クリスマス市のグリューワイン

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feat: Solomon 第百五話

余りの痛みに耐えかね、ソロモンも床に膝をつく。それを見下し、ベリアルは笑った。
「ふふ……あはははは」
「何がおかしい……」
「おかしいよ……君に、ヒラム・アビフのまねなんてできるわけがない!」彼はソロモンに向かって指を指す。

イスラエルの全てが、その出来事を目撃遷都するため、眠りこけているかのようだった、明かりのすっかり消えた暗い道を抜け、エチオピア兵達は、エルサレム神殿にたどりついた。
神殿には、番人も何もいない。鍵すらも、かかっていなかった。不審に思いつつも彼らは、メネリク王子の指示するままに、異邦人では入ることを許されない内陣へと向かう。それを止める祭司はおらず、イスラエルの神すらも、それをこばまなかった。
そしてついに、内陣に乗り込んだメネリクは、そこにある幕屋の白いカーテンをまくり上げた。
「……これか」
松明の光に照らされたそれを見たメネリクは、息をのんだ。黄金の天使像を頂いた、見るも華麗なアカシア細工の箱。自分たちの時代よりもよっぽど前に作られたものだろうに、その美しさは全く損なわれてはいなかった。それはまさに、イスラエルのhコリを象徴するかのようだった。
「どうしますか……」兵士たちは怖気づいているようだった。だがメネリクは自ら歩みより、手をかけた。何も起こらない。大丈夫だ・彼はそう確信し、契約の箱の一つの隅を持った。
「問題ない。運び出せる。お前たち、手を貸せ!」
その言葉で、兵士たちも一斉に動く。契約の箱は彼らにその見事な身体をゆだね、持ちあがった。
その時、兵士の一人がやってきた。
「メネリク様、人が来ます」
「なに!」
しまった、この様子をイスラエル人に見られていれば、大ごとだ。
「誰かは分かるか?」
「はい、王子、レハブアムでした」
レハブアムが、よりにも寄ってなぜこの時間にここに。メネリクは口惜しく思ったが、部下の一人に自分の持つ角を任せ、自分は幕屋の外に出た。
「メネリク様……!」
「私が何とかする。お前たちは準備を進めておれ」

「なんで、ヒラム・アビフがオレたちを使役できたんだと思う?思い出してみろよ……完全に、その指輪のせいだったか?」強がりつつも、ベリアルは確かに苦しそうであった。そしてそれでもなお、彼の執念の炎は赤々と燃えていたのがはっきりわかった。
「あいつは、悪魔の子孫だった……それも、そんじょそこらの下っ端じゃない。悪魔を使役できるほどの、高位の悪魔の子孫。その血があったからこそ、使えたものなんだよ、それは……しかも、その実の子孫であるヒラムすら、寿命の制限をつけなきゃ使えないくらいのものだった」
ベリアルはケラケラと笑う。ソロモンは、自らの体の中が崩壊するよな感触を味わった。先ほどは、心。だが今は、物理的な身体が。
「お前は、ただの人間なんだよ……いくら化け物みたいな容貌をしていたって、ただの人間とただの人間の間にうまれた、正真正銘、純粋な人間なんだ!」
化け物と呼ばれて、ソロモンは育ってきた。
お前のようなものが、人間であるはずはないと。
そして彼にそのような人生を与えた張本人が、それを否定した。ソロモンは全くただの、人間であったのだ。
「そんなもん、使い続けたら」ベリアルは脅迫するように、笑いかけながらも恐ろしい口調で言う。「すぐに死ぬに、決まっている」

何もかも持っていて、何もない。
自分は何もなせない凡人で、一生、ソロモンの息子としてしか扱われない。レハブアムは、知っていた。そんな自分の人生も、そう嘆いて居ても何も始まらないから少しでも何かに向けて動かなくてはならないということも、自分にはそんなことをする気概も気力も才能もないと、全部、知っていた。父のような叡智など何一つ持たないのに、それだけは、知っていた。
何日も寝込み、思った。神は、こんな自分に答えを与えてくれるだろうか。
答えを与えないでもいい。自分の心を少しでも、楽にしてくれるだろうか。
そう思って彼は、夜中にこっそり神殿に向かった。
夜の神殿に足をふみいれるなど、レハブアムにとっては初めての事だった。普段の雑踏が何もなく、祭司たちの声も音楽も、生贄が燃やされる臭いも、何もない。
不思議な世界だ。彼は神殿も、あまり好きではなかった、どうせここも父の栄光の場、父が作り出したものにすぎないから、と。
けれども、その時限りは、彼は神殿を素直に愛せるような気がした。
階段を上る。門に鍵がかかっているかも、などと考えていなかった。
そして、考える必要もなかった。レハブアムが階段を上ると同時に、門が開かれ、そしてその中から、一人の人物が出てきた。
「……父上?」
レハブアムは目を疑った。そこには自分の父が、ソロモン王が立っていた。

「レハブアム、このような夜更けに何をしている」
ソロモンは、レハブアムにそう問いかけてきた。
「ぼくは……」父を見ると、うまく話ができない。何も、言いたくなかった。だからこそ彼は、言葉など飾らずに、素直に言った。
「祈りに来たのです。何か、悪い事でもありますか」
「悪いことはない。ただ……」
そしてレハブアムは、次に帰ってきた言葉に、耳を疑った。
「今日はもう遅い。返って寝なさい。ここの所、体調を崩していたろう。こんな夜更けに出歩いては、心配だ」
「なんですって」と、レハブアムは反射的に言う。目の前のソロモンは、厳かな表情を崩さないまま、それでも、言った。
「心配なのだ。お前も、私の大事な息子なのだから」

「大事な息子……」レハブアムは、ふっと、笑った。
「何故笑う?」
「お父上は、僕にそんなことを言ってくれたこと、ありませんでしたから……」
しかし、気持ち悪くはなかった。神殿に来て、良かった。レハブアムは空虚になった心が少しだけ、ほんの少しだけ確かに満たされたと、実感した。
「ありがとう、お父上。もう帰ります。……お父上も、早くお帰り下さい」
「ああ、お休み。レハブアム」
レハブアムは「お休みなさいませ、お父上」と言い残し、そのまま踵を返して、ラバに乗って一目散にモリヤ山を駆け下りて言った。
「……いかがでしたか、メネリク様」
「問題ない。うまくだませたようだ」
メネリクは変化を解いた。彼は光輝くと同時に、ソロモンの姿から、メネリクの姿へと変わる。
「急げ。明るくなるまでには、エルサレムを離れねば」
「しかし、僭越ながらあの王子が不審に思わないとも……」部下の一人が言う。「やはり、殺してしまった方がよかったのでは?」
「その必要はない。……哀れな奴だが、あそこまで哀れだと、いっそ皮肉でも何でもなく同情の心も湧いてくる」メネリクはそう、レハブアムの事を評した。自分に矢も楯もなく夢中になっていたあの王子、あの異母兄を。
「せめて、厄介ごとに巻き込んでやりたくもない」
「メネリク様、積み込み、終わりました」部下の一人がすかさず、そう言ってきた。メネリクはそれに「よし」と返答する。
「皆の者!これより、エチオピアは王都アクスムへ、帰還する!」
その鶴の一声で、エチオピアの軍勢は動く。だが、その時だった。エチオピア軍は、目を疑った。
夜空が、金色に輝く。彼らの前に、眩しく輝く天使が、翼を広げて浮かんでいた。将軍のようないでたちの、壮観な男性の姿をした天使が。

内臓が、ねじれるかのようだ。
肺が、つぶれるかのよう。
骨が麦わらのように簡単に折れるかのような感覚。
それらを味わってもなお、ソロモンはベリアルに対抗せんと、指輪に念を込めることをやめなかった。
ベリアルは先ほどと比べて、あからさまに弱ってきている。彼はとうとう、ソロモン同様、膝をついた。もう立ってもいられないように。
「何故……」ベリアルは言った。
「何故、そうまでして抵抗するの……無駄なのに。オレを止めたって、オレは死なないんだよ。お前は、死ぬけどね。このままなら、死ぬけど……」
「俺は、魔術などかじったこともない」ソロモンは言い切った。「だがな……若いころ、俺は何でもできる気がしていたんだ。お前は見てないから、知らないだろう?アドニヤに殺された俺が、アンモンでどのように過ごしていたか。自分は天才だ、自分は何でもできる……その自身一つが、俺をこの地位に上らせた」
「ばかばかしい!」ベリアルは断言する。
「お前ごときをイスラエル王につかせたのは、神だけだよ、神の気まぐれな采配だけ!お前は寝ててもイスラエル王になったさ!だからオレは嫉妬したんだ、それだけ恵まれたお前に!」
「違う、運命は変わり得る!俺の所業に神が愛想を尽かしたように!」ソロモンは答えた。「俺が何もせねば、神も俺に愛想を着かせたはずだ。確かに運命も、才能も、神に与えられたかもしれん。だがそれを、まさにその神に認めてもらえるほどに磨き、使ってきたのは、この俺自身だ。そして、神は言われた。俺にはもう、全てを与えてあると……間違いない、此れこそが、最後の俺の砦だ。俺の友が与えてくれた、砦だ……」
ソロモンは体中が悲鳴を上げているというのに、話すことだけは問題なくできた。まるで神に、そこだけは守られているかのように。
「貴様を、イスラエルにのさばらせるわけにはいかん。俺が守った国に、俺の子孫に、お前にはもう、何一つさせん。……お前を殺すことが、もはやかなわないと言うのなら」
ソロモンはベリアルから授かった赤い目で、ベリアルを、自分を呪い続けた兄を、しっかと睨みつけた。
「お前を、封印するまでだ。……私には、それができる。そのような確信に、満たされているのだ」

「あれは……」
「イスラエルの天使か!?」
エチオピア兵達は騒いだ。無理もない。イスラエルの聖櫃を盗み出した自分たちに神の罰が当たるのだ、とてんてこまいになるのも。
だが、彼の言葉と思しきものが降ってきた。それは、エチオピアの言語で与えられた。
「恐れることはない、ソロモンの子、メネリク!」
彼は自分を見つめるメネリクに向かって、はっきりとそう言いきる。
「私は神の使い、名はミカエル。お前たちと聖櫃を、行くべき場所に案内しよう!」
その言葉を聞いて、エチオピア兵達が一旦、悲鳴も、命乞いの言葉も発しなくなった、その瞬間だった。彼らは、凄まじい光に包まれ、同時に、体が浮かび上がるかのような感覚に襲われた。時間の感覚が彼らの中で、酷く曖昧になった。

そして、目が覚めた時の事。彼らは、目を疑った。
イスラエル以上に見知った光景が、目の前にあった。
そこは、エチオピアだった。しかも、王都をすぐそばに臨む平原に、彼らは立っていた。
「我々の、故国……」
振り向けば、契約の箱も確かに一緒に送り届けられていた。目を瞬かせるメネリクに、ミカエルと名乗った天使は「さあ、帰るがよい」と告げた。
「ま、待て!」メネリクは慌てて縋る。
「お前は、何者だ……?」
「……私は、お前の父の守護天使として、お前の父が彼の母の対に宿った時に、定められたものだった」彼は語った。
「だが……もう、お前も知っていよう。彼の生きている間中、私や……ときには神の意志すらも阻むほどの強力な悪意が彼を取り巻いていて、結局……私が、介入できたのは、一度だけだった。お前の父が……そう、ちょうどお前と同じ十四歳の時に一度敵の関係、ベリアルのたくらみによって殺された時……正と死の淵で、我らは、ただ一瞬であった。それだけだった」
「父の……本物の守護天使だったか」メネリクは、さらに聞いた。「何故、異邦人の私に、契約の箱を?」
「神は、お前を選ばれたからだ。そして、お前の母を選ばれた」ミカエルはそっと、言い聞かせた。将軍のような猛々しい容姿であるにも関わらず、そこには途方もない慈愛があふれているように思えた。まさに、天使のそれと言うにふさわしき慈愛。
「さらばだ。ソロモンの子、メネリク」
彼はそう言い残し、引き留めようとしたメネリクの手もむなしく、閃光を発して消えていった。後に残ったのは、メネリクの見覚えのあるエチオピアの夜空……。
彼はその場に、静かに座りこんだ。

「封印だって!?」
ベリアルは叫ぶ。
「馬鹿な、そんなことしたら、いよいよお前の身が持つわけない!」
「そうか……ならば、やってみよう!」
ソロモンは、精いっぱい指輪に念じる。この者を封印せよ、と。たちまちのうちに、先ほどの数倍もの痛みが襲いかかってきた。内臓が、筋肉が、全て千切れていく。皮膚が裂け、血が出た。それでも、ソロモンはしっかり前を見据えることで、意識を保っていることができたた。ベリアルは明らかに、苦しんでいた。
床に突っ伏し、身動きが取れない様子であった。
「やはり」ソロモンは言った。
「やはり、これが神の望みであったか……ありがとう、神よ。ありがとう。我が友……ヒラムよ」
ずい、と床が動く。それは液体のように変形し、真鍮のような輝きを持ってベリアルの周りに渦巻き始めた。
「お前は、それでいいの……」ベリアルは言う。
「お前も、オレと同じじゃないか!神の望みのままに、死ぬだけだ!神のおもちゃみたいに、命を好きにさせられるだけ!」
「お前がそう思おうと、俺は心の底からこれを望んでいる」ソロモンははっきりと言い切った。
「俺はイスラエルを愛している。我が子孫を、呪わせたくはない。そして……一度は忘れた。もはや許してもらおうとも考えん。だが、それでも神を……俺を見捨てずにいてくれた神を、愛しながらここまで生きてきた」
真鍮はぐるぐると、ベリアルを包み込む。ベリアルの足を、体を。なおもにらみ続ける彼に、ソロモンは、最後に告げた。
「そして……ありがとう、ベリアル」
ピクリと瞼を動かしベリアルに、ソロモンは告げる。体中を蝕む痛みにもかからわず、つきものが落ちたような微笑みを浮かべて。
「お前は知らなかったようだな……お前が来るまで、俺はずっと、死のうと思っていたんだよ。神殿の図面を書き終えたら、死のうと。けれど……それも限界だった」
「何、言いだすの……」
「お前が来る前の日かな?……俺は、決めていたんだ。そろそろ、計画を進めようかと……・自殺の、計画を。そろそろ頃あいか、死んでもいい、夜が明けたら始めよう、と考えていたんだ……それを止めたのは、お前だったよ。ベリアル」
ベリアルははっと、何かを察したようだった。みるみるうちの彼の顔が、屈辱に歪んでいく。
「お前が、俺すら忘れていた誕生日を祝ってくれた。お前が、優しくしてくれた……だから俺は、もうしばらくは死なないでいいか、と考え直すことができたんだ、俺がそう思っているなんて、お前、思いもよらなかっただろう。だけど、俺はそう考えていたんだ」
「やめて……」
「そのおかげで、イスラエルの王に成れた。人々に認められた。神殿を築くことができた。ヒラム・アビフに出会えた。ビルキスに出会えて、子供すらも生まれた……全ての幸せを、手に入れることができたんだ」
「やめろ……やめろよ!」
それはおそらく、ベリアルが最も言われたくない言葉であったろう。
だから、ソロモンは言った。万感の思いを込めて。
「お前が来てくれたから、俺の一生は幸せだった。ありがとう。兄さん」

鋭い声で、ベリアルは怒鳴ったのかもしれない。泣き叫んだのかもしれない。自分の思いを、誰よりも憎み嫉妬した相手に、すべて否定されて。
けれど、その声はもはや、彼以外の誰にも聞こえなかった。

真鍮は完全にベリアルを包んだ。そしてそれはみるみるうちに縮み、一本の、口が鋳潰された真鍮の小さな壺の形になった。
悪魔ベリアルは、封印されたのであった。


「メネリク」
「メネリク様!」
やがて、王宮に帰ったメネリクは、大騒ぎとともに迎えられた、まだエチオピアにつくはずのない彼らがなぜか、帰還していた。しかも、イスラエルの聖櫃まで携えて。
イスメニー女王も、タムリンも飛び起きて彼を出迎えた。
「メネリク様……暗殺は、なったのですか?」
「メネリク……?」
心配そうに自分に問い開ける二人に、メネリクは自分の身に起こったことを全て話した。自分とソロモンの築いた関係、ソロモンに取りついていた悪魔ベリアルの事、彼の企み、母の死の真相、ソロモンが自分に託した願い、そして、ソロモンの本当の守護天使ミカエルが、自分をここまで送り届けてくれたことも。
それを聞いたすべての人々は、絶句した。タムリンは口を開き、「私は、なんということを……」と言った。
「申し訳ありません、メネリク様……十四年間も、私は貴方を、私の勝手な思い込みで、お門違いの復讐へ……」
「気にするな……タムリン。私にとって、お前が誰よりも大切な人間の一人であることには、変わりない」メネリクは鷹揚に笑って見せる。
「ただ、願わくば……」
彼は、自分の荷物をするりとほどいて、エイラットストーンの天球儀を取り出した。そこに描かれているのはイスラエルの空にも、エチオピアの空にも見えた。
「ソロモンと、親子として、話がしてみたかった……」
彼は、ポロリと涙を流す。十四歳の少年相当の、幼さをのぞかせて。
「今、わかる。ソロモンは母上そっくりに化けた私を、女としではなく、娘のように思って接していたのだ。そして私は、それが……心地よかった……私は、ソロモンと親子になってみたかった。あの方を、あの方を、何故、父親と呼ばなかったのだろう……」
泣きながら、メネリクは実感した。
ああ、十四年感信じてきたものを捨てても、何も変わりはなかったじゃないか。
自分は、素直になればよかったのだ。彼に、貴方の息子であると、平和のうちに打ち明ければよかったのだ。
だが、もう遅い。自分が愚かで、幼稚だった。そう思った彼を、イスメニーがすっと抱きしめた。
「メネリク。貴方の親は、ここにもいますよ」
そう言って彼女は、メネリクの頭を撫でてくれた。父譲りの顔立ち、母譲りの異形の足を持つメネリクを、彼女は本物の母親のように抱いてくれた。
「ありがとう……ございます」
メネリクはイスメニーの胸の中、ひとしきり泣いた。そしてその後、言う。
「イスメニー様……貴方の跡を継ぐのは、私ですね?」
「ええ、それは、変わりません」
「私は、偉大なるエチオピア皇帝へとなります」
彼は義母の目をしっかり見据え、そう誓った。
「それが、両親への……偉大なるイスラエル王ソロモンと、偉大なるシバ王国女王ビルキスへ対する、何よりの親孝行になりますから」
イスメニーは、彼を話した。そして、今度は慈母の目ではなく、女王の目に戻り、目の前の少年を見つめた。
「立派な心構えね、メネリク」
メネリクはもう一度、天球儀を見つめ、うなずいた。エチオピアの空にはいつの間にか、見事な朝日が輝いて、その青緑の宝石、イスラエルの至宝ともいえる宝石を、きらきらと輝かせていた。

ソロモンは、ヒラム・アビフにもらった黒い指輪を引き抜いて、細く突き出た壺の口にひっかけた。よろよろと体をおこし、バルコニーに出る。体の中がぐしゃぐしゃにつぶれているのが、よくわかる。もう、長くは生きられまい。
東の空が白んでいる。生まれてこの方浴びられなかった太陽が、今日もイスラエルを照らそうとしている。ソロモンは今一度、自分の治めたこの国を、イスラエルを一望した。
手すりに手をおいて身体を支えながら、この十四年間傷つけた人々に、心の中で懺悔し、謝罪した。彼らも一人一人、心持つ人間であったのだ、と、今になってはっきりわかることができた。
レハブアムには、気の毒な育て方をしてしまった。今思えば、彼には本当に悪いことをした。謝ってどうにかなるものでもない。だが、せめて私の持つすべて、ユダ王国の王位は、誰が何と言おうとお前以外のものではありえない。ソロモンは心の中、そう誓った。
やがて、東の空から朝日が出てきた。東、ビルキスが、イスラエルにやってきた方角から。
その時、ソロモンは、目を疑った。
朝日の光と一緒に、ビルキスの姿がありありと浮かびあがった。十四年前と何も変わらない、美しく、凛々しい姿が自分の前に立って、両手を広げていた。
「ビルキス」ソロモンは微笑んで、その名を呼んだ。目の前の彼女は、優しく、微笑んでくれた。
「来てくれたのだね。嬉しいよ」
ソロモンは手を伸ばし、彼女と抱きしめあおうとした。
「これからは、ずっと一緒だ。ずっと……」
そして、その言葉が、栄華を極めしソロモン王の、最後の言葉となった。

そのに王宮に上ってきたベナヤは、レハブアムの部屋に行く前に、ソロモンの部屋に行った。
何を考えていたのか、あまりよく覚えていない。マケダが不気味だと言おうとしたのかも、レハブアムに関する抗議をしに行ったのかもしれない。ベナヤ自身も思い出せないことだ。あるいは、神に導かれたのかもしれない。
「陛下」重々しい声で言ったその言葉は、帰らなかった。鍵が開いているのを見て、ベナヤはその中に入った。
そしてベナヤは、見た。

太陽の光を浴びることなく生きてきたソロモン王が、初めてその白亜の体を朝日に輝かせ、立って自分の国イスラエルを見守りながら、こと切れていた。
それはベナヤが見た中で、最も美しい、ソロモン王の姿であった。
いや、ベナヤが見てきた中で、最も美しい光景であった。

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feat: Solomon 第百四話

数か所を貫通させられたベリアルは、そのまま倒れこむ。彼の体が、ソロモンの体を離れた。ソロモンは、目の前の光景にひどく驚いた。そこにいたのは、メネリクであった。自分が刺し貫いたはずの。
「メネリク……」
「な、なんで、なんでお前が……」
ソロモンとベリアルは、同時にその状況に驚いた。メネリクは自らを貫いたはずの短剣を携え、彼自身も驚愕の表情で、二人の方向を見つめていた。
「先ほどの話は本当か、貴様」
彼の声も、震えていた。だが、ソロモンと違うのは、震え声の中にありつつも、そこには確かな気力があった。あるいは生命力と呼ばれるものかもしれない。
「母を殺したのは……貴様か?そのような……そのような逆恨みで……?」
「なんで、お前、生きてるんだよ……?」ベリアルは問いただした。「いや、そもそもなんでお前に、ボクが見えるんだ……?なんで、ボクを攻撃できるんだ……?」
そのように呻くベリアルを見下ろしながら、メネリクはすっと自分の腹の手をかざした。すると、突然そこに風穴があく、課と思えば彼がもう一度手をかざした途端、その穴は消えた。
「言ったはずだ。私は人間の姿なら、どんな姿にも変化できる……」彼は語る。「大けがをした死体に成りすますことも、容易だと言うことだ」
「けど、ソロモンは、お前を……」
「その男は……」繰り返すが、メネリク自身の声も震えていた。まさに、彼の壊されたくなかったものを壊されてしまったかのように。だが、それでも彼は立っていた。立って、話をしていた。揺れ動くアイデンティティ、自らの人生を終わらせるかのようなショックに必死に抗い、立って、話をしようと努める力が、彼には溢れていた。
「私を、貫きはしなかった。」
ソロモンも、それを聞いてひどく驚く。あの時本当に、意識がなかったのだ。ベリアルがひどく驚いている所を見ると、やはり、あれはベリアルが自分の体を動かしたのだろう。其れだと言うのに自分は、自分の体は、メネリクを突き刺すことを躊躇したとでもいうのだろうか。
意識がなかった以上、もはや何とも言えない。だが、メネリクが無傷であるという事実一つが、そこに立っていた。
「奴の刃物に気が付いて、次の瞬間、刺されていないことに気が付いた……だがソロモンに追い打ちをかける気配がないのを見て、わたしはとっさに、死んだふりをしたのだ。不意打ちを喰らわせるためにな……ところがどうした。貴様が現れて……とんでもないことをペラペラ話し出すではないか……母の、母の死にまつわることまでも」
「何故だ?」ソロモンも一緒になって、しどろもどろに問いかけた。「ベリアルは、私以外には見えないはずであったのに……」
「私の侍女……サラヒルが教えてくれたことだ」メネリクはどうにか少しでも声を震わせまいとするかのように凛然として答える。
「母が、言っていたことだ。タムリンも、お前も知らない……母とサラヒルしか知らない事実だが、母はイスラエルに居たころ、一度お前を……ベリアルを偶然に見かけたらしい」
それはあまりに、ソロモンにとっては突然の事だった。だが、ベリアルははっと目を見張った。心当たりがあったのか。
「そして、あれは天使ではないかもしれないと感づいていたと……母に見えたものが私に見えても、おかしくはない。怨霊と精霊、人間ではない半端な存在同士……案外お前も母も、近しい次元に存在していたのかもしれないな。ともかくも、だ……ソロモンがお前を信じきっている様子だったから母も詳しい言及はやめ、シバに帰るころにはほとんど気にも留めなくなっていたらしい。だが!サラヒルは覚えていたのだ……そして私に、もしや、とそのことを教えてくれたのが、昨晩だ」
「やっぱり……やっぱり気が付いていたのか、あいつ……」ベリアルは呟く。そう言えばビルキスがいたころ、ベリアルはめっきり姿を現さなくなっていた。ひょとすると、ビルキスの視界に入ることを避けていたのか!
「お前の、お前のせいだったのか。母上が死んだのは……」
メネリクは呻く。一瞬、彼はソロモンの方を見たが、すぐにそらしてしまった。もはや、どういう感情を持てばいいのか、彼自身も分からず、それの模索から逃れようとでもするように。
代わりに彼は、光の刃をかざし、またベリアルに向かって突き刺さんとした。
「母の仇……!」
それを聞いて。ベリアルも非常に威圧的な声を出した。

「なめるんじゃないよ……人間にも、悪魔にも慣れない精霊ごときが。悪魔に逆らいやがって……」
そして、その瞬間、光の剣が、火柱となって燃え盛った。メネリクは反射的に、手を離す。ベリアルはその火柱を掴み、片手でもみ消した。そして、立ち上がる。全身をめったざしにされた彼は、それこそ、翼の生えた肉塊以上の物には見えなかった。
「……オレは、オレは、こんなことじゃ死なないんだよ。オレを誰だと思ってるの?悪魔だよ、悪魔ベリアルだ。まだ……オレは生きるんだよ。神さまが、イスラエル王家を存続させるって余計なこと決めたんだから……だから、まだ、死ねないんだよ……」
メネリクも、完全に絶句していた。目の前の者の執念に、もはや当たり前ながら、ソロモンの復讐、など言っている様子ではなかった。
「イスラエル王家がまだ続くなら、まだまだ、呪ってやるんだ……呪い続けてやる。誰もかれも、不幸にしてやる。オレの命をぞんざいに扱ったダビデの子孫なんて、オレは、未来永劫許さないんだよ……!ダビデ王家だけじゃない。ソロモンの血を引いてるやつだって、絶対に、絶対に、許さない……」
そう言ってベリアルは、絶句するメネリクに掴みかかろうとした。
だが、次の瞬間。ベリアルは急に、動きを止めた。
しかも、彼が能動的に止めているわけではないことは明らかだった。彼はぐしゃぐしゃに崩れた顔面を更に苦悶の表情にゆがめ、苦しんだ。
「……畜生。何で、なんで、今……?」
ソロモンとメネリクは、不審に思う。しかし、彼ら二人は気が付いた。ソロモンの指にはめられた指輪のうち一つ……先ほどベリアルの体液に汚されなかった、黒曜石の指輪。ヒラム・アビフが友情のあかしにくれた指輪が、光輝いていた。

はっと、ソロモンの頭に考えがよぎる。
先ほどまで、もはや何も考えられなかった脳の中に、少しずつ、思考がなだれ込んで来た。生命力が帰ってきた、とでもいうように。まるで黒曜石の光が、生命力を呼び起こしてくれたかのようにも思えた。
ヒラム・アビフは、悪魔の子で、自分の先祖が授けた指輪で、悪魔を使役していた。そう、この指輪を、媒介として。
そして、ソロモンの頭はさらに二つの事実をつなげる。このベリアルも、悪魔。と、言うことは。
「ベリアル……まさかお前もこの指輪の、干渉を受けるのか?」
ベリアルは呻くだけで答えない。しかし、ソロモンはさらに事実に気が付く。そもそもヒラムが生きていたころ、ベリアルはなぜだか、いつも疲れた様子だった。
「いや……ひょっとしてお前、当時、ヒラムに使われていたんじゃないか?この指輪で!」
「……」
無言がもはや、答であった。この誇り高い彼が、ソロモンを不幸に落とすことしか考えていなかった彼がそんなことを言われ、間違いなら、そうではないと一言言えば、済むことだ。
ソロモンの心の中に、次々と力が湧いてくる。はっと、ソロモンは、最後に新しい気付きを得た。
神殿で、主は自分にこう言った。
「お前にはもう、すべてを与えている。私の願いを成就させる、全てを」
そうか。
何年も、何十年にもわたって、少しずつ少しずつ、自分は、全てを与えられてきたのか。この自分を、自分の治めたイスラエルを蝕もうとする悪意に対抗するための、全てを。
「メネリク」
静かな声で、ソロモンは言った。もう、その声は震えていなかった。
「頼みがある、聞いてくれ」
しかしその誇り高い声色とは裏腹に、その願い方は決して、傲慢なものではなかった、父が無う子に話しかけるような態度とも、少し違った。例えるならばソロモンは、他国の王に話しかけるように話した。対等な、お互いに尊敬すべき相手と話すように。
「このベリアルは、私がどうにかしよう。だから……お前は、エチオピアに帰るがよい。そして、頼みと言うのが……エルサレム神殿に行き、内陣の中にある聖櫃を盗み、エチオピアに持って帰ってくれ」

「何を……言っている?」
メネリクは狼狽しながら、そう聞いた。だがソロモンは、厳かに続ける。
「聞いてくれ。メネリク。全ては……全ては、この私の罪だ。この私の罪故に、主はイスラエルに混迷の時代を与えられた。もはやエルサレム神殿は主の唯一の居場所ではなくなると……もはやモーセに与えられたその石板は、その聖櫃は、エルサレムに存在すべきものではないとおっしゃられた。そして。同時に仰られたのだ。お前にはもはや、わが望みをかなえる全てを与えている、と……」
ベリアルの断末魔の獣のようなうめき声。何故だか自分の心臓までが、締め付けられ雨量な思いだ。其れでもソロモンは、話を続けた。もはや、そこに絶望などは存在していなかった。
「今、はっきりと悟った!聖櫃は、この地を離れ……エチオピアへ!お前の地へ行く、主は、そのように望まれたのだ!」
「何を、突然なわけのわからんことを次から次へと……」メネリクは言う。彼はその瞬間、やっと、ソロモンの顔を見た。
「貴様らの誇りなのだろう!我らが異邦人の地へと渡すと言うのか!?正気の沙汰ではない。それでもイスラエルの王か!」
「正確には、主に仕えた王だ」ソロモンはその言葉に、はっきりと返した。「主は、この世のどこにでもおられる。全てをお作りになられた主だ」
メネリクは、まだ戸惑っているようだった。当然だ。このようなことを自分も他人から割れれば、何を訳の分からないことを、と思うだろう。ただ、やはりメネリクは、聡明な子だと分かった。彼は確かに、その突如まくしたてられたことを、理解しつつあったのだ。それは顔を見れば、わかった。彼の気持ちは、本当に、理解できた。鏡に映った自分自身を見ているようで、愛しいビルキスを見ているようで。
「そして、私個人の思いを付け加えさせてもらうならば、だ……」ソロモンは、言う。
「私からの贈り物だ。王として一番に守って来たものの一つを、お前に預ける。私は、お前に、何もしてやれなかったから……父親として、何も……」
熱気を感じる。熱気と、瘴気。ベリアルが抵抗する余りだ、と、本物の悪魔と対峙したことなどないのに、ソロモンにはそう感じられた。
メネリクはその言葉を聞き、じっとソロモンを見ていた。つい数分前まで必死に奮い立たせていた溢れんばかりの殺気は、既に消え去っていた。ああ、本当にこの子は、偉い子だ。そして、強い子だ。自分の変化にこうやって、耐える心を持っているのじゃないか。
「だから、お前に預ける。どうか私の願いを聞いてくれないか、エチオピアとシバの王子……我が息子、メネリク!」
メネリクは、多くの言葉を言わなかった。
「わかりました」などとは決して口にせず、しおらしい言葉の一つも言わず、なんなら、うなずきすらせず。
さっと身を翻し走り出して、その場を後にしていった。だが、それは逃亡ではないということ、メネリクは自分の父の頼みを聞いてくれたのだということは、ソロモンを殺すべき相手でなく、話を聞くべき相手だと認めてくれたということは、彼が去り際に掴み、大切に抱えていったエイラットストーンの天球儀が、何よりも物語っていた。
ソロモンは、ほっと一息つく。だが、メネリクの足音も完全に聞負えなくなった頃。
指輪に念じベリアルを封じ込めていたソロモンの体が、急に、きしむような痛みを上げた。骨が折れるかのような、強烈な感覚。

エチオピア兵達は、急いで走ってきた王子……そう、王子の姿に戻った彼を見て、顔を見合わせた。
「マケダ様……いえ、メネリク様!」彼らは駆け寄った。
「計画がご成功なされたようですな。すぐにでも、帰国の準備はできております……」
だが、メネリクは息を弾ませ、兵士たちにこう言い放った。
「計画を、一部変更する……!お前達!エチオピアに帰還する前に、此れより、モリヤ山に……エルサレム神殿へ立ち寄る!その中にあるイスラエル人の誇り、モーセの律法の収められた契約の箱を……我らが略奪し、エチオピアへと持ち帰るのだ!」


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feat: Solomon 第百三話

血だまりの匂い。倒れ伏すメネリク。そして目の前で、見たこともないような表情を浮かべ、こちらを見下ろすベリアル。
その場にあるすべてのものが、ソロモンの心を打ち砕く。夢の中の光景と同じだ。自分が長年愛してきた建物が打ち砕かれるのを、黙って見ているしかできない。そして、ソロモンが損な感情に浸れば浸るほど、ベリアルは満足な様子だった。
何故だ?現実を受け止められるはずがない。ベリアルが、何を言っている?彼が、悪魔だって?自分の守護天使であったはずの彼が?
震える細い方には、ベリアルの両手がしっかりと置かれていた。ベリアルは混乱するソロモンの顔を、相も変わらずじっと眺めている。
「長かった……本当に、長かったよ。やっと……君が、そんな顔をしてくれたね」
「ベリアル、お前が……」かろうじて言葉と言う体裁を保っているかのような声で、ソロモンは彼に問いただした。
「悪魔、だって……?なら、なんで……どうして、俺についていたんだ?どうして……」
「どうして、って?決まってるじゃない。ああ、お前には、わからないよね。神さまに愛された、お前には……」
昼間のように部屋の中だけが輝いていたからこそ、ソロモンの目に名はっきり映った。信じられないことを言っているのに、そこ煮るのは、確かにベリアルであった、夢でも幻覚でもない、自分と三十年以上付き添ってきた相手以外のものではあり得なかった。
「ボクの気持ちなんて……わかるはずがない。ボクは、憎いんだよ、許せないんだよ。ダビデ王家が……そして、お前が。お前一人が幸せになるのが、許せないんだ」
「ベリアル……お前は、何者だ?」
「さっきも言っただろ?ボクはベリアル……ボクは無価値なもの。この世で最も必要とされなかった魂だって」
ベリアルの頭に飾られた花冠が、じわりじわりと枯れていく。真珠色の翼が、金糸の髪が、みるみるうちに、炭を流したように真っ黒に染まっていく。細かく編みこまれた紙が、自然にほどけて、荒々しく散らばっていく。
「そうさ。ボクは、人間……人間としてこの世に生まれるはずだった魂だ。其れなのに、生きる事すら許してもらえなかった魂……ソロモン、君は覚えているのかな。ボクと初めて会った時、君がボクに何を言ったか……」
彼の傷一つない滑らかな肌が、赤く染まっていく。生まれたばかりの赤子のような、ブヨブヨとした生臭い肌に代わっていく。輝かんばかりの彼の美貌が、見るに堪えない暗闇に覆い隠されていく。
これが、俺が、ベリアルの姿か?悪魔ベリアルの姿?ソロモンはその一部始終を、絶句しながら見守っていた。
「君はいったね。自分はあの男の『罪』だって……ダビデとバテシバが不倫の恋をしたことに対する罪の証として、自分は醜く生まれなくてはならなかったのだって……覚えてる?もう、そんなこと、覚えてないの?オレは今でもはっきり覚えてるよ。その言葉を聞いたとき、よっぽど……この場で殺してやりたいって思ってたもん。だって、キミくらい恵まれた奴が、よりによってどうして、オレの前でそんなことを、って……」
「恵まれた?」ソロモンはオウム返しに繰り返す。ベリアルは歪んだ笑いを浮かべ、「分かってもいなかったの」と言った。
「ダビデが生まれ、そしてバテシバがこの世に生まれた時……主は、このように定められたのさ。すでにその時、運命は決まっていた。ダビデとバテシバの間に生まれる子は、主に愛される子、イスラエルの栄光の時代を築く王になる、ってね……けれど、彼らは恋人にはならなかった。まっとうな恋人になるほどの存在に、彼らはお互い、育たなかった……分かるでしょ。あんな父と、あんな母だもんね」
急な話を次々と聞かされつつも、ソロモンはその言葉一つ一つは、腑に落ちるような思いだった。ああ、そうか、やはり父は、母を愛してなどいなかった。父は誰の事も、愛してはいなかったのだ。
「結果として彼は……神様も予測できなかったほどの、最低最悪の形で結ばれた。そこから先は、お前の考えと同じ。どんなに神が定められた相手でも……そんなみっともない、愛もない不倫の関係に鉄槌が下されないはずがないだろ?ましてや神に愛されたダビデが犯した罪なんだ、神が黙っているはずがない。その罪は、子供の形で生まれたんだよ。……けれど、ソロモン!お前が間違っているのは……その子供は、お前じゃなかった。そうさ、お前は罪でも何でもない!むしろ……罪の要素全てをもう一人の兄弟に押し付けて、綺麗なまま、イスラエるの栄光の王になると言う運命の身を背負わされて生まれる存在であったのさ!」
その言葉を聞き、ソロモンは、はっとした。

ハダド達の殲滅計画にあたり引っ張り出した、ナタンの歴史書。ちょうどかつての妻、ナアマの故国アンモンの戦争について書かれていた箇所の近くに、ダビデとバテシバの記録が乗っていたのだ。
そして、そこにあった、ごく短い記述。ダビデとバテシバが不倫の関係を結び、預言者ナタンはそれを厳しく非難した。そしてバテシバが身ごもり生まれた子供は……そう、ソロモンの実の兄は、生後すぐに病気になり……七日目に死んでしまった。そして、それにうなだれるバテシバにダビデが産ませた子供が……ソロモンであったと。
「理解したようだね」
天使のごとき美しさを今やすっかり失ったベリアルは、笑顔を崩さないまま、自分を目を白黒させて見つめるソロモンに言う。恐ろしいことに彼の笑顔は、同じもののままだった。全く変わらないままなのに、全く別物のように醜く、恐ろしかった。美しい器と、醜い器。その二つが、同じ表情に持たせる意味をがらりと変えていた。
「では……お、お前は……」
「そうさ……名前すら与えられなかった、ダビデとバテシバの第一子」真っ黒な翼を生やした赤い肉塊、そのような存在へとなり果てたベリアルは、ソロモンの頭を掴んで引き寄せた。そこに、彼が縋った温かい体温はなかった、屠られた後の獣の肉に触れるような、生臭く、ぐちゃりとした不快な感触があった。
「お前の兄だよ……!未来も、人生も、何も用意されてなかった。ただ生まれるだけ、生まれて死んで、ダビデにお前のやったことが罪だと知らしめるだけにこの世に作られた……この世で最も無価値、もっとも、誰にも必要とされていなかった魂さ!」

無いに等しい体温。
肉塊のような感触。
憎しみに満ちた、目の前の彼の表情。今まで自分に受けていた清らかな笑顔とは対極にあるもの。
それに包まれ、ソロモンはただただ絶句した。メネリクをこの手で殺してしまった、と言うショックにそれらがくわえられ、もはや、言葉が言えなかった。
「なんで生まれた、なんで魂を、自我を、与えられたのか、この程度の役割しかなかったのに、って……?お前が言わなくとも、オレはずっと思ってたよ。今でも覚えてる。体中暑くて、死にそうで、でも誰もかれも、オレの事をいぶかしがる目で見ていた……こんな赤ん坊、助ける価値はないんだって……そしてオレが何が一番悲しかったかって……神様が、神様自身がそう思っていたって、わかってしまった事さ。そうして、オレは死んだ。でも……死んでも、死にきれなかった。オレの魂はいつの間にか人間の世界に留まってたよ。そしてそのオレを見つけて……悪魔にしてくれた存在がいたんだ。悪魔の長……ルシファー、と彼は名乗った。けど、彼の名前はオレにとってすらどうでもいい。大切なのは、彼はただの赤ん坊の怨霊でしかなかったオレを悪魔に変えて、体と、悪魔としての力を授けてくれた……憎いダビデ王家にお前が何をするも自由だ、って言ってくれてね!」
彼はソロモンの指にはまった、赤いダビデ王家の紋章の指輪を握りしめた。ハリも生気もないその肉体に、ずぶずぶと赤い指輪が食い込む。
「オレはもちろん、復讐する道を選んだよ。ダビデが憎かった。バテシバが憎かった。ダビデの血を引く王家が……血を分けたオレにこんな運命を授けておきながら、のうのうと生きている奴が憎かった。けれど俺が一番憎かったことは……すでにバテシバの中に、新しい子供が宿っていたことさ。そして絶句するオレに、ルシファーが教えてくれた。あの腹の中の子供を、神は、イスラエルの王とする気だ、って。本来お前がなるはずだったのに、罪も汚れも罰もすべてお前一人に押し付けて、そのお前が死んだから、満を持して『イスラエルの最盛期を築く栄光の王』が生まれることができるんだ、って……」
指輪を握るその手から、血とも膿とも、体液ともつかない液体が流れ出す。
「そんなの、許せなかった……なにより理不尽だって思ってた。だからね……オレは、決めたんだ。そいつ……そうだよ、お前だよ!お前だけが幸せになるなんて許せないって、そう決めたんだ。だから、オレは……バテシバの胎内のお前に、呪いをかけた。それがオレが悪魔になってから、初めてやったことだよ」
「まさか」ソロモンは、家の鳴く声で聞く。ベリアルも「やっぱりお前は、察しがいいね」と言った。
「そうだよ。お前が化け物みたいな容姿に生まれてきたのは……オレのせいだよ!」

ベリアルは、ソロモンの白い髪を一房とる。生まれつきの、白い髪。
「別に、なんでもよかった。オレは特に、決めてなかったよ。五体満足なことが尊ばれるこのイスラエルで……十分な器と、知性と、神に与えられた運命を背負っているのに、誰にも理解されずに、差別されて、惨めに生きるような姿で生まれるなら……こんなんじゃなくてもよかったさ。手がなくっても、足がなくっても……でもお前は、こんな姿で生まれてきた。お前、知らないでしょ?お前が生まれた時に母親がどんな反応をしたか。まあ、知らないまでも想像はつくだろうけど……お前の母親、絶望して気絶したんだよ。そして目が覚めた時、侍女からお前をひったくろうとした。きっと床にたたきつけて、殺すつもりだったんだろうね。気持ちよかったよ!お前の成長を影から見ているのが、最高に気持ちよかった。父も、兄弟も、お前の教育が狩りすらお前を化け物扱いして、皆してお前を差別して、虐めて……すっごく、快感だった!オレの不幸をお前も味わってるんだって心の底から思うことができたよ!けども……オレにとって誤算が一つ起こった。それは……神様は、お前を次期イスラエル王にする、っていう運命は、全く揺るがさなかったこと。お前が嫌われているのも、化け物扱いされているのも承知のうえで、容赦も何もなく神様は、お前の教育係りだった予言者ナタンに再三再四、お前が王になる未来を告げていたんだ。……ぞっとしたよ。結局いくら痛めつけられても、お前が王になったんじゃ、オレの苦しみは晴れやしない。そこには、オレが付くはずだった。その席に、俺に何もかも押し付けて生まれてきたお前が愛も変わらずついたんじゃ、どうしようもないよ……だからオレは、十一歳の誕生日から、お前に近づくことにした。表に出さないお前の気持ちも、必要次第で近くで観察できるように……何もかも、お前をオレと同じくらいに絶望させるための事だった」

「それでも、お前はオレの企み通りの人生の方を歩んでくれたよ……本当に、神様は人間を信じ過ぎているよね。いくら自分が言ったって、ダビデ王家の奴らは、自分とは違うお前を差別して、見下して、そればっかり……アドニヤなんか、お前ごときに王位をも笑われてたまるか、って思ってたものね。オレはお前が一番憎かったけど、ダビデ王家だって憎かったよ。だからお前のアブサロムへの復讐にだって協力したわけだし……。でけれどやっぱり、オレのお前に対する憎しみなんて他人のそれと比べれば物の数でもないな、って、アドニヤがお前を殺してゴミ捨て場に捨てた時、はっきり思った。本当に……本当に、嬉しかった。俺と全く同じ両親の間に生まれたお前が、俺みたいな人生話お湯んでくれて。何も成し遂げられず、誰にも愛されず、ゴミみたいな無価値な人生を歩んで死んでくれて……本当に、嬉しかった。本当に満たされた。あの時熱病に浮かされながら感じていた孤独感が、一気に満たされる気がした。それから、オレはダビデ王家の方に取り掛かったよ。もうこっちの方は、本当に楽だった。ダビデ王家に呪いをかけて狂わせて、ダビデを奇病に伏せらせて、アドニヤやバテシバや、周囲の奴らまでもおかしくして。ダビデ王がどんどん、どんどん狂っていくのが、本当にオレにとっての救いだった。オレを使い潰した奴らが、惨めに死んでいくなんて、本当に最高だった。だから……ぞっとしたよ。お前がイスラエルに帰ってきたときは、本当に肝がつぶれるほど驚いてた。あとでルシファーさんから聞いたんだ。神さまは一度死んだお前を、甦らせたって。そんな掟破りをしてまでも、次の王がお前だって決めてたんだ。お前の部屋も、お前の花畑も、不可侵と言わんばかりにずっときれいなままだった……あれを守っていたのは、勿論オレじゃない。あれは、神様が、お前についていた本当の守護天使が守ってたんだよ。……オレの悔しさがわかるか?お前が、オレの与えたその容姿は全く変わっていないお前が、玉座についたときのオレの気持ちが。悔しくて、悔しくて……それこそまさに、絶望そのものだったよ。オレは無価値なだけだったのに、死ぬことだけが仕事だったのに……お前は、栄光を手に入れるんだ、お前は幸せになるんだって、その運命は変えられないのかって、苦しみぬいたよ……。でも、オレはあきらめなかった。諦められなかったんだ。そして誓ったさ。お前が王になってしまったのなら、引きずりおろせばいいだけの話だ、って」

「オレは、アビシャグの奴がヤロブアムの子供をはらんでいたのを後から知った。だから、ある預言者のもとに、天使の振りをしていったんだ。あの少年が将来ダビデ王家に代わって王となる、ってね……信心深く、義務感に忠実な男だった。どこからどう見ても天使のオレの言うことは、本当に簡単に信じて、その子を育ててくれた。本当にややこしかったよ、レジスタンス組織を育てるのは。……そう、わかるだろ?その子がヤロブアムだよ!でも、やっぱり父親似だね。ものすごく優秀な子で……幸い奴を育ててくれた男も、貧民街育ちとは思えないくらい優秀だった。オレが陰ながら誘導していたものあるけど……数年のうちに彼らは、ダビデに恨みを持つ亡国関係者たちと関係を持って、反乱を企てたんだ。でも、そんな時に、邪魔が入った……そうだよ、シバの女王、ビルキスさ」
つらつらと、恐ろしい話を続けていたベリアルの声色が、彼女の名前が出た瞬間に、より一層曇った。ベリアルはおそらく、彼女の事をソロモンと同じほどに憎んだのだろう、と言うほどに。ソロモンも、彼女の名前を出されて、防戦と聞いていたものが今一度、はっとする。
「はっきり言おう。ソロモン……お前が神を憎んだのは、全くの無駄骨だよ。神は、お前とビルキスを引き合わせたんだ。ビルキスは正真正銘、お前の運命の相手だった。お前と愛し合う存在だった。だからお前とビルキスが惹かれあった時……オレは激しく嫉妬に燃えたよ。お前を不幸にさせたくてオレがこんなにもあがいているのに、お前はどんどん幸せを手に入れていく。神に用意された幸せに、どんどんたどり着いていく。オレには何一つ、用意されていなかったのに……お前とあの女が結ばれるのが、オレにはお前が玉座に上がることの次ぐらいに耐えられなかった。ヒラム・アビフが来た時すら、ここまでの者じゃなかったよ。今からすれば当然だな……お前とビルキスは、本当に純粋に愛し合っていた。栄光を手に入れたお前が愛も手に入れるなんて、オレは許せなかったんだよ!だから、必死でお前たちの仲に反対した。それなのに……彼女は、お前を守るために奴らを駆逐した。まあ、オレも反乱軍の奴らは大嫌いだったけどね……オレみたいな覚悟もないくせに復讐だなんだって威張っている奴らは、本当に見ていて寧ろむかっ腹が立ってたよ。思った以上には小物だったしさ……。オレの本命は、ヤロブアム以外に居なかったしね。けど、そんなクズどもが皆いなくなって……お前たちは、晴れて結ばれた。お前を不幸にするためにオレはこの世界にしがみついていたのに、お前はどんどん幸福になっていくんだよ……お前が初めてってぐらいに、幸福そうにしていたんだ。こらえられなかったよ……このまま幸福が続くなんて許せなかった。絶対に……!」
「ひょっとして」ソロモンは恐る恐る口を開いた。「ビルキスは、まさか……」
「そうだよ。オレが殺したようなもんだ」目を細めて、ベリアルは告白した。「オレがナアマをけしかけて、精霊でも死ぬ呪いの薬と、お前が持たせようとした薬を入れ替えさせた。そうすればばれたところで、お前も、ナアマ一人のやったこととして片付けたろうからね……そして、オレ一人が呪い殺すのとは違くて、お前は形だけ手に入れた家庭すらも、台無しにしてしまうという結果までついてくるからね」
ソロモンの心に、ビルキスとともにいた時の記憶が躍った。本当に、幸せな、絶対に壊されたくないほどの幸福の日々、それを壊したのは、自分が守護天使だと信じつづけてきた相手。そして……アドニヤよりも、ハダドよりも、ヤロブアムよりも、誰より自分を憎み、数十年にわたって呪い続けていた……自分の、実の兄。
心臓が、脳が、キリキリと痛む。それを見るベリアルは心底、満たされているようだった。可憐な身体を失っても、その幸福だけは、あらわになるものだ。
「ビルキスを失ったお前を見て、オレは……楽しかった。けれど、まだまだ、って思ったよ。本当に、心の底からの絶望には、まだあと一歩届いてないって。俺が味わった絶望には届いてない、ってそう思った。だからオレは、ヤロブアムが王になるまで待つことに決めた。お前の堕落しきった十四年間は、本当に見てて結構楽しかった。でも驚いたのが……そうだよ、心の底から驚いたのが、そんなお前を見てやっとお前の王としての人生を終わらせることを決意してくれた神さまが、お前のバカ息子と君を二分する王としての運命に定めたのが……ヤロブアムだったって事さ!信じられる?アドニヤの息子とはいえ、後は何の根拠もなしにこのオレが、もとはと言えば赤ん坊の怨霊でしかないこのオレが選んだだけの相手が、そうなったんだよ!?あとはもう、ヤロブアムが国に帰るのを待って、お前から正真正銘、何もかも奪い去るまでを待つだけでよかった。……でも、そこに」
「マケダが、来た……?」
「何者だって思ったよ。オレですら、正体が解らなかった。ヤロブアムを邪魔しようとすらしていたし……何より、マケダが来ても前が十四年ぶりに幸せそうなのが、俺には我慢ならなかった、本当に目の上のたんこぶみたいな小娘だと思ったよ。けど……お前より一足早く、結局オレは知ったんだよ。マケダは仮の名、本当はビルキスのお前の息子で……しかも、オレが殺したなんて露ほども思わずに、お前がビルキスを捨てたんだって勘違いして、お前を殺しにやってきた奴だって!それを聞いて……オレの頭には、もっといいシナリオが浮かんだってわけ」ベリアルは、血だまりの中に転がるメネリクを激しく指さした。
「ヤロブアムにはもう、次期王となると決めらえた運命があるんだ。それが簡単に変わらない事を、オレ以上に痛感した奴なんていない……裏を返せば、どんなに生半可な妨害をしたって、どうせヤロブアムは生き残る。生き残って、イスラエルに帰る。なら……この鉢合わせたお前の敵二人、マケダにいったん勝たせれば、マケダの復讐とヤロブアムの復讐、お前は二回受けることになる。そっちの方がどう考えたって、面白いじゃないか!だってそうだろ?心の底から愛した人の子供に殺意を向けられるなんて、すごく……辛い事じゃないか?」
ソロモンの絶望。ベリアルの歓喜、正反対の二つの感情が、深夜に唯一明るく輝く空間で、静かに二つ、そこに立っていた。血を分けた兄弟の、二つの感情が。
「だからオレは、ヤロブアムを見捨てることにした。マケダ……というよりメネリクは良くやってくれたよ。びっくりしたのは、ヤロブアムを助けるのに神さまが実力行使をしてかかったところ。オレの出る幕はほとんどなくなっちゃったね。でも後は……ゆるゆると、メネリクがお前に復讐するのを待てばいいってだけの話だった。でも、オレはもう……今日のシナリオを考えてたよ。だって、この計画。お前が今日生き残らなくちゃ続かないもの。そして……今に至る、ってわけ、オレはメネリクがお前を殺すタイミングで、お前に刃物を握らせた。お前は……勝手に動いてしまったんだよ」
「お前が……」ソロモンは言う。その中にはわずかながら、怒りも混ざっていたように思える。だがやはり、悲しみの感情の方が、途方もなく大きかった。
「お前が、そうけしかけたのでは、ないのか?」
「そう思う……?ふふふ、どうだろうね……どうにせよ、それを聞いたところで、お前の心は一切満たされないよ。だって、そうだろう?」彼はべちゃりと、ソロモンの頬に手を当てた。
「何も、変わらないもの。ビルキスとの子供に殺されようとしたことも、ビルキスとの子供を、自分自身が殺してしまったことも……お前自身が一生、許さないもの。お前の目がそう言ってる。すごく。いい目だ。この瞬間だけが、オレの望みだった。鏡なんて見ることもなく死んだオレが、まるで鏡を見てるみたい。分かるかい、ソロモン?お前に踏み台にされたオレは……そんな気持ちで、死んでいったんだよ」
その言葉は全く、本当のように思えた。
きっとベリアルが殺させたからと言って、自分の気持ちは晴れまい。空の空、全ては空。そのような言葉すらも、この感情を言い表すには値しなかった。
自分が、ビルキスの息子を殺した。
唯一の救いを、唯一の忘れ形見を。
もう、自分は立ち直れない。
この先何があっても、立ち直れないだろう。
思考するだけ、息をするだけの肉の塊以上のものに、もはや自分がなれる気はしなかった。
「ソロモン……ありがとう。漸く、オレの願いをかなえてくれたね」ベリアルはグロテスクな肉塊と化したその体で、何回もやったように、ソロモンの体を抱きしめた。
「殺させはしないよ。君はずっと、ずっと生きていくんだ。ずっと、その表情のままで生きていくんだ。……ヤロブアムが帰って、お前を玉座から引きずりおろして死刑にするまで、ずっと、生きていくんだ。……これでオレたち、対等だね。やっぱり、兄弟は、こうでなくっちゃいけないものね。うれしいよ、ソロモン……やっと、オレのところまで堕ちてくれて」
怒りも、何も、湧いてこなかった。
このまま生臭い血肉の感触抱かれ、それこそ、どこへでも堕ちていけそうな気がした。頭がぼうっとして、かすんでいく。

その時だ。
ベリアルが、うめき声をあげた。
ベリアルの頭に、光の剣が刺さっていた。
「え……?」当のベリアル自身が、目を白黒させていた。
「なに、これ……」
光の剣は貫かれ、彼の同数か所を、恐ろしいスピードで刺し貫く。ベリアルはずるりと床に倒れた。

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feat: Solomon 第百二話

ビルキスの息子、メネリク。
そのあまりに唐突にやってきた情報、そしてそんな彼に今自分が刃物を向けられているという状況に、さすがのソロモンの頭も理解が追い付かなかったのは、当然の事である。
だが、目の前の彼は明らかにビルキスの血を引いていた。アラビア人らしい褐色の肌も、その真っ黒な髪の毛も、金色の輝く瞳も、山羊のようなロバのような異形の脚も、全てが見覚えがあった。唯一見覚えがないのは、彼の顔立ちだ。まるで鏡を見るように、彼の顔は、ソロモンに似ていた。
「お、お前は……」
「無駄に騒ぐなよ、ソロモン王。お前も、イスラエルの最盛期を築いた王。無様な死に様は、晒したくなかろう?」メネリクはギラリと輝く銀の刃を向け、ソロモンを見つめた。
「それに私も……お前が罪を、我らの恨みを知らずに死ぬことは望まん。お前一人でイスラエルの天に召されるなど、許されてなるものか」
「メネリク……と言ったな?お前は、ビルキスの息子……となると、私とビルキスの間に生まれた息子なのか?」
そんな存在がいること自体、初耳だった。タムリンの手紙はそのようなこと、一切知らせてはいなかった。
「なぜ、今まで名乗り出なかった」ソロモンは震える声で、反射的に問い詰めた。「お前がいると知ったなら……地の果てまでも探して、イスラエルに引き取ったろうに……」
その瞬間。メネリクはカーテンに刃物を突き立て、ざくりと切り裂いた。縦に一刀両断されたカーテンが、ひらりと夜風に舞う。
「ふざけたことを言うものだ……それともそうして、私も、母と同じように、気がすんだら殺したわけなのか?」
メネリクはぎろりとソロモンを睨みつけて言った。「母は、お前の寄越した毒薬で死んだのであろう!?」
その話を聞いて、ソロモンもはっと腑に落ちた。彼は、誤解をしている。
「誰から聞いた?それを……」
「私を育ててくれた人物……お前はその名を知っているだろう。タムリンだ」
タムリン。もちろん、ソロモンもその名はずっと覚えていた。
「タムリン隊長か……なるほど。メネリク、お前は誤解をしている……!あれを起こしたのは、私ではない。私の……」
「黙れ!言い訳は聞きたくない!お前から薬であると預かった物のせいで母は死んだのだ、お前が関わっていないはずが無かろう!!」
メネリクはそう言って、ソロモンに掴みかかった。ばたり、と背中に衝撃が走る。ソロモンはメネリクに、完全に床に抑え込まれた。
相当鍛えているのだろう、ソロモンがひ弱なことを差し引いても、十四歳とは思えない力だった。
「ソロモンよ……なぜ、シバの女王の息子として生まれたこの私が、シバの王子として育たなかったと思う?」メネリクは言った。「全て、タムリンのおかげさ」
「なに……?」
「母がお前のおかげで死んだと知り、タムリンは……復讐に燃えたのだ。何度も、私に話してくれた。タムリンにとって、母は……この世に存在する意味そのものだった。それを奪い去ったお前に、イスラエルに復讐せよと、周囲の反対を押し切って、幼い私を連れてシバ王国を逃げ出したのだ」
メネリクは、凄まじい話を語りだした。片手で父を抑えつけ、片手で短剣を突き付けながら。
「たどり着いた先が、エチオピアだった。イスメニー様は当時より母と懇意にしてくれていたからな……イスメニー様は、事情を、タムリンと母の無念をよく理解してくださった。そして……こんな異形の私も、分け隔てなく優しく迎えて下さった。そして私はイスメニー様の養子となり、エチオピア王族に迎えられながらも、タムリンの指導の下暗殺術を叩きこまれていたわけさ……いつかお前に復讐するために。幸いなことにだ!私は、母の血をついでいたからな……この異形の足が示す通り」彼は、床を蹄でかつんと叩いて見せた。
「私の体に流れる精霊の血はたったの4分の1、母のように人間以外の姿になることはかなわん。だが、人間になら……どんな容貌にも、私は変化できるし、性別も、体格も、思いのままなのさ」
「それで……」ソロモンは言う。「ビルキスそっくりに化けて、私に近づいた、と?」
「その通り。幸いタムリンは何年たっても、幼かった頃の母上の姿を隅から隅まで克明に覚えていたからな」メネリクは不敵に笑う。ソロモンはあまりの事に、めまいがしてきた。
自分も、ビルキスを奪われた苦しみのあまり、妻をこの手で殺した。だがタムリン隊長は、なんという規模の事をやってのけたのだ。今ならわかる。あの男にとっても、ビルキスは言葉にもできほどに掛け替えのない存在であったのだ。それが心も、生命も奪われた悲しみとなれば、相当の者であろう。
それでも……それでも、と、ソロモンは思う。自分がビルキスを殺せたものか、自分以上に、ビルキスが何年も、何年生きることを願ったものが、どこにいる。あれはナアマのやったことだ、あの思い出したくもない、愚か極まる妻がやらかした、許しても許しきれない大罪だ。やるせない気持ちが、噴水のごとく湧きだしてくる。
「メネリク……!お前は、私の母への愛が、偽りであったと言うのか?」
「お前の心情など、私にわかるものか。天才と呼ばれたお前の考えることなど、所詮我々にはわからん。私にわかるのは……一度は母に愛を語ったお前が、母を心の底から夢中にさせたお前が、手のひらを反して、母を殺めたということだ!」
「だからそれは、誤解だと言っている!」ソロモンの心臓が縮む思いだった。間違いなく彼は、この状況を悲しんでいた。
ビルキスと、自分の子供、もしそんな相手がいるのなら、と、この十四年間何度心に願った事だろうか。会って、育ててやりたい。自分の跡を継がせてやりたい。そんなどうしようもない夢想をし続けてきたのだ。
今になってソロモンは、ふっと腑に落ちた。自分が「マケダ」に望んでいた感情が、なんであったのか。自分はマケダに、実の娘を見ていたのだ。ビルキスと自分の間に娘が生まれたら、きっと、このような美しい聡明な女の子であったろうと。
その本人が、本当に自分たちの子供だった。そしてその相手が、自分とビルキスの愛を誤解し、話すどころか、自分に殺意を向けている。
何故だ。なぜ、このような運命が与えられた。ソロモンは、絶望に心が満たされた。ずっと、望んでいた相手に、なぜ自分が憎まれている。なぜ、自分とビルキスの愛が、この少年の中では、無に帰されているのだ。
「口答えするな!」メネリクは怒鳴ってきた。だが「お前は……」と、ソロモンは呻いた。
「お前は、それでよいのか。母が何を思ってきたか、父が母に何を思って生きてきたか、知らぬままでよいのか……」
「……言い訳も、嘘も、いくらでも言える。だがそんな言葉で、母は生きかえらん」メネリクは呻いた。
「これ以上、私に信じさせることをよせ。真実を言え。母を愛していなかったと。少なくとも殺すことができたほどには……母は、愛する対象ではなかったと」彼は呟く。その言葉を聞いて、ソロモンの目には、薄く涙が浮かんできた。なぜ、こう言われなくてはならない。
「言え!これ以上私に、お前たちの間に愛があったのではないかと……お前は冷血の王ではないのだと信じさせることをするな!」だがメネリクも、必死でそのように叫んだ。
「お前はずいぶん演技達者な奴だ。十四年間お前への殺意を募らせ続けてきたこの私が……知らず知らずのうちに、お前を殺したくなくなったよ……だからもう、そのような演技はよすがいい。お前を憎めなくなったら……私の人生は、なんだったというのだ」
メネリクは半ば独り言のように語った。それが尚更、ソロモンの胸を打った。ああ、この少年は確かに、自分とビルキスの息子だ。彼は、聡明だ。自分の育ちが本当ないびつなものであると悟ることができるほどに。自分の本心に、向き合えるほどに。
「貴様は母を殺した人でなしだ、そうなのだろう!?」
だから、ソロモンは、彼の望みどおりにはできなかった。
何故、潰せるものか。必死にあがく彼の本心を。自分の息子が苦しんでいるのに、なぜ、手を差し伸べるにいられるものか。
「メネ、リク……」ソロモンも、とめどなく湧き出る涙に顔をぬらしながら言った。
「悪いが……死んでも言えん!私とお前の母の間には、ただ愛のみが存在した。古来より人が尊び、これから先の未来でも費えることのない、美しい感情が……愛のみが、存在した!なぜ私が、彼女の死など、望んだものか!」
「死んでも、だと……」
ソロモンの顔面に、自分のものではない涙が落ちた。メネリクも、泣いていたのだ。
「母は、死んだのだ!それ以上に、何が必要だ!……よろしい、わかったとも!お前が自分なりの仁義すらもない、ただ綺麗なままでいたいだけの……大嘘つきだと言うことがな!」
その言葉を重ねに重ねた罵倒は、ソロモンに言っているものとも聞こえなかった。
メネリクは、自分自身に言っていたのだ。自分自身にそう言い聞かせ、必死で体を動かしたのだ。
ソロモンは、まだ何か言おうとした。初めて会った自分とビルキスの息子、彼があまりに、哀れだと思えた。タムリン隊長には同情する。責められた義理でもない。しかしこの彼は、自分の両親の愛を無理やりにでも疑って、それを自分を律する方法として、生きていくのか。
余りに、哀れだ。彼も、ビルキスも。
死んだ人間の心など分からない。だが自分の気持ちになれば、はっきりとわかる。ビルキスがこんな状況を、望んだものか。
何か言おうとした。だが、メネリクは腕を大きく振り上げた。きっと彼に手が数本付いていれば、両耳ふさいでいたことだろう。メネリクは、何も聞きたがってはたあなかった。これ以上自分が信じていた道を汚すものを、受け入れたくなかったのだ。父は本当に母を愛していたのかもしれない、と、信じることが、怖くて怖くてしょうがなかった。いくら聡明とは言えど、まだ十四の子供であったのだから。

殺される。
その感覚が、ソロモンの体を駆け巡った。
今までに二回、あったこと。一回目はアドニヤに、二回目はハダドに。
だが二人とも、憎むべき相手であった。今となっては顔も見たくないほどの相手。それなのに。自分は今、憎しみとは対極にある感情を注ぐ相手に、殺される。
こんな出会いを、望んでいなかった。
もっと話したかった。父親として、何でもしてやりたかった。それなのに自分ができることは、彼に殺されることか?
メネリクの持つ刃が、真直ぐに振り下ろされた。躊躇う無く心臓を狙うように。

「ソロモン」
その時、声が聞こえた。ベリアルの声。
「何をぼうっとしてるの。このままじゃ死んじゃうよ、ほら……」
声だけが、耳をつんざく。自分の右手に、熱が走った。何かを、握らされたような感覚。
こちらに迫りくる、メネリクの姿。ソロモンの視界には、彼の胸元に揺れる、スリランカ産のルビーの指輪が目に入った。あいも変わらずそこには、金色の星が輝いていた。ゆらり、と、自分のものではないかのように、不随意的に熱を握らされた右腕が動いた。

そして次の瞬間ソロモンの目に映ったのは、その指輪、自分とビルキスの愛を誓った証の指輪が、血にまみれる瞬間だった。自分には、一切の痛みがないのに。
何かが落ちる音がした。ソロモンはようやく、状況を把握した。メネリクが、倒れた。そして自分はいつの間にか、光でできた短剣を握らされていた。
そして倒れこんだメネリクの背中に、赤い穴が開いていた。ソロモンはすぐ状況を理解した。自分のこの短剣が、メネリクの胴を貫いたのだ。

完全に、無意識下での一瞬だった。だが、ぴくぴくと動くメネリクが、彼の心を現実に戻した。あまりに大きなことをやってしまったという現実に。
「ぬかった……なぜ、今日に限って、武器を……」メネリクは呻いていた。金色の目が、ビルキスと同じ、オフィルの黄金よりも透き通った美しさを持つ目が、友愛や慈愛や情熱に満ちて自分を見つめてくれていた眼が、無念と憎悪の色に染まっていた。
「メネリク……」ソロモンは恐る恐る、彼の名を呼んだ。彼は必死そうににやり、と笑った。
「やはり、私の思った通りの男だったな、お前は……母も、私も、お前は殺してしまった。何が、愛していただ……なにが、叡智のイスラエル王だ」
そう言って、メネリクの全身から力が抜けた。自分の向かって悪意に満ちた笑顔を浮かべたまま、彼の首は床に沈んだ。
ソロモンは、起こったことを受け止めきれず、しばらくの間その場にしゃがみ込んでいた。だが時間が立ち彼の心を満たすものは、絶望以外に、何もなかった。
何故だ?
何故、自分が、彼を殺した?
ソロモンは右手に持った、光る短剣を手放した。不思議と質量はあるのだろうか、それは床に転げる。そしてそれには確かに、血が付いていた。
殺したのか、自分は、メネリクを。
この世で誰よりも愛した人との子供を。
その裏にあった企みが何であれ、十四年ぶりに自分の心の支えと名てくれた人物を。
自分は、殺した。

言葉にならない叫び声を上げて、ソロモンは慟哭した。
失ってしまった。この世から消えてしまった!あったはずの、ビルキスの忘れ形見が、この世から消えた……自分の、自分のせいで、消え去ってしまった!
言葉など紡ぎだせなかった。獣のように泣くことしか、できなかった。
体中を包む悪寒。ああ、此れには覚えがある。ソロモンははっきりわかった、。北の独房だ。自分が子供のころ、ずっと閉じ込められていた場所。
あそこを這い出て、栄光の道を進んだ打が自分は結局、あの場に戻ってしまうのだ。あの純粋な絶望以外有り得ない空間に。もうビルキスもメネリクも、この世にはいない。そのような空間に。
「ソロモン……」
透き通るような声が聞こえた。柔らかい光が巻き起こる。ベリアルだ。
「ベリアル……ベリアル?」
ソロモンが振り向くと、ベリアルがそこに多、ソロモンは物も言わず、彼にすがった。心が壊れてしまい層などと言う生易しい物ではない。今まさに、壊れている気がする。音を立てて崩れ去るのを、自分は感じていることしかできない。その崩壊を少しでも止めてほしい。その一心で、ベリアルの温かい体温にすがった。

「泣いてるの?」
だが、ソロモンの体をそれ以上の悪寒が蝕んだ。べリアルの声が、普段と違う。笑っているのに、その笑い声はまさに天使然とした彼の普段の者とは違う。途方もなく邪悪で、悪意に満ちた笑い方。
ソロモンは顔を上げた。そして、息が止まるような思いをした。ベリアルは笑っていた。その笑い声に相応しい顔で。冷たく、邪悪な顔で。
「泣いてるね……ソロモン、泣いてるね。フフ……」
「ベ、ベリアル……?」
「生半可な悲しみじゃない。本当に、絶望してる顔だ。アハハハハ……」
誰だ、これは?
自分とずっと一緒に居てくれたベリアル、本人だと言うのか?
いや、本人だ。それは分かる。では……自分のこの目に見えているものは、自分が、今まで見てきたものは?
「いいよ、いいよ。すごい素敵な顔だよ、ソロモン……」彼は言った。
「その顔が見たかったんだ。君のその顔が、ボクは、ずっと……」
「ベリアル……お前は、ベリアルなのか?」ソロモンは、息も切れ切れに問いかけた。
「何を当たり前のことを。ボクは、ベリアルさ……。そう。かいて字のごとく。『ベリアル』」

ベリアル。
それは、ヘブライ語で「無価値な物」を刺した。

「ボクはベリアル、この世で最も必要とされなかった、無価値な魂……」歌うようにそう言いながら、彼はソロモンを見て、にたりと笑った。
「天使のなりをした、悪魔だよ。ソロモン」

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feat: Solomon 第百一話

夜が明け、昼が過ぎ、何事もなくイスラエルの時間は過ぎて言った。夕方になったころ、そっとエチオピアの兵士とマケダの侍女が門を出て言ったものの、彼らのごく小さな荷物から、門番たちもまさか彼女らがエチオピアの帰るのだとはつゆとも思わなかった。

そして日は暮れ、晩餐の時間となった。
ソロモン王の隣にはマケダが座り、今日も二人な仲好さげに話をしていた。最近では、王宮中のあらぬうわさも少しずつ、鳴りを潜めつつあった。宮殿の有象無象の人々にも、どことなく分かって来たのかもしれない。ソロモンのマケダに向けている愛が、男女のそれではないことに。
そして、王はその色気のない愛と共にありながらこの十四年間のどんな瞬間よりも、幸福そうであったのだ。
「マケダ、約束したね」ソロモンは言う。「今夜も、来なさい。今夜も晴れた夜だ。夜空が綺麗に見えるはずだよ」
「はい、陛下」ソロモンはその時、マケダに少しばかりの異常を見た。マケダはいつもの通り笑顔を作ろうとしていても、その顔がどこか少々、こわばっているように見えた。まるで緊張しているかのような。
今まで何度も部屋に呼んでいるのに、なぜ今緊張するのだろう、と思わないでもなかった。「どうした?体調が悪いのか」と、ソロモンは問う。
「いいえ……大丈夫です」それでもマケダは、しゃんとして返事をした。「楽しみにしております。陛下」と言って。
その様子を、会場の端で、ベナヤがじっと見ていた。怒りと、義憤に燃えながら。レハブアムはまだ、起き上がってこない。
ソロモンは、幸福そうだ。シバの女王がこの国にいた時と同じように。
だが、もうソロモンの幸福など、字bんには何の関係もなくなった。自分が守るのはレハブアムの幸福、ただそれのみだ。レハブアムが幸せになるのなら、もう、何も望まない。ベナヤはそのような心持になっていた。

「どうかしたのかね」そんなベナヤに、ザドクが声をかけた。
「ザドクさん……何でもありませんよ。お気になさらず」
「そうかい……お前がここの所、陛下を怖い顔で見ているから、心配に名てきていた」痛いところを突かれ、ベナヤは一瞬言葉を飲み込んだ。弁解はせず、特に何も言う様子ではないベナヤを見届けて、ザドクはぼそりと言った。
「お前は最近、ヨアブ将軍に似てきたね」
その前代イスラエルの将軍の名を聞いて、ベナヤも固まる。忘れるはずがない。悪辣な王子アドニヤにもう目的に仕えていた彼の事が、ベナヤは大嫌いだった。心底、軽蔑していた。
「ザドクさんと言えど、そのようことを言われたくはありませんな……私がどれほどまでにあの男を嫌ったか、わからないわけではないでしょう!」
何十年たっても、彼に対する嫌悪感は消えていない。一緒にされるのは屈辱だった。ザドクはそれを聞くと、悲しそうな声で「ああ……すまない。嫌なことを言ってしまったね」と自分の非を認め、後は、その話題を続けなかった。

やがて晩餐が終わった。ベナヤは、マケダの部屋の前で待ち構えていた。やがて彼女が出てくる。青い天球儀を持って、足取りも真直ぐに、王の部屋に向かってくる。
彼女が角を曲がった。そしてその時だ。ベナヤは、あらかじめ抜いてあった剣を、マケダの首元に突き付けた。

一瞬驚いたのは、彼女が何も慌てなかったことだった。廊下に並べられた燭台の光が映し出す顔はゆっくりと情報へ動かされ、金色の目で自分に刃物を向ける狼藉者を見抜いた。そして落ちつきはらった声で「あら、こんばんは、将軍様」と言った。
ただの姫ならこんな真似をされれれば怯えるだろうに。さすが……ヤロブアムの胸にすら飛び込んだ肝の持ち主と言ったところか、とベナヤは踏んだ。
「何のおつもりです?」と彼女が聞くだが、ベナヤは、引く気はなかった。「どこへ行く」と、可能な限りの重々しい声で聞いた。
「陛下の部屋へ」
「貴様が行くべきは、そこではない。エチオピアの売春婦が」彼女のその余裕すらも、恨めしかった。彼女はこのように平然として、レハブアムの恋を踏みにじったのだ。たった一つの、掛け替えのないレハブアムの心を。
「私についてこい。貴様を待つ者は、他に居る」
レハブアムにやれと言われたわけではない。人の道に外れる行為だとも知っている。
だが、レハブアムは一瞬でも幸せに成れるなら、レハブアムの思いを遂げさせることができるなら、極悪人にも、悪魔にもなる。そう誓い、今まで生きてきた。
「……レハブアム王子が、こんなことをしろと?驚いた。彼にそんな気概はないと思っていたのに……」
「殿下ではない。私の判断だ。勘違いをするな、売女めが」ベナヤは憎々しげに吐き捨てる。お前と一緒にするな、お前ごときの発想と。レハブアムがなぜ、このようなことを思える者か。あの王子に、汚れなど必要ない。汚れは全て、自分が被る。お前には、理解できなかろう。その涼やかで可憐な笑顔を持って、残酷なまでに人の心を踏みにじる、お前では。
ベナヤはゆっくりと剣を横に動かし、その銀の刃をる遅くの光に照らして見せながら、言った。
「来い。私の言葉に従わねば、命の保証はないぞ」
そうして、彼女を睨みつける。
イスラエルの将軍、筋金入りの軍人として、それはまさにふさわしい態度であった。ベナヤ自身もそう確信していたし、そこにはマケダとベナヤ以外存在しなかったものの、他者が見てもそう思っただろう。
だからこそ、ベナヤは次の瞬間、ぞくりとした。一瞬うつむき、すっとこちらを睨んできたマケダの表情に。
「下手な脅しだな」彼女は先ほどとは打って変わった低い声で、ベナヤにそう告げた。ベナヤの背筋に悪寒が走る。それはまさに、王者の威厳であった。ベナヤが、王宮に仕える者として生きてきた彼が、生涯逆らえないもの。
「命の保証はない、だと?それしきで、この私が怯むと思ったか。私が死ねば、レハブアムが悲しむ。お前が、彼を悲しませることなどできるわけがなかろう」
そしてマケダは、ベナヤの本心を恐ろしいほどに的確についてきた。ベナヤの全身が震えあがる。彼女の金色の瞳が、暗闇の中で輝いているようにすら思えた。剣を握る手にすらも、わずかながら、その震えが伝わって来たかのようだった。なぜだ?なぜ数十年イスラエルの将軍を勤め上げたこの自分が、こんな小娘ごときにおびえなくてはならない。
「おや、震えているのか……」マケダは嘲るように笑って、そしてこの用に告げた。
「駆け引きをするなら、もう少しはったりでもいいから堂々としていろ。付け込まれるぞ」
その時ベナヤは、記憶の奥底を呼び起こされた。このようなことを昔、言われた覚えがある。
ソロモンと初めて会った時の事。
そう。目の前の少女は、ソロモンにそっくりだった。君が悪い程に、昔のソロモン、そのものだったのだ。ベナヤの人生において、ずっと、彼の上に居続けた男に。
ベナヤは、剣を支えていられなくなった。自然と彼女の首元から剣をのけ、後は茫然と、圧倒されながら立ち尽くすしかできなかった。
マケダはそんな彼を見て、微笑みながら、とうとうと語る。
マケダは薄く笑い「では、失礼」と言って、迷いも何もなくすたすたと歩き去っていった。
彼女が言ってからも、ベナヤは震えていた。いったい、あの少女は何者なのだ……。

「陛下。マケダです、入ってもよろしいですか?」
「ああ、いいとも」と、ソロモンはいつもの通り、マケダを迎え入れた。バルコニーにつながるカーテンは開かれており、夜風が吹き付け、イスラエルの神が作りたもうた星空が輝いているのがはっきりと見えた。
ソロモンはマケダを奥の方に通す。バルコニーの椅子に二人は座って、しばし話kンだ。いつもの通り、たわいもない話であった。いつもの通り、恋大情欲とも違う、何とも言えず柔らかな愛がそこに張った。と、その世にソロモンには感じられていた。
だがやはりソロモンは、以上を一つ見つけた。マケダは何やら、落ち着かなさそうにしている。平生を保とうともしているようだが、微妙に声が上ずることもあった。
「やはり、体調が悪いのでは?」と、ソロモンは聞いた。マケダはそれに反応したが、返してきたのは「大丈夫です」と言う一言であった。
それでも、多少冷え込む夜であったので、ソロモンは部屋の中に入ろうか、と提案した。マケダはそれを飲む。カーテンが閉められ、ソロモン王の部屋は蝋燭の光のみに照らされた。
「辛かったら、帰っても大丈夫だ」ソロモンは優しく言った。
「いいえ……体の事ではないのです。体は、いたって平常なのです」
「それでは……何が、君の心を悩ませているのかね、マケダ」
その質問を受け、マケダはしばしの間黙り込んだ。そして。話を切り出した。
「陛下にお伺いしたいことが一つございます……よろしゅうございますか」
「君の問いになら、なんでもこたえよう」ソロモンは部屋においてあった葡萄酒をマケダと酌み交わしつつ、鷹揚に答えた。マケダは手渡された盃の水面を揺らしながら、思いつめつつ、それでも最終的に目標とする質問を紡ぎだした。
「陛下は……私の中に、他のお方を見ておられます。それは……誰ですか?」
その質問を行き、ソロモンも一瞬。びくりと体中の動きが止まった。

それだけは、悟られたくなかったことだった。
すでに消えてしまった恋人の面影を見ているなどと明かすことは、大変に失礼であるとソロモンも思っていた。マケダの事を、女性としては愛さぬ存在と悟った今ならば、なおさらだ。
暫く、ソロモンも黙り込んでいた。だが、自分の言葉に、このマケダに向かって誓った言葉に嘘は無い、と決めていた。
「よく分かったね。その通りだとも」ソロモンは観念して、言った。
「シバの女王、ビルキス……君の年齢では、知っているだろうか?十数年前まで、アラビアの果てのシバ王国に、そのような名前の女王がいたのだ。その人は……私の、唯一無二の恋人であった」
「その口ぶりだと」マケダは言う。「もう、この世には……」
「ああ、そうだ……もう、いない。死んでしまった」
「では、陛下は私を、その方の身代わりにも等しく思われていたのですか?」
「否定できるほど、私は立派な人間ではない。そんな面も……確かにあった」
一切の言い訳は、しないつもりであった。それがむしろ、この目の前の王女に対する礼節である気もしていた。
蝋燭がゆらゆらと揺れる中、マケダはじっとソロモンを見つめていた。咎めるような視線でも、さげすむような視線でもなかった。
「妻を千人持った貴方様が、今なお執着するお方だと?」
「私にとって……ビルキス以上の女性など、ついに存在しえなかった」
マケダはその言葉を飲み込むように、しばらくじっと考えていた。手の中の天球儀を眺めながら。「よろしければ」彼女はまた新しい質問を投げかけた。
「お話しいただけませんか?もっと……その、シバの女王ビルキスの事を」

ソロモンは、勿論のこと了解した。
彼女がどの世にイスラエルに来たか、彼女といた時どのようなことがあったか。自分と彼女が、どのようにそれに立ち向かっていったか。そして彼女と思いあえる中になった際……自分たちが、どれほどまでに愛し合ったか。エイラットストーンを初めて見つけたのもその時だ、と言うことも明かした。マケダが大切に抱く天球儀と同じ宝石は、一時期自分とビルキスをつなぎ合わせていたのだ、と。その話をした際には、ソロモンはしばし立ち上がり、宝石箱の中から、あの時のブローチを取り出した。ビルキスが死んで以来は一回も身につけることのなかったそれは、十四年前と変わらずに、たおやかに輝いていた。
いくらでも、話すことができた。ビルキスとの思い出を、目の前のビルキスと同じ顔の少女は、異常なまでに熱心に、真摯に聞いていた。
話しの終わりは、彼女の死だった。唐突にビルキスが死んだと聞かされ、以来自分は抜け殻のようになってしまった。
「そうだったのですか……陛下にも、そのようなことが……」マケダは含むように言った。
「ああ、そうとも」ソロモンは言う。
「誤解をするなと言うのも無理な話。君に失礼だと言うことも分かっている。だが私は、今でも……ビルキスに対する気持ちに、嘘はつけない。彼女は私の唯一の恋人だった。そして、その彼女を思い出させる気味が来て……始めて私は、救われたようになった」
「そうですか……では、陛下。お聞かせください」マケダは小鳥、と、天球儀を机の上において言った。
「陛下はその方を、愛していらしったのですね?」
「ああ、愛していたとも、心の底から、誰よりも、愛していた……」
「それが聞けて、嬉しく思います」
そう言い残し、マケダはガタリ、と椅子から立ち上がった。ソロモンが不審に思って彼女の方を見ると、その目の前には驚くべき光景があった。
彼女の穏やかな金色の目が、憎しみに燃えていた。ソロモンへの、憎しみに。
「嬉しく思いますよ……本当に」彼女のなよやかな声が、いつの間にか威圧するような低い声に代わっている。
「迷いが生じていたんだ。私の中に」彼女は立ったまま、自分の衣服を片手でバリバリ、と引き裂いた。少女の体を包むに相応しい装飾が引きはがされ、二本の脚があらわになる。
そして、その帯の中には、ギラリと輝く短剣が隠されていた。
「けれど……その言葉を聞いて、ようやく迷いが吹っ切れた。全く……ありがとうと言うほかはない。私の決意を……お前が固めてくれた」
その時、ソロモンは気が付いた。彼女のドレスの襟元に常に隠されていた、首飾りの存在に。そしてソロモンは確かに、それに見覚えがあったのだ。
蝋燭の暗い光の中でも分かるほど、鮮やかに輝く、蓮の花のような薄紅色。スリランカ産のルビーだ。そしてそれに輝く五芒星までもが……見える気がした。
「お、お前は……?」
自分がビルキスに渡したはずの指輪を、この少女がなぜ、そう思った時だった。マケダの体が、すさまじい閃光が覆った。
「嘘、ばかり……!」
そして彼女は光の塊になる。すると、彼女の体は変化をはじめた。背が伸び、体格が変わっていく。まるで……彼女の発していた低い声に相応しい。鍛え抜かれた体の少年の姿になって行く。そして、彼女の足が、変形し出した。関節の位置がずんずんと上にずれ……まるで、山羊のような、鹿のような動物のそれに代わってく。
「ソロモン……お前は、ビルキス女王にもそのようなことを囁きながら、あの方を殺したのか……!?」
そしてソロモンの部屋は、まるで昼間のように明るくなった。気が付けが彼の目の前には、ビルキスと同じ獣の足を持つ、一人の見知らぬ少年が短剣を構えつつ立っていた。だがその目……ビルキスそっくりの金色の目は全く変わらずに、ソロモンをじっと見つめていた。そして彼の、全く男の物となった胸板には相変わらず……スリランカ産のルビー、自分がビルキスに愛のあかしとして与えたはずの指輪が光っていた。
「お、お前は……?」ソロモンは目を白黒させつつ、問いかける。
「誰だ?王女では、ないな……?」
少年はにやりと笑った。
「エチオピア王女マケダとは、仮の名前、仮の姿……私の名はメネリク。雅称はエブナ・ラ・ハキム……その意味は『知恵の息子』」
その名前の意味を聞き、そしてその金色の瞳と足を見つめ、ソロモンもはっとする。
「察しがついたようだな」メネリクと名乗った少年は、獲物を見つけた猛獣のように、残酷に笑っていた。
「そうさ。私の母が……お前の事を思ってつけた名前だ。私の母……偉大なるシバ王国女王、暁の娘、ビルキスがな!」

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