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クリスマス市のグリューワイン

Mystery Plays feat: Samuel 17話


それ以来、ヨナタンとサムエルの仲は以前に比べても、目に見えて悪くなった。ヨナタンが王子として実績を上げ、その正論ぶりにも一定の説得力を持ったのが、サムエルにとっては非常な向かい風だった。
別段、あんな若造と政治的立ち位置を競う趣味などない。むしろ神を差し置いての政治など、このイスラエルでやることか。士師の時代は常に神に従うことこそがそのまま政治でありえたのだ。

その悪意は、ヨナタンのほうにも届いているようだった。彼は別にアキトフェルと仲がいいわけでもなく、むしろ彼の遠慮もなくマイペースな態度にはサムエル同様非好意的であったが、サムエルに苦手意識を感じているという点では意気投合していた。その日も彼らは、そのことについて話し合っていた。
「僕は何も、神をないがしろにしろなんて言っていない」ヨナタンは言った。
「効率のいい判断をすることが、そのまま神の望みでないかと考えているだけだ。神は正しい判断をなさるお方ではないのか」
「殿下の考えは、いちいち間違いはございません。太鼓持ちでもなんでもなしに、本当にね。殿下はつくづく、正当のもとに生まれてきているお方だと思いますよ。ご立派だ。私などでは目指せない」アキトフェルは言った。
「それに、別にあの人とておそらく悪い人でも、馬鹿でもないはずなのに……なぜ、対立するのだろう」
「殿下の正しいこと好きの欠点は、そこですなぁ」アキトフェルは笑った。
「殿下は政治的すぎるお方なのですよ」
「だけれども、サムエル様だってもともとは政治家だろう?」
「いいや……あの方は宗教家ですよ。政治と宗教というのは、面白いものでしてね。私はつくづく、兄弟のようだ、と考えております」アキトフェルは爪の長く伸びた指で、アーモンドをポリポリつまみながら話をしていた。
「まず確実に、二人は結び付きうるものでもあるのです。それは各国の政治体制、またサムエル様以前のイスラエルを見ても、お分かりになる通りです。宗教と国家政治というものは少なからぬ確率で密に結びついております。思えば当然のことですな。人の価値観を統一し心をまとめ上げる術は、政治が何よりも求めるもの。そして時として、優秀な政治家はそのまま、宗教家的ですらあります。相性が悪いはずはありますまい。この世の兄弟がたいていは、なんだかんだ言えど家族として仲睦まじいようにね」
「そう前置きするからには」ヨナタンも問いただす。「そうでない場合があると」
「ええ。兄弟なるものに例外がいるように、ちょうど……ヤコブとエサウ、アベルとカインの関係のごとく。宗教も政治も、お互い多少ドライになっているうちは、あるいは宗教がそのまま政治の役割を果たすうちは、うまくいくものです。しかし……宗教というものは、深いですからね。政治があくまでこの世のもの以外ではありえぬのに、宗教は極めれば、外の世界のものです。サムエル様はインチキ坊主の類ではありません。あれは本物です。だからこそですよ……極めた宗教は、政治と相いれません。絶対に。この世のものではないものを見つめ、この世の利にそぐわぬ神の声にも聞き従う。その域まで達した宗教は、一転、政治にとって最大の敵になりえます。それこそ……アベルにとってのカインのようにね」
「ならばなおさら、父上はサムエル殿と距離をおいたほうがいいというものを……」
「全くです。まあ、しかし陛下にとってサムエル殿は……かけがえのない人物ですからな」
「そこを割り切ってこそ、王というものではないのか?」
「あのお二方ともあれば、割り切れないのが人情でしょうよ」アキトフェルはにやにや笑いながら言った。目の前の王子は、自分ほどには彼らの関係を知らないのだと確信しつつ。もっとも彼にとっては知りたくもないことであろうが。
「国のため、国民のため生きるのが、王族の務めのはずだ」ヨナタンは言う。「僕ならどんな大切な人であろうと、国を守る王子としての役目より重視などしない」
「ほー……ご立派な心掛けで」と、アキトフェルは適当に返答する。その答えにヨナタンも面白くなく思ったか、「うん、父上にそう提言してくる」と、席を外した。

サムエルは一人、考え込んでいた。
思えば自分の老年までの人生など、思い出せることはと言えばろくでもないことばかり。ほかに大した喜びなどなかった。
尊敬できない父、過保護な母、気の毒な父の妾、口もろくに聞かなかった兄弟、どんな人物なのかも一切思い出せない妻。そして神殿にいる、尊敬も置けない男たち。
今となってはエリすらも、漠然とかすんで見える。エリとの思い出を、思い出せない。自分の人生が動き出したのは、サウルと出会ってからなのだ。
あの時自分は初めて、恋をした。初めて性の欲望というものに向かい、その幸福をかみしめることができた。サウルも、それを受け入れてくれたのだ。サウルとサウルの妻より、自分と自分の妻より、自分とサウルこそ結びつく存在であったのだ。だってそのはずだ。サウルも自分ももう妻を亡くしているのに、自分たちだけは相変わらず生きている。生きて、愛し合っている。もしもこれが神に忌まれる関係だというのなら、神がご用意なさった引き合わせでないというのなら、自分の耳に文句の一つも入らないのはおかしい。
荒野のライオンと、哀れな鹿が、夫婦の中にあれるものか。ライオンはライオン、鹿は鹿と寄り添うもの。その不条理がなぜか、人間の間ではまかり通る。食う食われるの関係を神聖な行為だと言い訳し、血みどろに絡み合うことを正義と信じて疑わない。
自分とサウルの関係こそが、神の与えた行為なのだ。長年突き通した信仰の道の先、神が自分へ与えもうた幸せこそが、これなのだ。
それなのになぜ邪魔が入る。
自分と美しいサウル以外のものが、なぜこのイスラエルに必要だ。
そうでしょう、主よ、あなたも同じように、そう思われているはずだ。自分はこれからもずっと、サウルのそばにいる。誰よりも近くに。アキトフェルよりも、ヨナタンよりも生きてやるのだ。
そう決意した彼は、少しだけ、耳が遠くなったのだろうか。薄く響いた鳴き声、蝮の鳴き声に、気づくことができなかった。

ほどなくして、また新たに戦争が始まった。今度はイスラエルから仕掛ける戦争。
相手はアマレク人。これもペリシテ人に負けず劣らず、イスラエル人と因縁を抱える民族だ。カナンのほかの先住民族たちと同じくかつてイスラエルに屈辱を与えた。衝突が少ない分ペリシテ人ほど目立ってはいないものの、かのモーセが神から預言を受け取り書いた書物、申命記の中にアマレクをいつか討つべし、との項目があることからも、相当な因縁がうかがえるだろう。
今こそ彼らを滅ぼすべし。サムエルは神からそのようなお告げを受け取り、サウルに伝えた。
「サウル。主は言われる」サムエルは告げた。
「行け、アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ」
敵民族のものを一切滅ぼし尽くすのは、ヨシュア以来かたくなに守ってきたことである。聖なる神の民に多民族の捕虜や略奪品などいらない。これもサムエルが昔から守り、順守してきた掟、伝統であった。
サウルはいつものように自分に神の言葉を伝えるサムエルの姿に、安心している様子だった。もう自分のことを怒ってはいないのかと。サムエルも「承知した。サムエル」と王として答えるサウルの姿に、自分たちの関係は元に戻ったのだということを知り、安堵した。
サウルは兵を集め、アマレクを討ちに行った。サムエルもそんな彼にいつもの通り祝福を与えた。今度はサムエルが付くまで、サウルは祭壇に誰も寄せ付けないままでいた。
これでいい、これが、正しいのだ。王たるサウル、祭司たる自分。この二人でイスラエルは回ればよい。神の治めるイスラエルは。そして美しいサウルの治めるイスラエルは。

ただまたサムエルのほうも所用があったので、戦場までついていくことができなかった。サムエルはギブアにとどまり、ふたたび自分への伝令役として従軍させたナタン、そしてサムエル本人からの手紙で、戦争の経緯を知る運びとなった。
アマレクとの戦争は、せんだってのペリシテとの戦争とは違い、大成功だった。ハビラからエジプト国境地帯まで、アマレク人の土地を渡り歩き、次々に打ち破っていく様子が、手紙からよく読み取れた。
それ、みたことか。神に背く戦争よりも、神に従う戦争、自分の提言で送る戦争のほうがずっとうまくいくのだ。前は何とかごまかしがきいたろうが、これではっきりしたことだ。うむ、悪くいくはずがない。これはモーセの時代より、望まれていた戦争なのだから。

戦争の好調を伝える手紙の送られてくる中、サムエルは毎晩のようにイスラエル軍の無事、サウルの無事を祭壇で神に向かって祈っていた。そんな夜のことだった。
「サムエル」
声が聞こえた。
これほどまではっきり声として実体を伴い、サムエルの耳に届くほどの預言は彼にしても久しぶりだった。「お呼びでしょうか、主よ」彼は答えた。
「御覧の通り、サウルは、あなたの民は、あなたのお言葉、モーセ以来のあなたとあなたの民の悲願に従い、アマレク人を討ち滅ぼしております」
だが、神の声はその言葉に返答はしなかった。良いとも、悪いとも言わず。
「サムエルよ。私は、サウルを王にしたことを後悔している」
サムエルにはしばらく、何を言われているかわからなかった。だが自分の心に響いた声、神の声であるはずのそれは、間違いなく上記の言葉を言った。
いったい彼は急に、何を言い出したのだろう。
神の言葉が揺らぐなど、信じたこともない。
サウルを王にしたことを後悔している?なぜ?あなたが言われたことなのに?あなたがかつて、間違ったことを言ったのか?
「なぜ、そのようなことを言われるのですか」サムエルは問いかけた。
「サウルは、あなたの選んだ王です。私も、それを支えてまいりました……」
「そうだ。私が選んだ。お前とともにイスラエルにあれと、私が彼を見出した」神は言った。
「だが、それが間違いだった。私は激しく悔いている、かつての自分の選択を」
「いったい、なぜ……!」
それ以上、神は語らなかった。声はぷつりと途切れ、静まり返った夜の祭壇に、サムエル一人がぽつんと残されていた。
その中彼は幾度となく叫び、主にもっと言葉を聞かせるように、なぜ間違いであったのか、あなたは何を望むのか、教えてくれと嘆願した。だが結局夜が明けるまで、主からの言葉は何もないままだった。

また、何かあったのか?
戦場でまた、神を裏切る行為をヨナタンがしでかしたのか?
そう思うや否や、サムエルは怒りに燃えてきた。サムエルは御者をたたき起こして、日の登りきらないうちから、サウルのもとへ行った。ナタンからの知らせで、今大体どこにいるかは分かっていた。

サウルの軍はとうにアマレク一帯の戦を終え、ギルガルへ帰っていた。「サムエル!」サムエルの馬車が来るのをサウルはすぐに見つけた。そして、そこに向かって一人駆け出して行った。
「主の祝福がありますように……サムエル、私は神の命令を果たしたぞ」
彼は目を輝かせて、サムエルからの承認の言葉を待っているようだった。だがそんな彼とは裏腹に、サムエルはああ、やはりか、という絶望に染まっていた。それもそのはず、その場にいるのは純粋なイスラエル人だけのはずだ。サムエルの聞くことのできない言葉など、そこにはないはずだ。それなのにサムエルの耳になれぬ、がちゃがちゃとした雑音が蔓延している。見知らぬ人々がそれを、イスラエル人に向かって話していた。意味は完全にはわからずとも、サムエルには見当がついた。彼らは……アマレク人だ。
「サウル……お前が主の命令を果たしたと言ったか?」サムエルはすり寄る彼に乱暴な口調で言った。
「なら、この聞き苦しい異国語はなんだ」
どう見ても、アマレク人の捕虜を引っ張ってきたことが明白だ。なぜだ。すべてを滅ぼし尽くせ、と、自分はサウルにそう伝えたはずだ。モーセの書には、そう書いてあるはずだ。
「それは」とサウルが口を開きかけたところに、じろりとサムエルを睨みつけるような目つきで、ヨナタンがやってきた。
「彼らは、全員鍛冶師です」
「なんと?」サムエルも食いつく。
「いい加減、鍛冶技術もない国家体制では、限界が来ます。ほかの国はどんどん良い武器を作り出しているのに、国内でそれの供給もできない用では、国を守り切れません。ですから、鍛冶師を捕虜としてとり、イスラエルに技術を広めんとしました」
「何を、馬鹿なことを!また勝手にやりおって!」
「言い出したのは僕です、しかし、父上も王としてそれに賛成してくださいました!」
その言葉に一瞬、サムエルは硬直した。慌ててサウルのほうを見る。だがサウルは息子の言葉を否定しなかった。否定しない、それだけで、もはやすべてを物語っていた。
「馬鹿な、ことを……」
「サムエル、結果としてあなたの命令に背いてしまったことは謝る」サウルは言った。
「だが、やはり我々には武器が不足しているのだ、私とてさんざんに悩んだ。我々は著しい技術後進国であるという事実からも、王として目はそらせない。それ以外はあなたが命ずるまま、すべてを滅ぼし尽くしたのだ。これらもすべて、主のためであると……」
「やかましい!」サムエルは、彼の言葉を遮った。
ヨナタンのみならず最終的には彼までもが、その意思をもって自分の命令を無視したことが、激しいショックであった。
昨夜自分が何を思ったのかも知らずに。どれほどまでに、主の言葉すら疑って、主がお前を王につけたことを後悔しているという事実を、否定したいと思ったことか。主を説き伏せようと願っていたことか。それなのにお前は自分の預かり知らぬ所で、自分ではないものの言葉を信じ、あっさり神を裏切ったというのか。
「愚か者が……愚か者が!」
「サムエル、怒らないでくれ、頼む!」サウルはすがるように言う。「私とて、考えた末のこと!」
「黙れ。口をふさげ!昨晩ギブアで何があったかも知らずに!」
「何……何が、起こったのだ!?」
そのショックといら立ちを彼は、サウルにすべてぶつけた。なぜ私はお前をここまで大切に思っているのに、お前は思うとおりにならない、私以外の若い者のいうことを聞く。
彼らが、お前の人生を切り開いたとでもいうのか。私がいなければお前は、ただの赤貧の男娼同然の存在であったくせに。なぜ、その私だけを見ない。だからだ……そのようなお前だから、神は、お前のことを悔やまれたのだ!
「主は、私にこう言われた。『私はサムエルを王につけたことを後悔している』と。当然だ!お前は神へ背を向ける、神の命令を果たさない!イスラエルの王であるというのに!」
サムエルの荒れ狂う内心とその言葉が完全に一致していないことに、サムエルは気が付けなかった。そして彼の内心をあずかり知ることもできないほかの人々も。もしもそれに気づくものがいたとすれば、おそらくそれは神一人だけ。
自分へ従わないサウルへのいら立ちを、サムエルは神の不信仰へと委託し、彼を怒鳴りつけたのだ。
「そのような……そのような、何一つ知らぬ世間知らずの若者が掲げる理想主義など、主が喜ばれるものか!お前の息子が、アキトフェルが、神の言葉を聞いたことでもあるというのか!?私は聞いた、子供の頃より幾度となく、聞いた!お前はもう貧しいみじめなベニヤミンの若者ではない、神に仕えるイスラエル王だ。それなのになぜ、私の告げる神の言葉を、お前たちは裏切るのだ!」
「悔いている……神が?」サウルは静かに、ガタガタと震えあがった。そしてサムエルにすがるように、悲痛な声で言う。
「サムエル、お願いだ、私に怒らないでくれ、私のために主に祈ってくれ……」

その時。サムエルはふと、違和感を覚えた。
サウルに出会ってから感じたこともないようなもの。これはいったい、なんだろう、目の前にあるのは変わらぬ、サウルの顔でしかないのに。
いずれにしても、サムエルは大変に不愉快であった。すがる彼を邪魔くさそうに振りはらい、「主はお怒りだ、サウル」と追い打ちをかけるように言った。
「頼む、私から離れないでくれ、サムエル……」
サウルの言葉は、次第に彼の内心を映し出していった。神に見捨てられたくないのも嘘ではなかろうが、それ以前に彼にとっては、サムエルに捨てられる、サムエルに見捨てられることこそ脅威であったのだ。
サムエルなくしては、自分は元へ戻ってしまう。夢から覚めるように、この栄光も王都もすべて消え、墓の下に入った家族もよみがえり、またすべて、自分の生れた時から始まった人生が元通りになると、恐怖していたのだ。
サムエルだけが、彼を支える大切な存在。サムエルだけが、愛してくれた存在。
そのサムエルに見捨てられれば、自分の心はきっと狂ってしまう。耐えきれるはずがない。サムエルこそは、自分の光であったのに。
サムエル。その名は「彼の名は『神』」の意。その名の通り、サムエルはサウルにとって、神にも等しいような存在であるというのに。
息子に従ったのが、それほどまでに悪いことであったろうか。自分の若いころ、農具も何もかも、ペリシテ人からでしか買えなかった。自分たちを散々侮る者のもとに出向き侮辱され、ようやくイスラエル人は農具を買うことができたのだ。
そのような状況を神が望むはずはない。だからこそ、それを改善するのはよいことの用に思え、踏み切ったのだ。サムエルも理解してくれると思っていたのに。

その気持ちがいいか悪いかは、神にしかあずかり知れぬこと。だが少なくとも、サムエルは農具など買ったことも手に取ったこともなく、若い時の武器にも困ることがなかった。神はどうかはわからないが、サムエルにその気持ちなど絶対に理解できなかった。そしてサウルにもそのような立場の者の気持ちを理解することなど、王となった今でも不可能であったのだ。

怒りのままにサウルを振り払い、サムエルは帰途についた。むしゃくしゃする気持ちが収まらないまま。奴を、どう扱ったものか。
貴方がいてくれたから人生が変わった、などと何度も言いながら、一番その自覚に欠けているのが奴なのではないのか。私はあいつを、かわいがってやったのに……。
と、その時。昨夜のように鮮明に、サムエルの頭の中に声が躍った。
「サムエル」
「主よ!」彼は言った。貴方のいうとおりだ。サウルは後悔されて当然だ、と、今のいら立ちをぶつけんばかりに。
だが彼がそういう前に、神が言った。彼の思いをこの上なく補強するような言葉であり……そして昨夜以上に、非常に衝撃的な一言を、彼はよどみなく告げたのだ。
「私は、イスラエルに新しい王を立てる」

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Mystery Plays feat: Samuel 16話


サムエルは王都ギブアに戻った。ナタンは彼の言いつけ通り戦場へ行き、逐一彼に状況を手紙で報告してきた。

さて、当の戦のほうは、あまりイスラエル人にとってはかばかしくなかった。十年以上たっても、イスラエルの技術の未発達ぶりは同じままであったのだ。ペリシテもやはり、そこに目を付けた。
彼らはペリシテ人の武器商人へ圧力をかけ、イスラエルへ流れる武器をすべて止めた。結果としてイスラエル軍には、武器が不足した。数回渡り合えば、刀を研ぐことすらできない後進国のイスラエル軍は簡単に困窮する。
今までどうにかなってきた暗黙の了解も破るほど、今度のペリシテは本気なのか。ヨナタンは苦虫を噛み潰したような顔になった。父王も、自分の天幕の中で頭を抱えている。
「神に逆らった罰でしょうかね?」王子の天幕へ呼ばれていたアキトフェルが言った。ヨナタンがぎろりと彼を睨む。「お許しを」彼はひょうひょうと謝った。
「父上と僕の分は、何とかなるが……二人ぶんだけあっても、しょうがあるまい」
「殿下」兵士が一人、報告にやってきた。「ペリシテ人の先陣は、ミクマスの渡しまで来ておりますぞ」
「もう、そこまで近く……」呟くヨナタン。「早く、武器の都合をつけなくては……」
「それもありますが、仮に武器がそろっていたとして今のままでは勝てますかね」報告を終えて去っていく兵の足音を消すように、アキトフェルはつぶやいた。
「なんと?」
「サムエル様と喧嘩してしまったのは愚策でしたよ、殿下。この国はやはり、サウル様とサムエル様、お二人で築かれた国なのです。その片割れとあのようなことになっては、我々の信頼も落ちますし、士気も下がろうというもの」
「僕が、彼に謝ればいいのか?」ヨナタンは返す。
「うーん、それも悪くはありませんがねえ。年寄りはプライドが高いもんです。とくに若い時に大きなことを成し遂げた方はね。そういう方は謝られるのがお好きですから、それで損することもないでしょうが……」黒いマントから目立つ関節と長い爪を持つ手を出し、アキトフェルは頬に添えた。
「どちらかといえば、私は別の道を取りたいのですよ。ありていに言えば、殿下の行動にもっと説得性を持たせてはいかがです」
「僕は正しいことを言ったつもりだ」
「言えば良いものじゃないとい言いましたでしょ。行動が伴わねば、だれもあなたのことをサムエル様ほどには信頼いたしませんよ」アキトフェルは言う。ヨナタンはそれに多少面白くない気分も感じたが。それでも「では……分かった。どうすればいい」といった。
「早い話が、あなた主導で奇襲をかけ、ペリシテから武器を奪いに行きましょう。危険な作戦と言えなくもありませんが、まあ軍に亀裂を入れた埋め合わせだと取ってください。もちろん私も可能な限り、危険性を少なくする策を考えますので。成功すれば士気も上がるし武器も手に入り、一石二鳥ですよ」
目を瞬かせるヨナタンが、それでも却下する様子は見せないのに内心ほくそえみ、アキトフェルはさらに続ける。
「この作戦、あなたでなくては意味がありません。今信頼を落とし、そして信頼を得なくてはならないあなたでしかね。口だけの理想家が信頼を集めたためしはありませんからな」
ううむ、と、アキトフェルのずけずけした物言いにヨナタンは多少閉口した。だが若い彼にとってはそれ以上に、その言葉は逆に心に火をつけるものでありえた。
「わかった。やろう。僕も玉座でふんぞり返るだけの、人形じみた王子にはなりたくない」
「さすが殿下」正論とはこう使うものですよ、という言葉をひそかに喉の中で鳴らすつもりで、アキトフェルは言った。
「私の斥候が、敵方の情報をつかんでおります。殿下、あなたは崖上りはお得意でしたね」
「ああ」
「ミクマスの渡しにある切り立った崖の上。ちょうどそこは、警備が手薄です。二十人ばかり、しかも体力的に一線を退いた、階級だけの老兵が管理をしております。敵も崖から馬鹿正直に上ってくる前提でものは考えません。そこを急襲し、武器を奪いましょう。なに、意図的に差し押さえているのはあちらなのですからね。悪く思うこともないでしょうよ。あなたの腹心のものと私とともに、今宵、実行に移りましょう」
「父上へ連絡は?」
「必要ありません。あなたが自主的にやった、という形のほうが、軍に与える士気も高くなりますよ」

しばらくナタンからサムエルのもとへやってくる連絡は、イスラエルの苦戦を告げていた。サムエルは王都でハラハラと軍の無事を祈るほかのイスラエル人と同じく通り一遍な心配はしつつ、内心ではざまあ見ろ、という気持ちすら抱えていた。神に不敬を行うから、このようになるのだ。これであの王子も少しは身の程をわきまえてくれるとありがたい。
だがそんな彼の思いを裏切るように、ナタンから一通の知らせが舞い込んできた。ヨナタン王子のおかげで軍がまとまり、武器不足も解消された、とのこと。
何事だと思えば、ヨナタンが勇敢にも自分と腹心のものだけで崖の上のペリシテ人の陣地までわざわざ攻め込み、二十人余りを打ち取って武器を得たというのだ。
一時期は王子のためにイスラエルがばらばらになる、と失いかけていた彼の信用も、ヨナタンは命を懸け国のために戦うのだ、と完全に逆転している。それにその急襲はペリシテ側にも恐怖を与えたのだろう。彼らは勢いを失い、今やイスラエルは破竹の勢いでペリシテを追撃中である。もうすぐミクマスを離れベト・アベンにつくであろう、とのことだ。

ベト・アベンにつくころには、イスラエル軍の士気は最高になっていた。ただ一人、サウルを除いて。
サウルはその時も、まだうじうじとサムエルに逆らってしまったことを悩んでいるようだった。ヨナタンがアキトフェルの軍略通りに出陣して手柄をあげてきたというのに、彼はいまだに、サムエルと一緒にいられないことを不安がっている様子であった。
そんな父に、ヨナタンは明確に不満を持った。自分の努力がないがしろにされているような気分だった。
もとよりヨナタンも、あまりサムエルを好かない。成長していき、父が王となっていくにつれ一緒にいることがどんどん増えた彼は、なぜだか自分にいい顔をしなかった。そんな相手のことを好きになれというのも、無理がある。
それにサムエルといるときの父は、何かおかしい。父はまるで、彼に依存しているかのように彼のそばを離れようとしない。ヨナタンにはそれが、健康的な関係であるとは思えなかった。いくら前の士師で神の言葉を聞くものとは言え、王は父であるのに、いくらなんでも大きな顔をしすぎるのではないのか。父もなぜ、彼のいうことならば素直に聞くのだ。
自分とて、良き王子になるためにいろいろと学んできた。父とサムエルの間柄に立ち込める何とも言い難い風通しの悪さを、ヨナタンはよくは思えなかった。もっと父には、現代的な視点も持って貰わねば困る。せっかく王制を得たというのに、イスラエルただ一国のみが時代から取り残されるようではならないのだ。
そうだ。元はといえば伝統重視のサムエルがいるから、技術の革新もままならない。他国から技術を教わったり、他国のものを戦利品として持ち帰るのはイスラエルを汚す行為と言われようとも、ならば神が直々に鍛冶技術を伝授してくれるならばまだしも、そのようなことは何もないままイスラエルは技術後進国の地位に甘んじているではないか。
それがなぜ、神に従う行為なのだろう。神とて、自分の愛しい民の国が勝つならば、それが一番嬉しいのではないだろうか、伝統にしがみついて自滅するようでは、信仰の上でも本末転倒ではないだろうか。
あけすけに言ってしまうと、ヨナタンにはあまり神というものの実感が持てなかった。積極的に疑うほどのものでもないが、どうも熱狂的に、現実的な利益を無視してまで義理立てするような情熱が理解できない。神はおそらく人間よりは聡かろう。ならば神がいるなら、自分のこの考えも理解してくれるはずだ。彼はそう感じていた。彼はとにかく、理詰めで正しいことにこだわるきらいがあったといえる。非常に現代的で、若い頭の持ち主であったのだ。

そんな息子の考えもよそに、サウルは悩んでいた。サムエルがいないと、ここまで不安になるのか。
サムエルに油注がれた時、自分の人生が開けるような感覚を味わったのだ。そうだ。自分の人生は、あの時に始まった。
今となっては遠い昔のことのようだ。貧しい家も、ままならない生活にいら立つ両親も、そのいら立ちを自分のこの母にも父にも似ぬ容姿を引き合いに俺を裏切ったのだろう、俺の子供ではないのだろうと母にに八つ当たりした父の姿も。
あかぎれだらけの手も、貧しい食事も、そして自分に笑いかける、きらびやかな服をまとった老女の姿も。
彼女に愛撫してくれと迫られ目の前に現れた、毛じらみの沸いた異臭を放つ性器も。そして金を携え家に帰った自分を待っていた。張り付いたような家族の作り笑いも、その裏に感じ取った、彼らの軽蔑……けがらわしい男娼を見るような軽蔑も。その男娼の稼ぎのおかげで、いくばくかはよくなっていた彼らの顔色も。
すべて、すべて昔の事。何物にもあれない、あってはいけないと自分を責めた時代は、もう存在していない。その地獄から自分を救ってくれたのは、サムエルであった。あの日確かに自分は変われたのだ。サムエルなくして自分は、死んだままだった。
そして、そんな自分に愛を注いでくれたのも、サムエルであったのだ。容姿を男娼のごとく愛でられることしか能のなかった自分を、彼は愛してくれた。眠っている隙に体にいたずらされようが、それが愛のための行為であるなら、すべて受け入れられた。幸せですらあった。ようやく愛を知れた、と思った。自分を見出してくれる人を見つけた。サムエルこそ、イスラエル王国以上に自分の人生の喜びの象徴であると思えた。
だからこそ、彼がいないことが恐ろしく彼の不安をあおった。サムエルはもう、自分のもとへやってきてはくれないのだろうか。どうしていつもは天幕にいる彼がいないのだ。どうしていつもは感じることのできる彼の肉体が、ここにはないのだろうか。
サムエルがいなくなるというだけで、自分の人生が瓦解するような恐怖感に襲われる。再びあの地獄へ戻ってしまいそうな恐怖感だ。
どうすれば、この天幕に戻ってきてくれるのだろう。どうすれば自分をまた愛してくれる。彼の言葉に逆らったことが間違いだった、と自分で認めればよいのだろうか。ああ、そうしてみよう。サムエルは気難しいが、謝れば許してくれる。

ベト・アベンの追撃にあたって、サウル王は以下のような声明を発表した。
ギルガルで祭司の助けなく作法を破って生贄をささげたのは間違いなく自分の不敬であった。にもかかわらず神は、自分たちにこのように僥倖を与えてくださった。それに報いねばならんだろう。
よって軍全体に、日が落ちるまでの断食を命ずる。と。

ミクマスからの快進撃で、逃げた兵隊たちも戻り、イスラエル軍は数を増やしていた。だがその増えた全員を、その知らせは失望させた。
なぜわざわざ体を使って戦ったのに、断食をせねばならないのだろう。サウルは大事な戦の前だからこそ神の前に完全に体を清めねばならない、という論理を使ったが、それで納得できるものでもなかった、事実サウルにしても、それが本心であったとはいいがたい。
彼は怖かったのだ。一日でも長く、サムエルに歯向かったままの状態でいることが。早くサムエルに許してもらうために何かしらの行動を起こさなくては、と焦り、いてもたってもいられなくなったのだ。
この旨は、軍役していたナタンも当然サムエルに伝えた。サウルは知るよしもないことだったが、サウルの望み通り、この時点での手紙を受け取ったサムエルは、ようやくほっとした。王子はあれだが、サウルは自分のことを忘れないでいてくれたのか、と。

戦のほうも幸い、快進撃が止まることはなかった。その日はミクマスからアヤロンに至るまで、ペリシテ人を追撃しつくした。やがて日が落ちると同時に新しい日がやってくれば、断食も終わる。戦士たちは戦利品となった牛や羊の肉を、屠殺の処理も十分にせず、血を含んだままがつがつとむさぼった。血は律法では大変に穢れたものとされ、血を落としきる屠殺の作法通りに得た肉でなければ、本来食べてはならないことになっていた。それに文化的にも、血を含んだ肉など不気味なもの扱いされていた。
それに飛びつくほど兵士たちは飢えていたのだ。サウルは急遽屠殺台を拵えたが、彼の頭にあるのは兵士たちにそこまでひもじい思いをさせてしまったという事実よりも、せっかく軍を挙げて自分たちの身を清めたというのにこれでまた汚れてしまったのではないか、サムエルがこのことを聞けば何と思うか、ということであった。
とにもかくにも、サムエルが恋しい。彼の言葉をもって直々に、許すといわれたい。その思いだけが、サウルをむしばんでいた。断食の空腹など、彼一人は忘れ去っていたほどだ。

ナタンがサムエルに状況を逐一教えていることはサウルたちには知るよしもなかったが、彼が誰であるかはもちろん、彼らも知っていた。サムエルの弟子として、数回顔を合わせたこともなった。
ナタンは祭司としての教育も受けているため、戦場においてサムエルの代理を務めさせられた。彼も、神の声が聴けるという。自分はどうしても共有できないサムエルとの共通点を持っている彼に薄く嫉妬を覚えることもあったが、それ以上に祭司がいるならやはり心強い。
サウルはその夜、兵士たちがようやく腹いっぱいになったところで、では夜の間もペリシテ人を追撃しよう、と発言した。兵士たちの機嫌もようやく治り、いつもの通り王のため、と口をそろえて言った。
だがそれに、ナタンが口をはさんだ。「陛下、御身が清められましたか否か、神の前に伺いを立ててはいかがでしょう、ペリシテを追って下るもここで引くも、それにかかっているかと存じます」
それを聞いて大概のものは何をいまさら、という顔になった。彼は今やサムエル抜きで、現代的なヨナタンの価値観にしがたがって動いているのだ。だがしかしナタンもナタンで、祭司としての立ち位置にあくまでプライドを保ち続けていた。ナタンは師の感情もだいぶ察しがついている。自分までヨナタンに迎合したくはない、と彼は思っていたのだ。
「それならば……」
「いや、それは必要ありませんでしょう」その時、はっきりとした声が飛んだ。黒いマントに身をくるみ、がつがつと肉をむさぼる、アキトフェルの姿であった。
「必要あるかないか、神の声も聞けぬお前がなぜわかる?」ナタンはサウルが何か言う前に反論して見せた。しかしアキトフェルは薄く笑って言う。
「いや、預言の力など関係なしに分かるともよ。祭司殿が何もせぬならばれずに済んだこと、しかし神の前に伺いを立てたのなら、われらが軍の清めが住んでいないことなど、簡単にばれるだろう。それならばいっそ、今言ってしまったほうが楽だからね……」
彼はさらりと、衝撃的な一言を吐いた。

「ど」サウル王は恐る恐る口を開いた。「どういうことだ?」
「ここら一帯は野蜜の森で有名なのですよ、我々もその中に突っ込んで、ペリシテ兵を追撃したわけで」アキトフェルはいけいけしゃあしゃあと話し続ける。周囲の空気など全く意に介さぬといわんばかりに。
「陛下、今日の断食はやはり、あまりに愚行でしたな。若いものたちの腹の大きさを、もはやあなたはご存じないのですか?」
「私の命じた断食の誓いを破り」サウルは震える声で聞く。
「野蜜を……口にしたというのか?」
「ええ。私はしていませんがね、甘いものが嫌いなので」
兵士たちの間を見ると、何人か、気まずそうに縮こまっているものがいた。「誰だ!」サウルは激高して声を荒げる。
「わが誓いを、最初に破ったものは……!」
「怒鳴るのをやめてください、父上」そしてそんな彼の心に、ヨナタンの声が横やりを刺した。
「罰するなら、どうぞ、僕を。僕が、兵たちに野蜜を食べることを許可し、また彼らを安心させるため、だれよりも早くそれに口をつけましたので」
「お前……」サムエルの声は震えていた。
「なぜ、なぜ、そのような……父の打ち立てた誓いを……!」
「空腹状態よりも、腹を満たしてやったほうが、ペリシテ人をより多く追撃できると判断したからです!主も、敗北より勝利のほうをお望みになりますでしょう!自らの民が飢えに苦しみつつ必死であがく姿を見て楽しむほど、神とは非道なお方ではないはずです!」
よどみなく、ヨナタンは言った。サムエルはしかし、肝が冷やされる思いだった。元はといえば最初に神への誓いを破ってしまったのも、この息子が原因なのだ。それの落とし前として取った断食すらも、この息子が水を差す。
彼に悪気はないのは知っている。言っていることも、まったくもって正しい。だがしかし、これでもっと、サムエルが怒るかもしれないのに……。
サウルはヨナタンを厳しく叱責しようとした。だが周囲から恐る恐る、少しずつ、しかし確実に声がとんだ。
「陛下、お慈悲を」
「イスラエルが此度大勝利を収めましたのは、ヨナタン王子のおかげです」
「これが神に背く行為であれば、神は王子に罰を与えましょう、しかし今日得たのは勝利です。神が、王子殿下とともにいらっしゃる証拠ではありませんか」
そう言われれば、サウルももう強くは言えなかった。「もうよい」彼は告げた。
「息子よ、この罪は不問に処す。だが少なくとも、一度ならず二度までもイスラエルの神の前でたてた誓いを破ってしまったことには変わりない」サウルは力なく言った。
「もうあらかた戦いは済んだ、引け際だ。明朝ギブアに帰還する」
サウルの体に、どっと疲れが出た。自分は何をするのが正しいのだろう。息子の肩を持つべきか、サムエルの肩を持つべきか。王として自分は、どうするのが正しいのだ。
息子は神に愛されたというのか、では、サムエルが神に愛されていないほうか?馬鹿な、神の声を聞き、長らく聖職者を務めた彼が愛されていないはずなどあるまい。
サムエル……もう、自分の心を悩ます諸々など、どうでもいい。とにかく、サムエルに会いたい。一刻も早くいって、許しを請いたいのだ。サムエルと共にいてこそ、自分だ。血を分けた息子が可愛くないわけでは勿論ないが、とにかく今は、サムエルに会いたい。

サウル王はギブアに帰還し次第、王宮にサムエルを呼び寄せた。都合よく彼がギブアにいたことは、彼にとって救いであった。
「サムエル」
彼は気難しい顔でやってきたサムエルを見つめた。
「何も言うな。抱いてくれ……抱いてくれ。あなたに会えず、どうしようもなく、辛かった」
彼は心の内を、そう素直に打ち明けた。
サムエルも、それに無事応じてくれた。

「先日の件に関しては、私も深く後悔しているのだ。本当だ。例の罪を清めるため、軍を挙げて断食まで命じた」サウルは寝台の中で、サムエルにすがるように訴えかけた。
「だから頼む、私を捨てるな。私に愛想をつかさないでくれ。貴方がいてこその、私なのだ」
ナタンの手紙から、断食のことは知っていた。「捨てるなどとは一言も言っておらん」彼をなだめるように、ナタンは言った。
「お前が神に心を寄せなおしたのならば、それで十分なのだ」
「すまない……すまない」
自分に捨てられないかと震えるサウルを、かわいく思わないこともない。ナタンはすべての全容を、自分に知らせてきた。悪いのは、ヨナタンだ。あの小生意気な王子が、サウルが自分の、このサムエルの理想の王であることを邪魔する。お前など、お前などサウルに愛されてもいなかったくだらない女の子供のくせに。
サムエルはあと、ひたすら精神が不安定になってしまったらしいサウルのことをなだめていた。まるで自信のない頃の彼に逆戻りしてしまったようだ……と、その時。
激しい悪寒が、サムエルの体をつんざいた。預言の感覚。詳しいビジョンも音声も今回は与えられなかったが……圧倒的な、不吉の予兆を感じた。先日ギルガルから帰る途中の馬車で感じたよりも、もっと鮮烈な……。
「なんだ、どうかしたのか?」サウルは聞く。いや、とサムエルはごまかした。

その二人の様子を、そっと物陰から覗く影があった。アキトフェルの、真っ黒な立ち姿。彼は目を細めて彼らを見つめ、ふんと鼻を鳴らした。

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Mystery Plays feat: Samuel 15話


その後も、サウルの政権は安泰であった。
ギロ人アキトフェルはたしかに軍師の才能が多分にあり、早くからその才能を発揮し、サウルの軍に貢献していった。
また、年月が経つにつれ、もう一人サウルを強く支える存在が出てきた。成長したサウルの長男、ヨナタンであった。

サウルが貧しかった時代にはまだ小さかったのが大きいのだろうか、ヨナタンには自分は本来卑しいベニヤミン族、という卑屈な感情があまり見受けられず、大きくなっていくにつれ、まるで生まれつき王子であるかのような誇りと責任感を備えた立派な若者へ育っていった。父親に似たのか、彼には武勇の才能もあった。なにも事情を知らない他国の人間が見れば、ヨナタンがイスラエルで初の王子と呼ばれる立場の人間だとはよもや思いもしなかったであろう。
十三、四年ばかりする頃には王都も整備され、立派な王宮もたち、イスラエルもどんどん王国らしく体裁が整ってきた。アキトフェルやヨナタンの活躍もあり、ペリシテはじめ諸外国にも全く引けを取ることはなかった。
サムエルもサムエルで、まだ依然として元気なままであった。サウルを王に任命したころには白いものが混ざり始めていた髪は今や完全に真っ白になったが。それ以外は目もよく見えるし、耳も聞こえはいいし、歯も腰も丈夫なままだった。神に愛されていらっしゃるあのお方はいつまでたっても若々しい、と他人が自分を尊敬する声も聞こえた。
だが一方で彼はサウルを支える若い彼らに、何とも言えずもやもやした気持ちを抱えていた。昔は子供であった彼らが成長し、その才能を開花させていくのが、面白くない。サウルは、自分が支えればいいのだ。
サウルももう壮年になっていたが、それでも彼は美しいように思えた。初めて体を結んで以来、ずっとサウルとサムエルの間の肉体関係は途切れることがない。サウルの妻が死んだ時も、サムエルは口だけ告別の辞を述べたものの、内心せいせいしていた。自分にとってかつての妻が何も分からない女性であったのと同様に、彼女もサウルの隣にいる人間として、とても自分とは勝負にもならないと強く思っていた。
それだというのに、ヨナタンとアキトフェルが今度は目の上のたん瘤のように成長してきた。とくに初めて出会って以来、アキトフェルとの間には妙な対立する空気が流れ続けていた。伝統的な知識と経験、そして神の言葉を聞くことのできる自分とは比べれば明らかに持っているものが少ないはずなのに、サムエルの発想は古いのだといわんばかりに、たびたび自分と対立する意見を出してくる。おまけにフラフラしたところがあり、マイペースだ。最近の若者は全く、と年寄りじみた文句の一つでも言いたくなるほどに。
サウルもそんな彼をそこまで悪く思っていないようだった。彼もサムエルとアキトフェルの間に流れる何とも言えない気まずい空気に関しては察しているようで「サムエル、私の一番の助言者も、私が一番信頼しているのも、あなた一人だけだ」と幾度となくサムエルにすがってきた。そうされるたび、サムエルも心が痛む。憎んでいるのはサウルではないのに。

それでもサウルとともにいられることが、幸せであったのは間違いない。ソドムの住民のように、神に罰せられることもなかった。性に恐怖し続けた少年時代、性に愛想をつかした青年時代と淡泊な人生を生き続けた結果、ようやく神に祝福された形での性を手に入れた、と、サムエルは確信してすらいた。

そんな中のことである。またもや、ペリシテ人といさかいが起こった。
今度の発端になったのは、ヨナタンだった。今や父を傍らで支える将軍の一人となったヨナタン王子が、ゲバに配属されていたペリシテ人の守備隊と抗争になった末、それを打ち破ったのだ。無論のことペリシテ人もただ負けているわけにもいかない。かくしてまたもや、戦争が始まった。
それを初めて聞いた時、サムエルは何を厄介ごとを、とヨナタンに不快感を持った。
その報告はあくまで、良いものとして届いてきたのだ。ゲバのペリシテ人たちが、イスラエルの民間人たちを激しく侮辱したことに、ヨナタン王子も報復をもって返した、ということであるらしい。ヨナタンはイスラエルの誇りのため、勇敢に戦ってくれたと。
先述したとおり、ヨナタンは本来の生まれが不思議なほどに、王子然とした人物へ育っていった。しかもそこには、甘やかされ権力を下らないことにしか使わない愚昧な王子の姿などなかった。彼は非常に誇り高く、正義感があり、面白半分に戦を仕掛けるような人物でもないことなど、彼を今一つよく思わないサムエルにもわかっていた。
そのうえで、やはり彼は面倒なことを、と思ったのだ。ここのところペリシテも軍事力を増してきた。下手に全面対決になれば、今は自分たちのほうが不利になるやもしれない。そのようなことを考えずによくも無鉄砲に突っ込んでいってくれたものだ、とサムエルは感じた。

無論のこと、それはサウルの耳にも入ったようだった。サウルはその時、今や立派な王都となったギブアを離れ、かつて自分が王位を得た土地、ギルガルにいた。
戦わぬわけにもいかない。息子はあくまで勇敢な行動をとったのだ。サウルはギルガルの自分のもとに、イスラエル兵を呼び集めた。ペリシテはすでに大軍を率いて、ミクマスに陣を敷いていると情報が入った。
ラマのサムエルのもとにも、頼む、ギルガルへきて戦の勝利を神に祈ってくれと、サウルから直接手紙が届いた。ヨナタンが犯した厄介ごとだったにしても、可愛いサウルからそう頼まれれば、行かないのも気が引ける。だが運の悪いことに、サムエルもサムエルでその時ちょうど忙しく、すぐには動けない状況であった。
「七日間、待ってくれ。用事が終わり次第そちらに行く」と、サムエルは手紙に返事を書いた。

しかしあいにくながら、サムエルのほうの用事は長引いてしまった。幸いペリシテが大きく動き出したという連絡も聞かないが、一刻を争う状況には違いないだろう。
やっとラマでの一連の儀式を終え、大急ぎでサムエルはギルガルへ向かった。だが計算してみると、どうしても約束していた時間より一日遅くなる。
サムエルはぎりぎりまで馬車を頑張らせたものの、やはりだめだった。やむをえん、ここからならば連絡を出しても付く時間はそうそう変わらない。一日遅れてギルガルにつこう。彼はそう覚悟し、七日目にギルガルに近い街に宿泊した。

そして朝一番で出かけ、ようやくギルガルが見えてきた。城門をくぐり、祈りの場に向かう。サウルは相当やきもきしたことだろう。待たせてすまなかった、と思いながら馬車で駆け上っていった、その時だ。
サムエルは目を疑った。
祭壇に、煙が燃え盛っている。

いけにえの儀式は、祭司でなくては行えないはずだ。ギルガルに集うサウルの軍隊の中に、祭司などいない。
サウルが自分以外の祭司を呼んだとでもいうのか?そうにしても彼なら昨日までは待つはずだ。まだほかに別のものが来る暇があるとも思えない。いやな予感がして、サムエルは急いで祭壇のある場に上った。
その場には確かに、祭司などいなかった。しかし祭壇の上には確かにいけにえの獣が燃えていて、煙を天に向かって送っていた。それをする権能のあるものが、一人もいないにもかかわらず。
「……サムエル!」
サウルはすぐに、サムエルが来たことに気が付いた。彼は長く伸びた髪を振り乱し、急いでサムエルのもとに走り寄ってきた。
「どうしたんだ、遅かったではないか……」
「サウル……一体、何をしたのだ?」
だがサムエルはサウルを心細くさせてしまったろう、という思いもあったが、それよりも今は祭司としてこのことを問い詰めるべきだと思った。偉大な神に祈りをささげる行為は、厳格な作法をもってして行われなければならない。祭司もなくして行われるなど論外であり、イスラエルの伝統からすれば信じられない不敬であった。何十年とそれを守ってきたサムエルにとっては、信じられないことであった。
「誰があのいけにえを捧げたのだ?」
「……すまない、サムエル」震える声で、サウルは言った。「私だ」
「お前が?祭司ではないお前がか?」
「うむ……」
「サウル。到着が遅かったのは、悪く思っている」サムエルは厳しい口調で言った。
「だがしかし、神に祈りをささげるにしてもこのような不埒な行為をお前ともあろうものが行うとは!大変な戦争に臨むにあたり、神の前に信心どころか不敬をもって返すとは……」
サムエルはそう説教しにかかった。だがその声を「おやめいただけませんか、サムエル様」と遮る若い声があった。はっきり発せられた声は、ヨナタン王子のものであった。
「ヨナタン、お前は下がっておれ」
サウルはそう言ってヨナタンを引き下がらせようとしたが、ヨナタンは反論した。
「いいえ、父上。父上はサムエル様に少々弱すぎます。王族たるもの、時には堂々とせねば」
「ヨナタン、何か言うことがあるのか?」サムエルは彼をぎろりと睨みつけていった。この作法やぶりに悪びれている様子のサムエルはまだしも、彼は妙に堂々としていた。
「もちろん。サムエル様、元はといえばあなたのご到着が遅れたのが悪いのではないのですか。遅れるならば遅れるでそのように連絡をよこしてもらえれば、我々もまだ待てたものを」
ぐっとサムエルはそれに対して言葉を飲み込んだ。遅れるのは仕方がないにしても、連絡を怠ったのは確かに自分の失敗であったかもしれない。だがずけずけと正論を言ってくる彼の姿は、余計サムエルの心を逆なでした。
「だが、お前の父はモーセの頃より連綿と受け継がれてきた生贄のしきたりを破り、祭司の権能もなくしてその領域を侵したのだ。神に仕える国、イスラエルの王としてふさわしからぬ行為であるのは明白なこと」
「いいえ、王としてこそ、今日この場でしきたりを破ってでも、神に祈りをささげることが重要だったのです。父をあまり責めてくださいますな。父にそうするよう勧めたのは、私です」
「なんと!」サムエルは語気をいよいよ荒げた。「なぜ、そのような真似をした!」
「はい。神へ祈りも捧げられないとあって、兵たちの間に不安が広がっておりました。ペリシテは戦の準備を終えミクマスに集合しておりますのに、我々は神への嘆願も住んでおりません。その不安ゆえ、すでに、脱走するものも何人か出ました。しかも期日になってもあなたが現れなかったのですから、なおのことです」だがヨナタンは本当に、あくまで堂々として彼に言った。
「兵を散らせるわけにはいきません。隊をまとめげることこそ、王の務めでありましょう。僕は父をそう説得したまでのことです。父も、納得してくれました」
「愚かなことをしたものだ、ヨナタン!」サムエルはなおも言った。
「サウル、お前もお前だ……自分が主によってえらばれたイスラエル王であることを忘れたか?そのお前が主とイスラエル人との間に交わされた契約を打ち破ってどうする!」
「申し訳ない、サムエル……」
サウルはそう繰り返すのみであった。肝心のヨナタンは全く反省するそぶりを見せない。サムエルはいらだってきた。
「もうよい、私は帰る!」彼は踵を返した。「ま、待ってくれ、サムエル!」と後ろからサウルの声が聞こえたが、こうなれば意地だ、と思っていた。サムエルはそのまま、ずんずんと彼らから遠ざかっていった。
「……あーあ、やれやれ、怒らせてしまった」一部始終を黙って見ていたアキトフェルがため息をついた。
「ねえ、だから私は反対したのですよ、殿下?正論をただ吐けばなんでも通るというものではありませんからね」
「やかましい、アキトフェル。父上、何はなくとも今はペリシテと戦をせねば始まりません。もう少し、シャキッとなさってください」
「う、うむ、そうだな……」実の息子に発破をかけられて、放心状態のサウルも何とか我に帰った。
ヨナタンは間違いなく聡明だし、頼りがいのある王子だ。だがしかし、このサムエルとの相性の悪さはどうにかできないものか、と悩んでいた。

サムエルは帰りながら、サウルの治めるイスラエル王国という存在に傷がついてしまったようだ、と思っていた。神に選ばれた王、輝かしい王に、あの王子がケチをつけた。自分と違って、サウルを安心させることもできなかったあの王子に。奴に、サウルの何がわかる。実の息子だとて、自分たち以上の関係を築けているものか、という心がむらむらと湧き上がってきた。
それに自分が生きて育ってきたこの国が、まさか自分たちだけで築かれたと思っているのでもあるまい。何代とさかのぼる先祖たちと、それに目をかけたイスラエルの神が、今の今までこの時代までイスラエル人の命を続かせてきたのだ。その伝統に対して、なんたる不敬。サムエルは、ヨナタンを心から疎ましく感じた。
第一、何がもとはといえばあなたが遅れたせいです、だ。もっと、もとはといえば、お前が無鉄砲に突っ込んでいったのが原因ではないか、なぜ面と向かい合っていた時に言えなかったのだ。それが余計、彼をいらだたせた。
「ナタン!」サムエルは自分の馬車を御す若手の預言者、自分の弟子の名前を呼んだ。「はい、何でございましょう、先生」と彼は言う。
「馬車を止めろ。別の御者を呼べ。お前は私とともに帰るでない。戦争の様子を探ってくるのだ。とくに……あの王子がまた何か余計な真似をせんか」
とにかく、今回の戦にはもう参加してやる気など沸かない。サウルのことは気がかりだが、あの王子と同じ場に立つのはまっぴらだ。だが一方で、自分だけ仲間外れのように何の情報も手に入らないのもしゃくである。
「御意に」ナタンは静かに返してきて、馬車を止めた。

代わりの御者を馬車の中で待ちながら、サムエルは物思いにふけった。それにしても、不吉な。バカ息子にそそのかされたとはいえ、イスラエルの王が神と人とのしきたりを破るなど。
何か悪いことが起きる。彼の感覚が、そう警鐘を鳴らしていた。


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Mystery Plays feat: Samuel 14話


サウルの家族はサムエルにとって、面白くない存在以外のものではありえなくなった。彼に、家族など似合わない。醜い妻も、ただの人間のようでしかない息子も、似合わない。
彼はイスラエルのもの、神のものであればいいのだ。そしてそれを支えるものとして、自分が隣にいればいい。イスラエルの王となるべきサウルを延々とあのような境遇に縛り続けていたのも、もとはといえばあの家族たちだ。
サムエルは出陣を楽しみにするようになった。家族と切り離され、ただ純粋にサウルが王として輝くその瞬間が、彼は好きだった。そして自分とサウルの二人のみがイスラエルの頂点に立っているのだ、と実感するその瞬間が、サムエルの心をくすぐった。

そして。もう一つ。サムエルはもう、抑える必要もないと自覚した彼の情動にブレーキをかけることをやめた。
彼は何かと理由をつけて、自分の天幕にサウルが泊まるように仕向けた。そのうちサウルのほうもそれに慣れてきた。今では同じ天幕に寝泊まりするのが当たり前のようになってきた。サウルとサムエルはイスラエルを共に率いる関係、私生活でも親子のように仲がいいからと、他人もそれを大して疑うことはなかった。

彼が唯一懸念することは、このことをサウルに知られたくないという一点のみになった。サウルに拒絶されることが自分をどれほど絶望に追い込むだろうかと、考えただけでも怖かった。
そのため彼は、懇意にしている薬屋から睡眠薬を買い、夜な夜なサウルにそれを飲ませた。彼が朝まで絶対に起きないように。そして、彼の肉体をまさぐり続けた。
性衝動へどう向かい合えばいいのか、サムエルにはよくわからなかったのだ。冒険に踏み切るのも、怖かった。最初やった通りのことを、ほころびの出ないように繰り返す。そうしただけでもサムエルは、満足できた。
サウルが気付きさえしなければ、だれも何も損などしない。自分たちの天幕に入ってくるという無礼を侵すものも、存在しないのだ。
サウルの肉体は、性に絶望した彼へ神が与えた贈り物のようにすら思えた。妻との間に感じた、子供を作るという義務以外何も存在しない味気ない行動でもなく、蝮が人の誇りも命もすべて食らい尽くすあの恐るべき行為でもなく、ただただ甘美で幸せな行為。死ぬ前にこの快楽を知ることができてよかった。今であれば、若い者が死んだとき「男の喜びも知らぬうちに」「女の喜びも知らぬうちに」と、時々聞こえてきた嘆きの声も理解できる気がした。もっとも女の喜びに関しては、自分では知りようもないため半ばのみではあるが。
ただ性がどうこう言えど、サムエルはさすがにサウルを完全に女のように抱くのは気が引けた。サウルの体をおもんぱかってのことなのか、そうは言えど完全に律法を侵すことを最後の倫理観が拒絶したのかどうか、彼も悩みに悩んだがやはり分からないことであった。
サムエルはひたすら、眠って無抵抗なサウルの体を触り、彼の体を抱擁し、男性器を彼の肌に擦り付けその感触と体温で果てることを繰り返していた。

ある出陣の夜にも、彼は同じ行為をしていた。ペリシテ人の戦には今回も勝てそうであったが、そのようなことは今の時間はどうでもよかった。自分に甘美さをもたらしてくれるサウルが今日もまた眠って、自分の目の前にいる。それ以外に自分の心を奪うものなど、何もない。
夜風も吹き付けない、静かな夜であった。サムエルは声を押し殺し、サウルの体の感触を楽しんでいた。なぜ、彼はこれほどまでに美しい。彼に飽きることなど、未来永劫ないかのようにも思える、完璧な美しさがそこにあった。
ああ、サウル。サウル。お前ほどいとおしいと思った人間などこの世にいない。お前の生きる世界はあのベニヤミンの貧しい村にはなかった。ここだ、ここが、お前の生きる世界。お前は神が与えた贈り物であったのだから。
びくびくと体がしびれるような快楽に蝕まれ、サウルの小麦色の肌に白く濁った液が飛び散った。また、拭いてやらねばなるまい。サムエルが手拭いをとるために翻った、その時だった。
天幕の入り口を隔てる幕が、明らかに不自然に歪んで、隙間ができていた。そしてそこの隙間から、人間の目がぎょろりと覗いていた。
彼はひどくぞっとした。「誰だ!」と叫ぶ。慌てた様に天幕のゆがみは直り、彼はその場を立ち去ったかのようだった。
裸のまま、サムエルは外を見渡した。去っていく影が見えるのみ。背はそう高くなく、少年のようにも思えた。
少年など、この度連れてきた軍隊にはいないはず。近隣の住民だろうか。とにかくこの姿では、あのような状態のサウルを置いたままでは、追いかけられないことも確かであった。
言いふらせられはするまいか。万一そのようなことになっても、自分のほうがどこの誰とも知れない少年より人に信じられるだろう、と自分を励ましつつ、やはりサムエルは激しくそのことを心配していた。
サムエルは分かっていなかった。言いふらすなど、彼はその程度の少年ではなかった。


翌朝の事。
サウルは普段通り、何も知らぬ顔で起きた。「おはようございます。先見者様」と、だれよりも早くサムエルに告げて。
「うむ。よく眠れたか?」
「ええ、おかげさまで」
おかげさまで、とはどういう意味だろうか。サムエルは一瞬ひやりとし、あえて素直に聞いてみた。するとサウルは少し間を置いたのち、こう告げた。
「先見者様、私はもともと、だれかと寝るのは好きません。幼い時は兄弟たちと身を寄り添って狭い寝台で……大人になってからは、あの妻とともに……私にとって寝台とは一人であって初めて落ち着く場所でした。しかし……先見者様。あなたの前でなら、私は一人以上に安眠できます。なぜでしょうかね。ただあなたを……深く、信頼しております。それは、間違いありません」
サムエルの心臓が大きく高鳴った。言いようもない幸福感があった。サウルに嫌われるどころか、そのような言葉をかけてもらったのが、掛け値なしに彼にとっては幸福そのものだった。
同時に、やはり彼の家族など彼にふさわしからぬ、自分よりふさわしいものではない、という思いも、一層強固になったようだった。そのものの隣に安心して寝ることもできずに、何か家族だ。自分とサウルはサウルとその家族以上につながっているかのように思えた。
ただの睡眠薬の効果だというのに、と皮肉に思う気持ちなど、その時のサムエルには全くわいてこなかったのだ。

サウルはその後、川に顔を洗いに出た。パシャパシャと冷たい水を顔に当てていると、不意に、自分のそばに立っている存在に気が付く。
「何者だ?」
いつの間にか自分のすぐ隣に、少年が一人立っていた。年はざっと十四、五程か。兵士の身なりはしていない。彼は色白で、やせていた。そしてその体を、ぞろっとした真っ黒なマントで覆っていた。
独特な格好をしていたものの、何はともあれ自分をイスラエル王サウルと知ってのことか。彼は鋭く瞬きをし、目の前の少年が何をしてきてもいいように構えた。ペリシテ側の暗殺者でないとも限らない。そうであるなら、顔を洗っているうちに刺し殺せなかった相手の運のつきだ。
だが、果たしてそれは杞憂に終わった。彼は少しサウルが彼から間を置いたタイミングで地面に膝をつき、深々とお辞儀をした。
「はじめまして。サウル王陛下」
彼はイスラエルの言葉を話した。
「怪しいものではございません。陛下に一つお教えしたいことがございまして無礼とは知りつつこのように、内密にお声をかけさせていただいた次第です」
「……お前の名は?」
「ギロ人、アキトフェルと申します」その話し方は不気味に隙がなかった。だが間違いなく恭しく、サウルに敵意がないというのは嘘ではない様子であった。
「……アキトフェル。話とは?」
「まず一つ伺いたいのですが……陛下は、先見者サムエル様とご一緒の天幕に泊まられておりますね」
「うむ。サムエルは私の、かけがえのない助言者ゆえ」
「ところで陛下は、寝る前に何か、必ずお飲みになるものはございますか?」
なぜこのような質問をしてくるのだろう、と思いつつ、ここまで聞いたなら答えてやらないのも無碍なような気がした。気にするほどプライバシーにかかわる質問でもない。
「サムエルとともに、毎晩酒を飲み交わすことにしている」と返答する。
「そのお酒はサムエル様がご用意なさいますか?」
「……ああ」
ふむ、とアキトフェルは考え込み、そして告げた。
「陛下、陛下にお試しいただきたいことがございます。今晩はその酒を、飲むふりをして一滴も飲まないでいてください。そして寝たふりをしてほしいのです」
「何?なぜ、そのような……」
「陛下が驚くことが起こるかもしれません」
「どういう意味だ!?」サウルは焦った。だが黒衣の少年アキトフェルは薄く笑ったまま「是非とも、ご自身の目で」と告げた。
「そして、陛下がそのことをご存知になりよくぞ教えてくれた、ともしなったのなら……この僕を、あなた様にお仕えさせてはくれませんか。決して足手まといにはならぬと誓いますよ」
そう言い放ち、アキトフェルはサウルの返答も聞かずに恭しくお辞儀して、またどこかに消えてしまった。

その日は膠着状態で、戦はあまり進まなかった。サウルは、夜になりサムエルの天幕へ帰った。
朝のようなことを聞かされた後なので、好きな酒を飲むのに抵抗があった。いったい何が起こるというのだ。だがふと意図してみると、サムエルは妙に自分に酒を勧めるのに彼は初めて気が付いた。今までは自分もすぐに飲んでいたし、特に気が付くこともなかったが……。
サウルは意を決した。
「では、いただきます」といい、彼は盃を受け取った。そしてうつむき加減にそれを飲むふりをして、ひそかに襟元にあけた。酒のしずくが胸を伝い、ひんやりと冷やされていく感覚。サムエルは気づいていないようだった。
これで寝たふりをしろと?だが一杯程度で酔いつぶれる自分でもなし……。
いや、そうだ。そういえば最近、一杯ほどで自分はすぐ酔いつぶれてしまうような気がする。二杯、三杯と飲むのは一気に飲む時くらいで、ゆっくりと何杯も飲み交わした記憶がない。戦の疲れのせいとばかり思っていたが、やはりあの少年が言ったとおり、何かあるのか……?
サウルは結局、アキトフェルに言われるままに、瞼を重くさせ、睡魔をサムエルに訴えた。サムエルはすぐ、寝床の準備をしてくれた。

目を閉じ、寝たふりをする。これで本当に何か起こるのか。と、サウルが考えている時だった。
自分の太ももに、不自然な感触がある。まるで誰かに触られているような。
自分の体の上に、気配を感じた。「サウル」「サウル」と自分の声をつぶやく声。その声には聞き覚えがあった。というよりも先ほどまで聞いていた声が、まったく違う色をもってサウルの上に降り注いでいた。
服を脱がされ、ひやりと体が夜の冷気にさらされる。そこに感じる、自分よりもずっと低い人間の体温。思わず彼は、目を開けた。

サムエルは絶句した。寝たはずのサウルが、目を覚ました。しかも、言い逃れのできない状態で。彼はサウルに覆いかぶさったまま、開いた口もふさがらなかった。
馬鹿な、なぜだ、と思った時、彼はサウルの胸元につたう雫を見た。まさか飲むふりをされたのか。そんなまさか。なぜ、分かったのだ。
「先見者様……」
そうも思いつつ、サムエルは愕然としたままだった。自分のこの幸福が、終わる。サウルに、愛想をつかされる。そう、彼は恐怖した。目の前のサウルも目を見開いたまま状況を把握しきれないようで、そのまま二人の間には、しばし時間が流れた。
「……先見者様」
先に口を開いたのは、サウルであった。サムエルは覚悟し、彼の顔を覗き込んだ。自分が初めて見てその魅力に魂を焦がされた美貌を。
だが、サウルが覚悟していたものは、そこにはなかった。未だ多大に戸惑ってはいたものの、その顔には憎しみや軽蔑の色は、一切含まれてはいなかったのだ。
「なぜ、このような?」
「……」
「私を……欲されたのですか?」
「……」
サムエルは答えられないままであった。だがそんな彼が驚くような一言を、サウルは言ってきた。黙りこくったサムエルに、顔を近づけ、ささやくように。
「ならば……抱いてください。このまま」

彼は、何を言っているのだろう?
サウルに嫌われるのを恐れるあまり自分の耳が無理に聞かせた幻聴ではないのか?
そういう思いがわきつつも、サムエルにはもはや、その言葉を退けるほどの性への恐怖感は残っていなかった。かれはサムエルの体をかき抱いた。
たくましい、若い肉体。自分のようなものを拒絶しようと思えば、すぐにでも逃げ出せそうなサムエルの体は、彼を受け入れた。
その日サムエルは初めて、女を抱くようにサウルを抱いた。彼は最後まで、抵抗しなかった。目の前の事実に喜んでいるようですらあった。
サムエルには、その訳が分からなかった。分からないまま情動のままに体を動かし、サウルの肉体に答え続けた。
「先見者様、なぜ、私にこのようなことを望まれたのです?」彼に抱かれたまま、サウルは問いただした。
「私を、愛してくださったからですか?」
サムエルにサウルの気持ちがわからないのも、当然なことであった。彼にはしょせん、長年必要とされなかったものの気持ちなどわからないのだ。

朝が来て、サウルは先に起きていたサムエルと、お互い先夜のことが夢ではないと確認したのち「先見者様。私が、あなたをお恨みだと思わないでください」と言った。
なぜだ、と問われて、サウルはとうとうと語る。
「あなたは、私が出会った誰よりも……私にとって特別なお方ですから。私を……誰より、見出してくださった方ですから」
生れた時から恵まれていたサムエルには、決して全てを分かることができない絶対的な孤独と自己肯定感の薄さを、サウルは語って聞かせた。何物でもない、何者になることも許されない。それがサウルがあるべきと教えられてきた人生。
それを、何者かにしてくれたのが、サムエルだった。あの日以来自分の人生は変わった。父も、妻も、息子も変えなかった自分の人生を、サムエルが変えてくれた。
そんな彼に、王としてのみならず、このような形でも愛されるなら、それもむしろ本望、とサウルは語ったのだ。
「幸せでしたよ。本当に……幸せでした」
サウルの理屈を聞き無理もないと思いつつ、サムエルにはそれほどまでの孤独などあるのだろうか、と実感が沸かないままであった。だが、自分がサウルに感じていたこと、すなわち彼の居場所はベニヤミンの村ではない、王権であり、自分とともにイスラエルを牽引する立場である、ということ、それと同じ感覚をサウルも持っていることが、掛け値なしにうれしかった。
サウルは自分のもの。この地上に生きる人間のうちでは自分だけのものだ、心からサムエルは、そう思った。
「先見者様、一つ。伺いたいことが……あなたは、男色家であったのですか?私以外に、このように愛した男がおりましたか?」
昨日の行為は、ソドムで行われたものに等しい、男色の行為であったか。もしサムエルの心に「埋めよ、増やせよ、地に満ちよ」の教えを順守するイスラエル人並みの倫理観がいまだ素晴らしいものとして残っていたのならば、彼は最後のプライドを守るためいや、これは男色ではない。自分はサウルが男だから愛したのではない、愛したサウルがたまたま男であっただけ、女であっても自分の愛は変わらなかったであろう、と語っただろう。しかし、彼の中にその言葉はすでに倫理として存在していなかった。そうだ、そもそも自分が嫌悪したものは、性そのものであったのか。同性愛など意識したこともなかったが、サウルとの同性愛がかくも甘美な時間をもたらしたのと対照的に、自分を恐れさせるものは、常に異性愛であった。自分が恐れたのは、そこではなかったのか。
異性愛者が神の言葉を建前に正当化する男女の愛など、サムエルにとってくだらないもの、存在すら苦痛になるものでありこそすれ、素晴らしいものであったことなど金輪際なかった。もしもサウルがこの美しさもそのままに女であったとしても、自分とサウルの関係が異性愛になってしまう、それだけで自分は拒んだろう。サウルが男であったから、この愛は確かになりえたのだ。それはきっと、非常に重要なことだった。

「そうだな。私は生まれついて、男色家であったのかもしれん。男女の情愛も、女の体も、私をお前の肉体ほど燃え立たせることはなかった」サムエルは告げた。
「だが、好いた男も、抱いた男も、お前が初めてだ。当然だろう。お前より美しい男が、このイスラエルのどこにいる」
その答えを聞き、満足そうにサウルは微笑んだ。

「もし、陛下、先見者様」
天幕の外から聞こえる声。兵士の声だ。すでに服を着たサウルは先ほどまでのとろけた声から一転「何事だ?」と、ここ最近ようやく板についてきた威厳ある口調で告げた。
「妙な少年が、あなたに面会を頼んでおりまして……」
「会おう。おそらく私も知っているものだ、問題ない。通すがよい」
その言葉とともに、真っ黒なマントで全身を覆った少年が天幕の中に現れた。彼はサウルの隣にいるサムエルをいぶかしげにじっと見た後、鼻で笑うようににやりと微笑んだ。その目つきに、サムエルも不愉快になりつつ、はっと思う。先日自分たちを覗いていた目つきに、どこか似ている気がした。
「陛下。お早うございます。ご機嫌麗しゅう」
「うむ。お早う、アキトフェル」
彼らがすでに知り合いな様子で、サムエルは混乱した。
「どうでしたか。僕の情報は……?」
「うむ……大変に、結構であった。約束は守ろう。今日から、私に仕えるがよい」
サムエルは説明を要求した。だがその声にこたえたサウルの表情を見て、アキトフェルもふと、怪訝そうに眉根をひそめた。かくかくしかじかのことがあってだ、とサウルに語られ、サムエルもようやく大体のことが察せた。。なるほど。先日自分たちを覗いていたのも、サウルに入れ知恵したのも、すべてこの少年か。
だが自分たちの仲睦まじそうな姿を見て眉根をひそめるその姿に、どうやらお前の予想とは違ったようだな、とサムエルは少々誇り高く思った。自分とサウルの仲を甘く見おって、小僧が、という気分にすらなった。
「仕えるといえど、兵士には貧弱に見えるな」サムエルはずけずけと、アキトフェルに言う。
「小姓にでもする気か、サウル?」
「まあ、そういわずとも、だれしも才能はございましょう……」
「昨日はあきれた膠着でしたね、サムエル。それでも長年イスラエル人を率い、異邦人と戦っていたのですか?」
その言葉に、彼ら二人はぎょっとした。今度はアキトフェルのほうが、サムエルにずけずけとものを言ってきた。
「なにを……」
「僕なら短期決戦にもちこみますね。十分それが可能な状況であるとも思いますよ」
何を馬鹿な、世間知らずの子供が机上の空論を、とサムエルが言おうとしたのもつかの間、彼はその場でぺらぺらと、自分の思い描く軍略を発表して見せた。
「……面白い!」そしてそれを聞き終わり、サウルが言った言葉がそれであった。
「やってみる価値はあるかもしれない……先見者様、この少年、軍師として育ててみてはいかがでしょう?才能があるのでは?」
「う、うむ……」サムエルも、そう同調せざるを得なかった。ただの机上の空論のようで、なかなかに目立った隙がなく、何より自分の発想の外を見事についていた。サウルと過ごした夜の余韻を邪魔されているような気分であったが、夜はとっくに明けたのだと、天幕の布を通して差し込む朝日と兵士たちの動く音が告げていた。

その二日後、無事イスラエル人はペリシテに勝利をおさめ、凱旋した。予定よりもずっと早く。アキトフェルの意見を基にした軍略が、功を奏したのだ。
だがその日サウルは、自分の帰りを待つ家族のもとには帰らなかった。彼はもう一晩だけと、サムエルと共にいた。サムエルも、それが幸せだった。サウルを本当に自分のものにできたと、強く思うことができた。


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Mystery Plays feat: Samuel 13話


一、二年とする頃には、サウルは着実に王国を広げ、今までばらばらに暮らしていた十二部族たちをまとめあげていった。
彼を支えることは、サムエルの役目だった。彼もいつしかその役目に、士師であったころとはまた違う誇りを見出すようになってきた。
どんどん、どんどん王としての立場を盤石にしていくサウルは、本当に輝いていた。サウルと会うまで自分はエリこそ人間のうちで一番素晴らしいものだと思っていたのだ。しかしもう、彼にはエリも叶わぬだろうとすら思う。
イスラエルに王を選ぶことは、確かに神に背く行為であったのかもしれない。だが結果として、神の祝福する運命となったのだ。神に仕えるものとしてのサムエルは、目の前のことをそのように思った。
わざわざ神に仕えるものとして、と言い足したのにも、理由がある。一年たち、二年たつ中で、彼はサウルに惹かれるあの欲情を、常にひしひしと感じてきた。
そのひいき目においても自分がサウルをよきものとしてみているのだろう、ということに考えが及ばぬほど、サムエルは非理性的でもない。
無論のこと、レビ記に「汝、女と寝る如く男と寝るべからず」という一節があることは知っている。だが律法に背くということ以上に、サムエルは自分の中に湧き上がる欲望に抵抗を持った。彼にとって、情欲のため理性を見失うことは、恐怖以外の何物でもなかった。
だが、サウルは自分を深く頼っている。彼を突っぱねるわけにもいかなかった。彼は着実に王としての自信をつけてきていたが、自分の後見人、助言者、そして神の言葉を伝える先見者として、非常にサムエルに重きを置いていた。サムエルにしても、長年イスラエルの指導者であった自分の助言があったほうが、イスラエル王国自体もうまく回るだろうと思っていたので、これしきの事でサウルのもとを離れるわけにもいかなかった。自分が多少理性をもって耐えていれば済むことだ。サムエルはじっと、自分にそう言い聞かせていた。

やがて、ペリシテ人とのいさかいがまた勃発した。王政を得てより団結力を増したイスラエルのことを、彼らは脅威に感じたのだ。
幸いなことに、軍事的側面において、サウルを王に建てたことは明らかな成功だった。サウルには司令官の才能があった。サムエルの助言も合わされば、まさに鬼に金棒というにふさわしかった。
その時はサウルが王となってから3回目ほどの出陣であっただろう。もはやイスラエルの勝利も確実、あとはペリシテ人に追撃するのみ、となって、サウル王はサムエルの待つ後陣の天幕へ帰り、その旨を報告した。
サウルはサムエルの天幕の長持ちに背を預けながら、彼が剣よりも得意にした獲物である槍を手拭いで拭いつつ、その槍を眺めてつぶやいた。「しかし、口惜しくもあります」
当時、イスラエルは技術的には大変な後進国であった。製鉄技術はおろか、鍛冶の技術すらもイスラエルにはなかったのだ。
では、そんな彼らがどうやって農具や武器を手に入れていたかというと、ペリシテ人から買っていた。サウルの使っている槍だって、元はといえばペリシテ製だ。
ペリシテ人に対していくらいきがろうとも、結局ペリシテ人に頼る自分たちのことを、サウルは非常に強く口惜しく思っていたのだ。考えてみれば、気持ちはよくわかる。サムエルは疑問になど思ったことはなかったことだが。サムエルにすれば、鍛冶はあくまで異国的なことで、伝統を非常に重視するイスラエルにはふさわしからぬことだ、という思いがあり、だから特に自分の治世中にも直そうとしていなかったのだ。それで社会は回っているし、ペリシテの鍛冶職人がどう思っているかなどは知らないが少なくとも戦争と商売は切り離して、イスラエルとペリシテは、民間同士はつながりつつ対立していた。そういうものだとばかり思っていた。
サウルがそれに疑問を持つというなら、またイスラエルに新しい風が吹き込んでくるということなのだろうか。

彼は長槍を拭き終わると、そのまましんとした夜の空気に包まれてサムエルと酒を酌み交わした。
サウルはどうも、酔うのが早いほうである上、酔うと気分が高揚するよりも、むしろ眠くなるタイプであるらしかった。ここ数年で、サムエルはそう学んだ。それでも彼は、酒自体は嫌いではないらしい。
したたか飲むと、サウルはウトウトしだした。若いとはいえ自分とは違い連日戦っているのだ、無理もあるまい。サムエルは思う。酒に酔う彼は妙に色っぽく見える。太陽の光とはくらべものにもならないわずかな光で暗闇を照らすろうそくの光が、妙にその雰囲気を後押しした。
「眠いのかね、サウル」サムエルはどうにか、ただ純粋に心配している人間の声を出そうと努めた。「はい……」ぼんやりした声が返ってくる。
「そろそろ、君の天幕へ帰りなさい」
サムエルがそういった時だった。気のない返事が返ってきて、彼は長持ちにもたれかかったまま、うつらうつらしていた。
「……無理そうか?」
「はい……」
また、気のない返事。何か、何か自分も言って返さねば。サムエルは酔いつぶれたこの青年を心配する以上に、心臓をざわめかせる自分の存在を意識していた。このような時、どういうのだろう。何の下心もない人間は、どういうのだろう。
もしもここにいるのが、何の興味もないただの男だったら。それこそ自分が長らく向かい合ってきたようなのっぺらぼうだったら。そう仮定しても、言うべき、出てくる言葉は一つだけだった。その言葉は本当に倫理に従った結果のものか、ただの自分の、自分の体に巣くう蝮の願望ではないのか。そんな問いかけなど意味をなさず、彼は、言うしかなかった。
「無理はするな、このまま寝ても結構だ」
サウルはその問いに「ありがとうございます、先見者様……」とおそらく言ったのだろう。彼はそのまま長持ちに背を預け、寝てしまった。

自分は何を言ってしまったのか。本当に自分の問いかけは、欲望ではありえなかったのか。
自分がこれから何をすべきか。サウルの体を寝せてやり、毛布を掛けてやればいいのだ。自分のすべきことは、ただそれだけ。
それだけでいいのに、蝮がわめく。彼に会った晩、感じた感触と全く同じものだ。体中がざわついた。目の前に眠る彼を、自分の蝮が……いや、もはやそんな言い訳も通じない。自分自身が、狂おしいほどに欲していた。妻を前にしてもこれほどの情動は沸いたことがなかった。目の前ですうすうと寝息を立てて眠る美青年に、彼は確かに、触れてみたいと思った。
化け物になるのは、怖い。だがその欲求を満たせないことも、もはや彼の中で、耐え難い不快感へと膨れ上がっていた。自分の目の前で酔いつぶれて眠るサウルは、彼にとってそれほど魅力的だった。
その欲求を振り切らんと、サムエルは荷物の中から毛布を取り出し、慌てて彼にかけた。だが、やはり、その欲求は収まらないまま。
性というものから自分は逃げ続けてきた。その付けが回ってきたとでも言わんばかりに、彼の肉体は性的興奮にじわじわと侵食されつつあった。
ついに、サムエルはふらふらと手を伸ばした。サウルの頬に向かって。紅顔の美青年というにふさわしいそれが、酒に酔ってさらに赤く染まった頬に。
みずみずしい感触と、自分のものよりずっと高い体温が、手のひらを通じてジワリと広がってきた。冷えて、しわくちゃになった自分の手のひらに。めまいがするほど、その温かさは快楽そのものであった。
自分の男根どころか、指の一本一本までが子供の蝮になり、ちろちろと舌を出して彼の体温をむさぼり食らうかのようであった。しかもそれは、彼らだけで完結していない。彼は宿主たるサムエルに恩義を返さんとでも言わんばかりに、サムエルの体中にその痺れんばかりの快楽を巡らせた。
人は、ここまで興奮を覚えるものか。サムエルは老いて初めて知る事実に恐ろしくなった。自分が、自分が怪物になってしまう。しかしこれ以上の幸せは、自分の人生で存在したことなどなかったようにすら感じられる。
指だけではない、男根だけではない。もはや自分の体全体が彼の体温を欲している。それを独占する五本指に向かって、お前たちだけいい思いをしおって、許さんぞと言わんばかりに。自分の体全体が、もはやサウルを欲する蝮に成り下がってしまった。ピネハスですらも、蝮の姿をしていたのはあくまで男根だけのことであったのに。
サムエルはそのような恐怖を感じ、恐る恐る、目をサウルの寝姿から、自分の姿へと映した。

すると、どうだろう。
そこにあったのは普段と全く変わらぬ、ただのどこにでもいる人間の体だった。

いや、当然といえば当然なことだ。だがそれはサムエルにとって、当然ではなかった。性を人食い蝮と同一視し、かたくなに避け続けてきたサムエルにとっては、彼の信じ続けてきた倫理に大きく揺さぶりをかける事実であった。
彼は急いで、自分自身の指を見た。鱗もない。牙もない。サウルの頬を舐めていたはずの赤い舌は、五本のうちどれからも生えていない。
自分は、大丈夫なのか。
ああ、そうだ。きっと、自分は大丈夫なのだ。そうだ、思ってみれば当たり前だ。
実の父にすら愛想をつかされたエリの息子たちと、イスラエル全土から裁かれた罪びとたちと、なぜ、何十年も清貧に神に仕え続けてきた自分が同じ存在足りえるのだ。
彼らと自分は、違う。彼らは蝮の化け物となった。だが、自分はこの通り、人間のままでいられる。
そうか、それならば、迷う必要などないのだ。サムエルの脳にそのような言葉がこだまし、サウルの体温以上に彼の体を素早く蝕んでいった。罪びとの彼らは化け物へとなり下がった。自分は成り下がらない。ならばこれは罪ではありえない。そうだ、その通りだ。
体中がひしひしと、サウルの体温をさらに欲していた。彼は自分のかぶせた毛布を見つめる。空気に冷やされる頬よりも、この毛布の中に眠る肉体そのものは、どれほど暖かいのだる。その温かさを知りたい。彼を知りたい。
サムエルは毛布をはぎ取った。鎧を脱いだサウルのたくましい体を包む服は、まったくただの布以外の存在ではなく、老人になってしまったサムエルの力すら跳ね返すすべはないように見えた。
当のサウルは全く起きる気配を見せない。サムエルはとうとう、彼の衣服をはぎ取った。そこには今の自分はおろか、昔の自分でもおそらく適いはしなかったであろう、と思うほど立派な肉体が存在していた。華やかな紅色に染まったそれは、かつて知った妻の肉体とはくらべものにもならないほど優美なものであるように、サムエルの目には映った。
彼は、両手でそれに触れた。思った通り、鍛え抜かれた筋肉の弾力を感じるそれは、頬よりもずっと暖かく、何百倍も彼の欲求を満たした。彼は自分の男根が、激しく勃起しているのを自覚した。だがそれも、もはや蝮ではありえない。それは人間の肉体の一部、肉の塊以上のなんでもなかった。

老齢にして彼は生れてはじめて、性の喜びを知った。
彼が今まで恐れてきたそれは、化け物になる苦痛と屈辱どころか、神へ従う幸せと同じほど、彼がこの世で最も尊いと信じ続けたそれと同じほどの喜びを彼にもたらした。皮肉にも、性のことを神が望まれた行為だ、といった人々の語るものとは少し違った形をもって。

朝、サムエルの天幕の中で目覚めたサウルは、何も知らない様子であった。体に異常を感じた風でもない。サムエルは最後の理性をもってかろうじて、彼を完全に女のようには抱かずに済ませることができた。彼の引き締まった肉体そのものが、サムエルを早々に果てさせたのだ。いくら何でも老人の身、一回もすれば、体力は尽きてしまった。
サムエルはサウルの体に飛び散った自分の精を丁寧に吹き、改めて彼に服を着せ、毛布をかぶせて寝かせた。彼と初めて会って以来感じてきた欲求が満たされ彼が感じたのはただただ、圧倒的な充足感であった。
同性愛は神に歓迎されないと聞くが、そんなことは信じられないほど、その瞬間はきらびやかであった。それは嘘だ、とはっきり確信できるほどに。それは快楽であるのみならず、悪魔の誘惑ではとても賄えないだろうと思うほど、今まで神に仕え感じてきた幸せと同じようなものであったのだ。
何事もなく起き、昨晩の泥酔を謝罪したサウルを見て一切の罪悪感を感じなかったことが、なおさら彼にそう確信させた。神はきっと、自分を許したもうたのだ。サウルとの出会いは自分に与えられた僥倖であったのだ。

その際の出陣は、無事イスラエルの勝利に終わり、意気揚々とサウルとサムエルは凱旋した。だがその日以降、サムエルの中でサウルとの関係は明らかに変わってきた。

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