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クリスマス市のグリューワイン

feat: Solomon 第四十七話


執務室で、一人きりで仕事をしながらソロモンは軽くため息をついた。最近少し仕事が立て込み、忙しい。自分は少々疲れているのだと分かった。
執務室の窓に、ヤツガシラが数羽寄ってくる。執務室の見慣れた客で、部屋の中には彼らにふるまうための餌もいつも用意してある。ソロモンはそれを窓のすぐ内側においた小さいテーブルにまき、彼らはまるで執務室に来る高官や長老、外国の使節のように礼儀正しく入って来てはごちそうにありついた。
その様子をソロモンはぼんやりと、少し穏やかな気持ちで眺めていた。忙しい中、このようなつかの間の休息も大変な潤いに感じる。


ある日の事だった。
「おい、ベナヤ」と声をかけられてベナヤはどきりと心臓が跳ね上がった。それはソロモン王の声だった。
「な、何でしょうか、陛下」
「今日モリヤ山に視察に行く。暇ならばお前ひとり護衛に連れて行こうと思う。何人も護衛といるのは性に合わん」
ベナヤはその言葉に安心し「無論の事、お引き受けいたします」と言った。ソロモンはそれでは昼食が終わったころにとだけ言い残して、さっさと自分の執務室に行ってしまった。

ベナヤは胸をなでおろした。しかし、それと同時に心が痛ましくもあった。ソロモンは、まだ気づいていないらしい。
あの後、結局ベナヤはまたナアマと関係を迫られた。彼はそれをも断れなかった。そのままずるずると不倫関係を続けたままで、今に至る。
最近、ソロモンにこのことが露呈しないかとヒヤヒヤし通しだ。見つかれば自分はもちろん、ナアマにも当然凄まじい罰が襲い掛かってくるであろう。ソロモンなら情に流されるようなことがあるわけがない。ましてや、ソロモンが彼女にそこまでの愛おしさを感じていないことなど赤ん坊にも分かりそうなものだ。
しかし、それでも断れない理由がただ自分の優柔不断でないことも確かにベナヤは自覚しつつあった。そもそも、元から別に優柔不断な方ではない。
仮にも自らの妻である女性を寝取られ、そのことを知りもしないソロモンが一番の被害者であるのは承知の上だ。その上で彼は、ナアマを確かに憐れんでいた。
彼女は会うたびに、自分は不幸だ、ソロモンなどと結婚したくはなかった、と語ってくる。そんな彼女の荒れた心を少しでもいやしてやれればと言う気持ちが、日に日に強くなっていくのをベナヤは感じていた。だから、断れない。自分との逢瀬と言う唯一たのしいことまで奪われてしまっては、この若い王妃はあまりにも哀れだと思ってしまうのだ。
ナアマは、最初の方こそやけになっているように彼に抱かれた。しかし、火がたつごとにそれは変わっていった。
彼女は、ベナヤと会うときごとに少しずつ、少しずつ態度を軟化させていき、今ではただ楽しそうに見えた。彼女はソロモンといるときのように怒っているような表情をそうしなくなり、柔かい表情でいることが増えた。穏やかに笑うことすらあった。
ベナヤはそんな彼女を見て、彼女が可愛らしいと思えるようになった。彼女にはあのバテシバやアビシャグのような誰が見ても甘い美辞麗句を並べ美しいと絶賛するような美貌はない。しかしギスギスした表情を解きにっこり笑えば、案外可愛らしい顔をしているのだ。
責めてソロモンも彼女のそう言うところを見てくれれば、と彼は思う。彼らは夫婦であるのに、お互い荒んだ顔しか見せないのだ。そうではないのに。穏やかに笑えば、ナアマももっと魅力的なのに。彼の思う、愛するに全く足りない女などではないのに、と、彼は誰に言えるはずもない嘆きを抱えた。



視察に行った先で、ソロモンはため息をついた。呆れからくるものではない、感嘆からくるものだ。
ヒラムは今、「海」と呼ばれるものの制作に取り掛かっていた。それは巨大な青銅の器で、平たく言えば儀式用の、祭司の清めに使うための水をためる水盤を大きくしたものだった。だが、ただの水盤とするにはそれはあまりに大きい。容量で言うのなら、三千バトの水は入る。そしてもちろん、それは大きいだけのものではなく、また、繊細な彫刻をぎっしりと施した華やかな芸術品として仕上がる予定にもなっていた。まさにソロモンの神殿を飾るにふさわしいものに。
これを作るにはかなり高度な技術が必要であることはソロモン自身もよく分かっていた。そしてヒラムは元青銅職人と言うだけあって、この存在を知ったとたんこれは自分がやりたいと言っていた。それで満を持して制作に取り掛かったのだ。
当たり前だが、青銅で作る以上入念な準備が必要になる。大きなものであればなおさらだ。彼は何日も何日もかけて丹念に鋳型を作っていた。少しのずれも許されないので、ヒラムはこればかりには誰の手も触れさせず、正真正銘自分一人で作業を行った。そして、それももう完成らしかった。
彼は、見上げるほど大きな鋳型をこしらえていた。そして、その上に立って作業をしていた。ソロモンはそれを眺めて、これに青銅を流し込まれできるものの荘厳華麗さが早くも透けて見えるような気分だった。
「ソロモン王?」
鋳型の上から彼もソロモンの気配を察したか、ひょこりと首を出して彼を見下ろした。ソロモンは彼が下りようかと逡巡しているのを見抜き「良い、そのままで結構だ」と言った。
「はかどっているようだな、ヒラムよ」
「ああ、青銅を流し込むまでもう後いくらもありゃしねえ、楽しみに待っていてくれ」
上か誘う言葉を浴びせてくるヒラムに、ソロモンはさらに言った。
「楽しみにしているぞ。お前の創ったものであれば、まさにその名の通り広々とした大洋のごときものができるであろう」
鋳型を作る彼の手には、彼の数少ない持ち物である巨大なコンパスと定規が握られていた。ヒラムはこれさえあればどんな図形でも描ける、と、それを大層気に入っていることをソロモンは知っていた。ヒラムが上に居るせいで彼の手元が見えず、彼がそれを使っている様子が見えないことは少し残念だとソロモンは思った。できる事ならば、彼の手つきの美しさも見たいのだが、と。
遠目に彼の作業を、ジュベラ、ジュベロ、ジュベルムと言う三人の職人が恨みの眼で見ていたことには、ソロモンは気付かなかった。彼は、ヒラムの鋳型をじっくりと眺めてそれに見とれていた。


ねぎらいの言葉をかけてベナヤとともに王宮に帰っていくソロモンを見送りながら、アドニラムは思うところがあった。言おうとしていたのだが、今一つ迷っているうちにいだせなかったことがあるのだ。最近、作業場で少し心配なことがあるのだ。ヒラムに関してだ。
ヒラムは確かに有能だ。それに、そのことを素直に尊敬する職人や労働者たちも多い。だがしかし、やはり彼の才能と力、そしていきなり彼に与えられた重要役職に嫉妬する者もいる。
なかでも、とある三人の職人、ジュベラ、ジュベロ、ジュベルムが不穏だと、アドニラムは感じていた。彼らはヒラムが来る前にいずれもアドニラムのすぐ下で現場指揮をしていたものだが、ヒラムが来て、そして彼が責任者になってから仕事を干されたも同じで、今ではずっと格下の職人に混ざって仕事をしているのだ。そして、彼らは当然ヒラムの事を面白く思っていない。彼らは、彼に対する憎しみや嫉妬を隠そうとしないのだ。
アドニラムはこのことに関して、何か嫌な予感がしていた。このことを放置しておくのは得策ではないように思えてならないのだ。だから、できる事ならばこのことを王の耳に入れ、彼らの処遇についての判断を仰ぐべきかもと思っていた。
しかしそう思うと、今度は違う感情が邪魔をするのだ。これを、忙しい王にわざわざ聞かせるべきかと。有能なものが嫉妬されるのは往々にしてよくあることだ。それに、ヒラムは具体的に何かいじめや邪魔を受けている様子でもないし、第一彼自身ジュベラ達に憎まれていることなど全く気にもしていないようにも見える。その態度が余計にその三人を刺激するのだが。
大勢の集まる場所で、このような感情の交錯はしょっちゅうだ。ヒラムがはなもひっかけていないだけ、穏便な方である。その事実だけを見れば、わざわざ王に手間を取らせるのは失礼なようにも見える。
それに、ヒラムが有能すぎるだけで、根本的には誰に非があるわけでもないことなのだ。ジュベラたちだって、ヒラムには相当劣るがそれでも一般的に見れば優れた職人である。誰が悪いとも言い切れないし誰を切り捨てるのも道理が通らなさそうな、こんなややこしい事態を持ちこむのもまた失礼なように思えた。


数日が立った。ヒラムの「海」の制作は着々と進み、いよいよ、その日青銅が流し込まれることとなった。ヒラムは青銅職人の技術を駆使して青銅を絶妙な調合でこしらえた。どろどろと溶けたそれすらも、美しいものであると何人もの目に映った。
ソロモンはそのことを聞いて、ようやく仕事に暇ができたのも加わって、その場にどうしても立ち会いたいという思いに駆られた。ヒラムの仕事の、真骨頂をその目に焼き付けたいという気持ちがあったのである。
彼は護衛もつけずに、さっさとラバに乗って宮殿を後にした。ベナヤは彼に心配そうに声をかけたが、彼は心配するベナヤを一応ねぎらった後「だが、心配はいらん」とだけ言って、一人行ってしまったのだ。
ソロモンがその時、視察に行く王と言うよりは、どちらかと言えば夜毎にひっそりヒラムと会って何時間でも話し合う気の知れた間柄の相手として、そして彼の芸術作品を愛する者としてその場に立ちたい気分だったということまでベナヤは知りはしなかった。ソロモンは夜にヒラムのところに行くときはいつも一人だ。今回はまだ日のある午後だったが、その気分でいたかったのだ。
釈然としない様子でベナヤが所在なさげにしいていると、不意に彼の前に現れるものがあった。ナアマだった。
「王妃殿下」彼は言った。そして、急いで周りを見渡す。幸い、周りに人はいなかった。
ナアマは彼よりも早くそのことに安心して、彼に抱きついてきた。ベナヤは慌てた。今いないとはいえ、急に人が来ないとは限らないと彼女に言う。だが、彼女は笑ってこう言った。
「ねえ、ベナヤ?ソロモンが出かけたのね。どこに?」
「モリヤ山に。職人ヒラムの大仕事の完成を見守るとかで」
「へえ……そんなもの見て、何が面白いのかしらね。全く、分からないわ」
彼女は笑て、ベナヤからひょいと体を離した。はた目から見て誤解を招く可能性は少ないだろう程度に。
「ねえ……ベナヤ。私の頼み、聞いてくれる?」
彼女がそういうとき、自分はたいてい断れないのをベナヤは分かっていた。しかし、いくらなんでもまだ日が明るく輝いている時間である。こんな時間にそんな、と言おうとしたが、ナアマはそれを許さない様子であった。
「……何か、おありでしたか」彼は渋い顔でそう言う。
「昨日、あの人が私のところにきたのよ。ずいぶん久しぶりに」
彼女はわざとらしく首を曲げてそう言った。
「は……」
「何にも云わずにね。すぐ終わったわ。それでさっさと帰っていって。全く、いつも通りよ。……ねえ、分かるでしょ?ベナヤ、昨日の夜から、ずっと、私が貴方といたかったってこと」
彼女はそう言って、ベナヤに鍵を見せた。
「ここなら、見つかるわけないわ。ねえ、一緒に来て頂戴」
そう言ってナアマは、ベナヤの手を引いた。ベナヤは彼女の暖かさを腕越しに感じながら、彼女に半ば引きずられるようにしてついていった。


その部屋の目に付いたとき、ベナヤはいくらなんでも、と声を上げかけた。しかし、ナアマはそこで「する」ことを非常に楽しみにしている様だったので、ベナヤは結局拒めなかった。とにかく、不幸なナアマが幸せになれるなら、と、彼はこういう時、いつも思ってしまう。


いよいよ青銅が流し込まれる段階になった。ソロモンのためには特別に椅子が誂えられようとしたが、ソロモンはそんなものはいらないと言った。遠慮や見栄と言うよりも、立った方がよりヒラムの様子がよく見えるという気持ちからだった。
そう言うわけで、代わりにソロモンは一番前に立って、周りの者はアドニラムをはじめとする重臣以外は彼のそばに無礼に近づかないよう心掛けた。
ヒラムは解けた青銅を、一気に鋳型に流し込んだ。彼が長い間かけて作り上げた芸術が、いよいよクライマックスを迎える。ソロモンは心臓を高鳴らせた。きっと、ヒラムも同じ様子だろうと思っていた。
青銅がどんどん落ちる。ソロモンの描いた立派な角を持った雄牛牛や花の彫刻の形を、まずは形作っていく……
と、その時だ。


急に、「海」が爆発し、火が燃え上がった。

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