲しいという感情が解らなかった。ただ、心の中が不思議と空虚感に満たされた。彼は誰にそう教わったでもないが、穴を掘ってその遺体を穴に埋めた。彼にとって、何か動物が死んでいて、それが目の前にあるときそれは常に食べるべき対象であったのだが、その時限りはそのような気分にならなかった。

鴉が死んでから、彼はしばらく、空虚感に満たされた。何かを食べて生きる気がしなかった。狩りの腕が、鈍ってしまったかのように思えた。
今狩りをすれば自分が怪我を負うかもしれない。彼はそう判断して、その時ちょうど人里が見えていたので、小さいころよくしたように残飯を漁りに行った。その町が、ティシュベの町だった。


飢饉はとっくに終わっていたらしく、ティシュベの町はにぎわっていた。久しぶりに残飯を食べて、彼はこんなにまずいものを自分は食っていたのかと実感した。新鮮な動物の肉と比べて、それはあまりにも冷たく、臭く、味気なかった。
それでもエリヤは食べた。そして、寝るところを探した。宿に泊まる金など当然ない。やがて彼は、とある建物の屋根裏に潜り込めそうであるのを発見し、そこに宿をとることにした。屋根裏は野獣も入らないし、泊まるには最適な場所であった。それに、木や壁を伝って屋根裏に入ることは彼にとってはたやすいことだった。
建物の下では何かが行われているようで、人の声が聞こえた。エリヤはそれを聞かずに眠ろうとした。しかし、不思議と、眠れなかった。彼は目をつむったまま、話されている内容を聞いた。数年ぶりに聞く人の話し方。もう忘れかけてすらいた。話されているその内容を、彼は一日で理解することはできなかった。だが、何日もその屋根裏部屋に居るうちに、彼にはわかってきた。
この建物は、集会所なのだ。そして、自分の下で、祭司が神の教えを説いているのだ。

少しずつ、人の話し方を思い出してきたエリヤは、いずれそれに耳を傾けるようになった。エリヤのような身寄りのない人間は集会所には入れない。だから、たとえエリヤが一階にいたとして、それはエリヤに向けられた言葉ではないのだ。ちゃんと親がいる少年たちを教育するために語られた言葉なのだ。それでも、少年の日のエリヤは聞き続けた。エリヤにとって、神と言う概念を知るのは、その時が初めての事だった。「この世は、神によって作られた」という言葉、そして、様々な律法、神の教えの数々は、エリヤの耳にとって非常に新鮮なものに聞こえた。

その日の事を、エリヤははっきりと覚えている。その日、祭司の声はこういっていた。
「神は常に、私たちを見ているのです」
名前も知らない、顔も知らないその祭司の言葉は、妙にエリヤの心に残った。夜が更け、集会も終わった時、エリヤは集会所の屋根裏部屋で、その言葉について思いを巡らせていた。

おそらく、祭司はその言葉を、だから罪を犯さぬように、と言う言葉の意味で使ったのだろう。しかし、エリヤにとっては違う意味を持っていた。エリヤは自分の人生を思い出していた。
自分は生まれながらに、一人だった。誰も自分に手を差し伸べなかった。悪事を行うか、町を出て荒野で暮らす以外、腹いっぱいになる方法すらなかった。一羽の鴉を除いて、自分に話しかけることすらなかったのだ。
もしも、だ。エリヤは思った。もしも、自分のこの人生に、本当に神がいて、そして、神が見守っていたのだとしたら。
彼はそこまで考えた。そして、口を開いた。
「神様、聞こえますか?」
言おうと思ったのだ。むろん、目の前には誰もいなかったが、神が実際にすべてを見ているのなら、きっと届くだろうと思ったのだ。「聞こえるのなら、俺の言葉を聞いてください」彼は言った。そして、神妙に自分の言いたい言葉をどうあらわしていいか、数瞬の間悩んだのち、言った。

「ありがとうございます。……俺の言葉を聞いてくれて、ありがとうございます」

彼は、嬉しいと思った。
鴉が死んだとき、自分はこの正反対の感情だったのだ、と、彼は悟った。そうだ、自分は嬉しかったのだ。誰かに、言葉を聞いてもらえるのが。父と母は、置いていかないでと言う自分の声を無視した。誰もが、自分の声を無視した。それを鴉に聞いてもらえたのが、嬉しかったのだ。そして、それを失ったのが、悲しかったのだ。
だが、と、エリヤは思った。もしも神がいて、そして本当に、自分を見ているのなら、つまり、自分の声は常にその神に聞かれているのだ。彼はそれがたまらなく嬉しかった。自分の声が聞かれないことなど、実は、ずっとなかったということなのだから。
彼はそれを思って、心が満たされた。彼は、神を信じたかった。
彼は少し後、もっといい言葉を思って、そして付け足した。
「俺を一人ぼっちにしなくて、ありがとうございます」


彼はその後、荒野での生活を続けた。鴉もいなくなり、本当に一人だったが、さびしいとは思わなかった。鴉と過ごした日々は確かに存在するのだし、彼が存在してくれた事に、エリヤは心底感謝した。そして同時に、神にも感謝した。自分を一人ぼっちにしはしない存在に。エリヤは疑うことなく、神を信じた。時々心寂しくなると、彼はティシュベの集会所の屋根裏部屋に潜り込んで神の教えに耳を傾けた。そのうち、彼自身のしゃべり方にもティシュベのなまりが付いてきたというわけだ。

そのような生活が、さらに十年以上も続いた。ある日、眠っていたエリヤは声を聴いた。

そこは、どこともわからない空間だった。
エリヤの眼には、何かが映っていた。何の形とわかるものでもなかったが、とにかくそこに存在していたのだ。
「お前の名前は何か」彼は、厳かな声でエリヤにそう問いかけた。
「……わかりません。知りません」
彼は、謎の存在に素直にそう答えた。
「私は、お前を、私の御心を叶わせるものとして選んだ。お前が、私を信じているからだ」
その言葉を、エリヤは不思議な気持ちで受け止めていた。と同時に、彼は目の前の存在がなんであるのか、薄々と分かったのだ。
そのことを悟ってうろたえるエリヤに、彼はなおも言った。
「名前がないというのならば、付けるがいい。お前がほしい名前は何かね」
唐突にそう言われて、エリヤは少し戸惑うも、考えた。しかし、やがてある言葉が頭に浮かんだ。もしも自分が名乗るのであれば、それがいいと思えた。
「……『エリヤ』……」
それは「主こそ神だ」と言う意味だった。そして、彼が屋根裏に潜んでいた集会所で、幾度となく言われていた言葉でもあった。
「エリヤ」彼は言った。
「俺の名前は、エリヤがいいです」
目の前に立つ彼が、静かに微笑んだのだと、エリヤにはわかった。彼は右手を伸ばし、そして、子供にするように、彼の頭を撫でた。
「良い名だ。お前にぴったりだ。エリヤ。お前の名はエリヤだ」
それを、彼は暖かいと思った。人生で初めて感じるほど、それは暖かかった。
ビジョンはそこで終わった。彼は目が覚めた。目が覚めた時、彼はもう一度、自分の名を呼んだ。

それからの事だった。彼に、神の預言がたびたび下るようになったのは。
彼は、預言者になったのだと自分の事を知った。ちょうど、イゼベルの宗教改革が進んでいた頃の話だった。
エリヤはそんな自分に誇りを持った。神は彼にとって偉大なものだった。そして、その神の計画に携われることを幸福と感じた。
エリヤは神の預言に導かれるままに、アハブの宮殿に向かった。そして、干ばつの預言を告げたのだ。

干ばつのイスラエルを逃げながら生き延びることなど、荒野で長い間生きてきたエリヤにとっては今さらたやすいことだった。彼は、干ばつの三年間の間考えていた。
何故、イスラエルがこうなったのか。誰も、神の事を信じていないのだ。彼はそう思った。
彼は本当に、神に感謝していた。なのに、そのように神を信じられる人間は少ないのだ。神は自分を選ばれた。自分を。自分以外に、選ぶ人間がいなかったのだろう。彼はそう思った。だって、イスラエルの預言者たちはイゼベルのされるがままになっているのだから。
エリヤの中で、イスラエルの人民全てに対する怒りが湧き上がっていた。彼らには信仰心がなかったのだ。
一人、それらしき人間をある日見つけた。彼は老人だった。エリヤは一目見て、彼は信仰に熱い人間だと分かった。それはエリシャの祖父だった。
だが、干ばつが終わろうと言うとき、エリヤは彼の葬式が行われているのを偶然見届けた。それを見て、彼はいよいよ、信仰深き人間など一人もいなくなってしまったのだと思い込むようになった。
干ばつで、人々が神を罵るのをエリヤは自分の耳でも聞き、また、鴉たちからも聞いた。エリヤは、イスラエルの人民に冷ややかな思いを抱くようになっていた。
このように人民はわがままなのに、神はそれをも超越するほど偉大なのだ。このように干ばつを起こし、罪を悔いさせることができるのだから。それだけの力のある、大いなる存在なのだから。彼はそう思った。

そして、そのままアハブの前に現れ、カルメル山に向かったのだ。バアル崇拝への怒りを持つままに。自らの崇拝する神を侮辱したイゼベルとアハブに対する怒りのままに。

そこで起こったことは、もう語る必要はない。干ばつは終わり、雨は降った。

しかし、そこから立ち去ろうとしたエリやを引き留める存在がいた。それが、ミカヤだった。ミカヤは必死に、貴方についていきたい、とすがったのだ。
しかし、エリヤは言った。エリヤは思っていたからだ。これも所詮、自分より不信心な人間にすぎないのだ。神に、その信仰を認められたような人間ではないのだ。自分しか動かなかったのだから。動けなかったのだから。それほどの人間がいなかったのだから。
「俺は一人で十分だ、誰の助けもいらん!」

生まれてから、人間の仲間など作ったことなどなかった。自分には、鴉と、神がいれば十分だった。
彼は、目の前の少年を振り払い、そして、走り去っていった。

そののちエリヤは自分に対する指名手配がなされたことを知った。そして、荒野に身を隠したのだ。


彼は、ベエルシェバの方向に逃げた。そこに行ったのに理由などなく、ただ足の赴くまま進んで行ったらベエルシェバだっただけの事だ。
彼はエニシダの木の下に座った時、ふと、生まれてから初めてともいえるような感情に襲われた。それは非常に鬱々としていて、暗く、重く、冷たかった。
自分の体にあふれる生命力が、全て流れ出てしまったような気分だった。鴉を失った時以上に、彼の心は空虚に満たされた。
これは一体なんだというのか。彼は考えた。しかし、答えはなかった。彼はただ、空虚だった。だかしばらくその場に寝転んでいて、彼はようやく答えを見出した。疲れたのだ。彼は、非常に疲れた。
カルメルでやったことにではない、と感じた。自らの、今までの人生にだ。
ただ喰い、ただ寝て、ただ走り、そして、ただ神の声を聴いていた。もうそろそろ、走りつかれてしまった。彼はそう思った。
そう言えば、集会所では昔の偉大な者たちの話をしていた。アブラハム、モーセ、サムエル。彼らは、立派に戦ったらしい。立派に、その人生を、神にささげたらしい。
こんなにも疲れることだったのに、それができたのだろうか。エリヤはそう感じた。いや、できるはずがない。エリヤはその時、立ち上がれもしなかった。それほどまでに、疲れていると感じた。
「神様」エリヤは言った。「もう、俺の役目は終わりです。そうでしょう。俺は、疲れるような人間なんですから」
彼はそのまま、寝た。

ふと、誰かに触れられたような感触があった。見てみると、美しい姿の存在がそこに居た。人間に似ていたが、背中に翼を生やし、白百合を握っていた。
神の使いである、と、エリヤは直感した。
「エリヤ」彼女は言った。
「お食べなさい」
彼女の言葉は、それだけだった。しかし、そっけなさはなく、染み込むような優しい言葉だった。気が付けば、エリヤの目の前には焼きたてのパン菓子と水瓶がおいてあった。
エリヤはそれを食べた。最初のうちは勢いがなかった。
だが、天使は「もっとお食べなさい。もっと、力をつけなくちゃだめよ。貴方の行く道は長いのだから」と、微笑みながら優しく語りかけた。そう言われているうちに、エリヤはだんだん食欲だけはついてきて、目の前に出されるものをひたすら、満腹になるまで食べた。気が付いたら、天使はいなくなっていた。

彼は、導かれるように、当てもなく旅を続けた。ものを食べたのだから何とはなしに力はつき、眠っていることは億劫になってきたからだ。しかし、心は相変わらずどこか鬱々としていた。
四十日も歩いただろうか。気が付くと、彼は大きな山に居た。彼はそこに上った。ちょうど洞窟を見つけたので、彼はそこに潜り、夜を明かすことにした。

だが、その時だった。
「エリヤ、エリヤよ」
見知った声が聞こえた。それは紛れもなく、主の声だった。
「エリヤ、ここで何をしているのか」
「何をって……」
彼は言った。
「あんたも見て、知ってるでしょう。俺は、ずっとあんたを信じて生きてきました。でも、イスラエルの人民は、あんたを信じないんです。珍しく信じる奴がいたって、どんどん死ぬか、王や王妃に殺されて死んでいくんです。残ったのは、俺一人だ。その俺も、殺されるかもしれないっていうんです」
彼は言った。
「どうせ死ぬんなら、殺されるんじゃなくて、あんたに殺してもらった方がいいな、って思っていたんですよ。だって、あんたは、生まれてからずっと俺と一緒に居てくれたんだから」
エリヤは、全く正直な気持ちで神にそう言った。それは本音であった。
むなしいと思えてきたのだ。この世は、神を信じない。信じても、助からない。
神はいる。自分はそれを知っている。激しい嵐と雷の中、自分は神を見た。しかし、いくらバアルの預言者たちが死んでも、失った人たちは帰ってこない。
「神様、あんたはなぜ、俺たちをみんな正しくしてくれないんですか、雷を起こして、あいつらを焼き払ったみたいに」
エリヤはそう言った。


神はその発言をとがめなかった。その代り、「外に出て、私の前に立ちなさい」と言った。
エリヤはよろよろと洞窟の外に出た。その時だった。
エリヤを吹き飛ばしてしまいそうな激しい突風が吹き荒れた。彼は風にさらわれまいと必死にしがみついた。岩肌が突風のあまりはがれ、大きな石つぶてが何個も彼方に飛んで行った。しかし、その中に神はいなかった。
やがて突風が終わると、エリヤは安心した。しかし、安心してもいられなかった。山全体が、激しく揺れたからだ。エリヤは地震のあまりの激しさに立っていることもできず、バランスを崩して手とひざをゴツゴツした岩肌に打ち付け、血が出た。だが、その大地震の中にも、エリヤは神を見いだせなかった。
最後に、地震が止んだ時、どこからともなく火が舞い降り、あっという間に山火事になった。エリヤは息苦しさを感じながら、咳き込んだ。目を覆うほどの光と熱が彼を襲った。
しかし、その中にも神はいなかった。あの日、自分の夢枕に似た存在は、決してそこにはなかった。

気が付くと、山火事はすっかり止んでいた。
「エリヤ」
しいんとした、異常なまでの山の静寂の中、静かな、非常に静かな囁き声が聞こえた。エリヤにはわかった。それは、神の声だ。そして、その声自身が、あの日見た存在であるような気も、彼にはした。
その時、彼の心の中で何かが洗い流された。


ああ、そうだ。自分はいつの間にか、勘違いしていたのだ。神は、このような激しい自然災害の中にはない。大きな出来事を起こしても、それは本質ではないのだ。
干ばつも、大嵐も、力だ。しかし、本質ではない。神の本質は、自分があの日ありがたいと思ったように、こうして静かに、人間とともに寄り添ってくれることだったではないか。
自分は忘れていたのだ。神の偉大な力に触れるあまり。

ぼうっと立ち尽くす彼に、神の言葉は続けた。
「ここで何をしているのか」
「…神様、俺はあんたにお仕えしてきました。でも、イスラエルの群衆はまだまだ、不信心です。預言者たちも殺されました。俺も、殺されようとしています」
彼は同じことを言った。だが、その言葉の最後に一言を付け足した。
「……教えてください。俺は、何をすればいいですか?」

彼のその言葉に、神は答えた。
「戻るがよい。アベル・メホラの地に、お前が後継者とすべき存在がいる。行って、彼を連れなさい」
「後継者?」
「そうだとも」神は言った。
「エリヤ。イスラエルに、七千人の人間を残しておいた。彼らは皆、バアルに跪かなかった者達である」
その言葉を聞いて、エリヤは目をぱちぱちさせた。神は続けた。
「彼らは皆、同じように私を信じ、また、私の言葉を聞くものだ。エリヤ。お前一人ではない。お前一人で、全部背負ってはいない。何人も、いるのだ。イスラエルにまだ、何人も、何人も、いるのだ」
その言葉を聞いて、エリヤの眼から涙がこぼれた。
彼は泣いた。神はそれを、暖かく受け入れた。エリヤは安堵のあまり泣いたのだ。自分一人ではない。その言葉に。
長い間、一人だと思っていた。神と通じはしても、人間の仲間などいないと思っていた。
だが、違うのだ。人間として、自分は人と分かちあえるものがある。自分だけ特別ではない。特別とは、孤独であることだ。
残されたその人たちと、自分が平等であることを知ったのだ。そして、同じようにこの時代を生き抜き、イスラエルの信仰を守る存在であると知ったのだ。それが、たまらなく嬉しかった。
自分は一人ではなく、そして、自分と同じような存在が何人もいる。それは、彼の人生で初めて知ることであった。

翌朝、彼はイスラエルに戻った。戻るとき、一つ知ったことがあった。自分が立ち寄ったのは、シナイ山だったのだ。かのモーセが、律法を受け取った場所だ。
エリヤは思った。おそらく、彼も悩んだのだろう。疲れたのだろう。モーセも、アブラハムも、サムエルも、ダビデも。彼らもみんな人間であったのだから。だが、その苦しみを乗り越え、その人生を全うしたのだろう。
エリヤはまっすぐに、アベル・メホラに向かった。



そこで話は終わった。
「ミカヤが来た日、俺とあいつが話したろ」エリヤは言った。
「俺がシナイ山で神様に語られたこと、話したんだよ。神様はな、あいつがその選ばれた七千人の一人だから、俺にあいつを連れて行くなって言ったんだ。あいつは俺と同じ立場であるべきで、俺の下に立つべき存在じゃない。あいつも、それをわかってくれたんだ。わかってくれたからこそ、自分で、自分の戦いに赴いた」
「立派ですね」エリシャは言った。
「エリシャ」彼は、自分の弟子を傍に引き寄せて言った。
「ありがとな。人と居るのは本当に楽しいって、俺は、お前のおかげで実感できたよ」
彼はそう言って、にっこり笑った。
「ありがとう。……本当に、ありがとう。俺のそばに居てくれて」
「何を今さら」
エリシャも笑った。
「最後まで一緒ですよ、師匠」

彼らはいつの間にか眠っていた。眠りは安らかで、穏やかな夜の静寂が彼らを包み込んでいた。

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